抄録
1.問題の所在
わが国においては、第7・8次港湾整備五カ年計画(1986~95年度)における外貿コンテナ港の地方分散政策により地方港の外貿コンテナ港化が進展した。しかし、取扱量の伸び悩む地方コンテナ港もみられ、地方港の外貿コンテナ港化は過剰であるとの論調も強まったことなどから、第9次港湾整備五カ年計画(1996~2003年度)以降は主要港を重点的に整備するものとなり、新規に整備された地方コンテナ港は減少した。
このような地方港の外貿コンテナ港化は必ずしも全国で画一的に推進されたのではない。地方コンテナ港に関連した従来の研究には、物流動向の変化や港湾機能と後背地の変容との関連で論じたものが多い。しかし、地方コンテナ港の利活用あるいは存廃をめぐる議論に資するためには、コンテナ港湾としての港湾機能の形成過程を地域的視点から分析し、それぞれの地方港の港湾管理者が外貿コンテナ港化を推進した地域的背景の差異についても明らかにする必要がある。
本研究では、わが国において外貿コンテナ港化が遅れていた東北地方の港湾の中で、最も早く外貿コンテナ港化した八戸港を事例とする。八戸港への外貿コンテナ航路の開設過程における航路誘致活動(ポートセールス)と港湾整備に着目し、外貿コンテナ港化の過程における地域の動向を考察する。資料には港湾管理者や地元港湾関連団体の資料、地元紙である東奥日報、デーリー東北を用いた。
2.八戸港におけるコンテナ航路誘致活動と港湾整備
八戸港の港湾計画において初めてコンテナ関連施設の整備方針が盛り込まれたのは1986年の改訂で、河原木1号埠頭において内貿コンテナ船対応の水深7.5m岸壁2バースを整備する計画であった。一方、八戸港への外内貿コンテナ航路の誘致は、塩釜港や苫小牧港との競合もあり、地元の講演会やシンポジウム等でもその必要性を指摘され、地元の行政および経済界において長らく課題となっていた。コンテナ貨物の輸出には魚粉、イカ肝粉、紙、ステンレス鋼など、輸入には飼料副原料、家具、雑貨などが見込まれ、東南アジア航路の誘致が有力視されていた。従来の輸出入には京浜港との陸送の他、苫小牧港とのフェリー航路経由で、既に同港に就航していたPacific International Lines(以下PIL)が利用されていた。
1992年2月、八戸港振興協会会員の地元物流業者4社(八戸通運、八戸港湾運送、新丸港運、八戸運輸倉庫)は八戸港コンテナ関係者懇談会(後に八戸港コンテナ定期船誘致準備会)を設置した。同年11月に誘致候補船社を加盟会社との取引実績があったPILに絞り込み、誘致運動に入った。
1993年5月、青森県、八戸市、八戸商工会議所、八戸港振興協会、八戸港コンテナ定期船誘致準備会で構成され、八戸市長を団長とする使節団がシンガポールのPIL本社を訪問し、定期航路の開設が決定した。就航内定に伴い、青森県は八太郎4号埠頭P岸壁(水深12m)へのコンテナ埠頭整備予算の一部を10月補正予算案に計上した。
1993年10月、PILの配船計画変更によりギアなし本船が就航することとなり、11月の就航正式決定において、ガントリークレーン設置後にコンテナ航路を開設することとなった。ところが、1994年1月、 P岸壁へのクレーン設置は八戸飛行場の進入区域高度制限のため不可能と判明した。就航予定船には水深10m以上の岸壁が必要とされたため、鉱石荷役に優先利用されていた八太郎1号埠頭E岸壁(水深13m)へクレーンを設置することとなり、同岸璧利用者との調整がなされた。E岸壁へのクレーン設置工事と八太郎1・2号埠頭間へのコンテナヤード整備工事は1994年3月から開始され、8月1日に供用開始となった。
八戸港にPILの東南アジア航路第一船Trade Fast号が入港したのは1994年8月7日、本格就航となるKota Cahaya号の入港は同月26日であった。
3.まとめ
八戸港の外貿コンテナ航路開設は、地元物流業者が八戸市や青森県などと連携して航路誘致活動を展開したことで達成された。PILの就航決定を受けて、八戸港の港湾管理者である青森県によって、コンテナに対応する港湾施設の整備が時間的制約の中で進められることとなった。