日本地理学会発表要旨集
2007年度日本地理学会秋季学術大会
選択された号の論文の156件中1~50を表示しています
  • 秦 洋二
    セッションID: 201
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    I はじめに
     近年,小売業では店舗のチェーン化を行う企業が増えている.これは,ほとんどあらゆる業種に共通して見られる動向である.小売業のチェーン化と,それに伴う経営規模の拡大は,従来流通の川下側へのパワーシフトをもたらす要因として理解されてきた.しかし,発表者はこれまでに書店業界においては,小売業者である書店にとって,川上側に当たる卸売部門の企業(取次会社)の影響力が非常に強く,書店のチェーン化の進展が,他業種のように明確な川下へのパワーシフトに繋がっていない状況を明らかにしてきた(秦,2005).
    II 問題の所在
     出版物流通業においては,一店一帳合制が基本であり,さらに取次部門は少数企業による寡占状態にある。特に上位二社が経営規模でも突出しており,その影響力は大きいと言われてきた。秦(2005)では,福岡県を事例として取り上げたが,そこでは取次会社によって帳合書店の数に大きな差があり,また書店の立地についても取次会社と書店の垂直的企業間関係が大きく影響していることが明らかになった。全国スケールで見た場合にも,各取次帳合の書店数の多寡には地域的差異が認められると予想されるが,管見の限りこれを実証的に明らかにした研究は見あたらない。
    III 資料と研究の方法
     本研究では日本書店商業組合連合会(日書連)の組合員名簿を集計して各取次帳合の全国的分布を分析する。日書連の組合員名簿は,管見の限り書店の取次帳合を全国的に網羅したほぼ唯一の資料であり,日書連によって1960年代から毎年発行されている。このため,複数時点における帳合分布の比較が行えるという利点もある。ただし,発行当初は組合書店名と連絡先が記載されているのみであり,帳合が記載されるようになったのは1985年前後からであるので,本研究では,1985年と2000年のデータを集計し,その結果を比較検討する。
    IV まとめ
     集計の結果,1985年から2000年の間に,帳合書店数は全ての取次帳合で減少していたことが明らかになった。また,同時期に,帳合書店数の順位にも全く変動が無いことが明らかになった。全国的には上位二社の寡占状態にあると言われる取次業界であるが,実際には一部この二社のいずれもがトップにならない県も存在していることが明らかになった。さらに,上位二社以外についても帳合書店の分布には取次会社毎に違いが見られることが明らかになった。

    【参考文献】 秦 洋二(2005)取次会社との関係からみた書店チェーンの立地展開-福岡県を事例として-,経済地理学年報,51-4,pp.387-405
  • 両毛広域都市圏を事例として
    米浜 健人, 箸本 健二
    セッションID: 202
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     1998年の都市計画法改正を機に、主に地方都市圏において3万平米を超える店舗面積を持つ、大規模ショッピングモールの進出が増加した。複数の核店舗やシネコンなどの集客施設を持ち、田園地帯に聳え立つ複層階建てのモールは、流通業界において「巨艦店」と呼ばれるなど、従来の郊外型大型店とは一線を画する存在である。
     巨艦店は、モータリゼーションが進んだ地方都市圏の中でも、都市間を結ぶ幹線道路沿いに立地し、巨大な集客力を通じた広大な商圏を持つ点に特徴がある。それゆえ、巨艦店を抱える自治体のみならず、周辺自治体をも含めた「消費の争奪」の可能性を含んでおり、中心市街地問題への影響も不可避といえる。
     本報告は、群馬・栃木両県にまたがる両毛広域都市圏の4都市(群馬県太田市・館林市、栃木県足利市・佐野市)を対象地域として、巨艦店がどのような経緯で出店したか、またその出店が地域商業にどのような影響を与えたか、の2点を考察する。対象地域は、モータリゼーションが高度に進展しているだけでなく、2003年にはイオン系の巨艦店が相次いで2店舗出店している。
  • 中條 曉仁
    セッションID: 203
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     静岡県伊豆半島は日本有数の観光地であり,特に民宿集落が発達した地域として知られている。1980年代前半に民宿業は最盛期を迎えるが,1990年代以降は一転して民宿数の減少が続いている。近年では民宿集落の高齢化が進み,高齢者による民宿経営が目立つようになっている。本報告では,西伊豆の代表的な民宿集落である松崎町雲見地区を取り上げ,民宿経営の実態とその維持における高齢者の役割を検討する。
     近年における民宿数の減少は宿泊客数の減少ばかりでなく,高齢化に伴う労働力の調達の変化に基づく対応の結果として理解できる。ただ,担い手の高齢化はすぐに廃業に結びつくわけではなく,可能な限り経営を維持しようとする対応が存在している。とかく高齢化はマイナス要因として論じられがちであるが,高齢者は何らかの形で民宿の経営に関与しており,民宿集落を支える存在であることに注目する必要があるだろう。
  • 島根県江津市を事例として
    作野 広和
    セッションID: 204
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1 はじめに
     日本全体が人口減少社会に突入しようとしている今日,大都市圏においては地価の下落や容積率の緩和などが引き金となり,マンションや住宅の建設が相次いでいる。その結果,空き家問題が発生し,大都市圏を対象とした空き家に関する調査・研究は進展している。これに対して,中山間地域でも人口の社会移動や自然減少により,数多くの空き家が発生しているが,過疎・高齢化に歯止めがかかるきざしがない中,中山間地域においてはもはや空き家が発生すること自体は避けられないだろう。しかし,問題は空き家が粗放的に管理されていたり,放置され続けたりすることにより,最終的には朽ち果てていく例が多く,再生の可能性が低い点にある。中山間地域において空き家はいわば「負の遺産」として象徴的な存在となっている。
     これに対して,都市居住者による中山間地域への移住希望者は少なからず存在しているが,移住が実現しない例が多い。その理由の1つとしてIターン者に提供できる住宅が少ないことが挙げられる。前述したように,中山間地域では空き家の大量発生が問題となっている一方で,居住を希望するIターン者には住宅が供給されないミスマッチが生じている。
     このような状況に対して,空き家の発生要因や空き家の利活用に関する研究は積極的に行われてきた。だが,そもそも中山間地域のどこに,どのくらいの空き家が存在しているのかといった基礎的研究は必ずしも十分に行われてこなかった。
     そこで,本研究では島根県江津市中山間地域を事例に全数調査を行い,空き家の分布と発生要因について明らかにすることを試みた。調査方法は対象地域の全家屋を訪問し,空き家の場合には外見から空き家の状態をチェックした。また,連絡可能な空き家所有者に対して郵送式アンケート調査を行い,空き家として所有し続けている理由などについて質問した。
    2 空き家の分布
     調査の結果,対象地域に立地する4,079家屋のうち,774家屋(19.0%)が空き家であることが判明した。5軒に1軒が空き家であり,空き家率の高さは想像以上であった。
     これらの空き家の分布状況を把握するために,地区単位で地域類型を行い,空き家率を算出した。その結果,山間部の空き家率は23.8%と最も高く,続いて海岸部が20.6%であった。その他の内陸部,河岸部はそれぞれ17.6%,17.0%であった。地域類型により差異があるものの大きな開きはなく,江津市の場合,全域にわたって空き家化が進んでいることが明らかになった。
    3 空き家の状態
     空き家と判明した家屋に対して,外見から空き家の状態を把握した。その結果,空き家を多少なりとも利用している様子がみられたのは約半数であり,残りの半数は空き家を放置していると判断された。これらの空き家の活用可能性として,約半数程度の空き家については若干の修理で居住が可能であると判断した。残りの半数については大がかりな修理が必要,もしくは,居住は不可能であると判断された家屋であった。
    4 空き家所有者の所在地と空き家に対する意識
     江津市の空き家所有者のうち連絡先を把握することができた82名に対してアンケート調査を行い,45名から有効回答が得られた。その結果,空き家所有者の所在地は県外においては関西圏,関東圏が多く,県内においては江津市内および浜田市が多いことが明らかになった。就職等により大都市圏への移住と,住居更新のための近隣地域への移動という2つの移動パターンが存在していることが判明した。
     また,空き家化した理由としては居住者の転出が23.4%であったのに対して,居住者の死亡のためが68.1%と大半を占めていた。今後,これらの空き家を空き家のまま所有すると考える世帯が39.5%を占めており,空き家の流動化が進まない状況が明らかになった。
    5 空き家の発生要因
     以上のような調査の結果,空き家の発生要因は次のようにまとめられる。(1)居住者の流出や死去により居住者が不在化する,(2)域外に居住する空き家所有者が家財道具を置くなどの理由に,暫定的な所有を続けている,(3)空き家所有者の流動化に対する意識は低く,流動化への抵抗感が空き家を空き家として存続させ続けている。
  • 福島県下郷町大内宿を事例に
    中尾 千明
    セッションID: 205
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     1975年に文化財保護法が改正され,伝統的建造物群保存制度(以下,伝建制度)が施行された。現在,文化庁選定の重要伝統的建造物群保存地区(以下,重伝建地区)は2007年3月31日現在,37都道府県67市町村81地区に及ぶ。これらの重伝建地区では,選定に際して総合的な調査報告書が作成され,その後も建築学・環境社会学・地理学などの分野から研究が行われているが,多くは伝統的建造物(以下,伝建物)の保存方法や保存の施策に関する研究が中心である。そこで本研究は,選定から四半世紀を経過した福島県南会津郡下郷町の大内宿を事例に,観光地化が進展するなかでの住民の生活様式や観光客向けの商業活動の変化を明らかにすることを目的とする。
     本研究で対象とする大内宿は,福島県南会津郡下郷町大内地区に含まれる中山間集落であり,江戸時代には下野街道沿いの宿場町として会津城下からの物資運搬や参勤交代に使用された。旧下野街道の東西両側には現在,茅葺屋根民家45棟が立ち並び,1981年に重伝建地区に選定された。2005年には年間約85万人の観光客が訪れ,2006年現在,地区内の大半の住民が土産物店・飲食店・民宿など観光客向け店舗を営む。使用するデータは2006年12月10日~17日実施の現地調査を中心とし,拙稿「歴史地理学」第48巻1号掲載の「歴史的町並み保存地区における住民意識―福島県下郷町大内宿を事例に―」に収載のデータも部分的に使用した。
     観光地化による大内宿の変化としては,観光客増加による観光客向け店舗の増加がまず挙げられる。それを踏まえたうえで,4つの事柄が明らかとなった。
     1,観光客向け店舗は,生活上の経済的余裕,次世代後継者の地区内定着、雇用の場の創出などをもたらし,集落住民の生活意欲を向上させた。しかし過度の観光地化は,共同体意識の脆弱化を促進し,住民に集落存続の危機感を抱かせる要因ともなっている。
     2,敷地にゆとりがあるため,多くの世帯では伝建物の裏手に居住用の建物を新築し,伝建物と住居空間の分離が進行している。これは伝建制度における制約を受けてもなお,現代的な生活の維持が可能であることを示唆しており,大内宿での保存事業成功要因の一つであると考えられる。
     3,観光客向け店舗の商取引は以下のような変化を見せる。当初は観光客の増加により,住民は観光客向け店舗を開業するものの,陳列商品へのこだわりはなく,他県や他市町村の卸業者からの仕入れが多くを占めていた。しかし観光客との対話から観光客が所望する商品を知るにつれて,地元志向が強まり,南会津地方の卸業者との商取引関係を強めた。また,意識の面でも大内宿の一人勝ちから脱皮して南会津地方の活性化を考慮に入れるという変化もみられる。
     4,観光客増加に伴い従業員の雇用も増加した。
     特に3,4から,重伝建地区大内宿は物資や人が集まる経済的な結節点となり,重伝建地区大内宿を中心とした機能地域を形成していることが明らかとなった。
  • 日本とヨーロッパの歴史的町並みを比較して
    田中 絵里子, 佐野 充
    セッションID: 206
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1.日本における歴史的町並みの現状
     日本における歴史的町並みの保全は、1972年、文化財保護法の改正により、保全対象が点から面へと拡大されてから一般化した。これ以降、歴史的町並みを保全し、地域資源、特に観光資源として活用して地域活性化を図る事例が全国各地でみられるようになった。埼玉県川越市などはその成功例として知られている。しかし、歴史的町並み保全に伴う地域の変容は、一部に利益をもたらすものの、その一方で不利益をも同時にもたらしている。観光客による騒音やゴミの問題、居住者・経営者間の意識の差などが問題として挙げられている。
     歴史的町並み保全に注目が集まり、多くの地域が積極的に町並み保全を推進したことにより、日本には多くの歴史的町並み保全地区が誕生した。平成19年7月1日現在、国の重要伝統的建造物群保存地区には79地区が選定されている。
     しかし、今や日本の歴史的町並みは、地域性が薄れたものになりつつある。建造物は綺麗に復元・修景され、統一感のある町並みに整っているものの、街路には土産物店や観光客向けの飲食店が軒を連ね、どこも代わり映えのしない風景となってしまった。地域の特産品を扱う店舗もあるが、商品の大多数は周辺地域で製造されたもので、中には輸入品も並んでいる。歴史的町並み地区を好んで全国各地に出店する企業も現れた。例えばY店はアクセサリーや生活雑貨を販売しているが、歴史的建築物風な店構えで周囲の町並みに溶け込み、観光客を呼び込んでいる。

    2.線的な日本の歴史的町並み
     日本の歴史的町並みは、面的というよりも、通りに沿って線的に認識されることが多い。また長い間、陸地では徒歩での移動が主流であったため、道路幅員が狭い。狭い道路幅員は、歩きながら左右の景色を見てまわる観光に適しているといえるが、実際は道路を自動車と共用している場合が多いため、歩行者と自動車の問題が避けられない。
     一方、ヨーロッパは馬車の影響を強く受けたため道路幅員が広く、歩道が確保されている場所が多い。また、歴史的町並みの広がる区域は、自動車侵入禁止になっている例が多いのも特徴として挙げられる。このような区域は地域の住民が暮らしの場として使用している場合が多く、広場のような公共空間が観光にも役立っている。まさに面的な拡がりとして認識される。
     このように、日本とヨーロッパの歴史的町並みは、それぞれ線的・面的に認識されている。日本では表通りを観光用に整備し、できるだけ裏側を見せないような工夫を施してきた。その結果、暮らしの場が見えない、観光用に整備された景観といった印象が否めない状況に至っている。

    3.日本人の観光特性と景観の変容
     日本の歴史的町並みが画一化しつつある要因の1つに、似通った建物利用が挙げられる。特に多いのが、土産物店や観光客向けの飲食店で、民芸品店、漬物店、手焼き煎餅の店などはいたるところで目にすることができる。各地で配布している地図には、観光名所や公共施設案内とともに土産物店が記されている。日本人にとってお土産は、観光の中でも重要な位置を占めているといえる。このことは日本における観光の歴史と深く関連しており、保養・休養を目的として発達したヨーロッパとは異なっている。そのため観光地で土産物を求める日本人の行動は一般的なものであり、観光地に土産物店がひしめくようになったのは、その需要に応じた自然の成り行きであったと考えられる。

