日本地理学会発表要旨集
2009年度日本地理学会春季学術大会
選択された号の論文の258件中1~50を表示しています
  • 菅 浩伸, 鈴木 淳, 横山 祐典, 中島 洋典, 鈴木 倫太郎, 安達 寛
    セッションID: 101
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに ミクロネシアのマーシャル諸島共和国は29の環礁より国土が構成される環礁立国である。今後の温暖化による海面上昇の影響が危惧される中で,首都のマジュロ環礁では海面上昇対策の護岸建設や礁湖側の埋立て護岸などのためにサンゴ礁礁原の石灰岩を採掘している所もある。本研究では同環礁で洲島の基盤をなし,また重要な石材資源ともなっているサンゴ礁地盤の構造とその形成プロセスについて報告する。 2.研究方法 まず,マジュロ環礁南部にて外洋から礁湖へ環礁縁を横切る基線を設定し断面測量を行った。さらに南部・東部・北東部の9カ所にて外洋側斜面の音響測深を行った。礁構造の観察・試料採取は以下のように行った。まず,環礁の外洋側礁斜面(水深6m)にて油圧式ボーリング機を用いた水中掘削を行い,6.53mのコアを得た。次に外洋側礁原上に残された水深5mに達する採石跡の壁面および礁湖側まで開削された船舶用水路の壁面にて礁構造を観察し,試料を採取した。あわせて礁原上の礫岩ビーチロックからも試料を採取した。採取した試料のうち20試料について東京大学とキール大学にてAMS年代測定を行った。また,試料は肉眼での観察とともに,エネルギー分散型X線分析装置付き低真空走査電子顕微鏡(SEM-EDS)による観察を行った。 3.環礁の地形と堆積構造 マジュロ環礁南部の洲島は幅狭で高度も低い。測線における洲島の幅は約130m,高度は平均海面上2~2.5mであった。洲島を載せる礁原は幅約300mであり,高度は外洋側礁原で平均海面付近,礁湖側でこれより40cmほど低い。洲島の外洋側・礁湖側には礫岩ビーチロックが分布する。外洋側の礁縁部には縁脚縁溝系が30m程度の地形帯を形成する。縁溝は外洋側の水深3m程度で消失し,水深3~6mで緩やかに外洋側へ傾斜する斜面が30mほどつづく。この外洋側緩斜面端部で掘削を行った。それより外洋側は急峻な環礁外側斜面となり,薄板状Montiporaが重なるように生育している。 掘削と露頭観察の結果,礁原ではPocilloporaを主としてHelioporaや緑藻類のHalimeda片を含む堆積構造が主であることが明らかになった。Halimeda片は礁湖側や外洋側礁原の下部で多い。礁縁部下部では枝状Acroporaの堆積が認められる。また,礁斜面では薄板状Montiporaが多く,現生生物相と整合的である。礁堆積物は高マグネシウム・カルサイトの晶出による膠結作用によって,特に礁原上部できわめて固く固結した構造を示す。その厚さは外洋側礁原で表面より1m程度,礁湖側で30cm程度である。 4.環礁礁原の形成過程  年代測定の結果,洲島を載せる礁原面は約4700年前から3700年前の約1000年間で形成されていることがわかった。このうち礁湖側がより早期に形成され,その後外洋側へと礁原が延びている。礁斜面上部の形成は礁原より遅れる。礁原の形成後,礁縁部から礁斜面上部が上方へと成長し,現在の急峻な外洋斜面と上部の緩斜面が形成されている。環礁外洋側の緩斜面(reef terrace)は現在の波浪環境に対応して形成されたものと推定できる。礁の成長速度は洲島周辺で6~7m/ka,礁縁外縁部で4m/ka, 礁斜面で1.6m/kaと,外洋側ほど,また形成時期が新しいほど低くなる。礁原上の礫岩ビーチロックの堆積は約2000年前以降である。 石材として利用される緻密に膠結した礁岩は,礁原表層部で約4700年前以降の千年間に形成されたものである。その分布域は限られており,現在のサンゴ礁において外洋からの波浪に対する消波構造を形成している部分で顕著に形成されていることがわかった。
  • 森島 済
    セッションID: 102
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    はじめに  南部アフリカでは、近年雨季における降水量の変動性が高まると共に、降水強度の減少と干ばつ傾向の強まり、広域化が顕著となっていることが報告されている(Fauchereau et al. 2003; New et al. 2006)。本研究では、これらの中で、特に近年における干ばつ傾向と降水の季節変化との関係を明らかにすることを目的としている。  南部アフリカにおける降水量データは、一部地域を除き、年々変動や季節変動を議論する上で、時間的にも空間的にも得られにくい。そこで、本解析においては、1979年から2007年までのCMAP(CPC Merged Analysis of Precipitation)のenhanced dataを用いた。このデータは半旬ごとの日平均降水強度として得られるため、これを単純に5倍することでグリッド毎の半旬降水量とした。東経5度から55度、南緯0度から37.5度を解析領域とし、この地域の年降水量のトレンドを調べた。このトレンドと年々の降水量の季節変化との関連性を議論するために、同領域、期間においてEOF解析を行った。 年降水量のトレンドと変化の特徴  年降水量のトレンド分布には、南緯10度を中心とする大陸の西岸地域からマダガスカル東岸にかけて、顕著な減少傾向が認められる。大きな減少傾向を持つ地域を通る年降水量の緯度-時間断面図(図1)を作成すると、大陸上を通る断面には1990年代中頃を境界とした急速な降水量減少が南緯10度付近を中心として生じていることがわかる。500mmと1,000mmの等雨量線に注目すると、500mmの等雨量線は、年々の変動はあるものの、北偏した場合であっても南緯20度付近に留まっている。これに対し、1,000mmの等雨量線は1998年以降北方にシフトしていることがわかる。 降水の季節変化とその年々変動  EOF解析の結果、第1モード、第2モードに南部アフリカの降水帯の季節変化に関連する成分が抽出された。第1成分の空間構造は、南部アフリカのほぼ全域で負値を示しており、その中心はアンゴラからマラウイ、マダガスカルへと広がる(図2:解析対象地域以外においても相関係数を計算し、因子負荷量分布図を作成している)。時係数の負値は、11月から4月に現れ、これに対応して降水量の増加となることから、南部アフリカほぼ全域における雨季を示す成分と考えることができる。この季節進行の経年変化には、1987年以降で負値の絶対値が小さくなる傾向が認められ、さらに負値を示す期間、換言すれば雨季の期間が短くなっていることが認められる。一方、第2モードは雨季を示す第1モードの移行期間(10月~11月及び4月~5月)に南緯20度以北で降水量が増加する成分を示し、この降水期間は1998年以降短期化し、さらに強度も弱まっている。  これらの成分に現れる1987年、1998年以降の季節異常と年降水量の経年変化はほぼ一致している。 参考文献 Fauchereau N., S. et al 2003. Rainfall Variability and Changes in Southern Africa during the 20th Century in the Global Warming Context. Natural Hazards, 29: 139-154. New, M. et al 2006. Evidence of trends in daily climate extremes over southern and west Africa. J. Geophys. Res., 111: D14102, doi: 10.1029/2005JD006289. *本研究は、文部科学省科学研究費補助金・基盤研究 (A)(研究代表者:水野一晴)「南部アフリカにおける「自然環境-人間活動」の歴史的変遷と現問題の解明」の一環として行われた。
  • 宮本 真二
    セッションID: 103
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    アフリカ大陸における乾燥あるいは半乾燥地域の環境変動研究は,湿潤地域の環境変動研究にくらべ,過去の環境を記録した堆積物の残存性に乏しく,その蓄積は乏しい(宮本,2007; Miyamoto, 2009).そこで本研究では,乾燥・半乾燥地域における第四紀末の詳細な古環境変動を復原することを目的に,_丸1_細粒物質の堆積時期の特定,_丸2_堆積環境の解明のため,河成細粒堆積物が分布するナミブ砂漠,クイセブ中流域域のホメブ(Homeb)を研究対象地域に設定した.
  • 手代木 功基
    セッションID: 104
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    はじめに
    アフリカ大陸の南緯20度付近にはマメ科ジャケツイバラ亜科の半落葉樹であるモパネ(Colophospermum mopane)が帯状に分布し,モパネ植生帯を形成している.モパネ植生帯の特徴として,先行研究ではモパネが純林を形成していることや草本が少ないということが指摘されてきた.
    ナミビア北西部のモパネ植生帯においては,年平均降水量が250mm程度と少ない降水量のもとで,植生に依存した牧畜が地域住民(ダマラ)の重要な生業となっている. したがって,干ばつなどの環境変動が人々に大きな影響を与える本地域の持続的な自然利用を考えていくためにも,モパネ植生帯の特徴と放牧活動の関係について詳細に明らかにする必要がある.本研究は長期間の現地調査をもとに,ダマラの人々にとって重要とみなされているヤギ放牧が植生といかなる関わりをもって営まれているかを明らかにすることを目的としている.
    方法
    調査地は,ナミビアのクネネ州南部に位置するレノストロコップ村である. 調査は2006年8月から2007年3月と2008年8月から2009年1月に実施した. まず,植生については主に木本を対象として,出現種と樹高,幹数,胸高直径を記録した.調査は地形単位を設置基準としたコドラート調査(20×20m, 計77サイト)と,住居・水場を基点としたライントランセクト調査(約2km×3本)を行った. 次に,ヤギの採食物について具体的に明らかにするために,ヤギの採食行動の追跡調査を2008年9月から2009年1月の期間中に計15日間実施した.その際には対象個体を設定し,ヤギが採食している植物種とその採食時間を,15分間隔で記載した.また,放牧ルートはGPSで記録した.
    結果と考察
    植生調査の結果,植生構造およびモパネの樹形は,水場・住居からの距離と地形単位によって異なっていた.水場・住居からの距離が近い場所では,中・高木で幹数の少ないモパネが優占しており,葉は幹の上方の高い位置にのみ存在していた.また,樹木密度は少なかった.一方で,水場・住居からの距離が遠いペディメント上では,モパネ以外の樹種が優占する場合が多く,樹木密度は高い値を示した.またモパネの樹形は水場・住居に近い場所のモパネの樹形とは異なり,複幹の低木となっていた.そのためモパネの葉は低い位置にみられた.
    ヤギの採食行動の追跡調査から,本地域では木本種,特に矮性化した樹木(シュラブ)が重要な採食種となっていることが明らかになった.また,季節によって長時間採食されている植物種には違いがみられたが,モパネは季節を問わずに一定の割合で採食されていた.ヤギは水場・住居付近では移動するのみで,採食はシュラブが密に分布するペディメント上で主に行っていた.
    樹形が場所によって異なっている原因として,第一に地形単位が異なることによって生じる土壌水分などの環境条件の差異が挙げられる.住居付近には季節河川があり,樹形は高木になりやすい一方,ペディメント上では水分条件の厳しさから樹木は矮性化していると考えられる.また住居・水場付近は採食圧が高いため,樹木の葉は家畜が採食可能な位置では少なくなっていた.このように環境条件や採食圧の差によって植生景観は異なっており,その植生構造や樹形の場所による違いを有効に利用して,ヤギの放牧活動は行われていた.
    (本研究は,平成17-20年度文部科学省科学研究費補助金・基盤研究A(研究代表者:水野一晴)「南部アフリカにおける「自然環境-人間活動」の歴史的変遷と現問題の解明」の一環として行われている.)
  • 水野 一晴
    セッションID: 105
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    ナミブ砂漠はナミビアの西岸に位置し、寒流のベンゲラ海流の影響で成立している。ナミブ砂漠の季節河川、クイセブ川沿いには森林が分布しているが、地域によっては多くの樹木が枯死している(Mizuno, 2005;Mizuno & Yamagata, 2005)。この研究の目的は近年の環境変化と樹木枯死との関係を明らかにすることである。
     2007年11月に、前年1月以降の降水によって発芽したアカシア・エリオロバの実生の根が調査された。検討したアカシア・エリオロバは、2006年1月以降2007年11月までの2年以内に樹高が10cmになり、根は230cm以上までのびた。アカシア・エリオロバは、稚樹(実生)の段階では、湿潤な細粒な土壌(砂質シルト)層まで深く主根をのばし、そこに側根を発達させて水分を吸収していた。細粒土層からの水分供給では個体維持ができないほどの成長段階に達すると、樹木は地表から50cm以内の浅い深さに無数の側根を広げ、霧などによる地表付近の湿った水分を吸収している。
    近年の洪水減少により地表に厚く砂が堆積すると、地表付近の側根が水分を吸収できないためアカシア・エリオロバが枯死しているのではないかと考えられる。1970年代半ばまでは、以前堆積した砂を新たな洪水がそのつど洗い流し、枯死することはなかった。しかしながら、近年、とくに1980-1985年には、洪水日数が著しく減少して多くの樹木が枯死した。その原因として最も考えられるのは、洪水の減少による砂の堆積と地下水位の低下である。
  • 吉田 圭一郎
    セッションID: 106
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    I はじめに
     小笠原諸島の植生は,明治政府による本格的な開拓が始まった19世紀後半以降,大規模な森林伐採や有用樹木の択伐などといった強い人為的なインパクトを受けた.しかし,全島民が強制疎開させられた1944年以降は現在まで宅地や耕作地の大半が放棄され,森林植生が回復した.現在,小笠原諸島の大半を占める二次植生は強制疎開(1944年)から1968年までに成立したと考えられる.したがって,この期間の植生変化を解明することは,現存植生や戦後の植生変化を理解する上で非常に重要な意味をもつ.
     しかしながら,第二次世界大戦後の小笠原諸島における植生変化に関する研究は,返還後の1968年以降のものに限られている(例えば,大野・井関 1992).これは占領期間中(1945-1968年)の資料がほとんど存在せず,住民に対する聞き取り等でしか植生を推測できなかったためである.
     最近,1968年以前に米軍によって撮影された空中写真が見つかった(父島-アメリカ国立公文書館,母島-国土地理院).そこで本研究では,これら米軍撮影の空中写真を判読し,第二次世界大戦直前の土地利用状況を復元するとともに,その後の植生変化について明らかにすることを目的とした.

    II 調査地と方法
     調査地は小笠原諸島父島と母島である.
     本研究では,まず,新たに見つかった米軍撮影の空中写真を判読し,父島と母島とにおける第二次世界大戦以前の土地利用状況を復元した.また,日本に返還された1968年から2003年までに撮影された空中写真の植生判読結果を加え,過去60年間の植生変化について明らかにした.特に,母島南部では戦後すぐから1968年までの期間に,耕作放棄地を中心として移入種であるギンネム林の拡大が特徴的に見られたことから,その分布変化を明らかにした.

