日本地理学会発表要旨集
2008年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: S506
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近代初期公権力者の空間的経験・認識と国土開発政策の展開
大久保利通に注目して
*山根 拓
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抄録

 本シンポジウムは、近代を通じて、公権力(者)の空間認識とその空間形成の意図・実践との関係を考察し、そこからわが国の国土空間の形成過程を説明しようと試みる。この試行の方法論は一つではない。本報告では近代初期の日本で最高公権力者として活動した大久保利通の空間的経験・認識と空間的実践の内容を顧み、それを現実の国土空間形成と関連付けて説明したい。
 大久保利通が事実上の最高権力者として国政のヘゲモニーを握ったのは、1869年の参議就任、1873年の内務卿就任を経た明治初期の一時期に過ぎない。彼の取り組んだ国土空間形成に関わる代表的事業としては、「廃藩置県」と「東日本開発(野蒜築港や安積開墾等)」が挙げられる。このうち前者が国家統治上の「中央-地方」間秩序の制度枠組を定めたのに対し、後者は具体的な場所「東北」の振興に関わった。これらの事業、特に後者の形で顕在化した空間的実践の背景にあったと思われる、大久保の空間的な経験と認識の検証から始めたい。空間的経験は人間の直接的・間接的な場所経験であり、空間認識の基となる。主体による場所経験や認識は、質量両面で評価できる。まずは大久保の生涯にわたる空間的履歴を量的に捉えてみよう。
 1830年生まれの大久保は、鹿児島・加治屋町で成育し30歳過ぎまで、鹿児島に留まった。『大久保利通日記』や『大久保利通文書』からみると、その間、彼の生活活動空間はこの加治屋町と城を主とする市街にほぼ限られた。彼自身が西郷隆盛らとともに薩摩藩内での異例の昇進を遂げたことと、薩摩藩が近世的幕藩体制変革のキャスティングボードを握る構造変動が生じたことで変化が訪れる。文久元(1861)年12月28日、大久保は島津久光公の内命で初めて京都に赴き、以後の活動の本拠が京都に移る。1866(慶応2)-1869(明治2)年、彼は京都に居宅を置いた。その後、明治遷都により本拠は東京に移る。政治的地位を上昇させた彼のヘゲモニーの確立は東京移動後である。1861年以後の彼の活動空間は、前半において、鹿児島、京都、東京(江戸)の3点を軸とし、時にそれらを結ぶ西日本で主に展開した。このエリア外の場所を彼が初めて訪れたのは、明治4(1871)年11月~明治6(1873)年5月の岩倉使節団による米欧派遣であった。その後、彼の足跡は清国・台湾(1874年)、東北地方(1876年)へと及ぶが、公務以外の私的な遠距離旅行は、岩倉団からの帰国年における箱根・富士・京阪地域への1件のみであった。
 権力者・大久保は、上京する地方官らとの会談や、地方との書状の遣り取りを通じ、東京で地方情勢を把握していた。1875・1878年の地方官会議は、警察・土木・橋梁などの問題に関する各地方官の地域性を踏まえた発言もあり、地域事情を権力側に伝える機会であった。政治情報に偏倚していた嫌いはあるが、大久保が、直接経験した東京以西の西日本と異なる東北日本の事情を、こうした間接的手段から一定程度把握していた事実は重要である。
 大久保が「首相」として手懸けた国土空間構造の構想・創出という仕事に関連させて彼自身の空間的諸経験を整理したとき、岩倉使節団による欧州特にイギリスへの渡航経験は転換点となった。これは彼にとって他の空間的経験と質的に異なるものであり、その衝撃が西郷隆盛らへの書状や久米邦武への談話において表明されている。当時の個々の英国産業の先進性のみならず、それらを繋ぐ運河・鉄道のネットワークおよび首都中心にネットワーク化された国土空間構造の機能する様が、彼に強い印象を与えたと見られる。君主制政体の下で近代化を進める英国的国土構造が、わが国の殖産興業的国土開発構想のモデルとして意識され、その実現の舞台として東北地方が選ばれる。東北は大久保にとって個人的経験の薄い地域ではあったが、英国風見立てを適用するには好適の地と判断されたのではないか。東北巡幸に先立つ視察旅行は、彼自身の見立ての確認旅行の意味を持つ。
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