    4.暮らしがみえる風土を活かした景観
     歴史的な町並みを現代の暮らしに合わせて動態保存していくことは重要である。しかし、流行にのって全国で画一化した町並みが誕生しつつある。今こそ日本の歴史的町並み保全の現状を見直すとともに、地域を観光としてのみ捉えるのではなく、暮らしの場として見直し、それぞれの風土を活かした景観保全を考える必要があるといえる。
  • 橋村 修
    セッションID: 207
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     本報告では、近世の肥後国天草諸島における漁業権の特徴について考察する。特に、「網代」の権利と漁場利用のあり方について、近世絵図と近世史料、聞き取り調査を踏まえた現地復元を踏まえ、考察する。また近代への変化についても言及する。
  • 紀州、土佐、長州地方の捕鯨業について
    末田 智樹
    セッションID: 208
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     日本における捕鯨業は、17世紀初頭から専門の集団が形成されるようになり、17世紀中葉には紀州、土佐、長州の大藩の領域内と西九州地方の多数の中小の藩において、本格的に鯨組として組織され行われるようになった江戸時代のなかで最も大規模な漁業であった。捕獲された鯨から生産された鯨油は、18世紀以降には西日本の農村において虫害用の農薬として使用され始め、捕鯨業は江戸時代最大級の産業として隆盛を極めていった。
     本報告では、紀州、土佐、長州の3つの広大な領国内における捕鯨業の成立と鯨組の展開過程を明らかにする。
     従来の近世捕鯨業史研究と重ねて、この分析背景について説明すると、これまでは西九州地方における捕鯨業、所謂西海地方の捕鯨業が、3つの地方に比べて軽視されてきた流れがあった。しかし実は西海地方における捕鯨業が、江戸時代を通じて最も発展し、捕鯨業地域を形成した唯一の地方であった。西海捕鯨業の地域性を強調するために、またこれまで西海地方以外の3つの地方における捕鯨業を同時に比較した研究がないために、紀州、土佐、長州の3つの地方における捕鯨業の実態を概観する。
     結論としては、近世に捕鯨業が行われていた主な地方は、東から太平洋沿岸の紀州・土佐地方、日本海沿岸の長州・西海地方の4つであった。従来、4つの地方が同列に並べられていた感があったが、西海地方を除く3つの地方は20万石以上大藩の領域であり、その大藩の国産奨励政策のもと、藩が資金的に援助し、漁村が主体となって組織した鯨組、あるいは藩直営の御手組が中核となって展開していた。御手組中心の鯨組であったため、3つの地方では鯨組経営が円滑に運営されなくて頓挫したケースも多く、近世前期から捕鯨業が開始されて、その後継続して幕末期まで捕鯨業が発展した訳ではなかった。つまり、3つの地方と西海地方との地域差が大きく反映していたと考えられる。
  • 渡邉 英明
    セッションID: 209
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     市場網の変遷の仕組みを考える際に、新たな定期市の開始は、その衰退・廃絶とともに重要な局面である。江戸時代の定期市の成立に関して先行研究をみると、定期市新設が厳重に規制されたことを主張する議論と、具体的な新設の例を取り上げてそのあり方を論じる議論とに分かれる感がある。だが、もし、定期市新設が規制されたなら、なぜ複数の市町が定期市新設を実現できたのだろうか。本研究では、この問題の整合的な理解を目指したい。また、近年の研究では近世前期の定期市の成立過程について議論が深められたのに対して、近世中期以降の新設に関する議論は手薄だったように思われる。本研究ではこの点も意識し、18世紀以降の新設を中心に分析した。その手段として、幕府機関が審議した新規市立争論に注目した。そこでは、定期市の新設・再興に対する幕府の論理が直接的に反映されると予想されるからである。この分析の結果、以下のことが明らかになった。
     江戸時代において、定期市の新設は厳重に規制され、18世紀に多発した新規市立争論でも新市を禁止とする幕府の姿勢が明確に窺える。また、定期市の再興や、既設市町における市日増設に関しても、新設に準じる行為と認識されていた。ただし、再興に関しては制度的にも道が開かれており、一定の条件を満たすことで実現された事例も確認できる。再興手続きにあたっては、従来からの市町であることの確認が最初に行われた。そして、市町としての由緒が認められた場合、近隣市町に再興願が周知され、支障がないか確認された。それに対し、近隣市町は再興を了承する旨の請証文を提出したが、承認できない場合は争論となった。一方で、定期市新設の条件は再興と比べても格段に厳しかったが、実現への道は2通りあったと思われる。ひとつは、新市を正式に出願し、近隣市町への影響がないことを承認された場合である。だが、これは武蔵野台地の開拓に伴い、市場網から孤立した地域に新設された小川や鈴木新田の定期市など、例外的なケースである。そして、定期市新設へのもうひとつの道として、開催の既成事実を経年的に積み重ねることがあった。正式な手続きを踏まえずに新設された市は、ひとたび近隣市町から訴えられれば差止めとなる。だが一方で、近隣市町からの申し立てがなければ、公儀が積極的に介入することもなかったとみられる。開設年代不明の定期市の幾つかは、こうした過程で実現したことが予想される。

    文献
    矢嶋仁吉1956.『集落地理学』.古今書院.
    伊藤好一1967.『近世在方市の構造』.隣人社.
    杉森玲子2006.『近世日本の商人と都市社会』.東京大学出版会.
  • 岡本 有希子, 長澤 良太, 今里 悟之, 久武 哲也, 小林 茂
    セッションID: 210
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     日本軍は,1928年以降空中写真による地図作製を本格的に開始し,第二次大戦中も各地でこれを実施した.これらの写真は,かなりが終戦時に焼却されたが,2002年9月アメリカ議会図書館で発見された.翌2003年には,このうち標定が可能と思われるもの723枚をスキャンして持ち帰り,この一部について中国製衛星写真と比較対照しつつ標定に成功し(安徽省五河付近),すでに分析がこころみられている(長澤ほか, 2005, 岡本勝男, 2007).本発表は、さらに残されていた空中写真について、とくにその方法と撮影地域を報告する.
    1. 標定の方法
     空中写真に付された地名はごく簡略なため,地名辞典によりまず関係する地域を特定した.スキャンした空中写真をプリントし,これを飛行コース(東西方向)ごとにはりあわせて特徴的な地形を観察してから,Google Earthによって類似のものを探した.拡大縮小が容易なGoogle Earthでは能率的に作業を進めることができ,ひとまとまりの飛行コースの標定はほぼ一日で終了した.
    2. 撮影場所
     図1にそれぞれの位置,表1にひとまとまりの飛行コースの北西・南西・北東・南東隅の緯度経度を示す.緯度経度は暫定的にGoogle Earthにより読み取ったもので,今後の本格的な標定の参考にするものである.撮影地域は農村部にかぎられ,特徴的な農地パターンがみられた.またGoogle Earthにみられる湖岸線や農地パターンと比較すると,大きな変化がみとめられ,解放後の中国における土地開発の進行がうかがわれた.今後は本格的な標定をおこなうとともに,オルソ化などもすすめたい.
  • 増田忠雄の場合
    柴田 陽一
    セッションID: 211
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     旧日本植民地では,さまざまな分野の学者が,教育,軍事,調査活動に従事していた.戦後長い間,こうした活動について検討されることはなかったが,近年他分野では盛んに行われている(岩波講座「帝国」日本の学知を参照). しかし,日本の地理学界において,植民地における地理学者の活動を検討した研究は,ようやく始まったばかりである.発表者は,5月の歴史地理学会で,植民地高等教育機関(「満洲国」建国大学)についての事例報告を行った. 本発表では,植民地調査機関の代表例である満鉄調査部を取り上げる.具体的には,アジア・太平洋戦争期の満鉄調査部と係わった地理学者の一人増田忠雄(1905年~中央アジアで客死)に注目し,彼の活動を,満鉄全体の方針と彼の研究との間の関連性を考慮しつつ追跡することを通じて,調査機関における地理学者の役割や,満鉄という「場」の特長と限界を考える.
     増田の活動の追跡の結果,以下のことが明らかになった.
     第一に,満鉄という「場」は,植民地支配の上に成立したものではあるが,当時の「息も詰まるばかり」の国内とは異なり,多額の資金,膨大な資料を自由に用い,十分な現地調査を行う機会を提供していたことも事実であること.
     第二に,こうした環境の中で増田は,自身がヘディンを論評したごとく(『書香』115号参照),自分の立場を理解した上で,「時の政治勢力を利用」し,「文化圏」研究という「科学的熱望を実現」しようとした節があるが,彼の主観的意図がどうであれ,彼は「満洲国」の地政学的位置のため,悲運な死を遂げたし,満ソ国境研究というテーマ選択も満鉄にいたがゆえのものであったこと.
     第三に,増田の活動の軌跡は,さまざまな分野の学者が集う植民地調査機関で地理学者に求められたのは,「総合の学」としての統括能力ではなく,何をどのように分析できるかであり,地理学者は基礎的調査の担当であったことを示していることなどである.
     今後もわれわれは,植民地における学術活動を,それを可能にした諸条件を念頭に入れつつ批判的に検証していく必要があるが,本発表をその布石としたい.
  • 伊香 雅文
    セッションID: 212
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    I.はじめに
     日本による朝鮮の植民地支配は1910年から36年間にわたり続いたが、植民地統治後半の1930年代以降は、工業化や戦時体制のもと経済的・社会的に大きな変化が生じた時期であった。とりわけ工業化は1930年代の朝鮮を象徴する大きな要素である。総督府は、内地資本の進出によって工業化を成し遂げようとした。そして、このような企業の多くは、植民地統治の中心都市であった京城府(現在の大韓民国の首都であるソウル特別市)に立地した。
     京城府に企業が集中した背景として、京城府が政治・経済の中心的な位置を占めていたこと、ならびに、戦時・統制経済化の進展が、企業側に総督府との折衝の機会を増加させたことが挙げられる。また、1934年の朝鮮市街地計画令の制定を受けて、市街地の拡大が図られたことも指摘できる。
     そこで、本研究では1930年以降に焦点をあて、企業の立地・分布を手がかりとして、京城府の変容について明らかにすることを目的とする。そのため、企業の立地・分布をミクロスケールで整理することにより、京城府の企業立地傾向と1930年以降の市街地の拡大について明らかにした。

    II.資料と方法
     京城府に立地した企業を把握するため、1935年に京城商工会議所から発行された『朝鮮会社表』と、1943年に同所発行の『朝鮮主要会社表』を用いた。前者には、1935年1月1日までに登記公告された会社が採録されているのに対して、後者には、1942年8月末日までに登記公告された企業のうち、公称資本が100万円以上の企業に限って採録されている。両資料には、朝鮮に本店を置く企業と、朝鮮以外に本店があり朝鮮に支店を置く企業が業種・会社形態ごとに分類して掲載されている。そして、企業の商号、目的(事業内容)、所在地、設立年月、代表者及び資本金が掲載されている。
     分析は、現在の町丁単位に相当する洞町単位(201区画)を設定し、1935年と42年の企業の立地・分布傾向から京城府の都市構造の変化について考察を行った。

    III.結果
     京城府において企業の集積が特に際立つ地域として、南大門通1~5丁目、黄金町1~5丁目と本町1~5丁目の3地域があげられる。35年ではこれら3地域に掲載企業のうち29%の企業が立地し、公称資本金100万円以上の企業に限れば60%、42年でも44%の企業が立地していた。
     これらの企業の業種を第1~3次産業から分類すると、黄金町では第2、3次産業に分類される企業の数がほぼ同数である。それに対して、南大門通では第2次産業に分類される企業が、第三次産業の半数にとどまる。また、南大門通では、資本金が100万円以上の企業が30%を占めるのに対して、黄金町は15%にとどまっている。
     35年では、黄金町に立地する資本金100万円以上の企業のうち、半数以上が内地に本店を置く企業の支店であるのに対して、南大門通では約4割にとどまっていた。しかし、42年になると、この傾向が逆転し、京城に本店を置く企業は黄金町、内地に本店を置く企業の支店は南大門通へ立地する傾向がみられるように変化した。また、本町には日本人の経営する企業のみが立地した。それら企業の9割以上は、資本金が100万円以下で、業種では半数以上が小売・卸売に分類される企業が多かった。
     そのほかにも、42年では35年に比べて京城府の広範囲に企業が立地していることが明らかになった。

    IV.おわりに
     1934年の朝鮮市街地計画令の制定を受けて、企業の立地に一定の広がりがみられたとはいえ、35年から42年を通じて南大門通、黄金町、本町の3地域への際立った企業の立地に変化はなかった。そして、それぞれの地域に特徴的な立地傾向がみられるが、概して、南大門通を中心とした立地傾向であったといえる。また、黄金町と比較すると企業の立地数の上で南大門通を上回ることになるが、資本金額などで比較すると、質的な面で南大門を超えることはなかった。南大門通が京城府のCBDであった。
     より詳細な企業の立地・分布傾向については当日に報告したい。
  • 「筑紫」と「竺紫」地名から
    目崎 茂和
    セッションID: 213
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
    会議録・要旨集 フリー

     倭人や古代日本人は、どんな国土・地理観を描き、その地名を古代から付けてきたのか。その分析には、日本神話『古事記』『日本書紀』の国生み神話による、地理の命名法の論理が、第一歩である。それは國・嶋(洲)などの地名ばかりか、神名、氏姓部名も同様であったはずだ。
     本研究では、とくに国生み神話の「筑紫嶋」(九州島の古代名)や「筑紫國」と、「竺紫」の用例を分析して、神話地名の地理構造を究明したい。
     これまでの日本神話の分析から、中国哲学に由来する、陰陽説・五行説・八卦説・十二支説による円環構造から、展開や構成がされている(目崎・2005、2007)。
     イザナキ・イザナミなど五代・十神(二神を一代)の誕生は、図1に示すように、五行十干説によるものと推論され、その神名に関しても五行「木・火・土・金・水」に由来する。
     また、イザナキ・イザナミの国・嶋生みも、この構造に対応させるため、はじめに「水蛭子」「淡嶋」は、五行十干説の「水」気、水の兄「壬」水の弟「癸」で、いわゆる「水子」である。その後に「大八嶋國」の八嶋は、図2に示すように、陰陽の五行の残り「木・火・土・金」順として認識される。
     「隠伎之三子嶋」「筑紫嶋」は、「火」に配当されたのは、「火山島」に対応させた結論される。
     「竺紫」は明らかに「筑紫嶋」であるが、天地を結ぶ地名として「竺紫日向」など、「天門(竺)―地戸(紫)」に由来すると推論される。
  • 岩崎 亘典, スプレイグ デイビッド
    セッションID: 214
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1.はじめに
     筑波山は関東平野の北東部,茨城県のつくば市にあり,茨城県の八溝山地の南端の筑波山塊に位置する.
     古くは万葉集にも詠まれており,最近ではつくばエクスプレスの開通により,首都圏における新たな登山スポットとしても賑わっている.また霊峰としても知られ,筑波山神社が著名である.山頂付近のブナ林など貴重な植生も存在している.一方で,化学肥料や化石燃料が普及する前の農村においては,周辺の山林は自然資源の供給源として重要な役割を果たしていた.筑波山周辺では,このように文化的な背景と農業的な営みの両者の関係によって,土地利用が規定されていたと考えられる.
     本研究では,筑波山周辺を対象都市として,伝統的な土地利用形態が残っていたと考えられる明治初期から現代までの土地利用の変化を明らかにする.

    2.方法
     調査対象範囲は,筑波山塊南部の標高50m以上と,湯袋峠を通る県道150号線で囲まれる地域とした(図1).
     土地利用図は1880,1910,1960,2000年の各年代について作成した.土地利用図の作成に当たっては,1880年代は迅速測図を,1910年代は1/50,000地形図,1960年代及び,2000年代については,1/25,000地形図を元にした.土地利用項目は,樹林地,草地・荒地,水田,畑,果樹園,住宅地,土手・崖,水面とした.また,1910年以降は,樹林地は,広葉樹林地,針葉樹林地,竹林に細分した.

    3.結果及び考察
     各年代毎の土地利用割合を表1に示す.
     1880年代の土地利用は,草地・荒地が大きな割合を示すのが特徴である.また,森林の空間分布を見ると,低標高地帯と,筑波山の山頂に集中して分布していた.これらの空間配置は,当時の山林利用形態を反映すると共に,筑波山神社の参道や境内として森林が保持されていたことを示すと考えられる.
     1910年代以降は,森林の占める割合は,ほぼ変わらない.ただし,針葉樹が増加し,広葉樹が減少傾向にあることが認められる.しかし,これらの針葉樹の樹種構成は不明なので,今後の検討が必要となる.
     草地・荒地については,1910年代までは一定規模の草地が保持されていたが,1960年代以降は小規模なものが分散して存在する傾向が認められた.2000年代には7.7%まで草地面積が増加しているが,これらの中には耕作放棄地やゴルフ場も含まれるため,過去に存在する草地とは,質的に異なると考えられる.
     今後は特に,樹林地,特に針葉樹の樹種構成に注目する必要がある.
  • 小川 正弘
    セッションID: 215
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1.はじめに
     わが国では,高度経済成長期以降,地域に根ざした生活様式や伝統文化が変貌する一方で、全国で町づくり,村おこしなどの地域活性化の手段として伝統的な祭りや新しく創出された市民祭りを活用するなどの行政側の動きが見られた.
     本研究の対象地域である八王子市は,第二次世界大戦後の1955年さらに1959年,1964年と合併を行い,市域拡大や人口増加が急速に進んだ.そこで,新旧住民の連帯感を高め,合併後の新市一体化を促進するために,行政主導で創出された市民祭りが「八王子まつり」である.