    III 結果と考察
     米軍撮影の空中写真を判読した結果,父島と母島ともに島の大半が第二次世界大戦以前は耕作地として利用されていた(図1).土地台帳より復元した土地利用状況(片平 1981,1982)と比較したところ,両者はおおよそ一致した.また,第二次世界大戦中に建設された旧日本軍の施設が,父島夜明山や母島静谷にみられた.
     強制疎開(1944年)以降に放棄された耕作地には1968年までに二次遷移が進行し,森林に回復した.空中写真判読と現地調査から父島ではリュウキュウマツとムニンヒメツバキを中心とした二次植生が,母島ではムニンヒメツバキやシマシャリンバイなどの在来種に加え,アカギやギンネムなどの移入種による二次植生が耕作放棄地に成立した.特に母島南部においては,1947年にごくわずかに存在したギンネム林が,その後1968年までに人為的な攪乱を受けた場所を中心に拡大した.ギンネム林は,1968年以降の二次遷移の進行にともない遷移後期種に置換され,現在まで徐々にその分布が縮小した(図2).
     本研究の結果から,小笠原諸島において現在の自然環境には第二次世界大戦以前に受けた人為的な攪乱の影響が残っており,特に現存植生の成立には戦前の土地利用状況が強く影響していることが明らかとなった.

    本研究は(財)国土地理協会 平成19年度学術研究助成の補助を受けた.

    <引用文献>
    大野啓一・井関智裕 1992.父島,母島,兄島,弟島の植物群落と植生図-近年の植生変化にふれて-.東京都立大学編『第2次小笠原諸島自然環境現況調査報告書』76-126,東京都立大学.
    片平博文 1981.父島の土地利用状況の特性-戦前の土地利用を中心に-.東京都編『小笠原諸島自然環境現況調査報告書』155-162,東京都.
    片平博文 1982.母島における畑地の開墾とその分布状況-戦前の土地利用状況から見た-.東京都編『小笠原諸島自然環境現況調査報告書』141-144,東京都.
  • 安田 正次, 大丸 裕武
    セッションID: 107
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    はじめに
     本州中部以北の山地の高標高域には、湿性草原と呼ばれるスゲ類などの低小な草本や雪田植物群落からなる芝生状の植生帯が広がっている。この植生は多雪山地で特に多く見られ、その成立には積雪が大きく関っているとされている。近年、中部以北の山地では積雪量の減少が認められている(気象庁 2001;安田・沖津 2006など)。こういった積雪量の減少は湿性草原に変化を引き起こすと考えられる。山地の湿性草原は、その景観から観光資源として重要であるため、湿性草原の変化を検出する事は非常に重要である。しかし、これらの地域における湿性草原の変化はこれまでほとんど報告されていない。
     そこで、湿性草原の植生変化の実態を明らかにするために、航空写真を用いてその変化を検討した。

    方法
     中部、関東、東北の山地で比較的大きな面積を持つ湿性草原を対象とした。航空写真は植生が判別できるもののうち、最も古いものと最も新しいものを比較した。
     航空写真はスキャナでデジタル化し、航空写真測量ソフトでオルソ化した。オルソ化の精度を高めるために現地でコントロールポイントの緯度・経度・標高をGPS測量器で計測し、それを元に精密なオルソ化を行った。計測された位置精度は30cm程度である。オルソ化した航空写真はGISソフト上で、植生境界をプロットして湿性草原のポリゴンを生成し、面積を計算した。
     なお、変化が認められた地域については現地で植生調査を実施し、既存の植生調査の結果と比較して植生種の変化を検討した。

    結果と結論
     航空写真から湿性草原の面積の変化を検出した結果の一部を表-1に示す。表-1は面積の大きい順に配列してあるが、面積と変化量がおおよそ比例している。また、変化率すなわち総面積に対して消失した面積の割合は、面積と比例関係にはなかった。つまり、湿性草原の総面積が大きいほど消失した面積は大きいが、その速度は面積の大小に無関係である事が明らかとなった。
     変化率が最も大きいのは会津駒ヶ岳で、次いで平ヶ岳である。これらは稜線部に成立している湿性草原で、雪田に隣接しており植物種も雪田植生と共通のものが多く認められた。これらの地点では、湿性草原の周囲からチシマザサなどが侵入し、面積を縮小させていた。一方、変化率が低いのは尾瀬ヶ原や天狗の庭で、これらは凹地状の地形となっている。植生は高層湿原と共通種が多い。これらの地点では湿性草原に侵入しているのはダケカンバなどの木本であった。
     以上から、湿性草原の縮小傾向は涵養の状況との関連が考えられた。稜線部では涵養源が降雪や降雨に限られるため、降水量の変化が土壌水分に直接反映され、植生が変化したと考えられる。このような立地で増加しているチシマザサは乾燥傾向にある湿性草原に侵入する植物種である事からも、乾燥化が進んでいる事が裏付けられる。一方の凹地では周辺からの流入水があるため、土壌水分が変動しにくく、環境の変化が小さいと考えられる。尾瀬ヶ原におけるダケカンバなどの侵入は、いわゆる湿性遷移の一端であり、環境は大きく変化していないと考えられた。

    引用文献
    気象庁 2001.『20世紀の日本の気候』気象庁.
    安田正次・沖津進 2006.上越山地における積雪の長期変動. 地理学評論79;503-515.
    安田正次・大丸裕武・沖津進 オルソ化航空写真の年代間比較による山地湿原の植生変化の検出. 地理学評論80:842-856.
  • 高橋 誠, 田中 重好
    セッションID: 108
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    2004年12月26日、日曜日の朝、インドネシアのスマトラ島西方沖で発生した超巨大地震は、少なくとも20世紀以降の世界ではチリ地震に続く2番目の大きさであり、地震による被害では史上最悪の死者行方不明者25万人以上、被災者200万人以上をもたらした。人的被害の大部分は津波によるもので、死者の多くは、震源に近いインドネシアのスマトラ島北部のナングロ・アチェ・ダルサラーム州に集中し、この地域だけで死者行方不明者17万人ほどを記録した。その中でも州都バンダアチェ市では、アチェ州における総犠牲者の4割に及ぶ7万人ほどが犠牲となった。地域的スケールで見れば、津波ほど、被害が面的に起こり、それでいて被災地と非被災地との境界が明確で、両地域間の格差を生じさせる災害は少ない。バンダアチェでは、津波は最大10 mの高さに達し、海岸から5 kmほど内陸に到達したと推測されている。海岸付近の地区では、津波前にあった街は跡形もなくなり、大部分の建物が土台ごと流された。土地自体が消失したところも少なくなく、地域の死亡率は90 %に達した。海岸から数キロに位置する中心市街地では、津波による直接的破壊というよりも浸水被害が顕著であり、一方、もっと内陸の非被災地は全く無傷のままであった。私たちは、こうした被害の地域差が地域の微地形、土地利用や構造物と関連し、社会的・空間的に不均等な復興支援によって、そうした被害の地域差が復興後の地域格差につながる可能性を指摘した。自然災害は、一般に、ある社会が長期間にわたって自然環境との間に取り結んできた相互関係の破局的な再編であり、自然災害とそのリスクは、災害因の持つ物理的側面と、脆弱性と呼ばれる社会的条件との関数と見なされる。一方で、脆弱性は災害からの回復力と裏腹な関係にあり、その意味で自然災害は既存の自然-社会関係の分断から新しい関係への契機となる。こうした観点に立って、私たちは、被災後1か月半後にバンダアチェとその周辺地域に入り、爾来7回の現地調査を通じて短中期的復興過程に関する定点観察を行ってきた。被災から4年が経過し、インドネシア政府の当初の復興計画では、住宅復興段階から生活・経済復興段階、そして都市基盤や社会インフラ復興段階に移行した。当初は復興の遅れが指摘されたが、例えば住宅建設について見ると、2008年12月末までに計画戸数を上回る12万7千戸余りがすでに建設され、少なくとも数量的には順調に復興が進んでいるように見える。この間、復興支援に大きな役割を果たしてきたNGOはその役目を終え、インドネシアの中央政府直轄の復興援助庁も権限を州政府に委譲し、2009年4月には完全に撤退する予定になっている。しかし、個々の被災地区に目を転じると、空き家がかなりの数に上ったり、上下水道などの生活インフラが未整備であったりするなど、深刻な問題を抱えるところも少なくない。こうした状況に関して、ここでは、被災者の視点に注目する。そして、課題として認識された問題の時空間変化を取り上げる。具体的には、被災直後、被災1年後、被災3年後の各時期において、被害程度の異なる被災地住民によって課題として認識された問題の時間的変化と地域的差異を分析する。また、課題解決に向けて、被災者自身が有益だったと評価した、復興支援に係る主要アクターとその時系列変化についても分析する。主なデータソースは、2007年12月に、私たちが地元シアクラ大学津波・減災研究センターと共同で行った質問紙調査である。この調査では、被害程度の異なる13地点を選び、クォータサンプリングとスノーボールサンプリングを併用しながら訪問調査によって690の有効回答を得た。主な質問項目は、被害程度、復興支援の受給状況、生活・経済状況、地震・津波に対する態度などであった。結論的に言えば、被災者自身は、多くの問題が時間の経過とともに解決されつつあると認識しているが、精神衛生、住宅、収入、公衆衛生など、そのペースが極端に遅いと思われる課題がいくつか指摘される。また、激甚被災地において特徴的な課題がある一方で、被害程度の差異にもかかわらず、ほとんどの地域で深刻だと認識されている問題もある。支援アクターに関しては、親戚や友人といった私的関係が重要性を維持している一方で、NGOが一定の役割を終えたにもかかわらず、それに代わる公的支援の担い手は明瞭ではない。最後に、こうした課題認識の背景にある、復興支援アクター間の関係をめぐる上位・下位の三角形として指摘された状況について考察し、「援助の上滑り」現象についても言及する。
  • 茗荷 傑
    セッションID: 109
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    はじめに
    茗荷・渡邊(2008)では有田郡広川町と函館市椴法華地区の事例から両者を比較しつつ、また、茗荷(2008)では青ヶ島の事例から災害と土地機能の回復について考察した。
    今回取り上げた北軽井沢一帯は、浅間山の天明3年の噴火で発生した鎌原土石なだれに襲われ大きな被害を出したことで知られる鎌原地区が含まれる地域である。特に六里ヶ原から押切場にかけての一帯は噴火以降長らく植生の侵入もなく、荒地の状態が続いていたが、草軽電鉄の敷設により機関車の火の粉から山火事が発生、その影響で植生侵入が助長された結果、急速に森林が形成されることとなり、現在のような別荘地開発へとつながっていったと考えられる。すなわち土地の機能は自然の回復力を待つのではなく、人為的な活動がそれと意図せず、回復させる可能性があるということが考えられるのである。
    北軽井沢と草軽電鉄
    北軽井沢の浅間山よりに広がる六里ヶ原一帯は天明の噴火によって吾妻火砕流に覆われた。六里ヶ原はそのほとんどが現在別荘地あるいは耕作地となっているが、浅間山近くの浅間白根火山ルート周辺は私有地であるにもかかわらず開発されずに残っている。これは特に周辺の景観を保存しようという殊勝な考えからではなく、単に浅間山に近すぎて開発しても売れないだろうという判断によるという。ルートから集落側には植生が侵入し森林を形成している。土地の者の話では昭和30年代には一木一草も無かったところに40年代になってちらほらと植生が侵入し始めたとのことである。また、同ルートから山側の地域は火口から半径4km以内の円内に入るため噴火時など入山規制が発動された場合には立ち入ることができない。
    草軽電鉄は軽井沢から草津をつなぐ目的で「本鉄道は、一面草津その他沿線の旅客を目的とするとともに、草津方面に出入する物資及び長野原・嬬恋・吾妻牧場付近より積み出す木材・薪炭・その他貨物輸送のため」「この地方の発展に資するところあらんとする。」(創立趣旨)敷設され、大正4年7月にまず軽井沢-小瀬温泉間が、続いて嬬恋までが大正8年に開業した。薪炭のほか白根山から産出する硫黄の運搬に大いに寄与し他とされている。その後大正13年に電化、大正15年に軽井沢―草津間が全面開通したものの、昭和37年に全面廃線となった。ナローゲージの軽便鉄道であったが(写真・1)蒸気機関車時代にはよく火の粉が飛んで野火を出していたという。
    土地機能回復の過程における可能性
    六里ヶ原に植生が侵入し始めた時期と鉄道が敷設された時期が一致しているためにこの山火事が六里ヶ原の植生回復に寄与したのではないかと考えた。資料によると草軽鉄道は六里ヶ原よりもおよそ1km東よりの地域を走っており、天明の噴火で直接被害を受けた地域を縦貫しているわけではない。当時の写真絵葉書を見ると軌道周辺には森林の存在が確認できる。したがって山火事により地表が露出した状態が続くと、表土が移動しやすくなり、その結果徐々に植生は西側へと移動していくのではないかと考えた。南端部分は黒豆河原と呼ばれ現在も植生はほとんど見られないのであるがこのあたりは天丸山が草軽電鉄の軌道との間に横たわっているのである。従って軌道敷設の影響を受けたとは考えにくい。昭和50年に撮影された航空写真(写真・2)からは別荘地周辺の植生の前縁は現在の状態よりも明らかに別荘地よりの位置にある。
    今回は六里ヶ原、押切場周辺の現在の植生及びその侵入状況や野火の痕跡などの調査と土壌分析にもとづいてその可能性の検証を行う。
  • 辰己 勝, 角 克明, 東 善広, 西野 麻知子, 中島 拓男
    セッションID: 110
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに  本発表では、2007年度より開始した滋賀県琵琶湖環境科学研究センターのプロジェクト研究「湖岸生態系の保全・修復および管理に関する研究」のうち「環境変遷調査(土地条件)」の成果の一部を報告する。琵琶湖湖岸の土地条件の調査は、1989・1990年に滋賀県琵琶湖研究所(当時)のもとで行われ、筆者も調査と報告書の作成に関わった。2007年度の調査は、前回の調査以降の20年間の湖岸の変化を調べ、変化の要因や、現在の湖岸の実態を明らかにすることであった。ここでは、今回の現地調査の結果から、特に、近年その改変が著しい南湖沿岸を中心に報告する。
    2.研究方法  湖岸地形の類型については20年前の報告書で示されているものをベースとした。「山地部」と「平野部」に二分したのち、_丸1_ 第1段階として、「山地部」は山地ごとの区分、「平野部」は平野の形成に関与した河川ごとの区分を行った。_丸2_ 第2段階は「山地部」は山地と崖錐に区分、「平野部」は現河口部、その他の湖岸、人工湖岸に区分した。_丸3_ 第3段階では「山地部」は各山地と各崖錐に区分、「平野部」は三角州、氾濫原、扇状地などの平野の特性と、湖岸での砂堆の有無、デルタの形状、人工湖岸などで区分し、湖底地形も考慮した。この結果湖岸は13の類型に分けられた。 今回、当時と湖岸がどのように変化したか調べるため、全域を踏査した。その成果は湖岸地区の5,000分の1地形図110枚に湖岸の状況を記入した。あわせて、前回使った100mごとのポイントをもとにした、湖岸の現況を区分図にまとめた。
    3.結果  変化のきかったのは大津港から瀬田川までの大津市街地である。ここではほぼ連続した階段状の石積み湖岸となっている。埋立て部分にはびわ湖ホールやホテルなどの建築物のほか、遊歩道や公園などが整備された。湖岸は、大津湖岸なぎさ公園(サンシャインビーチ)のように小礫混じりの砂浜化された場所もある。一方、大きな変化はみられないものの、堅田丘陵前面低地から比叡山麓低地の湖岸では桟橋に変化がみられ、マリーナなどが増加している。20年前にもあった桟橋が新しく改造された事例も多かった。同時に、保養所やマンション、住宅地としての土地利用の変化も西岸の大津市を中心にみられた。
     湖岸堤は20年間にほぼ完成していたが、それが人工の湖岸になった場合 は、コンクリートと石積みで護岸整備されている。その前面に新たにヨシが育成され、砂地になった箇所もある。全体として、当時は石積みのみであった湖岸も、植生のある湖岸に変化している。
     今後の課題としては、湖岸の改変や利用形態をさらに詳しく調査し、湖岸の保全対策への基礎的資料を提供していきたい。     
  • 東 善広, 辰己 勝, 西野 麻知子, 中島 拓男
    セッションID: 111
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
     2007年の琵琶湖湖岸全域にわたる湖岸の土地条件調査結果のGIS化を行ない、地形、ヨシや樹木などの植生、人工的改変状況等の湖岸の形態と状況をもとに類型化した結果、琵琶湖湖岸は44種類に区分できた。北湖と南湖では、南湖のほうがコンクリート、石積み等で護岸された人工的湖岸が占める割合が大きかった。南湖に注目すると、西岸より東岸で人工湖岸化がより顕著で、西岸には、砂地やヨシ帯などが比較的多く残っていることがわかった。人工的湖岸は、コンクリート護岸が最も多いが、石積み護岸も約30%を占め、石積みによる人工護岸化も多用されたことがわかる。また、西岸より東岸のほうで石積み護岸の人工的湖岸に占める割合がやや大きくなっていた。
     1940年代末の米軍航空写真からの抽水植物帯判読結果からは、かつては東岸において抽水植物の分布域が大きく位置していることがわかった。南湖東岸は、歴史的にはヨシ帯が卓越していた地域であり、近自然工法による石積み護岸だったとしても、異なった構造の湖岸に変わったことには違いなく、在来魚等の生息環境に大きな影響を与えた可能性がある。
     今後の琵琶湖湖岸の再生は、地形特性など、元来、その地域が有していた固有の湖岸環境についても考慮することが必要だと考えられる。
  • 鈴木 晃志郎, 鈴木 玉緒, 鈴木 広
    セッションID: 201
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    _I_.概説
    発表者らは,文部科学省からの研究助成(研究代表者 鈴木晃志郎:『「開発=保全」問題に直面したコミュニティにおける住民意志決定のメカニズム』(課題番号: 20700673)を得て, 2008年10月下旬,公共事業に対する住民の態度を明らかにすべく住民意識調査を実施した。本発表は,その結果の一部を速報として公表することを目的とする。
    フィールドは福山市鞆町(=鞆の浦)。昨2008年に公開され,140億円の興行収入をあげた映画『崖の上のポニョ』を,宮崎駿監督は鞆の浦で構想したとされている。このため,鞆の浦は「ポニョの海」として一躍脚光を浴びた。街が抱える港湾架橋問題もまた全国区の知名度を獲得し,『ポニョの原風景が開発で・・』(TBS:10/23)と題する特集が組まれるなど,架橋に対しいっそう厳しい視線が注がれるようになった。

