日本地理学会発表要旨集
2004年度日本地理学会春季学術大会
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都市通勤可能架橋島・沖縄県浜比嘉島における人口変動と転入者の存在形態
*宮内 久光下里 潤
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p. 80

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抄録
 本研究では沖縄県の架橋島を事例に,戦後の人口変動を島の産業構造との関連から集落レベル考察するとともに,架橋後に島へ転入した転入者に焦点を当て,彼らの属性や転入形態,転入後の行動など,その存在形態を明らかにすることを研究目的とする。その際,島内の集落間で差違がみられるのか,もし差違が生じるなら,どのような要因がそこに働いているかも検討する。
 研究対象地域は沖縄県勝連町浜比嘉島である。浜比嘉島は1997年に浜比嘉大橋が完成することにより,平安座島を経由して沖縄島と結ばれた。これにより,浜比嘉島は都市への通勤が可能な架橋島となり,沖縄島中南部の地域労働市場に直接組み込まれることになった。このほか,島内には性格が異なる浜,比嘉,兼久という3集落が立地している。
 研究方法は,まず,1950年代後半以降の浜比嘉島の人口変動を,国勢調査結果を用いて世帯や人口の増減状況から時期区分をする。次に,期間ごとに人口動向を概観するとともに,各集落を比較・検討し,その変動の要因を産業構造などから明らかにする。最後に,架橋後の転入者の属性や就業形態を明らかにするため,聞き取り調査を行い,それにより得た結果を用いて考察する。浜比嘉島における聞き取り調査では,島内の全世帯177中142世帯から回答が得られた(回答率80.2%)。
 研究結果は,次のようにまとめられる。
 1950年代に米軍基地向けの蔬菜供給地の指定を受けた浜比嘉島は,園芸組合を結成して,スイカ,ピーマンなどを米軍に出荷した。しかし,1960年代に入り,米軍からの需要が減少すると,経営規模が零細で,サトウキビ農業を行っていない浜比嘉島の農業は危機に直面する。農業が衰退すると,農民層の多くは,米軍基地建設などで労働需要が盛んな沖縄島中部の地域労働市場に吸収されていった。
 1960年から80年までは,島の人口は5年ごとに約20%程度も減少する激しい人口流出を経験した。特に,比嘉集落では,農業以外の生業が無かったこと,戦前から移民が盛んであったため,家を存続させなければならないという伝統的な規範が比較的弱かったことなど,経済的,心理的要因から,世帯ごと挙家離島する形態がとられた。これに対して,浜集落と兼久集落では,漁業就業者の存在が人口維持の役割を担った。1980年以降は激しい人口流出も緩和されたが,集落間の人口減少率の差は続いた。浜集落では1970年代後半から,若い漁業者たちが結束して,モズク養殖事業に取り組んだ。1980年ころには事業も軌道に乗り,大きな利益を上げることができるようになる。漁業所得の増大が漁業の持続性を経済的に保証し,若い後継者の参入を可能とした。
 1997年の浜比嘉大橋完成により,沖縄島と道路で結ばれた島には,島外からUターンを中心とする転入者が相次いだ。架橋後5年間で,島の約1/4の世帯で転入があった。浜比嘉島は,沖縄島中南部の地域労働市場に直接組み込まれる都市通勤可能架橋島であるため,人口面の架橋効果は大きい。
 転入世帯への聞き取り調査によると,浜集落と比嘉集落が対照的であった。すなわち,浜集落が青壮年層を中心に,妻や子供を同伴した家族でのUターンが多かったのに対して,比嘉集落では,壮年から高齢者層が夫婦であるいは単身で転入するケースが多かった。転入者の職業を比較しても,浜集落では,漁業や飲食店経営など集落内部での雇用が多いのに対して,比嘉集落では,前住地での職場を変更せずに,島からの通勤という形態をとる世帯が多かった。架橋前から浜比嘉島に居住する世帯は,すでに若年層や農民層が流出しつくしているため,通勤形態をとる世帯は少ない。
 集落間における転入世帯の属性や転入形態の違いは,家屋形態,ひいては集落景観にも違いをもたらした。浜集落では,転入者に加えて漁業者も新築家屋を建設し,近代的な集落景観が出現したのに対して,比嘉集落では,夫婦あるいは単身の転入者が多いこと,漁業者がいないことから,家屋の変更は増改築程度にとどまっている。
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