    2.研究方法
     本研究では,市民祭りとして新たに創出された「八王子まつり」を事例としてとりあげ,市民祭りの成立や展開過程を考察し,伝統的祭礼とは異なる市民祭りの特徴を,まつりの担い手とその内容に着目した.また市民祭りを通して,いかなる地域文化が,実践・継承されているのかについて検討を行った.

    3.結果
     現在の八王子まつりにおける内容の特徴は,伝統的祭礼である山車や神輿を全面に押し出している内容であるが,実は市民祭から開始されている.また,まつりの変遷過程を考察した結果,大きく以下の4つの時期ごとに異なるまつりの特色が把握された.それは,1)市民祭形成期(市民祭的内容),2)八王子まつり原型期(鎮守的神社祭礼の参加,融合,共存,まつり名称の変化),3)八王子まつり発展期(伝統的文化と非伝統文化(イベント型)の対立,差異化,4)八王子まつり変革期(伝統的文化の重視と非伝統文化の排除)である.
     また,八王子まつりの運営主体であるまつり事務局も時期ごとに変化していた.前述の時期区分によると,市民祭形成期~八王子まつり発展期においては,行政主体で企画・立案を行っていたが,八王子まつり変革期移行は,市民祭開始以前から八王子の旧宿場町を中心にして行われていた神社祭礼の氏子組織やまつり参加団体の代表等が多数参加し,新たなまつり実行委員会が組織されて,まつりの企画・運営等を行っていた.
     八王子まつりが時代的に変化した要因は,八王子まつり開始期から現在におけるまつりを主催する行政団体におけるまつりの運営・実施方針などが大きく影響している.とくに2002年にだされた八王子まつり検討委員会の答申の影響は大きく,従来の八王子まつりの形態・内容及びまつりの運営組織まで変化させたことが判明した.
     八王子まつりにおける担い手は,大別すると伝統的祭礼の担い手と非伝統的祭礼(イベント)の担い手に分類できる.伝統的担い手としては,神社の氏子町会組織が中心であった.その氏子組織は,多賀神社と八幡・八雲神社から構成された.また氏子組織(町会)内には他町会に対する競合意識や市外祭礼に積極的に出向する氏子組織もあった。このことから氏子町会が八王子まつりの形態・内容に影響を与えた.
     一方非伝統的担い手としては,子ども音頭と民踊流しの参加団体及び構成員を事例としてとりあげた.いずれの担い手とも行政関係の支援を得ながら,子ども会組織や地元の民踊教室,企業,学校,民踊クラブ等などを活用して組織された.また踊りで使用される曲は、まつりを主催する行政団体が八王子という地域に因む曲を作成し,それを参加団体に提供した。これは演技だけでなく郷土愛育成等を意識しながら,八王子まつりに参加させるねらいがあった.
     以上のように,八王子まつりにおける地域文化の一部分として存在し,実践・継承をしている担い手や文化は,現在の時点で氏子町会が所有する山車・神輿等にみられる伝統的祭礼,子ども音頭,民踊流しと考えられる.そして,これらは八王子まつりを通してそれぞれが所有する文化の知識・技術の維持管理や継承の努力を続け,知識や技術の伝達する必要性や継承性の強い地域文化として再生され創出されたものといえるだろう.
  • 山下 潤
    セッションID: 301
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     1.はじめに
     環境分野でデカップリングは,環境負荷の増加率が経済成長の伸び率を下回っている状況をさし,特に,経済が成長する一方で,環境負荷が減少する状況を絶対的デカップリングと称するが(環境省,2003),温室効果ガスの1つであるCO2排出量で環境負荷を表した場合,近年スウェーデンは,この絶対的デカップリングを達成しているといえる(図1).従来の研究で,このような絶対的カップリングを促した環境政策が検討されているが(小沢,2001),地域政策と地域的な構造変動の関係は十分に議論されていない.すなわち都市機能の分散化政策といった地域政策を実施後に地域構造が変化し,その結果,CO2の排出抑制といった環境負荷の軽減がもたらされるが,従来の研究では,このような地域政策と地域構造の関係が明示的に示されていなかった.この点に鑑み,本報告では,地域構造の変動を明らかにした上で,構造変化によってもたらされるCO2の排出抑制に関して検討を加えることを目的とする.
     2.研究方法
     以下の手順で地域構造の変化によるCO2の排出抑制への影響を検討する.まずスウェーデン全土を対象とし,県(län)単位で,温室効果ガスに影響を及ぼすと考えらえる要因を抽出する.その際,一人当たりのCO2排出量を従属変数とする回帰分析を用いて,各要因の影響を吟味する.
     ついでストックホルム大都市圏を対象地域として,地域構造の変化によるCO2排出量への影響を詳細に検討する.その際,県別の分析で抽出された変数等を用い,同都市圏内の市区町村(kommun)を単位として回帰分析を行い,CO2排出と都市構造の変化の関連を明らかにする.さらに,回帰分析の結果としてえられた相関行列と共分散構造分析を用いて,各変数間の連関についても検討する.
     3.研究結果・考察
     21県を対象とした回帰分析の結果から,公共交通機関の利用状況(図2)や自動車の保有状況等がCO2の排出に影響を与えていると考えられる.なぜなら,各県ごとの一人あたりのCO2排出量を従属変数とし,一人あたりの公共交通の利用距離や,一人あたりの自動車保有台数を独立変数とした単回帰分析の結果は,それぞれ5%水準で統計的に有意であり,各独立変数による説明率は各々28.8%と31.5%であったからである.さらに各独立変数の標準偏回帰係数も5%水準で統計的に有意であり,その符号は各々負と正であった.このことは,公共交通の利用が減るほど,逆に自動車保有台数が増えるほど,CO2排出量が増加することを意味し,この点は,従来の研究結果と合致する.
     4.おわりに
     本報告で,スウェーデンにおける県別のデータを用い,マクロスケールで,公共交通機関の整備とその利用の差異という地域構造の差異によるCO2排出への影響を示した.くわえて市町村単位というミクロレベルでの経年的な都市構造の変化によるCO2排出への影響も検討する必要があることも指摘する.

     参考文献
     小沢徳太郎2001.スウェーデンの環境政策:持続可能な社会への挑戦.環境技術30(3):178-182.
     環境省2003.『循環型社会白書 平成15年版』ぎょうせい.
  • 埼玉県熊谷市を事例として
    元木 理寿
    セッションID: 302
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1.はじめに
     今日、ごみ排出抑制にむけて、早急な解決が求められているが、 家庭ごみという性格上,地域的調査が行われることは少なかった。とりわけ、ごみ集積所の実態把握を行いながら、地域的差異を検討している研究は、小口(1978,1980)をみるに過ぎない。そこで、本研究では埼玉県熊谷市を対象として,ごみ集積所の分布と立地環境に着目し、実態把握をすることを目的とした。

    2.熊谷市家庭ごみ集積所の概要
     熊谷市においてごみ集積所の設置は、20世帯以上を基準としているが,その規模や設置範囲、設置場所は各自治会が行っているため地域によってさまざまである。分別方法は細分化され、ごみ収集日も異なるが、ごみ集積所は可燃ごみをはじめとしてほとんどが同じ場所である。また、ごみ集積所には熊谷市が指定する「家庭ごみ集積所」の看板を立てる、またそれを確認できるようにしておくことが義務づけられている。

    3.形態別にみるゴミ集積所とその周辺環境
     熊谷市内の全ごみ集積所2,210ヶ所のうち865ヶ所を調査した。さらに、調査した地点のうち781ヶ所についてはそれらの位置を確認できたが、残りの84ヶ所については確認することが出来なかった。 地点ごとにごみ集積所を形態別にみていくと、(1)「ごみ集積所の看板のみ」が確認できるポイント型、(2)入り口が開閉式になっているボックス型、(3)かごの上部からごみを投入する形のハーフボックス型,(4)ネット・カバー(ビニールシート)でごみを覆う型,(5)その他の5つの型に区分することができた。
     これらのタイプからごみ集積所の分布の特徴をみると、(1)型はほぼ市域全域において確認され、(3)・(4)型についても点在していることが確認された。地域的には、JR熊谷駅周辺の中心市街地や国道17号沿いなど交通量の多い道路に面する地域では大部分が(1)型であった。それらの地点では家庭ごみが家の塀や壁、フェンスにもたれるように並べられていた。また、歩道の幅が広い地域では、車道近くの歩道にまとめられていた。近くに電信柱、街灯、標識などがある場合は、それらを囲むようにごみが置かれていた。中心市街地から郊外に移るにつれて(1)型は減少し、(2)・(3)型が増加した。ごみ集積所の周辺が農地である場合はより大型の(2)型が設置されていた。(2)・(3)型の場所においては、ごみ袋等が入りきらず、外にあふれている場合も数多く確認された。また、小河川や農業用水路がある場合、それらの周辺にごみ集積所が設置されているだけでなく、覆蓋されたそれらの上に設置されている事例が確認された。
     一方、郊外では各家庭から離れたところにごみ集積所が位置し、オープンスペース(もしくは共有地)を利用して設置されていた。収集範囲も市街地などに比べて広範囲から家庭ごみを集めることになることから規模の大きな(2)型を設置していると考えられる。また、各家庭から目の届きにくい場所にあることから、集積範囲以外からのごみの持ち込みを容易にできないようにするためや鳥、犬猫などの小動物によってごみ集積所を汚されないようにするためにも管理のしやすい(2)型が設置されると考えられる。

    4.まとめ
     ごみ集積所を形態別にみるとごみ集積所の分布には地域的傾向があると考えられる。今後は、家庭ごみ排出量、ごみ収集車の収集範囲などを考慮に入れて、ごみ集積所の立地環境に関する地域的差異について解明していく予定である。

    本研究は立正大学ORC「荒川流域における土地被覆変化に伴う水辺環境の変遷および修復に関する研究」および公益信託熊谷環境基金による研究成果の一部である。
  • 馬渕 泰, 東 浩太郎, 那須 清吾
    セッションID: 303
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1. はじめに
     本研究では,「環境」「林業」「地域活性化」の観点から,森林が持つ効用を次世代に渡り維持管理していく流域環境経営分析モデルを提案する。さらに,その適用モデルとして森林間伐の間伐材利用による木質バイオマス発電事業に着目し,森林の公益的機能を維持させるとともに,森林間伐や木質バイオマス発電コストと地域住民のニーズを両立させる流域環境経営システムについて検討する。
    2. 木質バイオマス発電の流域環境経営分析モデル
     本研究では,流域における間伐の促進を図るとともに,自立的な林業経営を実践していくための手段として木質バイオマス発電事業を展開する。
     流域環境経営システムで検討する分析モデルは,森林組合等から提供される木材を中間処理業者や燃料供給業者に提供し,それをバイオマス発電業者にて発電する。発電をした電力を電力会社に売電するまでを対象とする。今回の検討では間伐から売電までをグループ事業とみなし,間伐から発電までにかかるコストを総費用曲線として,売電による収入を総収入曲線として表す。なお,総収入が総費用と均衡しない場合は,補助金などを投入して均衡させる方法も考えられる。
    3 流域環境経営分析モデルの検討手順
     四万十川流域における年間発生間伐量の推定を行った上で,評価関数を設定した。その結果から流域経営の可能性分析を行い,経営を成立させるための森林間伐整備のあり方を提案した。間伐コストの算定は,始めに四万十川流域において発生が予想される間伐材積量を推定し,次に,間伐業者の間伐率の変化における間伐コストの算出とそれに応じて発生する間伐材積を用いることで,バイオマス発電業者の発電コストを算出した。収入曲線の導出については,売電は住民と企業の支払い意思額と仮定し,総費用曲線によって求めた発電量を売電単価(8.11円/kWh)で売電する時に得られる収益を算出した。
    4. 流域環境経営の可能性
     四万十川流域で発生する間伐材を用いてバイオマス発電し,売電単価(8.11円/kWh)で売電するシナリオでは,総費用曲線が総収入曲線を上回っており,どの間伐率でもバイオマス発電事業は成立しない。そこで,経営が均衡する操業点を調査すると,現在高知県で実際に行われている森林環境税による補助金(8万円/ha)やバイオマス発電によるCO2削減効果をCO2排出権取引(664円/t)に追加するだけでなく,別途補助金として,1haあたり379,500円追加することにより収益とコストが均衡した。この時,業者は流域年間19.66%の間伐を行うことで経営が均衡する。この追加分を四万十川流域住民(102,700人)に負担してもらう仮定を設けると,月あたり1,418円負担する必要がある。また,補助金を追加するのではなく,今後,重油の値上がりによる売電単価の上昇を仮定すると,11.10円/kWhになることで経営が成立する。今後は,社会の変化に対応して総費用曲線及び総収入曲線の精度の向上を検討し,質の高い均衡分析を行っていく必要性がある。
  • 村中 亮夫, 中谷 友樹
    セッションID: 304
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    I はじめに
     古都の歴史的景観は,文化財指定の神社仏閣のみならず,文化財指定外の伝統的な木造建築物の町家や碁盤目状に整備された町割によって構成されている.この歴史的景観は,都市開発や社会変化,人為的災害,自然災害による喪失のリスクを常に抱えている.しかし,歴史的景観の保全に関する議論では,都市開発や社会変化に関わるリスク要因に着目したものがほとんどである.
     これまで,都市開発や社会変化のリスク要因から歴史的景観の損失を避けるべく,町並みを保全する法制度の整備や基金の創設の取組みが行われてきた.とりわけ,経済学や社会工学の領域で研究が進められている仮想市場評価法(CVM)を用いた経済評価研究では,歴史的景観,特に文化財指定の建築物保全に対する個人の支払意思額(WTP)から,保全で生まれる便益が各評価対象財についてどの程度あるのかが検証されてきた.
     一方で,歴史的景観喪失のリスク要因として,社会的要因のみならず人為的災害や自然災害があげられるが,それらとWTPとの関連性に着目した既往研究はない.これは,(1)歴史的景観が私的財や公共財としての面を持つ多様な構成要素によって構成されているため,WTPを規定するリスク要因をイメージしにくいこと,(2)歴史的景観は多くの国民を惹き付けると同時に地域住民の生活の一部でもあり,WTP表明に対する歴史的景観の価値やリスク認識の与える影響も多様であることに起因している.
     そこで本研究では,複雑な因果関係を把握できる構造方程式モデリング(SEM)を用いて,歴史的景観に対する価値観と歴史的景観喪失のリスク要因との関連性を検討し,その中でWTPがどのような位置づけにあるのかを整理し検討することを目的とする.歴史的景観に対する価値観や景観喪失に対するリスク認識の中にWTPを位置付けることでWTPの意識構造を把握し,古都の歴史的景観の継承に関わる価値や意義を明らかにできよう.
    II 調査の概要
     本研究では,Yahoo!リサーチの登録モニター(20歳以上)に対するインターネット調査を利用した.公募モニター型のインターネット調査では,回収された標本が目標母集団となる日本の有権者を代表しないサンプリングバイアスが生じる可能性がある.そこで本調査では,登録モニターから,性別,年齢階級,居住地域を考慮して,3,945名(京都市内=698人,京都市外=3,247人)を標本抽出した.有効発信数は3,942であり,そのうち有効回答数は1,912(有効回答率48.5%)である.有効回答のうち,本研究では正常回答である1,752通の回答を分析対象とした.アンケート調査は,2007年2月8~13日にかけて実施した.
    III 結果・考察
     本研究では,「人為的災害」,「自然災害」,「開発・社会」の各因子を含む「リスク要因」の因子と,「私的価値」,「公的価値」の各因子を含む「景観価値」の因子を用いて,WTPの構造方程式モデリングを行った.これら各因子は,リスク要因8変数と価値意識5変数それぞれに対する因子分析から得られた.また,観測変数として,京都市内在住か否かを表す「京都」と世帯年収を表す「所得」も準備した.
     初期の構造方程式モデルでは,「景観価値」が「リスク要因」に影響を与えるモデルを考え,パス係数が5%水準で有意とならなかったパスを順に削除した.その結果,最終的に歴史的景観復興に対するWTPの因果モデルの分析結果を得た.
     (1)「京都」や「所得」,「景観価値」から,「WTP」へのパス係数は,正の値を示した.このことは,経済的支払い能力や景観価値の認識が,WTPに正の影響を与えていることを意味する.また,京都市内在住者は市外在住者と比較してWTPが高く,歴史的景観に対する接触度合いがWTPを高めていると考えられる.
     (2)「景観価値」から「リスク要因」へのパス係数は正の値を示しており,歴史的景観の価値を高く認識する者ほど景観喪失に対するリスク認識が高いことがわかった.また,「所得」から「リスク要因」へのパス係数は負の値であった.これは,所得の低い者ほど景観喪失のリスク認識が高いことを意味しており,経済的なゆとりの低さがリスク認識を高めていると考えられる.
     (3)「京都」から「私的価値」へのパス係数は正の値であった.このことは,歴史的景観の「公的価値」認識が京都市内外の住民間で差が無い一方で,京都市内住民は市外住民と比較して歴史的景観の「私的価値」を高く認識していることを意味する.京都市内の住民は普段の生活で歴史的景観に接触する頻度が高く,京都市外の住民と比較して景観に対する「私的利用」を高く意識していると考えられる.
  • 若林 芳樹
    セッションID: 305
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
    会議録・要旨集 フリー