    _II_. 問題点の整理
    沼隈半島の南端に位置する福山市鞆町は,城下町特有の細く入り組んだ街路網と狭小な地勢から,慢性的な交通渋滞,船舶の不法係留,駐車用地不足,下水道の未整備などの受苦を長年に渡って被ってきた。1983年,それらの解消を謳って広島県と福山市が計画したのが,港湾架橋計画(正式名称:鞆地区港湾整備事業)である。
    この種の公共事業が社会問題化するとき多くの場合は,住民(と有識者・文化人)がスクラムを組み,いわば悪玉的存在の行政・企業の地域開発や公共事業を阻止しようとする,といった図式で語られる (長谷川2003)。しかし鞆町の場合,少なからぬ数の住民は,長年に渡る数多の受苦から解放する事業として,むしろ歓迎してきた一面がある。
    鈴木ら(2008)は各種資料の分析および聞き取り調査をもとに,(1)リーダーの交代によって架橋反対運動の戦略が劇的に変わった,つまり外部有識者や学識経験者,全国レベルの募金や署名活動などを有効に活用し,いわば「外からの声」で事業の白紙撤回をめざす方法になってきたこと,(2) このとき全国から反対の声を挙げたのは,歴史的建築や土木遺構などハード面の景観を専門とする有識者や文化人が多く,鞆の価値が特定の側面からのみ測定される契機となったこと,を明らかにした。一方,多数派であるらしい推進派の声は全く外には届かず,その理由は(3)鞆の社会風土が持つ年功序列・家父長制的な性格と,強固なウチ/ソト意識により,そもそも鞆町内の問題で外部の者に同意を求めるという意識が働かなかったためらしいことも分かった。
    推進派は,数度に渡る署名活動の結果をもとに,住民の8~9割は計画に賛同していると主張する。反対派は,署名による意志確認は踏み絵に等しいとし,全国からの10万を超える署名や,研究者及びICOMOSによる学術的価値づけを根拠に,事業の撤回を主張する。
    このような水掛け論は、なぜ続いてきたのか。我々は,可能な限り第三者的な立場に立って,科学的な手続きに則って住民意識調査を実施しようと考えた。

    _III_.調査概要
    調査方法と実施状況は以下の通り。
    ・実施日時:2008年10月23~29日
    ・調査形式:訪問配布・訪問回収方式(自記式)
    ・標本抽出:選挙人名簿使用。有権者4434人中600人を無作為抽出(等間隔抽出法:拒否の意思表示がない場合のみ,予備サンプル32名から補充)。
    ・有効回答数441,回収率73.5%(予備標本を含めると69.8%)。
    ・構成比:男性46%,女性54%,高齢者(65才以上)46%

    文 献
    長谷川公一2003. 環境運動と新しい公共圏. 有斐閣.
    鈴木晃志郎・鈴木玉緒・鈴木広2008. 景観保全か地域開発か. 観光科学研究1: 50-68.
  • 森嶋 俊行
    セッションID: 202
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに  1990年代以降,行政において「近代化遺産」「産業遺産」の保存と活用が推進されている.近代化遺産の保存活用が特に争点となるような地域は,企業城下町を形成していた中核企業が撤退したり立地調整を行うことで,地域産業の大転換が行われるとともに,多くの近代化遺産が取り残されるか,取り壊されようとしている地域である.本研究においては,このような地域における近代化遺産保存活用運動が,どのような経過を経て発生,進展し,地域における各主体がどのように近代化遺産を価値付け,どのように行動し,他主体とどのような関係をもつことによって,現状における近代化遺産保存活動が行われているかを明らかにする.この際,特に,旧中核企業の地域政策と,これに対する行政や市民の反応に特に注目する.これは,この問題が,文化財保護運動の中で近代化遺産に特有の問題であることによる. 2.研究対象事例地域  本稿の研究対象地域,大牟田・荒尾地域は,江戸時代末期より1997年まで三池炭鉱が存在し,当該地域は明治時代よりエネルギー革命期まで,三井鉱山を中心とする三井財閥・グループの企業城下町として発展した.エネルギー革命後,当該企業グループは,何度かの人員削減などの合理化を経て当該地域における事業を縮小し,現在,当該地域における当該企業グループ関連就業者の割合などは,小さいものとなっている.一方で当該企業グループは,当該地域において多量の不動産を所有していたが,当該地域からの事業撤退によりこれらの不動産の多くは遊休化し,処分されることとなった.この処分過程における近代化遺産の解体は,当該地域における近代化遺産保存活用運動を発生させた.この運動は,自治体が,企業より,近代化遺産を含む不動産を買い取り,直接所有することによって近代化遺産の保存・活用を行う,という形で具現化した.この買い取りにあたって国の文化財保護政策・産炭地域振興施策に基づく財政的援助が大きく影響した.自治体は炭鉱閉山時,「脱炭鉱」産業政策の一つとしてテーマパークの運営を中心とする観光振興策を行っていたが,この破綻に前後して,観光政策・文化政策の柱の一つに近代化遺産保存活用施策を位置付けていくこととなる.同時期,地域商工業者団体による近代化遺産の買取や,インターネット上の当該地域出身者の集まりを起源とするNPO法人による近代化遺産保存活用運動の発生などが起こる.当該地域においては,合理化のさなかで発生した1960年の三池争議,1963年の三川坑粉塵爆発事故など炭鉱の「負の歴史」が市民に共有され,炭鉱の記憶は正負双方が入り混じるものとなっている.自治体の政策,商工業者団体の運動,NPO法人による運動は,これらの歴史を含めた炭鉱の記憶を保存し,企業の不動産処分計画に対し近代化遺産の保存を求めていくものである,という点は共通している.これに対し企業は,「当該地域の遊休不動産はすべて売却する」という方針を掲げ,経営不振もあいまって遊休不動産の処理を進めている一方で,売却価格の引き下げや,売却の一時的保留といった形で,近代化遺産保存に関する負担を間接的に負っている.この負担は自治体の要望に対応する「地域貢献」の負担と位置付けられるものであり,企業が独自に近代化遺産を活用しようという意思は見られない. 3.おわりに  本研究においては,企業の地域における施策と自治体の政策に地域諸主体が関連しつつ,地域における現在の近代化遺産保存活用状況が成立している様子を示した.ここに見てきたように,近代化遺産の保存活用の様態は,企業の歴史的な地域政策,及び自治体の観光政策・文化政策に強く影響されている.特に近代化遺産は,企業の「経営の論理」及び「地域政策」によりそのありようを大きく影響されるものであり,今後より具体的なこれらの関連について深く研究されるべきものであると考える.
  • 佐藤 正志
    セッションID: 203
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     財政の逼迫化と多様化する問題対応への行政組織の柔軟性の不足から,現在公共運営では,住民や非営利組織を代表とするサードセクターなどの様々な性格を持つ主体の関与が重視され始めている.活動の分野においてもサービスの供給にとどまらず,地域振興の計画や施行といった自治への積極的な関与が全国的に進められるようになった.
     しかし,サードセクターに対しては,資金面を中心とした組織の脆弱性が指摘されている.サードセクター組織と行政との連携では,政府からの資金面でのつながりの必要性が指摘される.しかし,現在進められている財政の削減が,サードセクターの活動と展開に与えた影響は日本においてはまだ議論が少ない.財政削減は,特に小規模自治体での公共運営に強くインパクトを与えることから,サードセクターの活動への影響が考えられる.
     本発表では,資金面および活動に対する主体の関与という二点に焦点を当て,行財政の効率化の中での住民活動内容の変化の実証を通じて,行財政の再編が住民を中心としたサードセクターの活動とその展開にもたらす影響を考察する.対象事例として,山間部の小人口自治体であり,1990年代半ばから住民参加を進めた鳥取市鹿野地区(旧鹿野町)のまちづくり事業を取り上げる.

    2.鹿野町における住民参加の展開
     合併前の旧鹿野町においては,1994年に町長が中心となって策定した「街なみ環境整備事業」が住民参加の契機となった.「街なみ環境整備事業」の推進には,建設業組合への事業推進への依頼や,鹿野地区の各町内会への建築物の意匠決定を通じて,事業が開始された.
     建築物や道路の修景が進んだことで,1998年ごろから商工会や町内会を中心とした住民組織が独自の修景事業を行うようになった.2000年には,町内団体が計画した鹿野地区の修景計画が鳥取県の街なみ整備コンテストで最優秀賞を受けた.この受賞を受けて,町内の各団体がまちづくりを行う団体を自主的に2001年に結成する.2003年には鳥取県のNPO認証を受け,住民の代表的な主体として,まちづくり事業に加わるようになった.

