抄録
1.はじめに 「過疎」概念は1960年代後半以降、わが国の条件不利地域に対する中核的な政策的地域概念として位置付けられてきた反面、その学術的妥当性については多くの批判を受けてきた。主な批判点の一つは市町村という地域スケールの問題である。また本来、適正人口の存在を前提とする「過疎」概念と人口減少率は考え方が異なる。では、なぜ市町村の人口減少率によって「過疎」が定義づけられるようになったのであろうか?2.なぜ1965年国勢調査の結果公表が問題となったのか? 過疎問題が一般に認知されるようになった契機は1965年国勢調査の公表であるといわれる。なぜ「国勢調査」の結果公表が問題となったのであろうか?報告者はそれが、国土縁辺部の市町村財政に深刻な財政問題を引き起こしたからではないか考える。税源が乏しい、これらの市町村において歳入の中核をなすのは地方交付税であるが、その配分額の基準(基準財政需要額)は主として国勢調査人口によって決定される。最新の国勢調査の結果公表はこの人口数値の差し換えを意味し、国勢調査人口が急減した市町村では配分額の大幅な減少が危惧された。この問題が当該の市町村関係者の間で極めて深刻に受け止められていたことは、過疎地域に対する特別立法制定運動の中核を担った島根県の当時の資料の中からも伺い知ることができる。国もまた、国勢調査の結果公表を受けて、いち早く翌1966年の地方交付税の基準財政需要額の算定において人口急減自治体に対する補正措置を新設している(1965年以前は人口急増自治体に対する補正措置しか存在していなかった)。1967年に経済審議会地域部会報告の場で発表された、国の「過疎」問題に関する見解には、明示的な形ではないものの、この人口減少に伴う国土縁辺部の市町村財政問題への認識が読み取れる。3.「人口激減地域」から「過疎地域」へ こうした問題の経緯より当初、特別立法制定運動において対象地域は「人口激減地域」とされていた。しかし、次第に「人口激減地域」という表現は「過疎地域」に置き換えられていく。その背景には(1)「過疎」という言葉がより世間に浸透し、強いインパクトを持っていた、(2)特別立法制定を実現していくために、より包括的な地域問題であることをアピールする必要があった、(3)問題の焦点が国勢調査人口の減少に伴う交付税削減問題,すなわち人口減少の中でいかに従来どおりの財源を確保するか、という点からいかにして社会基盤整備を進め、キャッチアップをはかるか、という点にシフトした、という3点があったものと思われる。(3)については政策文書における過疎地域の位置づけが「従来の生活パターンの維持が困難となりつつある地域」(1967年「経済審議会地域部会報告」)から「生産機能及び生活環境の整備等が他の地域に比較して低位にある地域」(1970年過疎対策緊急措置法・第1条)へと変化していることからも読み取ることができる。 特別立法制定運動の中で「人口激減地域」を「過疎地域」に改めるにあたり、「過疎地域」の厳密な操作的定義を示すことが必要となり、ここで「過疎地域」は人口減少率によって定義づけられることになる。しかし、上記の経緯を考えれば、それは自然な流れであったといえるだろう。