    1.はじめに
      2005年に日本地理学会地理教育専門委員会が発表した世界地理認識調査(以下,学会調査と略称)は,マスコミをはじめとして大きな反響を呼び,地理教育の重要性を社会にアピールするのに一定の役割を果たしたことは間違いない.しかしながら,これまでその結果についての詳しい検討はなされていない.この調査で対象になった世界の国々の位置認知は,地理教育だけでなく空間認知研究の対象としても過去の研究の蓄積があるが,それらの成果をふまえて結果を吟味することは,地理教育の課題や対策を考えるのにも役立つと考えられる.そこで本研究は,空間認知研究の立場から,(1)位置認知の正答率を規定する要因として高校での地理の履修がどの程度重要なのか,(2)誤答の傾向や原因は空間認知の一般的性質によってどのように説明できるか,について世界地理認識調査の結果を精査した.
    2. 用いたデータと国の位置認知の傾向
     学会調査と同じ質問紙を用いて筆者も独自に法政大学経済学部の地理学の受講者256名(大部分が1~2次年生)を対象にして,2005年4月の授業中に実施した.具体的には,地図上に番号で示された30カ所のうち,名称が示された10カ国がどれに当たるかを選んでもらうという課題である.これと併せて,高校での地理の履修,地理に関わりの深い事項への関心,地図利用度,性別などについても質問した.
     国別の正答率を集計したところ,全体的に学会調査の結果よりやや低いものの,相関係数は0.988とかなり高いことから,解答パターンはきわめて類似していることがわかる.
    3.国の位置認知に影響する要因
     国の位置認知については,地理教育分野やSaarinen (1973)をはじめとする空間認知分野での数多くの研究例があり,その一般的な傾向も知られている.それらの知見と学会調査の結果は概ね整合しており,アフリカやアジアの国々に対する知識の乏しさが表れている.
     学会調査では,位置認知の正答率に影響する要因として高校での地理の履修が指摘されており,筆者の調査結果でも,全体的に地理履修者の方が正答率もやや高い傾向はあるものの,5%水準で有意差が認められたのはギリシャだけであった.また,解答者ごとの正答数を求め,地理の履修の有無による平均値の差の検定(t検定)を行ったが,5%水準で有意差はみられなかった.このことから,高校での地理の履修が国の位置の認知に決定的な影響を与えているとはいいきれない.そこで,地理に関係の深い「旅行」,「鉄道などの乗り物」,「登山」,「地図」に対する興味の有無を尋ねた結果と正答率との関係を調べた結果,半数以上の国について統計的に有意差がみられたのは,地図に対する関心の有無であった.ただし,地図に関心があると答えた70人のうち,53%の学生は高校で地理を履修していなかった.このことは,地図・地理に興味や関心を抱く生徒の多くが高校で地理を履修する機会を逸していることを示唆する.
    4.誤答の傾向からみた空間的知識の性質
     誤答の傾向を検討するために,国ごとに最も多い誤答例を集計すると,ウクライナ,ギリシャ,ケニアを除いて,いずれも正答の国に隣接する国の位置を解答していた.つまり,誤答した解答者でも,およその国の位置は理解しているといえる.これは,空間的知識が階層的に組織されているという従前の空間認知研究の知見によって概ね説明できる.
    5.おわりに
     筆者の調査から得られた結果は,学会調査の結果と概ね一致するものの,正答率を規定する要因については,学会調査とはやや異なる解釈となった.また,誤答にみられる傾向は,空間認知研究の知見によってある程度説明できる.これは空間認知研究,の成果を地理教育の評価や改善に応用できる可能性を示唆している.
  • 相澤 亮太郎
    セッションID: 306
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐川が流下する木曽三川地域は輪中地帯として知られ、水と闘ってきた歴史を持つ地域である。流域全体としては堤防の強化や動力排水の整備、埋立て等によって、洪水の回数は減少しているものの、1959年伊勢湾台風、1976年9.12水害、2000年東海水害など、戦後から現在に至るまで大規模な水害がたびたび発生している地域でもある。2001年の水防法改正以後、当該地域の自治体でも洪水ハザードマップが作成されるなど、住民の防災意識を高める取り組みが行われている。またハザードマップ以外にも、地域の災害を学び防災意識を高める方法が模索されており、たとえば『防災白書』(平成17年版)においては、小学校の「総合的な学習の時間」の実施において地域特性に応じ、防災をテーマとする取り組みが展開されることが望まれる」等と示され、学校教育における防災教育の可能性が期待されている。その点に関連して、日本地理学会も2004年に、地震被害に関してではあるが「ハザードマップを活用した地震被害軽減の推進に関する提言」として、「災害発生の場となる郷土の地域性を正しく理解した体系的防災教育」の重要性を訴えている。
     地域の災害を学ぶための教材として、社会科副読本や道徳副読本、安全副読本等が作成され、近年ではweb上のコンテンツの充実化も見られる。副読本の中でも、とりわけ社会科副読本は、定期的な改訂の度に地域の変化を反映させるなど、地域特性を踏まえた災害イメージや防災意識を培う重要な要素となり得る。しかし、たとえば災害をめぐる地域間の対立や悲惨さを含む災害の記述、行政区域のスケールに一致しない内容等は社会科副読本には盛り込まれない傾向があり、副読本において紹介される災害記述の特性に配慮する必要がある。輪中地域として知られる木曽三川地域では、輪中間の対立の歴史を持つケースも多く、そうした歴史的背景や水害要因に配慮しながら、社会科副読本の内容が取捨選択されることとなる。また国や県などから学習指導要領等を通じて提示される「共通の災害知識」と、ローカルな災害特性を兼ね備えた内容である必要もある。そのような過程を経て副読本に記述された地域の災害が、学習者に「災害の記憶」として継承されることとなり、郷土認識の一部を担うこととなる。ところが、同一河川の流域や同時に発生した水害であっても、それぞれの地域ごとの判断によって異なる「災害の記憶」として副読本に示されることがある。防災教育の一環として地域の災害を学ぶことへの関心が高まる中、「災害の記憶」を含む郷土認識の多様性や地域的差異がどのような状況にあり、郷土学習と防災教育がどのような関係を取り結ぼうとしているのかを明らかにする必要がある。そこで本発表では、愛知県及び岐阜県の木曽三川流域の各自治体における副読本に記載された災害記述を比較しながら、その差異や背景を分析し、報告したい。
  • 牧口常三郎と三澤勝衛の生徒達へのインタビュー資料を中心に
    竹村 一男
    セッションID: 307
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1 はじめに
     牧口常三郎と三澤勝衛は大正期から昭和初期にかけて独自の地理教育を実践したが、現在において両者の地理教育は再評価がなされている。本報告は牧口と三澤の地理教育と人物像について、元生徒達のインタビュー資料及び文献資料から検証と考察を行うことを目的としている。
     牧口常三郎(1871~1945)は創価教育学会(現 創価学会)の創立者としてつとに有名であるが、『人生地理学』(1903)、『教授の統合中心としての郷土科教育』(1912)等を著わし、郷土科教育を実践した地理学者・地理教育者でもあった。一方、三澤勝衛(1885~1937)は旧制諏訪中学校において教鞭をとり、独自の地理教育を展開した。また執筆した学術論文も百二十余篇を数え、中央の学界にも三澤の名前と研究は知られていた。
     本報告においては報告者が取材・入手したインタビュー資料を中心に、新たな牧口像・三澤像の構築を試みたい。両者の元生徒達も高齢となってきているため、元生徒達の証言をインタビュー資料として収集し考察することは、牧口・三澤研究において重要かつ必要なことと考えられる。

      2 研究方法
     本研究のインフォーマントは、牧口の白金小学校在職時、三澤の旧制諏訪中学校在職時に生徒であった人達である。特に三澤の場合は、実際に三澤の地理学の授業を聴講し、長じて諏訪地域の地域振興、地域教育に貢献し続けている元生徒達である。本研究に使用したインタビュー文書は、インフォ-マントへのインタビューを録音し、報告者が編集したものである。さらにインフォ-マントが編集の妥当性を確認して修正することで、報告者のバイアスを文書から排除するように努めた。
     牧口の地理教育実践に関しては『教授の統合中心としての郷土科教育』『地理教授の方法及び内容の研究』(1916)等に地理教育の実践法が詳細に記述されている。しかし、現時点で牧口直筆の教育現場資料は一部を除いて発見されていない。一方、三澤については著作に加え、三沢先生記念文庫に自筆原稿、自筆ノートなどが多数保管されており、三澤門下生による元生徒としての視点から、三澤の地理教育について論じた文献も多い。本報告はこれらの文献資料も併せて、総合的に両者の地理教育実践と人物像に迫りたい。

    3 途中経過と試論
     以下、牧口常三郎と三澤勝衛の地理教育と人物像について途中報告と、比較考察を試みたい。三澤の生徒達によるインタビュー証言と牧口の著作から両者の地理教育におけるスキルは卓越していたことが窺える。ともに優れた学識も持ち合わせ学究的な性格であり、実地研究(郷土科研究)を重視していた。両者とも学問の基盤は地理学であったが、牧口は多忙な小学校の校長職にあって、思考活動の中心とその著作も地理学から教育学へと移行した。そして、宗教へと転じ、教育・宗教関係の後進を育成することとなった。地方の旧制中学教員であった三澤は研究フィールドに恵まれた諏訪地方で、地理学の学術的研究を精力的に手がける。そして、三澤をモデリングすることで、生徒達の中から優れた研究者が輩出することとなった。両者の地理教育実践、人物像に関する証言の詳細については会場発表に譲る。
  • 事例学習の再考
    志村 喬
    セッションID: 308
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    I 事例主義とサンプル・スタディ
     現在の日本の地理教育カリキュラムでは事例主義が強調されている。事例主義の導入は昭和40年代の学習指導要領からはじまり,イギリスのサンプル・スタディ理論が要領改訂の背景にあったとされる。しかし,現在のイギリス地理教育でサンプル・スタディはケース・スタディに代替されている。言い換え理由は,統計学におけるサンプリング概念との混同を避けるためであると一般的にはされてきたものの,言い換え過程の実証的分析はなされていない。そこで,事例主義カリキュラムが依拠しているサンプル・スタディ概念を,イギリス地理教育でのケース・スタディへの言い換えを検証することで再考する。
    II 言い換えの過程
       表1は,1960年代以降のハンドブックにおけるサンプル・スタディとケース・スタディの扱いを整理したものである。同表によれば,1964年版はサンプル・スタディのみでケース・スタディが言及されていない。1970年版から1988年版ではケース・スタディが主に解説され,1996年版以降はサンプル・スタディが全く触れられないだけではなく,ケース・スタディへの言及も非常に少なくなるといった変遷が読み取れる。
    III 言い換えの理由と両概念の異同
     言い換えが進んだ1970年代の諸文献からは,統計的概念との混同回避で言い換えるといった理由は見いだせず,サンプル・スタディ使用における混乱の回避,もしくは異なる地理教育観に基づく学習のためにケース・スタディが使用されたことが理解される。その結果,サンプル・スタディとケース・スタディの異同は,表2のようにまとめることができる。
  • 織田 勝彦
    セッションID: 309
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     全米地理基準[National Geography Standards]と全米科学教育基準[National Science Education Standards]は共に、1989年に国家レベルで是認された全米教育目標の達成のための教育基準である。この動きに伴い、1994年には2000年の目標―アメリカの教育法[Goals 2000: Educate America Act]が可決され、全米科学教育基準を記した草稿と全米地理基準を記した「生活のための地理学:全米地理基準1994」[Geography for Life: National Geography Standards 1994]が出版された (Geography Education Standards Project 1994; National Research Council 1996)。
     その地理標準と理科標準の間では、環境関連分野およびリモートセンシング等の空間情報関連分野において重複が見られる (Bednarz and Whisenant 2000)。全米地理基準の「空間的認識」、「自然的システム」、「環境と社会」の基本要素3点と、全米科学教育基準の「探究としての科学」、「宇宙および地球科学」、「個人的、社会的観点から見た科学」の内容基準3点はともに環境学習の領域について言及している。また、全米地理基準の「空間的認識」と全米科学教育基準の「探究としての科学」では共にデータ取得と処理のための新技術とツールについて言及している。さらに、「個人的、社会的観点から見た科学」と「環境と社会」は自然環境と社会の関係について言及している (Geography Education Standards Project 1994; National Research Council 1996)。
     地理の授業におけるリモートセンシングの利用 (Baumann 1994; Bednarz and Butler 1999) ならびに理科の授業におけるリモートセンシングの利用 (Dimock and Cornillon 1994) は両教科において個別に論じられてきたが、両用という観点は少なかった。この研究では、全米地理基準と全米科学教育基準の重複部分に着目することで、地理と理科の複数の学問分野にまたがるカリキュラムを、逆行デザイン方 (Wiggins and McTighe 1998) を用いて開発した。
     これにより、空間情報を扱うスキルの向上と、環境保護と経済発展の相反する事項を共存させる問題解決能力向上を意図したカリキュラムが作成された。また、GISならびにリモートセンシング等の空間情報技術を環境教育で扱う方向性が示唆されたとともに、その一例が提示された。

    文献:
    Baumann, P.R., 1994. Basin and range province: Interpreting a satellite image of Death Valley, Up Close From Afar: Using Remote Sensing to Teach the American Landscape (P. R. Baumann, editor), National Council for Geographic Education, Indiana, Pennsylvania, pp. 1-11.
    Bednarz, S.W., and D.R. Butler, 1999. “Mission Geography” and the use of satellite imagery in K-12 geographic education – A NASA – GENIP partnership, Geocarto International, 14(4):86-91.
    Bednarz, S.W., and S.E. Whisenant, 2000. Mission Geography: Linking National Geography Standards, Innovative Technologies and NASA, Proceedings of International Geoscience and Remote Sensing Symposium, 6:2780-2782.
    Dimock, C.W. and P. Cornillon, 1994. Teaching high-school physics using satellite imagery, The Physics Teacher, 32:156-158.
    Geography Education Standards Project, 1994. Geography for Life: National Geography Standards, National Geographic Society, Washington D.C., 272p.
    National Research Council, 1996. National Science Education Standards, National Academies Press, Washington D.C., 264p.
    Wiggins, G., and J. McTighe, 1998. Understanding by Design, Association for Supervision and Curriculum Development, Alexandria, Virginia, 201p.
  • 山室 真澄, 石飛 裕, 平塚 純一
    セッションID: 401
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1.はじめに
     昭和前半までの日本では,農村共同体の入り会い山などの定期的に管理運営された二次林が,人々の生活において重要な機能を果たしてきた。この二次林を「里山」という。周辺住民の生活に不可欠な肥料が下草刈りによって供給され,薪炭・木材などの生活物資や,山菜・茸などの食料も里山から供給された。そして,里山は人為的に管理されることによって生産性を高め,生物に多様な環境を提供し,水田とともに種の多様性を支え,日本人の心のふるさとともいうべき景観と,豊かな自然環境を維持してきた。
     水域においても森と海の関連性などを引きあいに,沿岸域や内湾などに「里海」という名称をつけるようになった。この「里海」で用いられている「里」の意味は,単純に人の生活空間に近い水域,という意味で使われることが多い。これに対して,「里山」というときに「里」という単語が意味するのは,単なる空間的な距離感だけではなく,その場所が自然のままの山ではなく,何らかの形で人為的に管理された生態系であることを含んでいる。すなわち,本来の生態系にある種を付加・除去したり密度を変えることで,目的とする構成種や密度が人間にとって望ましい状態に維持される状況を内包しており,近年になって欧米で注目されている「バイオマニピュレーション」が,日常生活とリンクして発達した成果が「里山」であるともいえる。