    3.市町村合併前後でのまちづくり活動の変容
     財政の逼迫を理由に,鹿野町は2004年11月に鳥取市への編入合併を行った.合併後のまちづくり活動はNPOが中心となっているが,その活動内容は大きく変容している.合併前には,NPOは鹿野町や鳥取県からの補助金を主要な歳入源とし,建築物改修を基幹的な事業としていた.しかし,合併後は,物販や飲食店の運営などの自主事業へとシフトした.また,歳入もこれらの事業からのものが中心となった.一方,補助金の歳入も,鳥取市や鳥取県の削減がなされる一方で,新たに省庁や大学が実施する事業への公募や協働事業の実施といった,広域スケールからの確保に転じている.また,対象分野も,ハード面ではなく,イベント事業の開催などの分野が中心となっている.
     この背景には,合併後の鳥取市による補助金の削減や,合併後の地域振興を期待された第三セクターが活動を町内の施設運営と雇用の確保に限定しており,鹿野地区への資金面の流入がほとんどないことがあげられる.合併後,鹿野地区におけるまちづくり活動はNPOが中心的な主体となっており,活動の継続のため,自主事業や広域的な資金源の確保への転換を進めた.
     こうした資金の変化に伴うまちづくり活動内容の変化に対して,活動に関与する町内の住民組織は,合併後にイベント運営や修景事業においてNPOを中心として,第三セクターを含めた鹿野地区内に存在する町内会や各種団体との間で,運営協力や人的資源の提供などが行われている.こうした関係は,合併後に作られた総合支所内に設けられた委員会によって調整が図られており,イベントや修景事業の内容によって参加する主体が変化する.
     また,NPOは国土交通省や大学といった広域に存在する主体との間でも資金面以外で,活動への助言や,共同のシンポジウムの開催などのまちづくり活動の共同実施が行われている.特に国土交通省との事業の実施体制は,その関係を媒介として,中国地方を中心とした他市町村からの視察の受け入れを増加する契機となった.しかし,鳥取市本庁との間では,まちづくり活動における関係をほとんど持たないことが示される.
  • 伊藤 慎悟
    セッションID: 204
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     近年、大都市郊外地域では、人口高齢化への関心が高まっており、地理学分野でも多くの研究成果が上げられている。伊藤(2008)では、神奈川県内で1960年代後半に開発された民間の戸建住宅団地を取りあげ、居住者の年齢構成が入居当初から異なり、それがその後の高齢化に影響を及ぼしていることを明らかにした。
     そこで、本研究では神奈川県での事例研究を踏まえ、他地域の戸建住宅団地でも同様な傾向がみられるかを検証することを目的とし、仙台市を対象に1960年代に開発された戸建住宅における高齢化状況と、その差異について報告する。
    2.研究対象地域
     研究対象は、旧泉市(現泉区)を除く、仙台市にある1960年代に開発された住宅団地とした。
     選定理由として、東北地方の広域中心都市である仙台市には、1960年代を中心に市域人口が急増し、多数の住宅団地が開発されたこと、住宅団地に関する調査報告書が存在すること(仙台市1971『住宅団地調査結果報告書』.)(フルタプランニング『仙台圏分譲地と住宅の案内』)、都市構造や高齢化(人口構成)に関する研究がかなり蓄積されており、これらの事例結果を踏襲できることが挙げられる。
     研究対象とした住宅団地は、現泉区を除く仙台市内にある民間(一部公営)の戸建住宅団地である。開発年次は、1960年代に開発された21団地(1960年代前半11団地、後半10団地)を対象とし、年度別入居者のピークが1966~1971年のいずれかに該当するもの(仙台市『住宅団地調査結果報告書』より)を選定した。これらの団地は、いずれも国勢調査の調査区別集計から経年比較が可能なものであり、さらに1995年以降の町丁字別集計にもある程度対応できる範囲とした。団地の規模はいずれも100~1,000戸程度である(フルタプランニング『仙台圏分譲地と住宅の案内』より)。
    3.分析結果
    (1)対象団地の年齢構成と高齢化状況
     仙台市の住宅団地は、1975年時点で平均年齢29.0歳、高齢(65歳)人口比率3.6%と、神奈川県の住宅団地のそれとほぼ同じであった。2005年には、平均年齢46.5歳、高齢人口比率27.4%となり、高齢化は着実に進んでいるが、神奈川県と比べやや低くなっている。
     5歳階級別人口比率に関しては、神奈川県でみられたような、0~9歳の子(第2)世代と、30~44歳の親(第1)世代が大きな山を形成するような年齢構成にならず、団地によって差異が大きくみられた。
    (2)対象21住宅団地間の差異
     χ二乗検定によって、今回対象とした住宅団地の5歳階級別人口比率は1975年、2005年ともに同じでないことが証明された。一方、開発時期が1960年代の前半11団地と後半10団地との間で同様に5歳階級別人口比率を比較したところ両者の間に明瞭な差異はなく、一元配置の分散分析より、両期間の差異よりも、同期内での住宅団地の年齢構成の方が差異は大きいことが判明した。したがって、本研究では前後期に分けず、21住宅団地をほぼ同時期に開発された住宅団地として扱うこととした。
    (3)各団地における年齢構成の類型化と居住地・居住者属性
     ここでは、各団地の1975年の5歳階級別人口比率から、いくつかのグループに分類し、年齢構成と人口以外の要素(居住者・居住地属性)との関連を明らかにする。
    また、各団地における高齢化の進展状況についても団地ごとの類型化を試みている、分析結果の詳細については、発表時に解説する。
    文献
    ・伊藤慎悟2008.民間戸建て住宅団地における高齢化の差異―神奈川県を事例として―.地理科学63:25-37.
  • 鈴木 重幾
    セッションID: 205
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     平成18年7月の厚生労働省推計では,わが国の肢体障がい者数は約170万人にのぼり,身体障がい者全体の約半数にあたる.肢体障がい者は外出に際し,介助者が同行したり経路に関する情報をあらかじめ得ていたりする場合は,健常者とほぼ同様の行動が確認された.対して個人での移動を余儀なくされる場合,事前の情報取得や自らの安全確保などにおいて,いかなる状況下で健常者と異なるかを考察した.
    2.研究対象地域
     本研究は,東京都八王子市にある身体障害者通所訓練事業所(以下訓練所)で行い,この事業所に通う所員のうち,重複障害を除く先天性の肢体障がい者を対象とした.
    3.概要
     当該身体障害者通所訓練事業所(以下訓練所)は,理学療法ではなく,障がい者の自立支援のための社会的訓練所であり,最終的には社会参加を目標としている.所員のほとんどが脳性麻痺による最重度(第一種1級)の肢体不自由を患っており,症状は体幹機能障害や両上肢・下肢機能障害,移動機能障害などである.日常の移動に際し,屋外では電動車いすを使用している.
     健常者を対象とした認知地図の作成などは,心理学・地理学でも多くの調査研究がなされており,障がい者の行動に関しても,視覚障がい者の空間認知については研究がなされている.肢体障がい者に関しても,場所を特定した環境評価やバリアフリーチェックなど,工学・地理学でも多数の研究がなされている(二口・宮澤,2004).
     バリアフリーということばから連想される語に段差がある.段差は自然環境下では無数に存在し,その置かれた状況からバリアフリーを唱えられることはない.しかし都市部では自然・人工を問わず,空間システムを形成する地物の一部と考えれば,物理的に大きな障壁になる.ただし,現実的には孤立無援のような極端な状態でない限り,人的介在により乗り越えられている.
    4.研究方法
     訓練所の所員13名に聞き取り調査をした.内容は,年齢,性別,発症時期,現在の症状,家族構成,介助者の有無,居住地,住居形態,居住の時期,最終学歴,移動補助具,おもな交通手段,外出の頻度,目的地,移動手段,介助者の有無,行動の判断基準などについて聞いた.
    5.結果
     対象者は,上肢が不自由であるため認知地図そのものを描写できないが,思考的には断片的に描いている.全員が出生後すぐに発症しており,幼児期から自らの意志や力で移動することが出来ない状態で成長した.大半は,外出に際し介助者を同伴し,相談の上で目的地を決定しているが,おもに建造環境に関する予備知識を得ている場合は単独で行動する場合もある.バリアフリーに関しては,物理的障壁の排除となるハード面の整備・進展に満足する一方で,ソフト面の削減を懸念しており,とくに視覚情報の整備には,ほとんど関心を示していない. 健常者では,直進性や金銭的負担,上下動などが優先される場合が多いが,対象者では安全性にとくに重点を置き,そこから知己,習慣,好奇心,非日常のものへと移行していき,その後で時間,費用,労力等が確認された.
    参考文献
    二口絵理子・宮澤 仁 2004.バリアフリー・マップの現状と下肢不自由者の情報要求からみたその有用性.地図42(3): 1-10.
  • 長沼 佐枝, 荒井 良雄
    セッションID: 206
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1はじめに 近年,大都市圏では都心回帰現象に社会的関心が集まっているが,地方中核都市においても都心回帰の兆候が確認されている.都心回帰は郊外住宅地の衰退と裏表の関係で起こっている可能性が否定できない現象である. すでに大都市圏の郊外では,子供世代が地区外へ転出している住宅地が少なからずあるが,その一方で,都心部では大量の集合住宅が供給されている状況がある.こういった都心部の住宅に転入してきた人々は,将来的な住宅市場の動向を考えるに当たって,極めて重要な意味を持つ.しかし,データ上の制約が大きく,彼らの実態解明は進んでいないのが現状である.そこで,本研究では,福岡市を事例に既存の統計データと住民へのアンケート調査から得た独自のデータを使用して,都心居住者の実態を把握したい. 2分析方法  都心回帰がおきている地区を把握するために,過去の人口増減の分析を行った.具体的には1975~1980年に人口が1000人以上減少したメッシュと,1995~2000年に人口が800人以上増加したメッシュが重なって現れる範囲を算出し,この地区を人口回帰現象が起こっている地区であると見なすこととした. 次に,これらの地区のうち集合住宅が卓越する都心部にある4地区(薬院1丁目・薬院2丁目・薬院3丁目・平尾1丁目)を選出し,アンケート調査を行った.主な調査項目は,住民の属性・出生地・居住経歴・居住年数・住宅の取得状況・将来の居住意向・市外および県外からの転入者の場合は福岡市への転入経路などである.調査は,対象地区の全10,605世帯へ調査票を配布した.調査票は,郵送による配布・回収を行っている.回収数は893,配布数に対する回収率は8.4%,住民基本台帳における世帯数(6,770)に対する回収率は13.2%,国勢調査の世帯数(7,386)に対する回収率は12.1%である. 3調査結果の概要 居住者の96%(N=879)は集合住宅に住んでおり,分譲・賃貸に住む者はほぼ同数であった.分譲・賃貸を問わず福岡市内出身者は30%程度であり,多くは福岡市以外の福岡県や九州各県の出身者で占められていた.特に分譲に関しては,若い世代ほど,福岡市内出身者の割合が高い傾向が見られた. 次に入居の時期を見てみると,1995年以降に入居した者が多く,賃貸に関しては2004年以降の入居が顕著であったことから,住民の多くは地付きではなく,最近になって地区内に転入してきたとみられる.また世帯主の入居時の年齢を見てみると,賃貸では35歳以下の若い層の入居が目だったのに対して,分譲は30歳代後半~60歳代まで幅広い年代が入居する傾向が確認できた.   さらに入居者の居住歴を追うと,進学・就職で福岡市外から市内へ転入する流れに加え,初就職後に福岡市内へ転入する者が相当数いることが確認された.ここから,転勤や転職により福岡市にした者が,そのまま市内に定住した可能性が示唆される.  4その他 本研究は,東京大学空間情報科学研究センターの共同研究「少子高齢化時代における地方中核都市の人口構造の特質と住宅市場の将来像」(代表者:荒井良雄)・鹿島学術振興財団(代表者:荒井良雄)・科学研究費補助金(代表者:長沼佐枝)からの支援を受けている.
  • 永見 洋太, 若林 芳樹
    セッションID: 207
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1.問題の所在と研究の目的
     生態的アプローチの台頭に伴って,近年の空間認知研究では障害者,子ども,外国人など特定の集団に対象を絞って空間認知の多様性や状況依存性を捉える試みが盛んになっている.その一環として,ナビゲーションに熟達したタクシー運転手の空間認知に着目した研究が蓄積されてきてきた.従前の研究では,タクシー運転手の認知地図が2つのレベルの階層構造をもっていること(Pailhouse 1970; Chase 1983),タクシー運転手でも運転歴が長いほど認知距離や経路の知識が正確であること(Giraudo and Peruch 1988),タクシー会社の運転手と事務員とでは直線距離認知では差が小さいものの,運転手は経路距離を短く見積もる傾向があること(Peruch et al. 1989)などが明らかになっている.しかし,タクシー運転手といっても,ロンドンのように厳しい試験を課している都市もあれば,移民労働者が多く従事する都市もあり,時代や地域の状況によって運転手の空間認知やそれに作用する要因にも差があると予想される.そこで本研究は,東京のタクシー運転手を対象にして,営業地域の地理的知識の獲得過程と空間認知を調査し,カーナビなどの新技術の導入状況や輸送行動の実態をふまえて,その特徴を明らかにする.
    2. 研究の方法
     東京のタクシー事情と運転手に対する各種研修の実態を知るために,東京指定地域(東京特別区・武蔵野市・三鷹市)の法人タクシーを管轄する東京タクシーセンター,東京乗用旅客自動車協会,および法人タクシー事業者7社への聞き取り調査を行った.その上で,タクシー運転手の地理的知識と空間的行動の特徴を明らかにすることを目的として,運転手と大学生47人ずつに対して,東京中心部の主要地点の位置関係を尋ねるアンケート調査を実施した.また,運転手に対しては,運転歴や輸送行動,カーナビ利用などについても質問を行った.空間認知に関する調査結果は,ユークリッド回帰などを用いて定量的な分析を行い,運転手と大学生とで比較した.
    3.タクシー運転手の地理的知識の獲得
     2001年の道路運送法改正に伴う規制緩和の影響を受けて,全国的にタクシー車両は増加傾向にある.しかし東京指定地域内では,安全性とサービス水準の確保のために,1970年以来,新任のタクシー運転手には,東京タクシーセンターが実施する「地理試験」に合格した上で新規講習を受講することが義務づけられている.この試験は2001年から難度が高まったこともあり,近年の合格率は50%を下回っている.合格後は,各事業者が行う研修を経て輸送業務に従事することになるが,東京指定地域で営業するタクシーは,「都内交通案内地図」というタクシーの運行に特化した地図帳を携帯することになっている.また,カーナビを搭載したタクシーも2007年には68%に達している.タクシー運転手は,こうした地図帳や新技術を活用しながら輸送業務に従事し,東京の地理的知識を獲得していく.
    4.タクシードライバーのカーナビ利用と空間認知
     アンケート調査に回答した47人の運転手のうち,6割以上がカーナビを積極的に利用しており,カーナビの導入によって道路地図帳を使う機会が減ったと回答した者も半数近くにのぼった.また,「客の安心感が高まって苦情が減った」「運転経路を選ぶのが楽になった」などの回答から,乗客と運転手の双方にカーナビ導入の効果がみられたことがわかる.ただ,一部の回答者は,運転手の能力に不安を感じる客が増えたという負の効果を指摘していた.タクシー運転手と大学生の空間認知を比較するために,都区部の主要駅の位置認知についてアンケート調査で質問した.その結果を分析すると,運転手と大学生の認知地図にみられる歪みの傾向は類似しているものの,地点間の相対的位置関係については,タクシー運転手の方が大学生に比べて正確さで優っていることが判明した.しかし,絶対的位置の認知では,顕著な差がみられなかった.これは,カーナビ利用が影響している可能性もあるが,タクシー運転手が乗務経験によって獲得する経路の知識が,おもに認知地図の相対的正確さに反映されることを意味している.
  • 久木元 美琴
    セッションID: 208
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    はじめに
    1990年代以降,少子化は社会問題として広く認知され,子育て支援はますますその重要性を強めている.特に近年では,孤立した親の育児不安や児童虐待が取りざたされ,育児ネットワークの構築や情報交換の重要性が指摘されてきた.
    こうした育児ネットワークの構築,サポート資源の獲得は,結婚や出産を機に自らの出身地とは離れた別の地域へと移動したような場合,きわめて重要である.とりわけ,夫の海外駐在の随伴移動や国際結婚による定住で,海外での育児を経験した母親にとって,それはますます大きな問題となりうる.育児をとりまく日本との文化的・制度的相違に加え,サポート資源として重要とされる祖父母のサポートを得ることが難しいからである.
    しかし,これら海外居住の日本人女性が,育児に関する情報をどのようにして獲得し,いかに現地のサービス利用やネットワーク構築を行っているかについては,必ずしも明らかにされていない.これらを明らかにすることは,育児ネットワークの構築やサポート資源の獲得が,国境を超えた遠隔地においてどのように実現されるかを考察する上で一定の示唆を与えるだろう.
    さらに,中澤ほか(2008)は,海外就職の独身女性を対象に彼女たちの国際化の経験の内実を明らかにしたうえで,多様な主体の海外移住の経験の描出と,そこにみられる相違を整序していく必要性を指摘している.本研究では,こうした視点を踏まえ,海外居住とそこでの育児を経験した日本人女性の現地でのネットワーク構築や育児観,日本との関係性といった点にも接近してみたい.
    目的と方法
    本研究では,海外駐在員妻や国際結婚妻など,海外居住と育児を経験した日本人女性が,現地でいかなる育児ネットワークを構築しサポート資源を得てきたかを明らかにすることを目的とする.その際には,現地でのネットワークとともに日本との関係性,使用されたコミュニケーション・ツールに注目する.
    調査方法は,海外での出産・育児を経験した日本人女性へのアンケート調査とインタビュー調査による.海外居住の日本人ネットワーク組織は数多く存在するが,ここでは,協力の得られた以下の団体を通じ,調査を実施した.すなわち,パリ日本人会内の子育てサークル「SOSママクラブ」と,日本語を含む様々な言語での教育を提供するリヨン国際学園である.
    非英語圏であるフランスでは,言語の側面において日本人移住者にとって育児ネットワーク構築がより困難であることが予想され,そのような環境下での育児ネットワーク構築と母国との関係性,情報獲得の現状を明らかにすることには一定の意義がある.さらにフランスは,家族政策の充実により出生率を回復した国として知られており,そこでの外国人である日本人が,現地の制度をどのように活用しているかを明らかにすることは,日本における今後の育児支援体制を議論する足がかりになると思われる.
    調査概要
     アンケートは,現地で0~6歳の子供の育児を経験した日本人の母親を対象として,2008年11月から12月にかけて配布・回収された.配布数は91,回収数は16である(回収率17.6%).アンケートでは,家族の国籍や本人の海外生活経験の有無,言語の習得水準等の基本的な情報のほか,現地での保育・教育サービスの利用経験と頻度や費用,託児が必要になった場合に現地でどのようなネットワークを利用したか,第二子以降の出産や入院などといった困難の際に日本から祖父母を呼んだかについての質問項目を設け,現地でのサービス利用・サポート資源における日本との関係を把握する.さらに,現地での子育てについてどのような情報源を活用したか,現地での日本人ネットワーク,インターネット上での友人・知人,日本の家族・友人といった関係性によって,情報交換の内容と使用するコミュニケーション・ツールの違いを明らかにする.発表当日は,アンケート調査の結果とともに,2月に実施するインタビュー調査の結果をあわせて報告する.

