日本地理学会発表要旨集
2009年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: S102
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宮古・八重山諸島における歴史津波の襲来と津波災害
とくに1771年明和津波,1667年地震津波,および1500年頃の津波
*河名 俊男
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抄録

I.はじめに
 1771年(明和8年),4月24日の午前8時頃,琉球列島南部の宮古諸島や八重山諸島に大津波が襲来した(牧野,1981).本稿ではこの津波を「1771年明和津波」と称する(明和津波と略称).明和津波による犠牲者は,歴史書の『球陽』によると宮古諸島で2548人(球陽研究会1974),八重山諸島では9393人に達した(古文書の『大波之時各村之形行書』による).牧野(1981)は『大波之時各村之形行書』に記載された各村の遡上高を引用し,明和津波の最高遡上高を約85.4m(石垣島東南部)とした.また,古文書の『奇妙変異記』によると,石垣島を中心とする八重山諸島では,明和津波と推定される津波によって7個(5箇所)の岩塊が移動したと記述されている.
 一方,歴史書『球陽』によると,1667年に宮古島で地震が発生し,洲鎌村では約1200坪の畠が約1m陥没して水田になった.渡辺(1985)はこの地震の震央を,宮古島近海の北緯25度,東経125.5度に求めた.
 古文書の『八重山島年来記』によると,同年(1667年),石垣島でも地震が発生した.以上から,1667年の地震は従来考えられていた宮古島近海の地震ではなく,宮古島と石垣島を含む広域の地震と考えられる.
 宮古島とその西方の下地島には,大波が夜中に襲来したという伝承がある(下地,2007).この襲来時刻は明和津波の襲来時刻とは異なっている.
 以上を踏まえ,本稿では,1)明和津波の遡上高と岩塊の移動,2)1667年の広域地震時に津波も襲来したかどうか,3)宮古諸島の大波伝承の是非を検討する.
II.1771年明和津波の遡上高と岩塊の移動
 明和津波の最高遡上高は,宮古島で約10m,伊良部島で6~11m,多良間島で約15m(以上,中田,1990),石垣島で約30m(島袋,2008など)と推定される.八重山諸島における古文書による各村の最高遡上高(牧野,1981)は,当時,戸板を使用した簡易な測量方法に基づく測量誤差が加味されたものと推測されている(島袋,2008).
 『奇妙変異記』に記載された記述(明和津波と推定される津波による岩塊の移動:5箇所,7個)の中で,4箇所,6個の岩塊は確認された(河名ほか,2000)が,黒島の1個の岩塊は未確認である.
III.1667年地震津波
 従来,1667年の地震に伴う津波に関する指摘はなかったが,宮古・八重山諸島における津波石の暦年代(河名,未公表資料)から,1667年の広域地震に際しては,それらの島々への津波の襲来が推測される.
IV.約1500年頃の津波
 宮古島のマイバー浜における津波石の暦年代,15世紀末の古文書,および津波伝承から,宮古諸島における約1500年頃の津波の襲来が推測される.
V.防災,減災に向けて
 1998年5月4日の午前8時30分頃,石垣島南方沖を震源とするM=7.6の地震が発生し,同日の8時39分に沖縄気象台は,沖縄全域に津波警報を発表した.津波情報入手後の行動に係わるアンケート(複数回答)によると,約12%が「海岸に行った」という(山田,2000).
 以上の現状も踏まえ,防災,減災に向けて,今後とも,防災教育,講演会,普及活動など各種の取り組みが必要とされる.
参考文献
島袋永夫(2008):明和津波の高さや津波石について.明和の大津波を語る会,7-8.
下地和宏(2007):あまれ村と伝説の津波.宮古島市総合博物館紀要,11号,1-12.
河名俊男・伊達 望・中田 高・正木 譲・島袋永夫・荻野 亮・仲宗根直司・大橋信之(2000):石垣島における1771年明和津波の遡上高と岩塊の移動.第17回歴史地震研究発表会講演要旨集,
球陽研究会編(1974):『球陽 読み下し編』.角川書店,793p.
牧野 清(1981)『改訂増補 八重山の明和大津波』.城野印刷,462p.
中田 高(1990):サンゴ礁地域研究グループ編『熱い自然 サンゴ礁の環境誌』,古今書院,
山田剛司(2000):1999年度沖縄開発庁委託調査.亜熱帯総合研究所,133-231.
渡辺偉夫(1985):『日本被害津波総覧』.東京大学出版会,206p.

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