    2.1950年代半ばまで行われていた湖沼の里山的利用
     1950 年代はじめ(昭和 20年代末)までの日本各地の湖沼沿岸域では,沈水植物帯が広く発達していた。そして,この沈水植物帯は肥料目的で採草されることを通じて周辺の住民の生活に密接に結びつき,独自の肥料藻文化が形成されていた。沿岸の漁民であり,農民でもある人々は,沈水植物だけでなく魚介類など,湖沼から得られる様々な生産物を周辺の農業生産に不可欠な肥料として利用していた。
     多様な水産資源は肥料や食料だけでなく,貝殻は貝灰として肥料や漆喰に,海藻は糊の原料に,そして水草は害虫駆除にも使われ,ヨシは屋根に葺かれたり葦簀にされ,ガマは編んで籠にするなど,湖の生産物は生活資材の原料としても様々に利用されてきた。そして湖の周囲で育つ子供たちにとって,そこは遊びの場であるとともに,学習の場でもあり,惣菜の原料となる食用水生生物も容易に捕獲できる場所でもあった。
     これらの生業は,本来は栄養塩が蓄積する経路が多い生態系に,湖から外へ出ていく新たな栄養塩のパスを構築し,水域環境を望ましい環境に維持管理し,持続的な生態系の利用を可能にしていた。
     このような観点に立てば,かつて広大な沈水植物帯を維持していた日本の多くの湖沼の自然環境と,そこで暮らす人々の生活のあり方全体を含めて,かつての日本に存在していた文化は「里湖(うみ)」文化と呼べるものであろう。
     本講演ではこの里湖文化の実態,当時の栄養塩循環の推定,里湖文化崩壊過程などを中心に紹介したい。
  • 田林 雄
    セッションID: 402
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    背景
     渓流水の形成や農地域の水質に比べ都市域の水質形成に関してはいまだ不明な点が多い。水質と土地利用の関係を精緻に理解していれば、都市計画を考える際にどういった土地利用が良好な水環境の保持に有効に働くか、示唆を与えられる。また、新たな汚染物質が発生した際に、給源に関して言及することが可能であると考える。よって本研究において、都市域の流域の土地利用と河川水質の関係について検討する。これまでの研究で下総台地における河川水質について検討してきたが、それが他の都市を含む地域にどれほど適合するのか比較した。基本的に下総台地では人為影響の大きい都市部において溶存物質濃度も高まり、それが特定のイオンと高い相関を示すことがわかりつつある(Table1)。

    方法
     多数の流域属性の異なる流域に関して流域の土地利用と水質を比較することで、自然流域から都市流域に遷移する過程での河川水質の変化をみた。その際、土地利用のデータとして国土数値情報1997を使用した。また、流域界は50mDEMと雨水幹線図を使用し、水質は主要無機イオンをクロマトグラフで定量した。他の都市域との比較に小林(1961)とTagami (2006)のデータを用いた。小林は1940-50年代に全国の225の観測点において河川水質を研究している。データに付記されていた住所から緯度経度を求め、日本地図にプロットし、その地理的分布についても検討した。Tagami (2006)が調査した30河川は小林(1961)のデータに包含される。

    結果・考察
     都市部におけるの物質付加が多いという下総で見られた傾向(Table 1)は他の都市域でもおおむね一致していた。地理的分布を見ると太平洋ベルトに位置する、人口が多く工業が発達した流域において水質濃度が高いことが指摘できる。例えば、小林(1961)は塩化物イオンの給源として海塩の影響を述べているが、同時に大都市圏においても高い傾向は見られる。Fig. 1から50年間で塩化物イオンの平均が5.6mg/Lから4.1mg/L増加したことが分かる。これは、都市などの人間活動が活発な都市域からの排出が増えたものと考えられる(Fig.2 はこれら2時期の対比)。これらに対して下総台地の平均値は33.7mg/Lと高く、全国的にみて人間活動が高く水質への影響が強い地域(都市とともに農地の影響もある)であると位置づけられる。

    文献
    小林純(1961)日本の平均河川水質とその特徴に関する研究,農学研究,48,63-106.
    Tagami ,K., Uchida, S.(2006) Concentrations of chloride, bromine and iodine in Japanese rivers. Chemosphere, 65, 2358-2365.
  • 小寺 浩二, 清水 裕太, 中山 祐介
    セッションID: 403
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1.はじめに
     自然環境と人間活動の共生を考える上では河川流域の水環境を保全することが重要で、そのための研究が多くの分野で進められてきた。日本地理学会でも、「水環境の地理学研究グループ」(1999年4月~2007年3月)の研究会で繰り返し議論が行われた。その過程で、地理学的手法や地理学的視点の有効性を確認・整理し体系化することの必要性が示され、「河川流域の水環境データベース」に関する研究が提言されて(小寺ほか,2000),本邦主要河川に関する様々な研究事例が提示された。また、「水環境再生」の視点から、「都市域の水辺空間再生」に関しても多くの研究が進められてきた(小寺ほか,2005など)。その結果、GISを活用した小流域原単位法の有効性が確認され、関連する研究が展開されてきた(菊池・小寺,2007など)。
     本研究では、それらの成果をふまえた上で、「流域管理」における地理学的手法・視点の有効性について検討を加え、今後の研究の方向性について提言する。

    2.「河川流域の水環境情報DB」とGIS
     様々な公的機関により種々の水環境情報が整理・提供されているものの、流域単位で統一された形式で入手できるものは少なく、情報量の割に活用できるものが限られている。特に、都道府県以下の行政単位では、情報の質・量に差異が多く、流域ごとの水環境情報には違いが大きい。
     また、GISを用いた空間解析を行うために水環境情報を重ねあわせる様々な数値情報のほとんどは行政単位で提供されているため、流域単位で抽出し直す必要があり、汎用的なデータベース構築へのステップは大きい。主要河川における事例を再検証し、プラットホーム形式の再構築をはかる必要がある。

    3.GISを用いた小流域原単位法解析
    3.1.汚濁負荷
     行政単位で得られた統計資料を基に小流域単位で切り出した情報から、原単位で汚濁負荷を解析した研究事例(菊池・小寺,2007、中山・小寺・清水,2007など)により、有効性が確認された。ただし、計算による汚濁負荷の算出にあたっては、面積比を用いた単純配分や基礎とする行政単位に関する再検証が必要である。また、水質観測結果を用いた実測値による汚濁負荷の算出についても、流量データのない地点の流量値補間に関する基礎的研究が今後求められる。
    3.2.小流域原単位法の発展
     汚濁負荷解析に限らず、様々な流域水環境の解析に当たって、小流域を基本ユニットとする解析法への発展が必要である。そのためには、古くから行われてきた地理学的手法を再検証し、主に、方眼法による解析結果を小流域単位に変換する方法について検討することがまず求められる。そのほか、様々な地理情報を小流域単位で表現するための基本的な手法を確立し、それに基づいた事例研究を展開しなければならない。

    4.流域管理への活用
     将来の流域管理に本手法を活かすためには、過去の水環境変化について環境復元を行い、モデルを適用した解析を行った上で、水環境再生への方向性を見いだす必要がある。さらに、流域管理の指針を定めてシミュレーションを実行し、モデルの有効性を検証していかなければならない。

    5.おわりに
     今後は、具体的な流域を絞り込んだ上での実証的研究が必要で、その結果を踏まえて個別の解析手法についても精度を上げる努力を進めていきたい。地理学会の大会を議論の場として期待している。

    参考文献
    小寺浩二ほか(2000a):「水環境」の地理学と河川流域データベース. 日本地理学会「水環境の地理学研究グループ」第4回研究集会資料.
    小寺浩二・住野静香・後藤武正・清水祐太・徳原知靖(2005):都市の水環境再生に関する地理学的研究-水文地理学の視点から-. 日本地理学会発表要旨集, 67, 275.
    菊池達郎・小寺浩二(2007):霞ヶ浦流域の流域汚濁負荷に関する研究-小流域原単位法による恋瀬川の解析を中心に-.日本地理学会発表要旨集, 71.
    中山祐介・小寺浩二・清水祐太(2007):阿武隈川上流域および釈迦堂川流域の水環境保全・再生に関する地理学的研究(2)-小流域原単位法による汚濁負荷量解析を用いて.日本地理学会発表要旨集, 71.
  • 志村 聡, 飯田 貞夫, 江口 晃, 大島 徹
    セッションID: 404
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    那須火山群と帝釈山脈の男鹿岳との間に流れを発する、那珂川の水質の特性について発表する。約150キロメートルの流路延長を有する本流には、多くの支流が流入している。本発表では、本流と支流の水質の関係について整理し、現段階における水質特性をとりまとめるものとする。
  • 被災地の中学生および保護者に対するアンケート調査より
    青木 賢人, 林 紀代美
    セッションID: 405
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1.はじめに
     2007年能登半島地震は,2007年3月25日午前9時41分,能登半島西方の門前沖で発生した海底活断層による地震で,Mj6.9,最大震度6強(輪島市,七尾市,穴水町)を観測した.建築物の倒壊や生活インフラの寸断など,様々な被害が輪島市を中心に発生している(青木・林,2007a).気象庁は地震発生の2分後,9時43分に石川県に津波注意報を発令し,11時30分に解除している.実際には,津波は珠洲市長橋で22cmの津波を観測したのが最高で,幸いにも被害は生じなかった.また,第1波が最大波高では無かったとともに,押し波であったことは,本地域での津波対策を考える上で注意すべき点である.
     本研究では,津波被害が生じなかった本地震に際して,地震発生直後に住民が津波に対してどのような意識を持ち,回避行動を取ったのか否かについて明らかにすると共に,その意識や行動を規定した既往教育歴や被災経験を検討するために,被災地である輪島市・志賀町の中学校の生徒およびその保護者を対象にアンケート調査を行った.

    2.アンケート調査の概要
     津波回避行動に関する調査を行うために,能登半島の震源地側(西岸)に位置する輪島市,志賀町の中学校の内,校区内に海岸線を持つ7校にアンケート調査への協力依頼を行い,志賀町立志賀中学校,輪島市立門前中学校,上野台中学校,南志見中学校,町野中学校の5校から協力を得た.志賀中学校については生徒に対する抽出調査となったが,他の4校では全校生徒およびその保護者に対する全数調査となった.予稿集投稿時には上野台中から回収できていないため4校の値となるが,回収数は生徒から330通,保護者から308通,合計638通である.

    3.アンケート結果の主な内容
     津波からの避難行動を行ったか否か:避難行動を取った生徒は12%(38/309),保護者は22%(62/280).避難を行わなかった被験者には,海から遠い,高台にいたなどの適切な理由から避難しなかったなどもあり,一概にこの値を低いと判断出来ない部分もある.
     津波に関する情報を確認したか:生徒の72%(221/306),保護者の60%(169/280)が,テレビ,防災無線などで津波情報を確認している.また,旧門前町では,停電が発生したため「情報が確認できなかった」という回答もあった.一方で,生徒の54%(169/312),保護者の66%(193/293)が地震発生時に津波を想起している.
     地震発生時の津波の想起,あるいはテレビなどでの情報確認を行った率はかなり高いと言えよう.しかし,その一方で想起や情報が必ずしも避難行動に結びついていない.避難行動を起こさなかった具体的な理由として,以下のような回答が得られていることから,必ずしも適切な判断が行われているわけではないことが推察される.
    ・津波の心配はないと報じられたから
    ・父が海に行って「大丈夫」と言っていたから
    ・海を見ていて、津波が来るけはいがなかったから
    ・津波の高さが50cmと聞いたので
     現実には,地震発生後2時間近くも津波注意報は解除されていないし,第1波は押し波であった.対象地域内には漁業者も多く居住しており,海に関する経験や知識が豊富であるとも思われるが,その知識が逆に危険な方向に作用している場合もあることが確認された.
     このほか,詳細に関しては当日に報告する.
  • 宇根 寛
    セッションID: 406
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     2007年能登半島地震は、震央が海域であったこと、周辺に顕著な活断層が知られていなかったことから、当初、未知の活断層が活動した、活断層のない場所に地表地震断層が表れた、などの報道もあった。しかしながら、その後、地震観測、地表踏査、GPS、生物痕跡による汀線変化、海成段丘の高度、トレンチ調査、干渉SAR、航空機レーザー測量、三角測量、水準測量等、様々な手法による観測結果が公表されると、それらがすべて整合的に統合され、観測のしにくい場所で発生したにもかかわらず、これまでにないほど正確な地震像が明らかになった。特に、運用後初めての国内の大きな地震となった陸域観測衛星「だいち」によるSAR干渉画像は、震源断層の位置・形状、地表地震断層の判断に決定的な情報を与えた。
  • 木庭 元晴, 影山 陽子, 白澤 武蔵, 前野 真慶, 佐藤 ふみ, 米田 文孝
    セッションID: 407
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     考古遺跡では同層準に考古遺物と放射年代試料が含まれることが多々ある。その考古編年と放射年代がどうにも一致しないという体験をお持ちの方も少なからず居られるに違いない。この理由を長年検討しようと思いつつ,これまで実施しなかった。本発表では,大阪府,兵庫県,奈良県のいくつかの考古遺跡で得た年代試料について,堆積学と放射年代学の観点から,論じたいと思う。
     当研究室では,放射性炭素年代をベンゼン-液体シンチレーション法で求めている。標準試料は合衆国のNISTII(シュウ酸)で,液体シンチレーション計測のたびに,NIST2を作成している。これは他の試料と違って測定に労力がかかり,一つが3万円相当であることもあり,液体シンチレーション計測するには,試料ベンゼンを10個以上用意した後に,NISTIIとともに実施することになる。作製後の揮発を防ぐため,冷凍庫に保存している。気になるのが,標準試料NIST2や試料から作成した標準ベンゼンの同位体組成の安定性,つまりIベンゼンの冷凍・自然解凍プロセスでの炭素同位体の分別の危険性である。
     世界の幾つかのラボではNISTの代わりに,高濃度の放射性炭素溶液から作成したNISTIIほどの放射性炭素を含むベンゼンが使われている。ベンゼン合成過程での試料とNISTIIの条件の統一を考慮すると,本研究室の手法が適切であるが,いつも同じ濃度を再現することができないのではないかという危惧を持っている。高濃度の放射性炭素溶液から作成したII標準試料ベンゼンの濃度の再現性を検討する。
     シンチレータとして最も優れているのはbutyl-PBDとされる。採取した試料からベンゼンを作成するのであるが,もともとの試料が少ない場合または収率が悪い場合があり,均一の試料ベンゼン容量が用意できない場合がある。そういう場合に,これまでは他の研究機関同様,試料ベンゼンへの100%溶解の範囲で,butyl-PBDの濃度を一定にして液シン計測を実施してきた。しかしながら,同一の試料ベンゼンであっても容量が少ないと若くなる傾向がある。液体シンチレータについては容量依存性を凌駕する方法をKoba(2000)は求めているが,このIII粉末シンチレータについても容量依存性を凌駕する必要がある。
     以上,下線を施したI~IIIの課題をクリアした上で,考古遺物編年と放射年代の関係を示したい。放射年代試料には,古土壌(炭化試料),炭,木片,そして炭酸塩からなる軟体動物殻がある。対象遺跡は,大阪府で10カ所余り,兵庫県で2カ所,奈良県で1カ所である。
     なお,年代試料の前処理前,前処理後,合成されたベンゼンなどの安定炭素同位体比の計測は,燃焼法(GV Instruments社製IsoPrime 関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター)によって実施する。
  • 若林 徹, 須貝 俊彦, 笹尾 英嗣, 大上 隆史, 丹羽 雄一
    セッションID: 408
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    【背景】
     堆積作用と沈降運動の活発な臨海部の沖積平野には後氷期の海進に伴って堆積した内湾性の泥層が広く分布していることが知られている.現在の内湾底泥では,化学分析によって人為起源物質の付加による環境汚染が問題視されてきている.しかし,沖積層における堆積物の化学組成の時間変動や堆積環境との関わりを扱った研究は少ない.化学元素の自然状態における分布特性を明らかにすることは,より広い意味での人為排出物質の汚染の理解に繋がると考える.

