抄録
問題意識と目的
近世以前までに成立した主要な街道筋の起源は,当初いくつか存在した道の中で,人々が自然条件や社会経済条件の最適な道を繰り返し利用することにより,ある特定の道沿いのみが集中的に発展したことによるのではなかろうか.これまでの街道筋の発達に関する研究は,歴史学分野で社会経済条件の面から主に説明されてきたが,自然条件について十分な検討がなされてきたとは言い難い.本発表では,自然条件の中でも,徒歩や牛馬の荷駄による移動にとって最も影響の大きいと考えられる地形条件について具体的に検討し,どのような地形上に街道や宿場などがあるのかなど,街道筋における地形条件の規則性を導くことを目的とする.
対 象
本発表では,江戸から京都までを主に山岳地域を経由する中山道(距離約533km)を研究対象とした.その理由は,1)五街道の一つであり,大名や旗本の参勤交代や年貢の輸送をはじめ,善光寺参りなどのため行き交う旅行者も多いなど,中山道を利用した往来がさかんであったこと,2)関東平野や中部地方の山岳地域,三河高原など変化に富んだ地形を通過することから地形条件の規則性の多様性を検討するに適当であること,3)東海道沿いに比べ,戦後の都市化の影響が少なく,当時の様子を伺えることである.なお,本発表では,ボリュームの関係から関東平野(日本橋-高崎宿間:約110km)の中山道沿いを検討することとした.
方 法
江戸時代中期,文化年中に道中奉行の調査によって中山道の街道沿いを詳細に描いた中山道分間延絵図を参照して,現在の地形図に中山道のルートを書き入れた.また,都市化の影響が少ない終戦直後に撮影された縮尺4万分の1米軍空中写真, 明治~大正期に作成された旧版地形図をもとに, 街道全体にわたる地形分類をおこなった.地形分類の範囲は,おおむね街道を中心に両側1km程度とした.一部の地域については現地へいき,簡易断面測量やハンドオーガーによる表層地質観察を行った.
結 果
関東平野の中山道のルートを大きな地形区分で見ると,東京低地の西縁の日本橋を始点として,武蔵野台地東縁-荒川低地-大宮台地-荒川低地-熊谷扇状地-櫛挽本庄台地東縁-神流川-高崎台地を通る.ルートの特徴としては,1)低地よりも台地をできるだけ選択して通過すること,2)関東山地を横切る峠へつづく高崎をめざして,江戸と高崎間を結ぶ直線的なルートであることが挙げられる.
より詳細な街道沿いの地形区分を見た場合,台地上では,1)開析谷をできるだけ横切らない,2)段丘面上で相対的に高い分水界上を通過する,という特徴が認められる.また,開析谷を通過せざるを得ない場合には1)開析谷内の微高地,2)河床幅の短いところ,3)河道が直線的な部分を選ぶ傾向が見られる.例えば,宿場のあった板橋では,開析谷である石神井川を横切る.そこでは,河川争奪によって生じた数__m__程度高い旧河床がある箇所を選択し,河道幅が狭い部分を通過している.一方,低地では,自然堤防上をできるだけ通過し,後背湿地や旧河道を通過する箇所を抑える傾向が見られる.大宮台地北端と熊谷扇状地南端までの荒川左岸の地形区分をみると,自然堤防がある箇所を巧みに選択して街道がつけられているが,自然堤防がなくなる地域のみ,人工の久下堤を街道として利用している.
宿場の地形的な立地をみると,日本橋から高崎までの13宿のうち,12宿が段丘上にあり,1宿(蕨宿)が自然堤防上,1宿(新町宿)のみが氾らん原にある.
考 察
上述の結果は,当時人力による土木技術であったことから,地形を活用して街道筋が成立していたことを示すと考えられる.具体的には,街道筋は,河川による自然災害を予防し,またその被害を最小限に抑えるルートであり,移動距離や高低差をおさえるなど往来の負担を可能な限り軽減するルートを選択しているといえる.
本研究の進捗にあたり,財団法人日本生命財団の助成を受けました.