日本中東学会年報
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オスマン朝における対遊牧民政策の転換点:7-18世紀におけるテュルク、クルド系遊牧民の定住化政策を中心に
岩本 佳子
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2016 年 32 巻 2 号 p. 69-95

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抄録

本稿は、枢機勅令簿やワクフ総局所蔵台帳といった、遊牧民の定住化に関して発布された命令の記録を含むオスマン語公文書史料を基本史料として、17世紀末から18世紀初頭にかけてのクルド、テュルク系遊牧民のシリア北部、特にラッカ地域への大規模定住化政策を分析した研究である。 17世紀末の軍事および財政改革の中で、クルドやテュルク系遊牧民は、ラッカ北部地域を中心とした地域の農地開発のために定住化させられるようになった。その背景には、この時期に、遊牧民の夏営地・冬営地間の季節移動そのものを問題視し、農耕民として定住化させることを是とするように、遊牧民に対する認識が変化したことがあった。この点で、17-18世紀は、オスマン朝における対遊牧民政策の転換点であると見なすことができる。しかしながら、全ての遊牧民が強制的に定住化させられたわけではなく、イスタンブルに位置するウスキュダル地区のヴァーリデ・スルタン・モスクのワクフに属する遊牧民や自発的に定住化した遊牧民が、強制的な定住から免除される事例も存在した。 遊牧民への定住化政策においては、主な定住先はシリア北部、特にラッカ一帯であり、次点がキプロス島であった。また定住地から逃散して叛徒化した諸部族をラッカへ定住化させる、数度にわたって逃散や叛徒化を繰り返した部族に定住化を命じるなど、処罰としての定住化命令という側面も見られた。一度逃散した部族に対しても、以前に定住を命じた土地と同じ場所へ再度の定住することを命令し、命令に従わない部族を武力で制圧するなど、元の命令を実行することに固執する傾向が強くあった。このことは逃散と再定住化というパターンの固定化へとつながっていった。そのため、17世紀末から18世紀にかけて相次いだ遊牧民の定住化令は、遊牧民の逃散や叛徒化による治安の悪化に対する有効な手立てではなく、むしろ、逃散や山賊の固定化をもたらし、さらには、シリア北部のみならずアナトリアにも及ぶ地域の変化の一因にもなりえていたのである。

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