    【目的】
     沖積層のうち,いわゆる中部泥層に着目して,内湾性の堆積物中における重金属の自然状態における鉛直変化について明らかにすることを試みた.対象元素は,主要化学元素であるケイ素(Si),チタン(Ti),アルミニウム(Al),マンガン(Mn),マグネシウム(Mg),カルシウム(Ca),ナトリウム(Na),カリウム(K),リン(P),鉄(Fe),炭素(C),硫黄(S)の12元素及び,微量重金属元素であるヒ素(As),クロム(Cr),銅(Cu),ニッケル(Ni),鉛(Pb),亜鉛(Zn)の6元素とした.

    【方法】
     本研究では,濃尾平野で掘削された5本のコア,北から岐阜県浅西市AN1(標高3.3m,掘削長44.3m),愛知県稲沢市KM1(標高3.25m,掘削長40m),愛知県清洲市NK1(標高3.5m,掘削長26m),岐阜県海津市KZN(標高0.69m,掘削長47m),愛知県弥富市YM1(標高-1.52m,掘削長49.89m)を用いた(図1).各コアの深さ方向に1m間隔で,層厚5cm の部分を採取した.合計試料数はAN1が40,KM1が36,NK1が23,KZNが45,YM1が52である.成分分析には,波長分散型蛍光X線分析装置(ZSX PrimusII, RIGAKU)を用いて,地質調査所で発行されている標準試料11試料(火成岩類4種類,堆積岩類5種類,鉱石類2種類)を用いて,検量線法で定量した.5本のコアでは沖積層は下位から下部泥砂層(LS/M),中部泥層(MM),上部砂層(US),最上部層(TS/M)に区分される.US,MMは海成層である.また,堆積物の14C年代測定は,主に日本原子力研究開発機構が行い,測定数は合計61試料である.

    【結果】
     全196試料のうち,中部泥層にあたる層準について各成分の含有量の平均値と標準偏差を求めた(表1).各コアにおける中部泥層にあたる層準は,AN1が21,KM1が9,NK1が6,KZNが21,YM1が21試料である.また,表2には,地球化学図(今井ほか 2004)を基に,各コア掘削地点における各元素の含有量のレンジを示した(表2).なお,地球化学図では,内湾泥ではなく,現河床堆積物を分析対象としているので注意が必要である.

    【考察】
     地球化学図では,掘削地点において各元素の含有量の差異が大きかったのに対して,中部泥層においては,5本のコア間での差異は少なかった. 中部泥層の堆積期間はコアによって異なるが数千年間あり,中部泥層の重金属元素含有率は,数千年間の堆積期間を通じて変化が小さかったと言える.これに対して,地球化学図において各元素の含有量の差異が認められ,地球化学図で扱った表層堆積物においては地域的な差が生じやすいことに加えて,近年の人為による排出物の影響も考えられる.また,中部泥層において5本のコア間での差異が少なかったことから,中部泥層は,5本のコア全てが海中にあったときに堆積した内湾性の堆積物であり,堆積物を供給する後背地が,5本のコアにおいて共通性があったために,地域的な差が少なかったと考えられる.堆積期間は,コアによって異なるが数千年間あったこと,粒度組成が中部泥層を通じてほぼ一定であったことなどから,数千年間の堆積期間を通じて堆積環境が安定的であったこと,海中で堆積する際に,化学組成が均質化されるような平衡状態にあったことが考えられる.

    【引用文献】
    今井ほか(2004)日本の地球化学図,産業技術総合研究所地質調査総合センター,154-165
  • 三枝 芳江, 山室 真澄, 鹿島 薫, 笹尾 英嗣, 須貝 俊彦
    セッションID: 409
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1. 背景・目的
     近年大きな問題となっている地球温暖化は、海面上昇を引き起こすとされ、海面上昇ならびにそれが臨海平野へ与える影響を正確に予測することが求められている。この為には過去の海面上昇期における沿岸環境の変化を知っておくことが重要である. しかし、更新世から後氷期にかけてのユースタティックな海面上昇の結果、臨海平野の古地理がどのように変化したのかは、将来変化予測のためのベースラインとして位置づけるには、未だ曖昧なことが多い。本研究では、多数の14C年代測定値に基づく詳細な堆積曲線が得られている複数のボーリングコアの珪藻群集を分析比較し、加えて堆積物中の陸源物質の影響を把握できる炭素安定同位体比を用い、過去一万年間の濃尾平野における水環境の変遷を明らかにすることを目的とした。
    2. 対象地
     濃尾平野は西縁に養老桑名断層を持ち、1m/krの速度で傾動しつつ沈降している(須貝・杉山1999)。また、木曽三川をはじめとする多くの河川が流入し、平野に多量の土砂を供給している。このため、堆積物が侵食を受けずに連続して堆積した可能性が高い。加えてOgami他(2006)によって多数の14C年代測定に基づく詳細な堆積曲線が得られている複数のコア試料があることから、この地域を対象地とした。本研究では濃尾平野で掘削されたコアのうち、3本(YM-1,KZN,SB,NK-1)を使用した。
    3. 方法
    ・珪藻分析
     各コアの細砂以下の細粒層を対象として、深度方向約2m間隔で試料を採取し、スミアスライド法を用いて、プレパラートを作成した。各々200殻を目処に同定を行い、珪藻群集を淡水生種、淡水~汽水生種、汽水~海水生種、海水生種の4つのグループに分類した。
    ・炭素安定同位体比
     分析深度について、堆積物を乾燥粉砕し、塩酸処理を施した後、(機 械の名前)で測定を行った。
    4. 結果
     炭素安定同位体比は、珪藻群集から推定される海進、海退に伴う塩分濃度の変化と概ね一致した。また、柳沢(1996)による相対的水深指標とも、似た傾向を示した。種ごとの深度別の変化を見ると、淡水生種、海水生種ではほぼ同様の傾向を示した。汽水生種については、各コアにより種構成が異なるものの、増加減少の繰り返しが見られるものと、海進期に多く見られるもの、海退期に多く見られるものに分けられた。
    5. 考察
     各コアでデルタの影響が出始め珪藻群集が変化し始める頃に、安定同位体比も陸源供給物質が多くなったことを示した。またKZNで見られた海進時における、汽水生種の増加減少の繰り返し時期と、安定同位体比の増加減少時期は一致した。このことから、海進期において塩分濃度が増加減少を繰り返しながら、少しずつ高くなっていったことが更に示唆される。また、種組成の変化は、4本のコアで地理的条件の違いを反映している部分もあるが、内湾最拡大期にはほぼ一致した傾向を示し、湾内の数10km程度では、ほぼ同様の堆積環境であったことを示唆している。
  • 鹿島 薫
    セッションID: 410
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    研究の目的と方法
     完新世において、短周期かつ急激な気候変動が存在していたことが、氷床コア試料の分析などから明らかにされつつある。例えば、約8500年前(BC6500)頃には、地球規模で寒冷化が生じたことが分かっている。これらの気温変動は、乾湿の変動の分布を変え、特に半乾燥域においては、人間生活に深刻な影響を与えてきたことが推定された。
     本研究は、トルコ、シリア、ヨルダン、エジプトを対象地域として、半乾燥域に特有の地形である、内陸塩性湖沼・塩性湿原に注目し、その水位変動、湖水の塩分変動からその地域の乾湿変動の復元を目的とした。
     現地調査では湖岸段丘などの地形測量のほか、ボーリング調査による湖沼堆積物の採取を行った。採取した試料は、層相の観察、炭素14年代測定ほかによる堆積年代の推定に加え、微化石(珪藻ほか)による湖水塩分の復元を行った。

    各地域における乾湿変動
    (トルコ中部)
     トルコ中部のトウズ湖、セイフェ湖、コンヤ盆地、カイセリ、カマンで掘削調査を行った。トルコ中部では、最終氷期最盛期には湿潤環境となり、多くの湖沼湖盆で、湖域の拡大が認められた。しかし、ヤンガードリアス期以降、完新世初期に急激な乾燥化に転じ、コンヤ盆地をはじめほとんどの地域で、湖域の縮小が確認された。この乾燥傾向BC4500まで継続した。BC4500頃から再度、湿潤化が始まり、湖域拡大と湖水の塩分低下が認められた。以降、周期的な乾湿変動が継続し、BC2000、BC200-BC/AD、AD1000頃などに湿潤期が確認された。他地域とは異なり、BC6500には大きな変動は認められなかった。
    (シリア東部)
     シリア東部ハートニエ湖において掘削調査を行った。ハートニエ湖では、最終氷期最盛期に湖域が拡大していたもの、完新世に入って湖域は急速に縮小した。しかし、BC6500頃から湿潤傾向に転じ、湖域拡大と湖水の塩分低下が珪藻ほかの微化石分析から確認された。しかし、BC4500頃から再び乾燥化が始まり、それ以降の顕著な湿潤期は確認されなかった。
    (ヨルダン南部)
     ヨルダン南部のワジハブトレイハ遺跡(先土器新石器時代)周辺の池沼において、掘削調査を行った。同遺跡周辺では、完新世初期には湿潤傾向であったものの、続く土器新石器時代以降BC6500頃から乾燥化に転じたことが明らかとなった。
    (エジプト)
     ナイル川西岸のカルーン湖において、東京大学が採取した湖沼ボーリングコア試料を用いて分析を行った。珪藻群集、有孔虫群集などの変動から、湖沼の水位変動、湖水の塩分変動が明らかとなった。BC4500頃、BC2000、BC200-BC/AD、AD1000頃などと、トルコ中部地域とほぼ同時期に、湖水の変動が見られた。しかし、トルコにおける湖沼縮小期に、カルーン湖では湖水位の上昇がみられるという逆相関の変動が認められた。

    乾湿の変動をもたらす要因について
     本研究において、中東地域においては、広域で乾燥湿潤の繰り返しが生じたことが分かった。その時期はBC6500、BC4500、BC2000、BC200-BC/AD、AD1000などである。しかし、これらにはさらなる検討が必要であり、現時点では200-300年の誤差を伴うかもしれない。
     これらの時期は、日本における完新世の小海退期とほぼ一致し、世界的な気候の寒冷化に起因する現象と推定された。ただ、乾燥湿潤の変動には地域性が大きく、トルコ、シリアとヨルダン、エジプトでは、ほぼ逆相関を呈している。南北での変化に加えて、東西における差もあり、トルコ中部とシリア東部においては、完新世初期の湿潤傾向の復活に2000年の時間的差が見出された。
     このように、乾湿変動には、メソスケールの気候パターンの解析が必要となる。
  • 飯島 慈裕, 矢吹 裕伯, 大畑 哲夫
    セッションID: 411
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    I.はじめに
     日本では2006年/2007年の冬季は記録的な暖冬であった。寒気の極であるシベリアでも、同時期の暖冬が顕著に現れ、例えばレナ川中流域のヤクーツクでは、12~2月の平均気温が、過去30年間の平均値に比べて15℃?も高かった。加えて、ヤクーツク近郊のレナ川に注ぐ支流では、本来完全凍結しているはずの12月に流出が生じるなど、特異ともいえる現象も現れた。これらの現象は、永久凍土の活動層厚の増加とともに、土壌の湿潤化が生じている実例を示していると考えられ、特に2004年以降、その傾向が現れている。
     本研究では、東シベリアのレナ川流域と中流部(ヤクーツク)での地球環境観測研究センターによる観測データならびに長期気象観測データセットを用いて、過去30年の変動から近年の永久凍土活動層内の地温・土壌水分量変化の傾向を考察した。

    II.研究地域と使用したデータ
     本研究では、東シベリア77地点の日別値の地上気象観測データセット(Baseline Meteorological Data in Siberia Version 4: BMDS4)を用いた。編集期間は1985年~2004年の20年間である。また、2005年~2007年6月の期間はNCDCのGlobal Summary of Dayによって、日別値を追加した。さらに、地表面・土壌の水文・気候環境の詳細な観測が1998年以降、レナ川中流域のヤクーツク・スパスカヤパッドのカラマツ林において実施されており、1998年~2007年の観測データを利用した。また、永久凍土研究所で観測を委託しているヤクーツク周辺での地温、土壌水分のデータも用いた。

    III.結果
     ヤクーツク・スパスカヤパッドのカラマツ林内の地温変化から、2004年以降、1.2m深までの冬季の地温が年々上昇していることが明らかとなった。冬季の地温の上昇と対応して、積雪開始時期が早まると同時に、年最大積雪深が50cmに達し、冬季前半の冷却が抑えられると共に、前年秋までに発達した活動層内の土壌水分量が高く保たれ、冬季の地温低下が抑えられていることが明らかとなった。過去30年間の気候データから、こうした湿潤化と地温上昇は、近年顕著に現れ始めた現象であると考えられる。
  • 小久保 裕介, 長谷川 裕彦, 増沢 武弘
    セッションID: 412
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1.はじめに
     南アルプス南部ではKobayashi(1958),五百沢(1979)などによって氷河地形の存在が報告されてきた.最近では長谷川ほか(2006),長谷川ほか(2007)などによって現地調査に基づく詳細な研究が行われている.今まで氷河地形の詳細な研究があまり行われてこなかった南アルプス南部において,氷河地形発達史を明らかにするためには,多くの地域で氷河地形の分布を明らかにする必要がある.本研究では赤石岳周辺において,空中写真判読と現地調査に基づいて氷河地形の分布を明らかにすることを目的とする.
    2.現地調査結果
     赤石岳東面,赤石沢北沢において調査を行った.北沢の河床高度2900 m付近より上流はカール地形を呈しており,二つのカールが認められる(図1).本研究では,赤石岳北東のものを赤石岳東カール,小赤石岳南東のものを小赤石カールと呼ぶ.標高2600 m付近から2900 m付近ではU字形の横断形を持つ谷となっている.2600 m付近より下流では谷幅は狭まるが,U字形の横断形をした谷が標高2300 m付近まで続く.
     小赤石カール下方の標高2780 m付近の右岸(地点1)には,縦4 m,横2 mの丸く研磨された基盤岩が見られ,この表面には幅3~10 cm,深さ1~2 cmの浅い溝が谷の向きと平行に存在する.
     赤石岳東カールには,カール底を塞ぐように両岸にリッジが存在する.リッジを構成する堆積物は,最大礫径200 cm,平均礫径50 cmの亜角礫層からなる.また,カール底下方の急斜面左岸側にも,谷を塞ぐように下流へ向かって伸びるリッジが二列存在する.細礫混じりの砂をマトリックスとする,平均礫径20~60 cmの無層理・無淘汰の角礫層からなる.小赤石カールでは,標高2900 m,2850 m,2750 m,2710 m付近に堆積物からなるリッジが4列存在する.最上部のリッジの構成層は,細礫混じりの砂をマトリックスとし,礫径20~50 cmの角礫を多く含む堆積物からなり,その他のリッジも同様の層相を示す.北沢の標高2400 m付近右岸側には,本流に沿う形をしたリッジが存在し,無層理,無淘汰な堆積物によって構成されている.
    3.氷河地形の分布
     赤石岳東カール付近のリッジ,小赤石カールに分布するリッジ,標高2400 m付近右岸側のリッジは,堆積物の層相や地形的特徴から土石流や地すべりによる堆積物とは考えられず,モレーンと判断できる.赤石岳東カールのモレーンを上流側から,Ae-1,Ae-2,Ae-3,小赤石カールのモレーンを上流側から,Ko-1,Ko-2,Ko-3,Ko-4と呼ぶことにする.
     地点1の研磨された基盤岩はかつて氷河底であったと考えられる場所にあり,溝の走向は岩石の組織とは無関係であり,推定される氷河の流下方向と一致している.これらのことから,基盤岩を鯨背岩,溝を条痕であると判断した.
     標高2630 m付近左岸の支沢に露頭がある(地点2).露頭下部には,層厚1 m前後,砂と粘土をマトリックスとし,礫径1~50 cmの角礫・亜角礫を含むコンパクトな堆積物があり,基盤を直接覆っている.同様の堆積物は,現河床高度2600 m付近から2800 m付近までの河床沿いや,登山道沿いで見ることができる.この堆積物は谷壁斜面の基盤に張り付くように堆積していること,河成堆積物や土石流堆積物とは明らかに層相が異なること,周囲に地すべり地形が分布しないことなどから,氷河底で堆積した氷河底ティルであると判断される.
    4.モレーン形成期の推定
     赤石岳東カールAe-1上(地点3),小赤石カールのKo-1上(地点4)での風化皮膜厚の測定結果の平均値はそれぞれ1.3 mmと1.4 mmとなり類似した値を示し, Ae-1とKo-1はほぼ同時期に形成されたと考えられる.これらの風化皮膜厚は荒川三山南面に分布する荒川岳期3のモレーンの風化皮膜厚(長谷川ほか,2006)と同様の値を示す.荒川岳期3は晩氷期に対比されることから, Ae-1とKo-1の形成期は晩氷期に対比される可能性が高い.今後は,北沢の標高2400mより下流と,赤石岳西面の本岳沢でも調査を行う予定である.
    参考文献

