抄録
1)問題の所在
本研究は,文科省科学研究費(基盤研究(A) 商品化する日本の農村空間に関する人文地理学的研究;研究代表者:田林 明)による共同研究の一環であり,ポスト生産主義化の日本の農村において,農村空間の商品化が進行するプロセスとその意味を解明することを目的としている。発表者の報告では,ルーラリティの消費という視点から,農村における宗教ツーリズムの創造の調査報告を事例に考えてみたい。
観光によるまちづくりや地域振興の実践にあたって,聖地創造はもはや常とう手段といっても過言ではない。地域間の競争の中で,いかに他所よりも魅力的な場所づくりを行うことができるか。現代はまさに聖地創造の時代といえる。聖地は偶発的に「観光のまなざし」の対象となるものではない。本発表では,複数のアクターのうち,とくに行政による聖地創造の仕掛けやカトリック側の対応を通して,教会堂や殉教地などが,いかに観光資源として対象化されてくるのか,長崎県におけるキリシタン観光を事例に検討する。
2)創造される宗教ツーリズム
長崎の教会群は2007年1月には,世界文化遺産の暫定リストに登録された。これを契機として,長崎におけるキリシタンの聖地巡礼を,宗教的意図のみならず,地域の歴史的文化遺産として,また観光振興の手段として活用しようとする動きは長崎県観光連盟により創出された。これは長崎県内各地に残る有形・無形のキリスト教関連の文化財を再検証し,カトリック長崎大司教区との協議の上,公式の「ながさき巡礼の道」を創造することを目的とするものである。長崎県内212の巡礼地を7地区に分け,巡礼のモデルコースとして紹介するほか,団体客には,カトリック文化などに詳しい巡礼ガイドを派遣するなどの対応も始めている。
「ながさき巡礼」は既存の教会や殉教の聖地をルート化するものであるが,その背景にはさまざまな要因がある。巡礼発展による観光客の増加を期待する地元自治体の政治・経済的な要請,カトリック側の宗教的理念と布教戦略,スピリチュアルブームといった社会的状況,団塊の世代の退職期に伴う文化遺産観光への関心の高まりなどを背景に,「ながさき巡礼」という社会的な聖地創造への取り組みがなされているのである。
3)消費されるルーラリティとその課題
教会群が分布する五島列島などでは,少子高齢化による過疎化が進行し,信徒たちの力だけでは教会堂の維持が困難な状況にある。長年の風雨に耐えてきた教会建造物にも破損が目立ち,倒壊の危機にさらされる施設もみられる。世界文化遺産に登録されることによりツーリズムが進展し,国や地方自治体からの財政上の支援を受け,教会堂をはじめとする貴重な宗教施設が文化財として保護されることに期待する教会関係者も多い。その一方で世界遺産に登録されるおよびそれに伴うツーリズム化の流れに対する不安の声も聞かれる。教会群を観光資源化しようとする動きが強くなれば,教会堂の本来の意味である祈りの場としての宗教空間が変容する危険性を孕んでいることは否めない。
長崎における宗教ツーリズムの解釈には,多様な読みが可能である。本発表では特に,農村風景の物語消費とツーリズムの生成時にみられる住民の集合的記憶の再編成による地域史のよみかえについて着目したい。
現代日本のような高度消費社会において,農村空間に付与されるイメージ操作の背景にも,記号消費の物語が構築されている。キリシタンがもつ「弾圧」「潜伏」「復活」という固有の歴史物語が教会群の風景と結びつくことにより,農村空間の商品化がなされていることについて,発表中に論じる予定である。