    中澤高志・由井義通・神谷浩夫・木下礼子・武田祐子2008.海外就職の経験と日本人としてのアイデンティティ――シンガポールで働く現地採用日本人女性を対象に――.地理学評論81-3:95-120.
  • 清水 沙耶香
    セッションID: 209
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    本研究の対象地域は,横浜市鶴見区である.横浜市鶴見区は川崎市に隣接する横浜市内の北部に位置し,東京湾に面する.鶴見区の東部にある潮田地区,仲通地区には沖縄出身者の集住地区が形成されている.本稿では,南米からの帰還移民であることに基づいて,「日系人」を「南米へ移民し定住経験のある日本人,およびその子孫」と定義する.そして「日系人」のうち,本人または日系人としての祖先に沖縄出身者を含む日系人を「沖縄系日系人」,本人または日系人としての祖先が本土出身者である日系人を「本土系日系人」とする. 本研究では,日系人に対して,個人の移動動向に関する聞き取り調査,およびアンケート調査を行なった.沖縄にルーツをもつ日系人が鶴見区に集中する要因を明らかにするため,対象者を沖縄にルーツをもつ者,本土にルーツをもつ者と二分し,比較した.調査は,横浜市鶴見区周辺(鶴見・横浜地区)と,名古屋市港区周辺(名古屋地区)で行なった.名古屋地区に居住する日系人を調査対象としたのは,比較対照により,鶴見・横浜地区の日系人の居住地選択における特徴をより鮮明につかむことができると判断したためである.調査対象者は,全部で67人である.そのうち沖縄系日系人は20人であり,全て鶴見・横浜地区在住である.本土系日系人は47人であり,そのうち鶴見・横浜地区在住者は15人,名古屋地区在住者は32人である.調査結果は,聞き取りおよびアンケート結果の詳細から,抽出し,分析,考察を行なった. その結果は以下の通りである.まず,名古屋地区本土系日系人,鶴見・横浜地区本土系日系人,鶴見地区沖縄系日系人3者に共通するのは,「仕事」に基づく選択と,血縁,友人関係という「人的紐帯」の重視である.それに加え,鶴見・横浜地区本土系日系人と鶴見地区沖縄系日系人に共通して見られるのは,仕事の中でも特に「電気工事」,さらに「鶴見」に関する理由が挙げられた.そして,鶴見地区沖縄系日系人には「沖縄出身者の集住」に起因する理由と,人的紐帯の中でも「沖縄の地縁」による結びつきという理由が見られた. 調査結果をふまえた上で,居住地選択において特に重要と考えられる以下の6つの要素を抽出した.(1)「仕事」,(2)「人的紐帯」,(3)「電気工事業」,(4)「鶴見の地理的要素」,(5)「沖縄の地縁」,(6)「沖縄出身者の集住」,この6つの要素をふまえ,本章では沖縄系日系人が横浜市鶴見区に集中する要因を考察する.これらの6つの要素は,独立するものではなく,相互に関係をもつ.さらにこれらの6つの要素の関連性をふまえると,この6つの要素が生じた背景を,「日系人としての要因」,「沖縄に起因する要因」,「鶴見の場所に起因する要因」から明らかにすることができる.
  • 小野澤 泰子
    セッションID: 210
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに 東南アジアには歴史的に多様なエスニシティが共存しており、地域を越えて移動する民族の生活や変動する不確かな国境は19世紀の植民地時代以前は普遍的なものであった。西欧諸国による近代化により今日では国民国家の主体を担う民族以外は「少数民族」または「移民」としてとり扱われるようになったが、リスクを伴いながらも生活の手段として国境を越える人口の流動は常に行われてきた。 特に1980年代の高度成長期以降、東南アジア諸国において国境を越える出稼ぎ労働者が急増した。労働力「輸入」国となったタイには現在推定200万人にも及ぶ外国人労働者がいると推定されており、またその70%以上がミャンマー人であるとされている。 本研究では近年のタイにおけるミャンマー人コミュニティを対象に、コミュニティがどのように形成され発展してきたのかその要因と過程の解明を行うことを目的とする。またコミュニティの地域的特徴およびコミュニティ間の相互関係に関して考察を行う。 2.研究対象地域 研究対象地域はタイ国サムットサーコーン県マハーチャイ町及びその周辺である。首都バンコクの西に隣接しこの県はタイの重要な産業地帯でありとりわけ水産業の占める割合は高い。これらの産業に従事する同県の外国人労働者は2008年現在約7万4千人が登録されているが、その9割はミャンマー人である。また未登録者やその家族も含めると県内のミャンマー人人口は17万人に及ぶと推定されており、タイ国内でもミャンマー人人口及びその人口比率が最も高い県の一つである。  サムットサーコーン県の中心部のマハーチャイ町周辺地域には多くの船着場や水揚げ場、水産加工工場が立ち並んでおり、その付近には様々な形態のミャンマー人コミュニティが形成されている。 3.ミャンマー人コミュニティの特徴 ミャンマー人コミュニティは地域ごとに特徴が異なっており、主に漁業乗組員とその家族からなる「漁船乗組員コミュニティ」、水産加工工場に勤務するミャンマー人が集住する「水産業労働者コミュニティ」、水産業だけでなく様々な職種のミャンマー人が居住している「職業的複合コミュニティ」の3種類に分類することができる。 これらのコミュニティは県の歴史と近代化に伴う経済成長に影響を受けながら発展してきたため、それぞれ形成された時期が異なる。後期に形成されたコミュニティほど構成員の職業、世帯構成、年齢層、女性のステータス、エスニック・グループ等の面で多様化がみられる。特に職業的複合コミュニティにおいてはエスニック・ビジネスの展開も盛んであり、他のコミュニティを物質面で支援する機能をはたしている。しかしこれらの新しくできたコミュニティはタイ社会と対立傾向にあるため、古くからある同化の進んだコミュニティからタイ社会に適応するための支援を受けて成り立っている。このようにミャンマー人コミュニティは形成された時期と地域的特徴の差異だけでなく、機能面においても相互に支援しあうネットワーク構造を有していることが明らかになった。 【参考文献】 浅見靖仁2003.国際労働力移動問題とタイ―研究動向と今後の課題.大原社会問題研究所雑誌530:22-43.
  • 李 任官
    セッションID: 211
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    近年の中国朝鮮族社会はかつてのない人口移動に伴う様々な課題を抱えている。本稿では中国朝鮮族社会の現状と変化を地域研究という動態的アプローチで実証的に分析し、変化のメカニズムを解明すること、そして「龍井」という特殊な地区の事例を、中国各地における朝鮮族の移動と決して少なくてはない朝鮮族のエスニック地域変化の一例として位置づけ、朝鮮族社会に限らず地域全体に及ぼす影響に重点を置きたい。その対象地域を選んだ理由の一つ目としては龍井が中国国内で朝鮮族人口の割合が一番高い都市である一方で、中国朝鮮族の歴史・文化・教育との関係が深いことから、朝鮮族のエスニック地域の典型として十分なりうる。二つ目は、延辺の中で龍井地区の朝鮮族人口は減少傾向があり、朝鮮族社会の人口流出現象(国際人口移動を含む)がある程度反映され、その影響は無視できないほど深刻である。三つ目は、地理的に中国の東北の東に位置していながら、東北地区で現れた「東北現象」「新東北現象」などの影響を受け、背景的には中国朝鮮族の集中居住している東北の背景に似ていることで、全体の朝鮮族社会が直面した背景と問題の解釈に繋がりやすい利点がある。  本稿で扱うデータは人口移動が頻繁的であった1990-2005年の15年間を対象とし、国際環境の変化の中で考察を行った。龍井地区における「因私出国者」に関する統計は1991年から始まり、出国者数1991年の1600人から2005年には1.3万人に増加し、1991―2005年の15年間で龍井地区の出国者総人数は8.2万人以上で、龍井市総人口の26.1万人(2000年)の約三分の一を占めている。出国者の目的地から見ると韓国・ロシア・北朝鮮の三ヶ国への出国者が全体の97%以上を占める一方、出国者の目的地の分布も広がりつつある。出国者の目的(ビザの種類)を調べると「親戚訪問」が圧倒的に多い同時に増加の傾向が見られ、「就職」・「留学」のビザ種類は減少する傾向があった。そのほか、「国際結婚」「ビジネス」「労務輸出」などの多様な経路で出国する人が増えつつあった。 本研究は国際人口移動が地域に及ぼした影響を把握するために、都市部では出国経験者に対しアンケート調査を実施し、農村部では農村住民・関係者に対してインタビューを行った。 龍井地区の国際人口移動の特徴は朝鮮族をメインとする相対的に大規模であり、地理的近い日・韓・ロの三ヶ国へ移動がほとんどであり、地縁・血縁関係に基づいて増加しつつありながら、循環的な傾向を見せている。 移動者は職種に限らず幅広い分野に分布され、海外への移動は移動者個人にとっては地元の仕事を「やめる」選択に近いことであり、地域にとっては「余剰労働力問題」の解決に見えるが、結局は従業員比例の低下や人材流出の結果となり、「潜在の失業問題」に繋がる恐れがある。 海外での「高収入」は送金などの経路を通じて地元に流れ込み地域の消費を引っ張りながら地元の経済成長の面でメリットが存在する。だが、収入と消費と収入の格差を拡大させながら、地域にとっては職業の不安定と住民の海外への依存心理の並存をもたらし、再び出国を選択するなど、地域の国際人口移動の循環的なプロセスの要因にもなるだろう。 国際人口移動が龍井の農村部に及ぼした影響としては、農村部における人口減少とそれに伴う行政合併や学校の閉鎖などが挙げられるほか、農業従事者の人口の減少と住民の民族構成の変化、また農業従事者の変化に伴う農地経営方式の変化と農地の集中現象をもたらした。
  • 山下 清海, 張 長平, 張 貴民, 松村 公明, 小木 裕文, 杜 国慶
    セッションID: 212
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1978年末以降の改革開放政策の推進に伴い,中国では出稼ぎや留学などで世界各地へ出国するいわゆる「新華僑」(華人ニューカマーズ)が増加した。日本においても,1980年に52,896人であった在留中国人(中国籍保有者)は,2007年には606,889人となり,韓国・朝鮮人(593,489人)を抜いて,国籍別で初めて第1位となった。 本報告は,日本において急増してきた新華僑の日本への送出プロセスの解明を目的に進めている研究プロジェクト(山下ほか2008)の中間報告である。  福建省は,広東省,海南省とならんで東南アジアへの移住者を多数送出してきた地域で,特に海外華人の主要な出身地は,中国では「僑郷」(華僑の故郷)とよばれる(山下 2002)。 今回の発表では,2007年および2008年に福清市を中心に実施した調査にもとづいて,在日福清人の主要な出身地域の一つである福清市の僑郷としての地域性について報告する。 福清市における現地調査では,日本滞在経験者(不法滞在者を含む)から渡日の過程,滞日時の状況,帰国後の状況などの聞き取りに重点を置いた。また,日本在留者の留守家族,日本語教師,日本語学習者,日系企業関係者などを対象に聞き取り調査,資料収集を行った。
  • 張 貴民, 山下 清海, 張 長平, 松村 公明, 小木 裕文, 杜 国慶
    セッションID: 213
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    福建省は著名な僑郷(華僑の故郷)である。ここでは、福建省の中でも多くの出国者を送出してきた福清市を取り上げ、人口の外国への移動に伴う農村地域の変化とその特徴について報告する。
    1.福清市における新移民の動向
     福建省僑務弁公室1997年の調査によると、福建省では、1949~1996年の出国者は53.35万人で、そのうちの90%以上は1979年以降の新移民であった。改革開放以来の1979~1998年の出国者数は55.96万人であった。そのうち不法出国者は約22万人と推定されている(朱2001)。
     1979年以来、福州市と泉州市は福建省の新移民の84.2%を占め、福建省における新移民の主要な送出地になっている。福建省の新移民の約半分を占める福州市の中でも、台湾海峡に面している福清市・長楽市・連江県は特に多くの新移民を送出し、不法出国者も少なくない。
    2.福清市における農村経済
    福清市の総人口は123.1万人で、そのうち83.8%は農村人口である(2007年)。中心部の融城を除いて全体として都市化の程度はまだ低い。これに対して第1次産業は国内総生産の13.7%を占めており、その地位も低い。農業総生産の中では、漁業が44.0%、牧畜業が33.0%、農業が22.5%をそれぞれ占めている。1人あたりの耕地面積が少ないこと、海に面していること、都市化に伴う肉類や乳製品の需要が増加したことなどから、漁業と牧畜業が発展してきた。
     漁獲量の75.7%は海面漁業によるものである。海岸線は348kmで、海域は911㎢である。これは漁業の発展に良好な条件を提供したのみならず、福清人の外向的,開放的な性格を養ってきたといえよう。また、福清市の牧畜業は主に都市近郊型の養豚・養鶏・酪農である。
     2007年の農家の総収入(いずれも1人あたりのもの)をみると、給与は2600.95元、家族経営(農業・漁業・非農業など)による収入は3658.43元、資産運営による収入(投資や利息)は81.88元、贈与による収入は2213.57元である。給与収入には出稼ぎによる収入が含まれているが、出稼ぎによる収入は出稼ぎ先が遠くなるにつれて増加する傾向にあり、その約60%は外国から得ている(第1表)。また、贈与による収入のうち、88.5%は出稼ぎ家族からの送金である。
    3.福清市における農村の将来
    福清市における作物作付面積52,630haのうち食糧作物は24,850ha、非食糧作物は27,780haである(福建省統計年鑑2008)。商品性の高い作物の割合が高くなった一方、粗放的な利用や耕作放棄が至る所に見られる。若者の都市へ、さらに外国への流出によって、農作業は高齢者に頼るしかない。また、融城などの都市部を中心に約19万人の外来人口がいるが、農村地域でもイチゴ栽培などが外来人口によって行われている。外から豊富な送金は、農村地域からの人口流出や農業衰退に拍車をかけている。
  • 松村 公明, 山下 清海, 張 長平, 張 貴民, 小木 裕文, 杜 国慶, 呉 晨峰
    セッションID: 214
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    本発表では,福清市,とくに中心市街地を成す融城と,日本渡航の核心を成す龍高半島を対象に,日本への渡航経験を有する多様なUターン者の談話をとおして,特色ある住宅地景観の形成など,僑郷としての福建省福清市の地域変化について報告する。
  • 張 長平
    セッションID: 215
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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  • 遠藤 尚
    セッションID: 301
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに インドネシア、ジャワ島における農業、農村については、「緑の革命」の影響が顕在化した1970-80年代を中心に、各地において多くの詳細な事例研究が行われてきた。一方、これまで農業センサスやその他の統計について、郡やそれ以下の行政単位別データの整備、提供が不十分な状況にあった。このため、研究機関が行う大規模調査の結果などを入手しない限り、農業に関する空間的な分析や地域間比較は困難であり、地域的特性を考慮した事例研究間の比較検討も十分行われてこなかった。このような状況下、2006年から実施されたJICA「小地域統計情報システム開発プロジェクト」において、2003年農業センサス、名簿調査データの県、郡別データベースが整備された。本報告では、1970年代以降、ジャカルタ首都圏の拡大と著しい人口成長を経験してきたジャワ島西部を対象として、上述の郡別データを元に作付作物や農家の土地所有経営状況などの分布状況を検討し、2003年時点のジャワ島西部における農業の全体像を明らかにする。また、報告者が2001年以降、西ジャワ州、ボゴール県の1農村において実施してきた世帯調査の結果から、ジャワ島西部における農家の世帯経営状況についても言及する。
    2.対象地域の概要 ジャワ島西部は、ジャカルタ首都特別州、西ジャワ州、バンテン州から構成され、特にジャカルタとその周辺地域はJABOTADEBEKと呼ばれる首都圏を形成している。2005年現在、ジャカルタを除く2州についても、1,110人/km2というジャワ島内でも人口密度の高い地域となっている。また、2000年時点で、西ジャワ州では就業人口の31%を農業が占め、ジャワ島内の水稲生産量の約35%、サツマイモ、ネギ、ジャガイモ、キャベツなど主要な野菜の50%以上が産出されている。
     世帯調査の対象地域であるS村は、ジャカルタから南へ約60km、ボゴールから南西へ約10kmに位置するサラック山麓の農村である。2000年時点で、当村の世帯主の主職業の68%を農業が占めており、主な生産物は水稲、トウモロコシ、サツマイモ、キャッサバ、インゲンなどである。
    3.ジャワ島西部の農業と農家の世帯経営状況 作付作物や農家の土地所有経営状況に関する農業センサスデータの分布状況は、水野(1993)が1970年代の農業経済調査所による調査結果から抽出した3つの土地所有階層構造類型と概ね一致していた。すなわち、土地所有の分化が進んだ水田稲作地帯である北海岸平野部、土地経営規模が非常に零細で北海岸平野部ほど分化が進んでいない水田稲作地域、プリアンガン高地盆地部、そして土地の自己所有地率が非常に高く、大規模所有がほとんどみられない畑作主体のプリアンガン高地部という分類である。ただし、農業センサスデータでは、首都圏と重なるジャカルタ周辺にこれらの3分類とは異なる農業の展開がみられた。ジャカルタ周辺では、園芸作物生産、畜産・家禽飼育、水産業に従事する農家の割合が、稲作農家の割合よりも高い地域が形成されていた。また、ジャカルタから南下する高速道路沿いには、畑作物生産農家の割合が20%以上と他地域よりも高く、より粗放的な農業が行われている郡も認められた。農業センサスに生産量に関する項目は含まれていないため、このようなジャカルタ周辺における農業が、ジャワ島西部、そしてインドネシアの農業に占める位置づけについては今後の課題である。
     世帯調査の対象地域は首都圏の縁辺部に位置しており、土地利用に都市的な要素はみられない。ただし、作付作物は都市の市場の動向に従い頻繁に変化していた。また、比較的農業収入の割合が高い水田経営世帯であっても農業収入は46.8%と半分を下回っていた。加えて、特に若い世代の世帯主や子女の就業先として、ジャカルタやボゴールの労働市場が重要な役割を果たしていた。ジャワ農村では多就業が一般的であることは、先行研究からも明らかである。しかし、S村のように世帯経営上、非農業の割合が農業を上回る状況が、首都圏以外の農業地域においてどの程度認められるのか確認する必要があろう。

