日本地理学会発表要旨集
2006年度日本地理学会春季学術大会
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近代の大峰入峰前後における交通機関の利用と社寺参拝
*小田 匡保
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p. 129

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抄録

_I_.はじめに 筆者は前稿(2005)で、戦前期の聖護院を例に、近代における大峰の入峰ルートを明らかにしたが、その際、大峰に入る前や大峰から出た後に、鉄道・バス・船などの交通機関が利用されていることに触れた。一部の船の区間を除いて、出発してから帰るまですべて徒歩によった近世以前と近代との大きな違いがここにある。社寺参詣や巡礼においても同様であり、小野寺(1990)は、明治期に鉄道利用によって、東国からの伊勢参宮ルートが変化し、途中の善光寺などに参詣しなくなったことを指摘している。大峰入峰の往路・復路においても、同じような状況が想定される。本発表は、近世との比較は措いておき、近代交通機関を利用した大峰入峰前後の行程と、途中における社寺参拝について、聖護院の入峰を例に明らかにしようとする。資料は、聖護院の機関誌である『修験』の戦前版と当時の時刻表を主に用いる。なお、近代交通機関の利用は数箇所で確認できるが、本発表では社寺参拝が見られる3つの区間に絞る。_II_.京都_から_吉野山 『修験』掲載の最古の事例である大正12年には、京都駅を出発し、奈良、王寺で乗り換えて吉野駅(現・六田駅)に着いている。吉野駅からは徒歩で、吉野神宮を経て吉野山に向かう。昭和3年3月、吉野鉄道の六田(旧・吉野)_から_吉野間が開業し、以後、基本的には吉野神宮駅で下車する。昭和3年11月には奈良電鉄の京都_から_西大寺間が開通し、大阪電気軌道(大軌)の橿原神宮前(旧駅)まで乗り入れる。昭和4年以降、入峰の一行は奈良電鉄ルートを利用するようになり、乗り換え地点にある橿原神宮への参拝も、昭和4年から戦時中まで原則として毎年行なわれる。_III_.吉野山・上市・柏木_から_京都 戦前期における聖護院の大峰入峰は、中間の前鬼から北へ行くコースと、南へ行って熊野三山を巡るコースを交互に隔年で行なっていた。北回りコースの場合、大正12年は吉野山まで戻ったが、大正14年には上市で解散している。昭和2年以降は柏木が最終宿泊地となる。本山一行が往路を逆にたどったと考えると、昭和3年までは、吉野_から_吉野口_から_王寺_から_奈良_から_京都というルートのはずである。注目されるのは、大正12年の帰途、信貴山・奈良の著名社寺に参拝していることである。信貴山は乗換駅の王寺駅に近い。昭和2年も、奈良で東大寺などを巡っている。昭和8年からは、柏木に泊まらず、大台ヶ原を出た日に京都まで帰るという忙しい行程になっている。時間的余裕があった昭和初期までは、京都への帰りに、交通機関の乗り換え地点で社寺参拝をしていたことがうかがえる。_IV_.勝浦_から_京都 南回りの場合は勝浦で解散し、その後本山一行は、鳥羽行きか大阪行きの汽船に乗る。大正13年_から_昭和5年の3回は鳥羽に上陸しているが、昭和7_から_11年の3回は大阪に向かっている。鳥羽か大阪かの選択は、船の出帆時刻が関係していると思われる。勝浦発の船便は、遅くとも昭和15年にはなくなっており、昭和15年と17年は、全通した紀勢西線を使って大阪回りで帰京している。鳥羽に上陸した大正13年と昭和5年には、二見・伊勢内宮・外宮に参拝したことが記されている。一方、その後、大阪まで船や鉄道で移動した場合は、社寺参拝が確認できない。_V_.おわりに 近世の入峰においては、大峰に入る前や後の行程でも、途中の社寺に随時参拝を行なっていた。戦前期の聖護院の大峰入峰は、近代交通機関を利用しているが、乗り換え地点での社寺参拝が見られ、近世的な行動をわずかに残していると言える。しかし、行程の短縮化や利用交通機関の変化によって、そのような行動は消滅し(戦時中までの橿原神宮参拝を除く)、現在に至っている。文献小田匡保(2005)近代における大峰の入峰ルート_-_戦前期の聖護院の入峰を中心に_-_、山岳修験36。小野寺淳(1990)道中日記にみる伊勢参宮ルートの変遷、人文地理学研究14。

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