     五百沢智也(1979):『鳥瞰図譜・日本アルプス』講談社,190p.
     Kobayashi,K.(1958):Quaternary glaciation of the Japan alps. Journal of Faculty of Liberal Arts and Science. Shinshu University, 8:13-67.
     長谷川裕彦・佐々木明彦・増沢武弘・加藤健一(2006):南アルプス,荒川三山南面カール群の地形発達.季刊地理学,58,44-45.
     長谷川裕彦・佐々木明彦・増沢武弘(2007):南アルプス南部,悪沢岳北面魚無沢における第四紀後期の氷河作用.日本地理学会発表要旨集,71,126.
  • 本多 啓太, 須貝 俊彦
    セッションID: 413
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    はじめに
     日本島の河川の縦断面形は一次関数,ベキ関数,指数関数のいずれかで回帰できる(Ohomori,1991).また,氷期-間氷期の気候・海面変動に対応して河川の縦断面形は変化することが明らかにされてきた(Dury,1959,貝塚1969).しかし,氷期-間氷期サイクルのなかでの河床縦断面形の変化については不明な点が多い.本発表では,最終氷期の河床縦断面形の適合関数型を明らかにし、現在の型と比較するとともに、下流部における最終氷期の土砂移動について若干考察を加える.

    方法
     日本全国の主要な河川17つの本流を対象として,河床・段丘縦断面や沖積基底面のデータを文献資料から収集し,氷期の河床縦断面形(Last Glacial River Profile;以下LGRP)と現河床の縦断面形(Present River Profile;以下PRP)を作成した.そして,これらの河床縦断面形を関数回帰し,各河川の適合関数型と関数回帰時の相関係数を求めた.

    結果および考察
     LGRPは岩木川と荒川を除く全ての河川においてベキ関数または,一次関数で回帰される.一方,PRPになるとベキ関数型河川は減少し,指数関数型河川が増える傾向にある.このことは,LGRPとPRPの関数回帰時の相関係数にも表れている.LGRPのベキ回帰時の相関係数と指数回帰時の相関係数を比較すると,指数回帰時は0.67以上であるのに対し,ベキ回帰時の相関係数はすべて0.9以上と高い(図1a).一方,PRPではいずれの回帰時にも概ね0.8以上と比較的高い相関を示し,両者は二方向へ分離している(図1b).関数型の違いは河床縦断面形の曲率の違いを示しているので(Ohomori,1991),上述のLGRPからPRPにかけての関数型変化は河床縦断面形の曲率の減少を意味する.つまり,LGRPはPRPと比べてより直線的であったことがわかる.また,LGRPの現河口付近における縦断勾配は、PRPのそれより明らかに大きく、岩木川と荒川を除くと1‰を大きく越えている.現在の扇状地の末端部の河床勾配が1‰であること(Ohomori,1991)や,適合関数型の違いが河川作用の違いを示す(Ohmori,1997)ことを考えると,このことは,水理条件に変化がなかったとすれば、最終氷期の方が現在よりも下流まで砂礫を運搬することができた可能性を示している.
  • 田力 正好, 高田 圭太, 古澤 明, 守田 益宗, 須貝 俊彦
    セッションID: 414
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     近年,内陸部の隆起量を求める方法として,河成段丘の比高を用いる方法(TT法)が,全国各地の河川において用いられている(吉山・柳田,1995;田力・池田,2005など).TT法は,河成段丘が気候変動に連動して形成されるというモデル(貝塚,1969など)に基づいているが,段丘の形成年代(特に酸素同位体ステージ(MIS)6の段丘)や形成環境が明らかにされた河川の事例が少ないため,TT法の適用は一般的に受け入れられるまでには至っていない.そこで本研究では,河成段丘の形成モデルを検証するために,河成段丘が良く発達する利根川支流の鏑川沿いの段丘を対象として,段丘の形成年代を明らかにすることを目的として調査を行った.
     鏑川流域には段丘地形が良く発達し,古くから段丘地形の記載がなされてきた(東木,1929;須貝,1996など).基盤岩は,下流側の本流沿いでは新第三系の堆積岩類,南側では先新第三系の堆積岩類・変成岩類,上流側では新第三系の火山岩類・貫入岩類および先新第三系の堆積岩類を主とする.段丘地形は新第三系の堆積岩類が分布する地域で良く発達するが,それ以外の地域ではあまり発達しない.
     調査方法は以下の通りである.1)空中写真判読による段丘面分類,2)段丘堆積物の観察・記載,段丘堆積物を覆う風成堆積物のサンプリング(5~10 cm間隔),3)段丘面の中央でボーリングを掘削し(2地点),コア中の風成堆積物を2)と同様にサンプリング,4)採取したローム層の試料を,RIPL法(古澤,2004)を用いて分析し,テフラを識別,5)段丘堆積物を覆うテフラとその他の情報(段丘面の形態・分布,段丘堆積物の特徴など)を総合的に解釈し,段丘面の形成時期を推定.
     調査地域の段丘面をQ1~Q4に分類した.Q3はさらにQ3a~Q3cの3面に細分した.段丘面の名称は須貝(1996)に準じたが,段丘面の判読結果は一部異なっている.
     Q3aは,段丘堆積物とATやAs-BP,As-YP等の火山灰との関係から,MIS2の堆積段丘と考えられている(須貝,1996).今回の調査では,小支流沿いのQ3a構成層中でトウヒ属またはカラマツに同定される木片が見いだされた.それらは現在の関東地方の山地域にも分布しているが,この小支流の流域の標高は最高でも280 m程度であるので,この事実は,Q3a構成層堆積時には鏑川流域は現在よりも寒冷な気候であった可能性を示唆している.
     Q2は,下流側では南方から流入する支流群が形成した段丘面が広く発達し,上流側では,鏑川本流が形成した段丘面が断続的に分布する.Q2は15 m以上の厚い段丘堆積物を持つので,Q3と同様,堆積段丘と考えられる.Q2を覆う風成堆積物の厚さは1.5~2 m程度で,地点によって異なる.風成堆積物の最下部,または段丘礫層を覆う洪水堆積物の最上部に,MIS5/6境界に降灰したとされている飯縄上樽テフラ(Iz-Kt;鈴木,2001)に対比されるテフラが数地点で検出された.Iz-Ktの対比は,基本的に普通角閃石とカミングトン閃石の屈折率に基づいて行っているため,確実ではないが,既知のテフラでは最も対比される可能性が高く,層序的にも矛盾しない.以上のことから,Q2はMIS5/6境界頃に離水した可能性が高いと言える.Q2は,MIS6に堆積した厚い砂礫層がMIS5以降に下刻されて形成された段丘面と考えられる.これまで,鏑川流域のQ2の離水時期は明らかにされていなかったが,今回の調査で,MIS6/5境界頃に離水したことを示す具体的な証拠が得られた.
     Q1は,鏑川の南方に断片的に分布する.段丘堆積物上には,厚さ2~4 mの風成堆積物が堆積している.Loc.7でQ2の離水層準であるIz-Ktより下位に厚さ60 cmほどの風成堆積物を挟むこと,Loc.4で洪水堆積物中に含まれるGHo・Cumテフラa(仮称)がLoc.7では風成堆積物層の下部に含まれることから,Q1の離水時期は,Q2よりも古いと考えられる.段丘面の比高からは,Q1はMIS8/7境界頃に離水した可能性が考えられるが,テフラ層序に基づく確実な編年は現状では難しく,今後の検討を要する.
  • 森脇 広, 永迫 俊郎, 横山 勝三
    セッションID: 415
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     火砕流台地は,広大な平坦面が瞬時に形成されたため,その面形成の初期条件が単純で,火砕流堆積後の侵食・開析過程など,台地地形発達の解明に好条件を備える.シラス台地は,広大な火砕流台地を作る噴火としては九州ではもっとも新しい巨大火砕流-入戸火砕流(約29 cal. ka)-によって形作られ,南九州に広く分布する.このため,シラス台地には火砕流堆積後に形成された谷地形や河川地形など種々の小地形・微地形が広く認められ,また,これを覆うテフラがよく残存し,火砕流堆積後の地形発達を明らかにする上で好条件をもつ.
     ここで取り上げる「埋積浅谷」は,シラス台地上で,土壌等で埋積された浅い埋没谷のことである.一般にその深さは,谷の上流に当たる台地中央部付近で数m以内,下流の崖端付近では最大10mにも達する.台地崖の露頭や考古遺跡の発掘等による台地面上での観察では,この種の埋積浅谷が現在ほぼ平坦に見えるシラス台地に数多く存在する.ここでは,そうした埋積浅谷について,薩摩半島・大隅半島でみられるいくつかの例を示し,その谷の形成時期と埋積過程を,埋積物に挟在するテフラ編年に基づいて明らかにする.
     指標テフラ:南九州では入戸火砕流噴火後,多くのテフラが噴出した.これらのテフラのうち,広域性と噴出年代からみて特に有効なのは,桜島火山起源のテフラ-桜島高峠6(Sz-Tk6/P17),桜島薩摩テフラ(Sz-S/P14)-と鬼界アカホヤテフラ(K-Ah)である.Sz-Tk6は桜島テフラ群のなかでは最古のテフラ(23 ka/26 cal. ka: 奥野,2002)で,その年代は南九州では入戸火砕流の噴出年代(24.5 ka/29 cal ka)に最も近い.埋積浅谷の形成期を知る上でもっとも有効なテフラである.このテフラは,大隅半島と薩摩半島東部に認められ,広域対比に十分役立つ.Sz-Sは桜島テフラのうち最大規模のテフラで,南九州全域で広く認めることができ,その年代は11 ka/12.8 cal. ka(奥野,2002)で,新ドリアス期頃に当たる.また,日本列島を広く覆うK-Ah(6.5 ka/ 7.3 cal. ka: 奥野,2002)は,南九州では一般に約50cm以上の厚さで広く堆積する.縄文海進最盛期,ヒプシサーマルの良好な指標テフラである.
     埋積浅谷の形成:上記のテフラ降灰域では,シラス台地上の埋積浅谷の埋積物中にこれらのテフラが挟在する.最下位のSz-Tk6は浅谷の基底に極めて近いところによく認められ,浅谷の大部分がこのテフラ降下以前に形成されたことは明らかである.入戸火砕流とSz-Tk6の年代から見て,その侵食は入戸火砕流原の形成後遅くとも3000年以内には終わったことがわかる.薩摩半島西部などSz-Tk6を認めがたいシラス台地では,埋積浅谷の埋積物中の中位にSz-SとK-Ahが介在し,浅谷が形成された後このテフラが降下するまで,かなりの時間間隙があったことを示す.一般にK-Ahはほぼ水平に堆積し,そうした台地上の埋積浅谷はK-Ah頃にはほぼ平坦化されたことがわかる.こうした結果は,入戸火砕流堆積直後に急速なガリー侵食が生じて浅谷が形成され,その後は基本的には侵食が停止し,浅谷の埋積が進んだことを示す.このことは,シラス台地を刻む侵食段丘が火砕流原生成後極めて短期間に形成されたこと(横山,2003)と符合する.  
     火砕流台地の形成-火砕流堆積による瞬時の形成-という火砕流特有の性質から見て,こうした谷の形成は普遍的なものであり,阿蘇や支笏カルデラ周辺地域などを初め,他の火砕流台地の地形発達も基本的には同様の過程をたどったものと考えられる.現在微地形的に平坦とみられるシラス台地面は,その形成直後には,微起伏が生じていたといえる.
  • 古田 智弘, 田村 俊和, 後藤 光亀
    セッションID: 416
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    1. はじめに
     丘陵地谷頭部内の谷頭凹地(田村(1974, 1996, 2001))の土層が持つ流出調節効果ならびに部分寄与域の変動を明らかにするため,谷頭内で簡易貫入試験を行い,水流発生点(Stream-head)付近において土層別の流出,圧力水頭,地下水位等を観測した。

    2. 土層構成
     谷頭凹地上部から谷心線に沿う1方向と地表の形態と無関係な2方向にB層・C層の厚い部分が存在した。谷頭凹地下部の浅い溝状部は,B層・C層の大半が削られた後,AB層で再埋積されたと判断され,この構造がパイプと亀裂の形成に影響していると考えられる。

    3. 流出量と流出発生位置
     4ヶ月間の流出の内訳は,谷頭凹地下部の地表の不特定箇所で発生するQs19.4%,樹木下の地表面に形成されたパイプP3からの流出QP316.5%,水路頭中の亀裂の多い基岩にあるパイプP1,パイプP2,ならびに亀裂Crからの流出QR61.5%であり,パイプと亀裂からの流出が全体の78%を占める。1時間単位の先行降雨指数から,各層からの流出開始条件の推測が可能であった。Qsの発生時はQRのみの時に比べ,部分寄与域が増大していることを示す。

    4. 地中水の経路
     考えられる流出までの地中水の経路を,図1に示す。1:B層・C層に浸透しないまま谷頭凹地下部の浅い溝状部で透水性の高いAB層を降下浸透し,亀裂の多い基岩中に流下した水,2:B層・C層に浸透したうえで再びAB層に流出し,その後は1:と同様に流下した水,3:亀裂の多い基岩に浸透した後に水路頭方面に移動して流出した水に分けられる。通常は強い降雨イベントほど地下水位は上がり,流出への部分寄与域が増大して1:が顕著になるが,土壌が乾燥して流出がほとんどない夏期も存在した。
  • 須田 康平, 久保 純子
    セッションID: 417
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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    ■研究目的と方法
     ダム建設により、貯水部分の水没・堆砂のほか、下流部分の河床への影響が考えられる。本研究では神奈川県宮ヶ瀬ダム下流の河床の環境変化を、大縮尺地形図、空中写真判読、ききとり等により調査した。調査範囲は宮ヶ瀬ダムから相模川合流点までの区間(約 18 km)である。

    ■宮ヶ瀬ダム建設の経緯
     宮ヶ瀬ダムは神奈川県北西部に位置し、丹沢山地に発する相模川支流の中津川水系の多目的ダムである。宮ヶ瀬ダムの基本計画は1969年に当時の建設省により発表され、1987年ダム本体工事着工、1994年にダム本体が完成し、2001年より本格運用が開始された。
     宮ヶ瀬ダムは堤高156 mの重力式コンクリートダムで、有効貯水容量は1億8300万m3で、関東地方のダムの中では2番目に大きい。洪水調節、水道水供給、発電、河川流水の「正常な機能の維持」の4つが目的で、国土交通省が管理している。