    水野広祐 1993.西ジャワのプリアンガン高地における農村階層化と稲作経営‐バンドゥン県チルルク村の事例を中心として‐.梅原弘光・水野広祐編『東南アジア農村階層の変動』119-163.アジア経済研究所.
  • 木本 浩一
    セッションID: 302
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1. はじめに インドにおける参加型森林管理は、1980年代の社会林業「失敗」のあと、共同森林経営(Joint Forest Management: JFM)として、1990年代に始まった。これは、同時期に始まった、参加型森林管理の動向と軌を一にするものであった。JFMは、字義通り「住民」の参加を前提としているため、住民のあり方や住民が置かれている状況などによって、その成否において「地域」的な多様性をみせている。 本報告では、カルナータカ州におけるJFMの動向を整理した上で、指定部族の再定住集落の実態を分析する。その際、1990年代以降盛んになったコモンズ論などを批判的に敢闘することによって、対象としての「地域」と方法としての「地域」という観点から、理論的検討を行った(右図参照。その成果は、2008年8月の国際地理学会(チュニス)において報告済み)。現地調査は、2007年11月から2008年3月の4ヶ月間および同年9月に実施した。 2. 対象地域の概観 対象としたY村は、カルナータカ州南西部に位置する。同村は、1970年代に、州政府の再定住政策に基づいて、ニルギリ山中に居住していた指定部族ソリガ(Soliga)が移住し、開村した。国道88号線が貫通し、中核都市との交通の便はよい(次元1)。同村は、徴税村ではなく、隣村(a)と一つの行政区域をなし、パンチャヤートも一つである(次元2)。森林には隣接しているものの、多くの住民は、農業や都市での雑業に従事する。同村でのJFM事業は、2003年に始まり、ユーカリ他を植樹している。 3. 論点―まとめ―  Y村は、住民を巻き込んだ包括的政策をめざすJFMと、パンチャヤートにみられる地方分権の動向、2006年に始まった「指定部族及びその他伝統的森林依存民に関する法」(Tribal Bill)など、森林を含む「地域」に関する諸政策の交差点に位置する。JFMはその包括性ゆえに、森林政策としてではなく、「地域」政策として評価する視点が求められている。 【文献】 木本浩一 2008.インドにおける共同森林経営―カルナータカ州を事例として―.西尾隆編『分権・共生社会の森林ガバナンス―地産地消のすすめ―』風行社,173-196.
  • 増野 高司
    セッションID: 303
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに
     タイ北部の山間地域では,これまで広く焼畑が営まれてきたが,1980年代以降になると多くの地域において焼畑は衰退し,果樹の栽培や常畑における換金作物の栽培などに取って代わっている.このような生業の変化は,山村の土地利用様式を大きく変化させるものと考えられる.  本報告の目的は,山村における土地利用の変化を示し,その変化と焼畑の衰退を中心とした生業の変化との関係について議論することである.具体的には1950年代から2005年にかけての村レベルでの土地利用の変化を航空写真の分析から明らかにするとともに,古老への聞き取り調査から当時の農地利用が再構築される.また,農地の境界の歴史的変遷について,畑レベルでの事例から農地の拡大過程が示される.これらをもとに,土地利用様式の変化と生業の変化との関係について議論する.

    2.調査地および調査方法
     調査はタイ北部のパヤオ県に位置する山村(標高950m)でおこなわれた.調査村では,陸稲栽培を中心とした焼畑が営まれてきたが,1990年代に焼畑は衰退し,常畑化が進んだ(Masuno and Ikeya, 2008).2005年には,常畑において自給用の陸稲と販売用のハイブリッドトウモロコシの栽培が行なわれている.  歴史的な土地利用の変化は,1954年,1978年および2003年に撮影された航空写真を用いた,土地利用様式の筆者による判読から明らかにされた.さらに各年代の農業および生業について古老への聞き取り調査を実施した.  世帯レベルの畑の利用歴および畑の形状は,耕作者への聞き取りおよびハンディGPSを用いた現地踏査を実施することから明らかにした.

    3.結果
    (1)村および道路の分布 対象とした3つの時代において,調査対象村は維持されていた.いっぽう,1954年から1978年にかけて消失した集落が1ヵ所,新たに形成された村が1ヵ所確認された.そして車道は1954年および1978年には確認できないが,2003年には車道が村落同士を結ぶようになった.

    (2)農地面積の変化 調査対象地域において農地が占める割合は,4%(1954年),3%(1978年),31%(2003年)だった.農地以外の地域は林地である.村の農地利用は1978年~2003年の間に大きく変化したことが示唆された.また各年における単位農地面積は,1.6 ha(1954年),1.1 ha(1978年),20.2 ha(2003年)だった.

    (3)標高別における農地分布の変化 各年代における標高1000m以上に分布する標高別の農地の割合についてみると,60%(1954年),43%(1978年),19%(2003年)だった.また1954年には一部の畑が,標高1400m以上の地域に分布していたが,1978年および2003年には,全く利用されなくなっていた.

    (4)利用歴からみた畑の拡大過程 1980年代以降に休閑期間を挟みながら利用されてきた2ヵ所の畑について,利用年毎の形状を見た結果,各年の形状は,前回利用した場所を中心としたものであるが,必ずしも同じではなかった.

    4.まとめと考察
     現地踏査および古老への聞き取り調査から,標高1000m以上の地域に分布する畑の割合が減少したのは,ここで盛んに栽培されていたケシ栽培の衰退が大きな要因と考えられた.
     常畑化が進んだ2003年には,農地の割合が大きくなると同時に,単位農地面積が増加したように,焼畑が行なわれていた時代とは異なる土地利用様式が見いだされた.また,農地の分布には,1990年代以降に森林局が始めた森林保護政策によって,農地として利用できる土地が大きく制限されたことが影響を与えていると考えられる.また,ひとつの畑に着目した場合,利用年によって,前回耕作した場所を中心としつつ,異なる場所を耕作することは,耕作者が占有権を主張できる土地の面積を拡大する役割を果たしたものと考えられる.

    引用文献
    Masuno, T., and Ikeya, K. 2008. Fallow Period and Transition in Shifting Cultivation in Northern Thailand Detected by Surveys of Households and Fields. Tropical Agriculture and Development 52: 74-81.
  • 池谷 和信
    セッションID: 304
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに  熱帯林と森の民とのかかわりについては、これまで、アマゾン、東南アジア、南アジア、アフリカなどにおいて数多くの研究が知られている(池谷編。2005ほか多数)。そこでは、森林破壊によって生活の場を失った森の民が、どのように適応してきたのかが中心的なテーマになっている。あるいは、森林保護の政策が浸透することで国立公園が設立されるとともに、森の民が公園の外に移住を余儀なくさせられ、彼らのなかで政府の政策に対する新たな抵抗運動が生まれた場合もある。しかし、マダガスカは熱帯林が広く分布しているのにもかかわらず、上述してきたような問題意識のもとで事例が報告されることはあまりなかった。これまで、Chantal  Blanc Pamard氏のようなフランスの地理学のなかでの研究の蓄積はみられる。  この報告では、マダガスカルの南西部に広がるミケアの森に焦点を当てて、近年の森林破壊や保護政策にともなう森の民ミケアの人びとの対応の仕方を把握することを目的とする。具体的には1980年代から2008年にかけての土地利用の変化を明らかにするとともに,古老への聞き取り調査や現地での観察から地域住民ミケアの人びとの暮らしの変化を把握する。現地調査は、2004年1月(科研費)および2008年12月(国土地理協会の資金:代表 飯田卓)にて行われた。森林政策に関与するNGOでの聞き取り調査や狩猟採集のキャンプに滞在することに努めた。 2.調査地の概観   ミケアの森は、バオバブの木を含む樹木の密集した森林である。それは、マダガスカルの南西部の海岸に近接していて、そこから内陸に広がっている。そこには、レムール類、イノシシ、 テンレックなど、比較的小さな動物が生息する。年間の降雨量は、約250から500mmで多くない。住民は、ここで古くから暮らす狩猟採集民ミケアに加えて、漁労民のベゾ、農牧民のマシコロなどがともに暮らしてきた。しかしながら、ミケアの森の近くには、島の南部のアンタンドロイ族による新しい集落も生まれている。 3.結果と考察  過去20数年のあいあだに、ミケアの森の面積は急激に減少している。また、地元の住民による森林利用や移住民(アンタンドロイ)などによる火入れによる開墾などが、森林面積が縮小してきた原因として挙げられる。また、森の民ミケアの生活は、既存の枠組みを使うと、森林依存型、農耕依存型、その中関系という3つのタイプに分類することができる。なかでも、森林依存型の実態をみると、現在でも狩猟採集が生業として維持されている世界的にまれな場所であることを理解することができる。  本報告では、ミケアの森に関する最新の成果を提示することから、ミケアの森と地域住民とのかかわり方の詳細を歴史的視点から言及する予定である。 引用文献 池谷和信編 2005『熱帯アジアの森の民』人文書院。
  • 浅田 晴久
    セッションID: 305
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに
    インド東北地方は国内でも最も開発の遅れた地域の1つであるが、その中でアッサム州は人口・面積が最大で、人口の70%、州の総生産の40%を農業に依存している。一方でアッサム州は世界最多雨地のメガラヤ高原にも隣接する多雨地域であり、州の中心を流れるブラマプトラ川は毎年のように洪水になる。また上流域のヒマラヤ山脈の環境変化の影響も容易に受けやすい。このような特異な自然環境とその変動によりアッサム州の農業、とりわけ主要作物である稲作は大きな影響を受けていると考えられる。
    前回の発表(2008年秋季学術大会、於岩手大学)では、アッサム州の調査村の稲作が、機械化の進んでいない伝統的なものであると同時に、自然環境との関わりが強くみられることを稲作慣行・土地利用・品種利用の観点から明らかにした。
     そこで本発表では、調査村周辺の近年の環境(主に水文環境)の変化に対して、稲作がどの程度の影響を受け、住民がどのような対応を示したのかについて明らかにすることを目的とする。

    2. 調査方法
     発表者はこれまで2007年7月 ~ 11月、2008年1月 ~ 7月の期間に調査村に滞在し現地調査を行った。さらに2008年12月 ~ 2009年3月まで実施予定のフィールドワークの結果も本発表で報告する。具体的には村人の家に下宿しながら、質問表を用いた全戸調査、観察、聞き取りを実施した。全戸調査の際には助手として村人に同行してもらい、聞き取りにはアッサム語が使用された。水田所有図等は携帯型GPSで測量した後、GISソフトで作図された。

