抄録
Connell, ed. J.(2000)によれば,約3/4のオーストラリアの銀行は,シドニーに本社を置いている。アジア太平洋地域の本社をオーストラリアに置いている多国籍企業のおよそ2/3は,シドニーが本社所在地として(適していると)考えている。例えば,1997年と1998年には,61の多国籍企業がシドニーにアジア太平洋地域本社を置いており,これは他のオーストラリア都市およびニュージーランドの都市に比べて4倍以上の数である。サッセンが指摘するように,シドニーはアジア太平洋地域における金融ハブとしてその地位を強化し続けるだろう。
シドニーは,キーティング首相時代(1980年代)にみられた金融の規制緩和により,いち早く取り組んだ「先物市場」に特徴があり,また,日本以外では最大の先物市場(取引量)を誇っている。さらに,1990年代を通じて規制緩和(民営化と株式会社化)が続けられた結果,オーストラリアの株式市場と金融システムは大きく拡大し,このことはシドニーを大きく成長させる結果となった。
堤・オコナー(2008)によれば,オーストラリアの主要大学では留学生(とくに,アジアの途上国から)が1990年代以降に急増している。このことは,オーストラリア連邦政府による1980年代後半の大きな政策転換に起因する。すなわち留学生の受入方針は,従前のオーストラリア連邦政府による国費留学生(大学院生)中心から,自ら学費を支払う学部生を中心とした受入へと大きく方向転換された。2000年代に入り,オーストラリアの主要大学では,留学生の割合は概ね20~25%程度で推移している。このように,安定した学生数の確保という点からみて留学生は重要な存在となりつつある。留学生の大幅受入は,グローバルマーケットへの教育サービスの輸出(trade/ export of educational service)である。すなわち,「英語による高等教育」を知識産業として積極的に展開するオーストラリア側の利害と,欧米諸国よりも距離的に近く,かつ入国もしやすいオーストラリアへの留学を好評価するアジア諸国の利害が一致したと考えられる(堤 2008)。
シドニー大都市圏における留学生の分布をみると,1980年代後半,1990年代,2000年以降で異なる傾向が確認できる。留学生の数が少なかった1980年代までは留学生数の絶対数が少なかった上,留学生の居住地は大都市圏の郊外が主であった。1990年代ではシドニー大学やNSW大学,マックォーリー大学等の大学周辺で留学生が急増した。2001年以降も留学生は増加を続けたが,居住地については1990年代と比べて新たな傾向がみられた。すなわち,2001年から2006年にかけて留学生の居住地はシドニー市の都心周辺部も指向する傾向がみて取れる。また同時に,留学生の急増の過程で特定の国の出身者(例:韓国人)が郊外鉄道の主要駅周辺に集住する傾向も確認できた。