日本中東学会年報
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デール・アティーヤーシリアにおける農業協同組合史
アブドゥッラー・ハンナ
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1989 年 4 巻 1 号 p. 141-174

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抄録

デール・アティーヤ(文語ではダィル・アティーヤ)は、ダマスカス地方の山麓地帯に位置している.年間雨量は200mmを越えない.降雨は冬期に集中している.灌漑地は、ローマ式運河によって灌漑されている.この運河は、崩壊したあと、14世紀半ばに改修された.この灌漑地は穀類の作付や果樹が中心であり、土地所有では小土地所有が支配的である.他方、非灌漑地では穀類が作付られ、羊や山羊などの飼育が行われているが、このデール・アティーヤ村の非灌漑地は農民の共有地であった.19世紀末期に、デール・アティーヤからダマスカス市に移住する傾向が現れた.これは、ダマスカス市内の建築現場に職を求めての移動であった.また、1895年から1940年にかけて、多くの若者がラテン・アメリカに移住した.かれらの大半は移住地に定住したが故郷の近親者に送金を行っていた.これは、デール・アティーヤ村の復興と発展をもたらした.さらに、ダマスカス市や湾岸産油国への大規模な労働移動が起こった.この出稼ぎによって多くの労働者が豊かになり、村に大きな家を建築した.これは、村の景観を一変した.そして、村の人口は、15,000人に達した.デール・アティーヤ村の社会は、20世紀前半において、富農、中農、貧農、職工、および牧羊者から構成されていた.富農は、1926年に国有地を購入した.この国有地は、もともと村の共有地であったが、有力者たちがこれを一度国有地に転換したあと、問題にならないほど安い価格で手に入れた.富農たちは、古いローマ式運河を改修し、1937年には、そこに農業用水を引き入れた.これら一連の措置は、中農や貧農の怒りを買った.かれらは、富農による土地や水利の独占的な支配に対抗するために団結した.これち中農や貧農たちの農民運動は、リーダーとして、国家の日常業務に影響力を持っていた退職警察官を担ぎだした.農民たちは、村の各ハーラ(居住区)を代表する24人の農民で委員会を構成した.1942年には、配水の管理を行うため最初の農業協同組合を設立した.事実、1943年と1944年に、土地と水を手に入れたい一心の農民たちによって、5kmにも及ぷ運河が開削された.しかも、この作業は肉体労働によって原始的な手段で実施された.農業協同組合の規定は、1943年に発布され、1951年に改正された.それによれぱ、組合の目的は、農業用水の引き込みと分配、組合の土地にたいする植林、およびもめごとの話し合いによる解決となっていた.1945年9月、組合の執行委員会は、組合の土地に農民が開削した運河を利用して農業用水を引くことを決定した.土地と水利の所有形態は、もともと共同所有であった.しかし、1951年に、組合員たちに土地が分配されこれらの土地は個別に経営されるようになった.デール・アティーヤでは、外国人の宣教活動により教育が普及していた.1897年、ロシアがオーソドックス派グループを通じて学校を設立したが、これは1918年にシリア国家所有の学校となった.また、デンマーク系のプロテスタント宣教活動も活発となり、カラムーン地域(デール・アティーヤもこの地域に含まれている)に学校をいくつか設立した.さらに、イエズス会派も1920年後に学校を設立した.デール・アティーヤ村には、これらミッション系の学校の他に、コーランを教えるクッターブ(kuttab)もあった.しかし村民の多数派を構成していたイスラム教徒のなかにも教育熱心で上述のミッション系学校に通う者もいた.民族系の初等教育が活発となるのは独立を達成した40年代になってからのことである.それ以後、ミッション系の学校にかわって民族系の学校が次第に普及してきた.1950年、デール・アティーヤに「文化人連盟」が設立され、小学校及びそれ以上の証書をもつ若者たちがこれに加わった。この連盟が設立された本当の目的は、農民を支配していた有力者たちの影響力を弱体化させることにあったと言われている。連盟の規約をみると、第2条で、連盟の目的を規定し、デール・アティーヤの文化的・社会的状況の改善をあげている。このようにして、協同組合の役割は、1970年代の初めに終わりを迎えた。

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© 1989 日本中東学会
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