    3. 調査地の概要
     調査村のR村はアッサム州東部のロキンプル県にあり、ブラマプトラ川の北岸(右岸)に位置する。本村はチベットを源流としヒマラヤ山脈を越えて流れてくるスバンシリ川に近接しており、過去には堤防が決壊して大洪水が起こったこともあった。また、年間降水量は3000mmに達する。雨季の6~9月は月間降水量が400mm以上になるが、乾季の11~1月はほとんど降雨がない。
     R村の世帯数は96、人口は454人(男性244人、女性210人)になる。住民はタイ系のアホム(タイ=アホム)が大多数を占める。アホムは現在の中国雲南省から移動を開始しミャンマーを抜けて、1228年にブラマプトラ渓谷に入ったとされている。ヒンドゥー教徒でアッサム語を話す。R村の祖先は1910年代にブラマプトラ川の南岸から移住してきて現在の場所に村を開いたとされる。

    4. 結果
     現在村で最も大きな問題となっている環境変化はスバンシリ川の河岸浸食である。村人によれば1980年ごろからスバンシリ川の本流が西方にシフトし、1990年ごろからは村人が河岸に所有していた耕地が浸食され始め、多くの村人がこの耕地を失った。
     2000年以降はスバンシリ川の水位低下が目立つようになった。それに伴い村の田の水位も低下している。低位田の範囲が小さくなり、バオ稲(深水稲)の栽培面積は縮小した。また湛水期間が短くなったためアフ稲(雨季前期作)の栽培もやめられ、ほとんどの世帯はハリ稲(雨季後期作)のみを栽培するようになった。
     降雨の変動も稲作にとって大きな問題である。2007年は雨季の降水量が多く田の水位は高かったが、収量は豊作であった。その一方で2006年は降水量がやや少なく河川水位も低かったために田に水がたまらず収量は少なかった。
     調査村の住民は氾濫原の豊富な水環境に対しては環境適応型の対応をしてきたが、河岸浸食や旱魃などの新たな環境変化に対しては対応が困難になってきている。
  • 渡邊 三津子, 小長谷 有紀, 秋山 知宏, 窪田 順平
    セッションID: 306
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    はじめに
    社会主義時代における開発は,「20世紀最大の環境問題」としてメディアに頻繁に取り沙汰される「アラル海問題」に代表されるように,一般的・従来的には生態環境の破壊を招く過剰開発として理解される。しかし,決定的な生態環境の悪化・劣化は発生していないことと,環境問題が起こっていないということは同義ではない。問題の本質的理解のためには,実際に何が起こったかを冷静に見つめなおしていくことが必要である。
    本研究では,カザフスタン共和国アルマトゥ州の現タルガル地区,エンベクシカザフ地区,チリク地区を対象とし,人びとの語りから,これまで歴史文献や統計に記録されることのなかった,社会主義時代後期における生活景観の変化を詳らかにする。さらに,社会主義時代の開発に対する従来的な理解の枠にとらわれず,環境史として社会主義的近代化を捉えなおすことを目的とする。
    研究方法
    本研究では,個人の生活レベルから見えてくる景観変遷を捉えるため,インタビュー調査を主たる方法として位置づける。これまで,2009年8月から1月にかけて3回の現地調査を実施し,のべ50人の方から,生活実態の変化,土地や水などの資源利用の変化に関するインタビュー調査をおこなった。同時に,アルマトゥ州国立公文書館や州統計局などで文献・統計調査を実施した。さらに, GIS上で情報を統合し地理学的考察を加えた。
    対象地域の概要
    対象地域では,ソ連時代にカザフスタンが経験した最も大規模な農業開発事業である処女地開拓事業(1954年~)の中心でこそなかったものの,イリ河に流入する支流群の豊かな水源に支えられて古くから農業がおこなわれ,処女地開拓事業と同時期にソフホーズが相次いで設立され,天山山脈北麓の山麓扇状地を利用した灌漑農地の開発が行われてきた。
    本発表では,天山山脈の山麓扇状地に建設された“カザフスタン”という果実ソフホーズを事例として取り上げる。
  • 和田 崇
    セッションID: 307
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    「セカンドライフ」は,従来のインターネット・サービスと比べて,表現の幅と活動の幅が大きく広がったとされる(山口,2007)。本研究は,「セカンドライフ」にみられる表現の幅と活動の幅の拡大が,従来のインターネット上でのコミュニケ―ションの方法や社会的ネットワークの構造や形成過程,さらにサイバースペースとジオスペースの相互関係をどのように変化させているかという点について論じることを目的とする。 3D仮想空間は独自のコミュニケーション環境を持つ空間であり(山口・野田,2008),それを生み出す独自機能として,アバター,チャット,自己組織化,の3点をあげることができる。自己表現,変身願望,着せ替え人形としてアバターは,それ自体を話題にできることや文字以外に表情やしぐさで表現できることから,利用者間のコミュニケーションを活発にする働きがあるとされる。チャットはコミュニケーションの同期性は高いが,情報の蓄積性が乏しい。自己組織化とは利用者の行動と相互作用がその空間構造や社会規範を規定していくことをいう。 2001年にプロトタイプが開発され,2003年6月に商用サービスとなった「セカンドライフ」では,上記に加え,仮想空間内の瞬間移動,持ち物の所有・管理,友達の設定,コミュニティの形成,土地の所有,オブジェクトの作成と著作権の付与,仮想通貨リンデンドルの付与および支給,仮想通貨リンデンドルとアメリカドルの交換などの機能・サービスが提供されている。 「セカンドライフ」の利用者数は,2006年の約10万人から2007年5月には約650万人に急増した。そのうち日本人の利用者数は約4万人(2007年5月)と言われる。インターネットメディア研究所が2007年に実施した日本人の利用動向調査によると,利用者の年齢は20代後半から30代が中心である。利用者の居住地は関東地方が突出する。職業はほとんどが社会人で,しかもITリテラシーが高いと思われる層の利用が多い。しかし,継続的な利用は初期登録者の1/4程度といわれ,利用が定着しない理由として,全体像がつかみにくいこと,楽しみ方がわかりにくいことなどが指摘されている。その中で,継続的に利用するようになった者は,仮想街の見物,知人や初対面の人とのチャット,買い物,オブジェクトの作成,ダンス,イベント参加など,様々な方法により「セカンドライフ」で長い時間を過ごしている。また,日本人や日本企業の利用を支援する仮想市民ネットワークやコンサルタント企業も存在する。 「セカンドライフ」は世界中からアクセス可能で,「セカンドライフ」内では国・地域の境を越えて利用者同士が仮想的に接近・接触したり,コミュニケーションしたりすることができる。そのため,ジオスペースとは無関係に思われる。しかし,次の5点において,「セカンドライフ」にも地理を見いだすことができる。第1は管理区域としての地域(「シム」)であり,設計者が設定したグリッド(緯度経度に相当)がその位置を規定する。第2は「セカンドライフ」内に形成される仮想都市の存在である。AKIBAやOKINAWAといった日本人街の形成も進んでいる。これらは仮想空間に形成される地理といえる。第3はジオスペースの地域コンテンツの発信である。自治体や観光協会などが観光情報を提供するとともに,仮想体験を通じて,集客や販売の促進に結びつけようとしている。第4は特定地域の課題解決に向けた国や地域の境を越えた協力活動である。新潟県中越地震に関する募金活動などがその例である。第5は「セカンドライフ」内での対人関係の形成とジオスペースでの地域単位でのイベント開催である。これらはジオスペースにおける地理を反映している。 このように,「セカンドライフ」にみられる地理は,仮想社会(サイバースペース)と現実社会(ジオスペース)が入り交じったものとなっている。また利用者は,仮想経験とジオスペースでの行動,およびそれぞれをベースとした2種類のコミュニケーションを展開している。
  • 波江 彰彦
    セッションID: 308
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1. はじめに
     本発表では、1960年以降の大都市におけるごみ排出量,ごみの直接焼却処理率,リサイクル率などの推移や,ごみ管理の内容,またこれらに影響を及ぼすと考えられる事柄の指標を比較検討する.こうした作業を通じて,大都市におけるごみ排出・管理の共通点と相違点を明らかにする。ここで取り上げるのは、札幌市、東京都特別区、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市の7大都市である。なお、本発表における「ごみ」とは家庭系ごみと事業系ごみを指し、産業廃棄物やし尿などは含まない。
    2. 大都市におけるごみ排出の特徴
     図1は日本全国および7大都市における1人当たりごみ排出量の推移を示したものである。おおまかには、高度経済成長期から現在までの急増,減少・横ばい,再び増加してピークを迎え減少局面へという流れがみられ,経済状況の長期的なうねりがごみ排出のダイナミックな変動を引き起こしていることがうかがえる.
     都市間の相違の例として横浜市と大阪市の違いは特徴的である。7大都市の中でも昼夜間人口比率や事業所の集積度合いが高い大阪市では1人当たりごみ排出量が多く、7大都市の中で唯一昼間人口流出超過であり事業所数も相対的に少ない横浜市では1人当たりごみ排出量が少ない。
     施策的要因として、2003年度から開始された「ヨコハマはG30」と銘打ったキャンペーンと多分別収集化は横浜市における1人当たりごみ排出量の急減に直接的・間接的に効果があったと考えられる。7大都市の中で大阪市における事業系ごみの処分場搬入手数料は安く、ごみ排出量を押し上げる要因となっていることが推察される。対して、名古屋市の「ごみ非常事態宣言」(1999年)とその後の事業系ごみ規制は効果を上げていることがうかがえる。
    3. 大都市におけるごみ処理の特徴
     大都市では1970年代に焼却処理体制の整備が最も進んだ。近年、ごみの直接焼却処理率は横ばいか、東京都特別区や横浜市のように低下しているケースもみられる。これはリサイクルの推進と関係がある。リサイクル率では関西3都市の低さが顕著である。この要因は、高い直接焼却処理率の裏返し、行政による資源化の低調のほか、住民による資源回収(集団回収)量の少なさなどが挙げられる。横浜市や名古屋市では集団回収量の高い実績がみられ、リサイクル率の高さに結びついている。
  • 近藤 暁夫
    セッションID: 309
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1、研究の視点  生活者が,現在地を参照する場合や目的の地点へ到達するためには,路傍の地理情報が適宜参照され,行動の基準となることが多い.地理情報として参照されうる媒体として代表的なもののひとつに,道路標識や事業所の看板のような情報提示を目的に設置された標識類があるが,それらは多くの地点に多数存在している.いいかえれば,生活者の行動空間には,様々な主体の掲出した地理情報があふれている.しかし,これらの標識類と地理情報が誰によってどこにどういう形で提示されるのかなどについての展開メカニズムの検討は,生活者という行動主体を対象とした彼らの空間行動についての研究に比べ少ない.  標識を用いて地理情報を地域に提示する主体としては,公共性の観点から道路標識や地名標などを配置する行政組織,経営上の必要から店舗看板や店舗への案内看板を掲出する企業・事業所などがある.その中でも,顧客が事業所に来店しなければ経営が成り立たない,小売店や飲食店などの事業所は,積極的に顧客の誘導のために,特に積極的に事業所の周辺に多数の屋外広告を展開している.本報告は,そのような民間の主体が掲出する屋外広告に提示される地理情報に着目し,事業所がどのような地理情報を展開してその宣伝と事業所への誘導を行っているかを検討する.屋外広告を用いた事業所の情報提示は,消費者の店舗選択や購買行動に対して影響を与えるものと考えられることから,消費者の行動と企業・事業所側の活動との相互作用を捉える上でも有益な研究対象だろう. 2、研究対象および調査地域  本研究の調査対象は名古屋市中心部から岐阜-大垣-桑名を結ぶ東西約20km,南北約30kmの範囲の主要道路沿いに掲出されている屋外広告と,その広告主とした. 3、研究方法 【1】 研究対象地域の主要道路(総延長約600km)沿いに掲出されている屋外広告(電柱附属広告、野立看板など)を徒歩により悉皆調査. 【2】 屋外広告の掲出地点と広告主間の距離を,GISを活用して測定. 【3】 距離測定をもとに,屋外広告上の各属性の地理情報(住所,矢印,地図など)が事業所からどの程度の空間的範囲に展開され,事業所への誘導経路が構築・提示されているかを検討. 4、結果と考察 【1】 確認した屋外広告約2万1千件のうち,1万8千件に何らかの地理情報が提示されている. 【2】 広告主の7割を,医療施設,遊興・娯楽施設,宿泊施設,コンビニエンスストア,理容院など,小売業と対個人サービス業の事業所が占める.レジャー施設や飲食店などで,特に掲載される地理情報が多い. 【3】 所要時間を示す情報は広告主(事業所)から8km,住所の情報は7km,具体的な距離を示す情報は5kmが展開の限界となるなど,地理情報の属性に応じて展開される空間的範囲が異なる. 【4】 広告活動の全体としては,広告主の近傍ほど詳細かつ多量の地理情報が展開されており,情報提示量の距離逓減を確認することができる. 【5】 地理情報提示の空間範囲は,事業所側が消費者を吸引しようと直接働きかけている範囲といえ,消費者行動や商圏形成のプロセスを考える上で,これらの活動の空間的範囲と情報の内容はより深く検討されるべきである.
  • 林 佑亮
    セッションID: 310
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    _I_ はじめに 1 研究の背景・目的  都市圏には都市化→郊外化→反都市化→再都市化のサイクルで発展・衰退していくというモデルがあるが、日本では、1950年代以降、都市への人口集中がみられ、急激に拡大していった。この人口の増大は都市の巨大化、郊外化をもたらす。1970年代半ばに国内大都市の人口増加率はピークを迎え、1980年代になると、東京大都市圏の周辺部では機能的自立化が強まり、東京の都市中心部への依存から脱却するようになった。  このような中、都市圏の内部にも中心都市が成長するようになり、通勤などの生活に密着したものについては、より詳細な地域で分析をする必要がある。 大都市圏の研究では、国勢調査のデータを用いた研究は多いが、より詳細な地域で細かく分析する必要がある。。そこで、本研究では従来の市町村単位よりもさらに小さな地域のデータを用いて東京大都市圏の通勤・通学行動の結節構造の変化を明らかにすることを目的とする。 2 研究方法・データ  東京都市圏交通計画協議会が行っている第2回(1978年)と第4回(1998年)パーソントリップ(PT)調査のデータを用い、通勤・通学において、結節構造がどのように変化したかを考察する。分析に関しては基本計画ゾーンを基本単位とし、1都4県、333市区町村の全547ゾーンを対象地域とする。 _II_ 結節核の選定  まず、流入量が流出量よりも2500トリップ以上超過しているゾーンを抽出する。次に、これらのゾーンの中から流出に対し、流入の多いゾーンを通勤中心ゾーン・通学中心ゾーンとする。この結果、通勤が1978年が70、1998年が84ゾーン、通学は1978年が27、1998年が55ゾーンの中心ゾーンが抽出された。  さらにこれより、川崎市や大宮市など、同一の市区町村をまとめることにより、7~19個の中心核を設定した。 _III_ 核への流動パターン  _IV_ おわりに  1978年と比較すると、1998年には郊外に中心核が多数あらわれた。また、これらの新しい核は自動車の比率が高く、通勤距離の割に移動時間が短いことが特徴である。また、横浜市、さいたま市などの中間都市では、通学においては圏域の成長がみられたが、通勤においてはそれほどの変化は見られなかった。また、全体的に東京大都市圏内の移動が複雑化していることも明らかになった。
