日本中東学会年報
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ポスト帝国の立法におけるシャリーア対アーダト:ダゲスタンにおけるシャリーア法廷をめぐる政治的言説、 1917-1927年
ヴラディミール・ ボブロフニコフ
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2016 年 32 巻 2 号 p. 33-67

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抄録
1917年の革命によるロシア帝国の崩壊は、国内の司法制度の急激な変容をもたらした。これらの司法制度は、よりインフォーマルで、さまざまな要素が組み合わさったハイブリッドなものになった。ロシア帝国法が適用された「治安裁判所(mirovye sudy)」やほかの司法機関は廃止され、階級による「革命の正義」に合致する新たな裁判制度が導入された。革命前のロシア人の官吏や裁判官は「現地人」に取ってかわられた。中央によって押しつけられた「革命裁判所」や「人民裁判所」に加えて、地方の司法組織がいくつも生まれた。 北コーカサスや中央アジアのムスリム地域では、これらはいわゆる「シャリーア法廷」(アラビア語でmaḥākim shar‘iyya)であり、1920年代半ばか、終わりまで存続した。司法制度の再編成には、ロシアにおける法と権力に関する認識の変化が反映されていた。ポスト帝国期のシャリーア法廷の導入は、革命後のムスリム社会の発展におけるイスラーム法の役割についての激しい議論を伴った。これらの議論には、ムスリムの法実務家(カーディー)やさまざまな党派の政治家のみならず、辺境におけるあらゆるムスリム住民が参加した。この議論は、シャリーア法廷に関する特有の法的言説からなっており、それはさらに、異なったムスリム辺境地域において、ソヴィエト初期の国制改革に大きな影響を与えた。初期ソヴィエトは、差別撤廃を目指す帝国であり、未だに帝国末期の司法制度を継承することを拒否していた。本稿で示されるポスト帝国・初期ソヴィエトのシャリーア法廷の歴史は、北コーカサスにおけるポスト帝国の法・社会制度の改革の進展を考察する上で、イスラーム法についての考察の重要性を明らかにする。 シャリーア法廷に関する議論は、さまざまな政治的志向・宗教的背景を持つ政治的なアクターに、脱帝国化したロシアにおけるムスリム社会の発展についての見解を述べる重要な共通の土台を提供した。ムスリムのウラマー、国家官僚、軍人、リベラルな知識人やジャーナリストがこの議論に参加した。ソヴィエト権力は、シャリーアに基づく新たな間接支配を確立し、シャリーアは植民地主義的なアーダト(慣習法)と対立するものとされた。ムスリム司法制度を「文明化する」という革命前の姿勢とは反対に、ボルシェビキは「ツァーリ専制の遺物から国家・社会を解放すること」を目指したのである。しかし、一方で、提案された目的や方法、さらに用いられる語彙においてすら、革命後とツァーリ体制の法政策には連続性があった。あらゆるシャリーア法廷は、村落共同体や農村地域の自律的な社会空間にあった革命前の口頭裁判所および民衆裁判所の属人的な組織と機能を継承した。実際には、口頭裁判所と民衆裁判所は、法多元主義の原則に基づいており、イスラーム法と慣習法にロシア民法の要素を加えて運営されていた。1920年代末の改革は、このような「強力な」形の法多元主義を「弱い」ものに置き換えた。新たなソヴィエト司法制度は、このような混淆した法的状況の文脈で、あるいはそれに対する対応として、1920年代後半に出現したのである。
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