    ■河川敷の現況(2005~2006年)
     1/2500地形図および空中写真判読、現地調査により河川敷の現況を調査した。
     全般的に低水敷が護岸により固定され、床止工なども数多くみられる。砂礫の露出する河原は少ない。一方、高水敷は運動公園として利用されている部分が多い。旧河道を利用した漁協の管理釣り場もみられる。
     河川敷は全般に植生でおおわれ、樹木の繁茂した部分も多い。

    ■河川敷の状況(1971~1985年)
     空中写真(1971年撮影)と大縮尺地形図(1985年)を利用してダム建設以前の河道の状況を調査した。
     河床礫採掘の影響もあるが、随所に砂礫からなる河原がみられ、中州が発達する部分も多い。低水護岸はあまりみられない。

    ■洪水流量とフラッシュ放流
     ダム建設前の中津川の計画高水流量は1700 m3/sであり、300 m3/s程度の流量が頻繁にみられたが、ダム建設後の2001年および2002年の宮ヶ瀬ダム放流量データをみると、年平均3回程度、100 m3/s以下の洪水調整放流があったほかは年間を通じて20 m3/s以下であった。
     宮ヶ瀬ダムでは、下流の中津川河床に繁茂する藻類の剥離や河床に堆積したシルトの掃流のため、年1~2回「フラッシュ放流」を実施しているが、その場合も最大100 m3/sで1~3時間である。

    ■ニセアカシアの伐採
     現在河川敷には外来植物のニセアカシアが繁茂し、周辺自治体からの要請で「防犯上の理由」から伐採が行われている。実際に河川敷で生活する人も目撃された。

    ■まとめ
     宮ヶ瀬ダムの建設により、中津川の洪水流量は建設前の1700 m3/sから最大100 m3/sへと激減した。これにより高水敷への氾濫はなくなり、低水路は護岸で固定されるとともに河原は植生で被覆されるようになった。氾濫の恐れのなくなった河川敷では高水敷にスポーツ公園が整備され、旧河道も管理釣り場として利用される一方、ニセアカシアの繁茂などの新たな課題も生じている。
     河川は水だけでなく土砂を移動させることで河道を維持してきたが、ダムの建設により河道は変化するものであるという本来の姿は失われた。このことは中津川に限らず全国の河川でみられる現象である。

    (本発表は須田康平の2006年度早稲田大学教育学部卒業論文によるものである)
  • 内野 尚美
    セッションID: 418
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     かつて日本各地には,主に農業利用のための半自然草原が多く見られた.これらの多くは,利用価値の低下に伴って,他の土地利用へと変換されたり,放棄されたままの状態になった.箱根山では,外輪山や中央火口丘山頂部にササ原が存在する.当地域は,外輪山を中心に入会地として利用されてきた地域である.本研究は,箱根山周辺におけるササ原が,今後遷移が進み森林へと変化するかどうかを推定することを目的とする.
     本研究では,箱根山周辺の植生変化の概要を把握するために,明治期に大日本帝国陸地測量部から発行された地形図と,現在国土地理院から発行されている地形図の地図記号を判読して比較した.さらに,植生の現状を詳細に把握するため,野外においてササ原とこれに隣接する森林内にそれぞれ複数の方形区を設定した.そして,枠内に出現する植生の調査を行った.
     箱根山の植生は,大部分が二次的なものである.山麓部ではコナラ,ケヤキ等が成育し,山頂部に近づくにつれてリョウブ,アセビ,アブラチャン,ニシキウツギなどに変化する.神山,金時山,三国山,台ヶ岳にはブナ林が存在する.これらのブナ林は,林床にスズタケを伴う太平洋型ブナ林の特徴を示している.また,外輪山外側を中心にスギ,ヒノキの植林地が大きな面積を占めている.箱根山周辺における主なササ原は,矢倉沢峠から明神ヶ岳を経て明星ヶ岳にかけての範囲,外輪山南向き斜面,湖尻峠付近,駒ケ岳山頂部等に存在する.ササ原を構成する種は,大部分がハコネダケであるが,標高1000 mを超えるとハコネメダケとなる.また,外輪山南向き斜面では,イブキザサ,ミヤマクマザサとなる.森林内では,ハコネダケに変わりスズタケが多く見られるようになる.しかし,基盤岩や礫が露出するような土壌の薄い地域では,ササは存在しない.
     明治時代の地形図を見ると,外輪山のほとんどの地域が荒地や竹林の記号となっている.広葉樹林の記号が存在する地域は神山,駒ケ岳などの中央火口丘と,文庫山,三国山及び山麓部である.針葉樹は山麓部を中心に存在する.現在の地形図では,外輪山を中心に広い範囲を針葉樹が占め,明治期に荒地や竹林の記号であったところのほとんどが針葉樹となっている.これらの大部分は植林によるものと考えられる.
     野外調査の結果,共に外輪山東向き斜面に位置する湖尻峠と三国山を比較すると,湖尻峠はササ原であり,三国山はブナ林であるという相違が見られた.湖尻峠は現在財産区であり,かつては入会地であった地域である.このことから,湖尻峠も本来は三国山のようなブナ林であったが,草地として利用された後に,ササ原となったと考えられる.
     以上の結果から,箱根山周辺におけるササ原は,かつて入会地として利用されていた場所に成立していることは明らかである.入会地の大部分は植林されたが,土地条件が悪いため植林できなかった地域や,入会地での利用が近年まで続いた地域はササ原となったと考えられる.森林化が進まない要因として,ササの被圧が挙げられる.また,ササ原は南東向き斜面に多く存在していることから,南東からの強風により森林化が阻害されていると考えられる.
  • 中川 清隆, 榊原 保志, 下山 紀夫
    セッションID: 419
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     筆者らは、第2筆者を代表者とする任意団体「気象情報を教育に利用する会」を結成して、「気象情報画像取り込み・表示ソフト」の普及に努めてきた。旧版ソフトを公開して4年が経過し、(1)静止気象衛星の交代(GMS5→GOES9→MTSAT1)、(2)気象庁の画像圧縮形式変更(jpeg形式→png形式)、(3)気象庁および広域定点観測実証コンソーシアムのURL変更等が相次いだため、デザインやコンセプトは旧版を踏襲するものの、コーディングそのものは全く新たにやり直して、大幅な改訂を行ない、改定版を作成したので、その概要を報告する。
     2005年6月のMTSAT正式運用後、日本気象協会の画像の領域が気象庁実況天気図領域をはるかにしのぐ領域に拡大されたのを利用して、画像ビュアーサブソフト(第1図)の実況天気図全域と衛星画像の重ね合わせを可能にするとともに、画像観察ウィンドウを3画面に増設した。これにより、旧版では基本画面と観察画面との比較しかできなかったのに対して、改訂版では3種類の衛星画像同士とか3箇所のライブカメラ画像同士等、様々な画像を比較することが可能となった。
     発表当日、「気象情報を教育に利用する会」入会手続者にソフト入りCDを先着順に実費配布する。また、既存会員にはメール添付ファイルにより改訂版ソフトを送付する体制を整備する予定である。
  • 中田 裕一
    セッションID: 420
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     岐阜県の飛騨神岡地方では、笈破霧(おいわれぎり)とみやざき雲という名の局地気象が知られる。気温の現地観測データとアメダスデータから、これらの局地気象について説明を試みた。笈破霧は、春から梅雨期を中心に、神岡市街地の北側の山々の山頂付近を覆う雲である。笈破霧は、寒気の前触れの雲とされる。実際、現地の気温観測データによると、笈破霧発生時に気温が低下する。また笈破霧発生日の天気図は、日本海上の気圧が高く、北寄りの一般風が進入するタイプである。みやざき雲は、晴天日の春秋を中心に、午後4時頃、神岡北部の漆山岳の山頂付近に現れる。みやざき雲発生日の天気図は、日本全体が広く高気圧に覆われるタイプである。みやざき雲発生日の漆山岳山頂の観測によると、午後4時頃、気温が大きく下降した。 
  • 松山 洋, 稲村 友彦, 坂本 健二, 岩崎 一晴, 渡邊 嵩, 齋藤 仁, 中山 大地, 泉 岳樹
    セッションID: 421
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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  • 松本 太, 一ノ瀬 俊明, 白木 洋平, 安永 伸也, 片岡 久美, 原田 一平
    セッションID: 422
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     都市内を流れる河川には、周辺の暑熱環境に対して冷却効果があるといわれている.著者らは都心の大規模河川空間復元がもたらす暑熱現象緩和効果の定量化を目的として、韓国・ソウル市における清渓川復元事業の前後にわたる暑熱環境の総合的なモニタリングを進めてきた(一ノ瀬ら,2006;Ichinose et al., 2006など)。黄海より約30km内陸に位置するソウル市内には、暖候季を中心に黄海より海風が進入しており、この場合西風成分が卓越する。また、観測対象地付近の復元河道の走向はほぼ東西である。成田ら(2004)などによれば、都市内の緑地や水体からその周辺へ冷気が供給される場合、一定以上の面積を有することが必要であると考えられるが、河道の幅がわずか50m前後の清渓川では、例えば南北風が卓越する場合、地表面付近の空気が緑地面や水面と接触する時間は短く、その冷却効果が河道から離れた場所にまで及ぶことを期待するのは困難と考えられる。よって、卓越風向が河道に沿った時にこそ、河道からの周辺地域への冷気の供給が期待できるのではないか、との仮説をたてた。これは成田(1992)の風洞実験による知見(成田・清田,2000)とも整合的である。CFD2000による数値シミュレーションからは、復元河道上を吹走する冷気が渦を巻きながら、河道に直交する街路へ南北同時に進入する様子が計算されている。
     以上の仮説を実証すべく、2006年8月6日~13日に風、気温などの観測を行った。観測期間中、晴天日には復元河道上で午後から夕刻にかけて海風と思しき西風が卓越した。海風が顕著であった8月13日夕刻の事例では、河道上のB地点(橋の上)で西風が強まるのと同期して、北側のM6地点(建物は平均3階程度)と南側のM4地点(同2階程度)ではそれぞれ南風、北風が強まり、とりわけM4地点ではそれと同期して気温が1℃程度低下している。このような現象は、M2地点(ソウルシネマ前:最も屋外人口密度が高い)では比較的不明瞭であり、清渓川路より1本北の東西道路(鐘路;ジョンノ)からと思われる北風も時折観測された。同時期に実施されたシャボン玉による移動観測の結果と照らし合わせると、清渓川の影響は南北とも河道より80m程度までは比較的明瞭であり、約140m離れたM2地点のあたりが反対から吹き込む風系との干渉地帯となっているものと考えられる。
     また、2004年の同時期に行った気温、水蒸気密度の観測データとの比較により、清渓川の復元工事前後の冷却効果検討を行った。その結果、特に清渓川の南側の地点で、海風(西風)が卓越する時間帯で、相対的な気温低下、水蒸気密度の上昇がみられた。
  • 榊原 保志, 杉村 真央, 濱田 浩美, 中川 清隆
    セッションID: 423
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     本研究は,都市化により気圧がどのように変化するのかを調べるために行った.大都市ほど明瞭な都市化の特徴が出ると考え,東京を研究対象とした.移動時間をできるだけ短縮するために高速道路を利用した.そして,海からの距離が東京都心と同程度にあり,典型的な郊外が見られる佐倉をルートの端に選んだ.2005年から翌年の夜間において20回以上の移動観測を行った.1回の観測の総走行距離は約130 km、所要時間は2時間弱であった.自動車にはSAT,デジタル気圧計そしてGPSレシーバーを搭載した.観測結果から得られた気温分布を見るとヒートアイランドが認められたが,気圧分布を概観すると都市と郊外の気圧の差異は認められない.ただし,正確な海面更正(高度補正)を実施しないと気温差に対応した気圧差があるか否かは即断できない.
  • 西森 基貴, 桑形 恒男, 石郷岡 康史, 村上 雅則
    セッションID: 424
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
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     日本における1898~2004年の年平均気温の長期上昇傾向は1.06±0.25℃/100年(気象庁:異常気象レポート2005)と同期間における世界平均0.77℃/100年を上回っており,このことが「地球温暖化」が日本では既に顕在化しその影響評価と適応・対策が急務とされる根拠となっている。しかしながら近藤(http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/:以降は近藤HP)は,日本や世界のこれら気温変化値は観測所周辺の都市化影響と露場の陽だまり効果により過大評価であるとしている。気象庁は上記の日本平均気温の算出に当たり,統計切断がなく都市化影響もないと判断した気象官署17地点を用いているが,Samejima et al. (2007:J. Agric Meteorol.)は,測定場付近に建造物がない農業研究圃場では,近年でも気温上昇はほとんど起こっていないこと指摘した。また藤部(2007:春季大会発表要旨集p157)は,気象官署とアメダス観測点周囲の人口密度と気温変化率の関係から,たとえ小さな町村においても,その周辺の人口密度が増すほど気温上昇率が大きいことを示した。そこで本研究では,観測所周辺の土地利用を考慮した都市部/農村部における気温変化傾向の相違の比較から,現在用いられてる観測気温データに含まれる都市影響を詳細に評価した上で,農耕地における近年の気象環境変動の地域・季節別の特徴を明らかにし、耕地気象環境の変動におよぼす温暖化の影響の実態を解明することを目的とする。
     用いたデータは,気象庁による上記17地点ほか山岳観測点を含む気象官署ならびに比較的農村部に多いアメダス観測点,および農耕地やそれに類する所で測定されている北海道・九州沖縄など各農業研究センターの圃場データである。解析地点の選定にあたっては,気象庁自身による統計の接続可否,近藤HPの現地調査報告,高解像度衛星画像(グーグルマップ)による図上判定を行った上で。国土数値情報により観測点近傍の土地利用分布の抽出を行い決定した。解析は主にアメダスデータを利用可能な1980年以降の線形トレンド解析を中心としたが,都市影響の定量化のための対比データがある場合には1950年頃以降の同様な解析も行った。
     予備的なトレンド解析の結果,気象庁選定17地点のうち,10地点には都市化の影響が見られたため,近藤HPも参照し新たに農村部に多い気象官署・アメダス12地点を加えた19地点を選定して,日本および地域別の北・東・西日本の特徴を見た。1980年以降25年間における昇温トレンドとその差から見た都市の影響は,日最低気温では春秋に大きく現れ,大都市7地点では0.3~0.9℃,気象庁17地点では0.1~0.4℃である(図1上)。いっぽう日最高気温では夏に顕著であり,大都市では0.0~0.7℃,気象庁選定地点では0.0~0.3℃である(図1下)。郊外19地点の昇温は,最低気温では月別に0.3~1.4℃(図1上:年平均では1.05℃),最高気温では2月と 7月に大きく0.5~2.4℃(図1下:年平均では1.30℃)である。季節別に見ると全国的には2月で,加えて東日本では7月での昇温が,特に最高気温で顕著である。次に2.で選定した19地点における昇温トレンドの地域性を見ると(図略),北日本では,8月と12月に降温傾向にあった。また東日本では,暖候期(7~9月)のトレンドは最高>最低で日較差が拡大しているものの,西日本では気温上昇の季節性は小さく,また最高・最低の相違も小さいことがわかった。さらに夏季の最高気温の上昇傾向から,近年では総観的な暑夏を都市が増幅している傾向が示唆された。
  • 木村 圭司
    セッションID: 425
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
    会議録・要旨集 フリー
    ナミブ砂漠で観測を行い、霧の成因を解明した。
  • 佐藤 尚毅, 城岡 竜一, 吉崎 正憲, 高藪 緑
    セッションID: 426
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/16
    会議録・要旨集 フリー

     フィリピン東方の西部北太平洋暖水域ではSSTが特に高く、このような高SST域 では台風が発生しやすいと考えられている。最近の研究により、北半球夏季に は、暖水域南部のミンダナオ島の南東沖に低SST域が出現することが明らかに なってきた。この低SST域は、冷たい亜表層水が、夏季モンスーンに伴う強い 南西風によって鉛直方向に混合されることによって生じる(Sato et al. 2006)。 夏季には暖水域の北部でSSTが高くなっているため、気候平均場においても、 SSTの南北勾配が生じている。本研究では、このようなSST分布と台風の発生と の関係を議論する。
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