  • 西山 弘泰, 川口 太郎, 中澤 高志, 佐藤 英人
    セッションID: 311
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1.問題意識  戦後日本の大都市圏は,1950・60年代に地方農村地域から多くの人口を吸引し拡大した。大都市圏内に滞留した地方出身者の多くは,やがて家族人員の増加と,より良い住環境を求めて大都市中心部から郊外へ外向移動を強めていった。そして,郊外には彼らを受け入れるために,多種多様な住宅地が形成されていった。ところが,従来の郊外住宅地の研究が描いてきた郊外は「庭付き一戸建て」を彷彿させる整然と開発された大規模住宅地で,住民の属性は「都心通勤」「ホワイトカラー」「大企業」「高学歴」と画一化したイメージとしてとらえられてきた。それは,これまでの郊外住宅地研究が大規模開発された住宅地だけを扱っていたため,住民の年齢や職業,学歴などが必然的に均一になってしまい,その帰結として,郊外住宅地のイメージが画一化されたものと考えられる。郊外には自地区内通勤,現業職,中小企業勤務,中高卒の人々も多く居住しており,本来はこれまでのイメージよりもずっと多様な人々が居住している。  そこで,本研究では比較的狭い範囲において様々な形態をもった小規模住宅地が混在している地区を対象として,居住者の属性を明らかにした。こうした小規模開発住宅地区は,開発時期や開発業者,敷地規模などが異なり,それに伴って居住者の属性も変化すると考えられる。本研究は,郊外が必ずしも均一化された空間ではなく,多様性をもった空間であることを明らかにし,新たな郊外像を提唱するものである。 2.調査と対象地域の概要  本研究は大規模開発住宅地が少ない,埼玉県富士見市S地区と三芳町F地区を対象地域に設定した。両地区は隣接し一つの住宅地区を形成している。開発は1965年からはじまり,1965年から1975年までに開発のピークを迎えた。そのため1965年に約1,000人であった人口は,1975年には約11,000人と10倍以上も増加した.その後は10戸以下の開発が主となり人口増加も鈍化している。現在まで対象地域の開発に関わった企業や個人は100社(名)を超えている。また土地利用も戸建住宅を中心として,共同住宅,商店,農地,駐車場などが混在している。用途地域は第一種中高層住居専用地域(建蔽率60%,容積率200%)が主であるため,住宅が密集し雑然とした景観となっている場所が多い。東京都心からの距離は約25kmで,最寄駅までは徒歩4分から15分の程度の距離にある。 アンケート調査は2008年8月,一戸建て世帯にポスティングで2800部の調査票を配布し,205通の郵送回答を得た(回収率7.3%)。またアンケート回答者の中から承諾を得た19世帯に1~2時間程度の聞き取り調査を実施した。 3.結果  回答者の年齢は6割が60歳以上であったが,30・40歳代の比較的若い世帯からの回答も得られた。入居時期は1970年代が多いもののばらつきがあり,1990年以降に入居した世帯も目立つ。年代別に入居時の購入形態をみると,1975年以前は新築による入居が多かったが,1975年から1990年までは中古と新築が同程度で,1990年以降は再び新築が多くなっている。中古の戸建住宅は,新築のものに比べ敷地面積が狭いのが特徴である。このことから,対象地域では1970・80年代において,住民の転出入が活発であったといえる。敷地面積は33.0_m2_から343.2_m2_までと幅広いが(平均102.1_m2_),100_m2_以下の割合が半数を超える。また学歴,職業など住民属性は多様で,一様にとらえることは困難である。以上のように,小規模開発住宅地区は住民の年齢や職業,学歴,戸建住宅の敷地面積などにおいて多様性がみられる。その要因は,第一に1970年前後に建設された戸建住宅において住民の転出入が活発に起こったこと,第二に開発がピークだった1960・70年代以降も,農地が少しずつ宅地に転用されて小規模な開発が行われているためと考えられる。このように,「無秩序な乱開発」として糾弾されがちな小規模開発は,地域の持続可能性の観点からとらえると,若年層の流入によって,極端な人口の偏りを防ぐ役割を持っている。また,交通アクセスの良いことや,周辺にスーパーマーケットなどの生活関連施設が多く立地することから,建替えや新規の開発が活発である。縮減が懸念される郊外住宅地にあっては,その様子にダイナミズムさえ感じる。発表当日はより詳細な分析結果を示したい。
  • 菊池 慶之
    セッションID: 312
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.研究の目的
     オフィスビルの開発は、開発自体が当該地区のオフィス密度、従業者密度を飛躍的に高め、ビジネスサービス産業や関連産業の立地、周辺地区の商業ポテンシャルの向上などに結びつく。特に、超高層のオフィスビルや街区単位の超大型開発は、地域イメージの向上やランドマークとしての役割も大きく、都市の構造に大きな影響を与える。  しかし、大型オフィスビルの開発は、立地や開発時期により、周辺地域に正負のまったく異なる影響をもたらすことが指摘されている。そこで、本研究では、2000年以降の景気回復局面における、オフィス開発の特徴を明らかにした上で、大型オフィスビルの開発が都市内部構造に与えている影響を明らかにする。
    2.オフィスビル大型化の背景
     高い収益性を見込める都心のオフィスビルの規模は、従来建築規制と開発リスクによって規定されてきた。しかし、規制緩和と不動産への投資の拡大がこれらの規定要因を低減させたと同時に、需要サイドからも1フロアの床面積を大きく取れる超大型オフィスビルへの指向性が高まった。特に、2001年のJ-REITの上場、2002年の都市再生特別措置法施行は、オフィスビルの大型化を強力に後押ししている。この結果、東京都心5区における10万_m2_以上の超大型オフィスビルが、新規供給に占める割合は、1980年代には13.2%に過ぎなかったが、1990年代には29.0%、2000年以降では46.0%にまで高まっている(図1)。
    3.超大型オフィスビルの周辺エリアへの影響
     次に、本研究では、延床面積が10万_m2_以上の超大型オフィスビルが周辺エリアに及ぼす影響を明らかにするため、まず都心5区において、2002年~2005年の間に竣工した床面積10万_m2_以上のオフィスビルを「新規超大型オフィスビル」(15棟)とした。次に、新規超大型オフィスビルの立地する町丁を、「超大型オフィスビル所在町丁」、それに隣接する町丁を「隣接町丁」とし、それ以外の地区との比較を通して検討を行った。  この結果、超大型オフィスビル所在町丁では、2001年~2006年にかけて、従業者数が10.5万人増(77.0%)、隣接町丁では4.1万人増(7.0%)と、超大型オフィスビル開発の周辺地区で従業者数が大きく増加しているのに対して、その他の地区では従業者数が1.0万人減(-0.4%)となっており、従業者の都心回帰が、もっぱら超大型オフィスビルの立地によっていることが読み取れる(図2)。  ただし、六本木南エリアにおける検討の結果、超大型オフィスビルの隣接町丁においては商業従業者数や商品販売額への直接的な波及効果は少なく、むしろ大規模再開発の内部へ吸引される傾向がみられた。
    4.結論
     オフィス開発を取り巻く状況の構造的な変化は、オフィスビルの大型化をもたらし、特に2000年以降1棟10万_m2_を超える超大型オフィスビルが急増した。このようなオフィスビルの大型化は、高密なオフィス集積を形成することにより、都心のオフィスエリアを集積の高まる地区とそうではない地区とに二極化させる効果を持つ。近年のオフィス立地の都心回帰は、集積の経済を志向する企業の、組織再構築の結果と論じられるが、オフィスストックの供給そのものがオフィス集積の再編を促す側面を持つことが指摘できる。  また、オフィスビルの大型化が、ビルの「街化」を促進し、周辺への波及効果を弱めている可能性がある。超大型オフィス開発は、その多くが商業や住宅との複合開発であり、一連の開発エリアから外に出なくても生活できるというコンセプトを掲げている。また、オフィスビル自体も事務所用途ばかりでなく、医療、教育、宿泊施設など多様な用途の複合により、話題性と集客力の向上を図ってきた。このためオフィスビルの「街化」は、ビル所有者にとっての稼働率向上、需要者にとっての利便性の向上を同時に満たす手法として今後も進められていく可能性がある。
  • 方 大年
    セッションID: 401
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    _I_研究の目的  本研究は、中国、長春市の商業中心地の一つである長春韓国商業街(コリアタウン)をとりあげ、都市内部に形成された異民族の商業地区の形成と行政による街づくりとの関係を明らかにするものである。 _II_研究方法  現地調査では主に長春市朝陽区区役所及び桂林路事務所職員に聞き取り調査を実施し、さらに長春市に滞在している吉林大学韓国人留学生へのアンケート調査と資料収集を行った。資料は、長春市の主要新聞(2003年~2005年末まで)及び長春市朝陽区区役所会議紀要などから収集した。 _III_行政による街づくり 1.長春韓国商業街が成立するまでの行政の動き(表1) 2.行政の役割 __丸1__土地の使用権   __丸2__都市計画   __丸3__行政のサービス __丸4__税金の使い方    3.行政トップの評価基準 評価基準とは一言で言えば、『4つの基準と5つのポイント』である。 評価の中で最も重要なのは「業績」であり、GDP成長などの実績を作るためにコリアタウンを形成させ、外資を誘致するなど積極的に取り組んでいる。 _IV_ 結び  長春韓国商業街形成のきっかけは、長春で開催された「経済グローバル化と吉林経済の振興」という報告会であり、行政のトップが業績を作るため行政の機能を使用し、コリアタウンを形成させた。コリアタウンの形成とGDPの成長は行政トップの業績となり、三者(幹部評価基準、行政の機能、コリアタウンの形成)はお互いに密接に関わりながら経済発展へとつなげていく、これこそが中国的特色のある街づくりなのである。
  • 山下 宗利
    セッションID: 402
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1. はじめに  成長管理政策は、中心市街地と郊外の両者の持続的な発展を目指したプログラムである。計画的でコンパクトな市街地形成と豊かな自然環境の保全を行い、調和のとれた高度な社会的共通資本の整備を推進しようとするものである。そのためには従来の自治体の枠を超えたより広域的な圏域での土地利用政策や交通政策が求められ、広域調整の仕組みが欠かせないものとなっている。  モータリゼーションの進展を背景とした市街地拡張型の都市開発を通じて、先進諸国の中心市街地の一部では衰退が急速に進行している。しかし拡張型・再開発型の対処では環境の制約と経済・社会・文化的変動に適応した都市空間を維持発展させることは、はなはだ困難となりつつある。都市空間を持続的に維持発展させ、効率性とともに個々の地域に根ざした歴史・文化的要素を組み入れた高い生活の質を保証する都市空間の再形成が要請されている。  欧米諸国では既に成長管理政策を実施している事例がみられ、その一つがカナダ・トロント広域圏である。本報告では、トロントにおける成長管理政策の特徴を述べるとともに、トロント中心市街地において近年生じている土地利用の変容を検討してみたい。 2. トロント広域圏における成長管理政策  トロントでは、都市域と農村域の持続可能な成長を目指し、よい高い生活の質を得ることを目指した大規模な成長管理政策が動き出した。オンタリオ州は2005年に"PLACES TO GROW: Better Choices. Brighter Future."と題した成長管理政策を作成し、2031年に向けた将来展望を公表した。トロント広域圏とはトロントを核都市とするGGH(the Greater Golden Horseshoe)地域を指し、北米の中で最も急速な成長を遂げている地域の一つにあげられる。この地域はカナダ経済の中枢にあたり、自動車産業を中心に合衆国との結びつきが強く、今後とも大きな成長が期待されている。約370万の人口増加が見込まれ、この地域の人口数は1,150万に増加し、オンタリオ州における人口増加の8割以上をここで吸収するとの予測がある。それゆえ生活の質の向上、雇用の拡大、多様な生活に向けた基盤整備が必要とされる。また、従来型の地域政策によるひずみが表面化しており、とくに最大の都市域であるメトロトロントとその周辺における交通網の未整備や連携不足はきわめて深刻な状況を生み出している。  成長管理に向けた計画は、(1)選択と集中、(2)成長を支える基盤整備、(3)自然環境と農地の保全、そして(4)計画の実施、の四つの大項目から構成されている。それぞれに多数のガイドラインが示されている。しかしながら、広域調整の指揮を執るオーソリティの不在が課題として残されており、いかにして調整を図るかが最大の懸案事項となっている。 3. トロントにおける中心市街地の活性化  トロントはカナダ最大の都市として、また上記広域圏の核として機能してきたが、人口、商業施設、そしてオフィスの郊外化の進展により、中心性が次第に低下しつつある。PLACES TO GROW政策は、郊外のみならず中心都市の活性化を目指したものであるといえよう。ここ10数年来、トロントではウォータフロント地区を中心にコンドミニアムが林立し、景観は大きく様変わりしつつある。近年では都心周辺部のインナーエリアにおいて工場跡地を利用したコンドミニアムの建設が相次ぎ、また工場からロフト形式のアパートやデザイン事務所への用途変更もみられ、複合的な土地利用政策の下で居住者の都心回帰が進みつつある。これによってジェントリフィケーションが生じているとされる。現状では居住者の中心市街地への転居はみられるものの、生活関連店舗や公園の配置が不足し、コミュニティの確立まで至っていない。中心市街地における生活の質の向上への課題が明らかになりつつある。発表当日はトロント都心に隣接するKingーSpadina地区における近年の変容について議論したい。
  • 大石 太郎
    セッションID: 403
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    英語が圧倒的に優勢な北アメリカにあって、フランス語を母語とする住民が8割を超え、フランス語のみを州の公用語とするカナダのケベック州は異色の地域である。しかしながら、現在の感覚からするとフランス語一色のようにみえるケベックも、歴史をふりかえるなら、その開発にはイギリス諸島からの移民やアメリカ合衆国からの移住者がかかわっていることを無視することはできない。かつては州北東部ガスペ半島にスコットランドやアイルランドからの移民が多く暮らしていたし、東部のイースタン・タウンシップス(フランス語でカントン・デストあるいはエストリーと称される)でも英語を母語とする人が少なくなかった。農村から都市への人口移動や言語政策などにより、これらの地域は「フランス語化」され、現在のケベック州で英語系住民(英語を母語とする人、および英語を常用とする人)の存在が目立つのは、モントリオール(モンレアル)大都市圏のほか、州西部でオンタリオ州と接するウタウエ地方のみである。 ケベック州における英語系住民は、カナダ連邦の結成(1867年)以来、数のうえでは少数派であり続けている。しかし、「静かな革命」とよばれる1960年代の政治的・経済的・社会的変化と、それに続くカナダからの独立を求める政党の台頭までは、英語系住民の地位が脅かされることはなかった。というのも、カトリック教会の強い影響力の下で、フランス語系エリートが政治を支配する一方で、当時のカナダにおける経済の中心地モントリオールに住む英語系エリートが経済を掌握するというすみわけがなされていたからである。しかし、カナダからの独立を目指すケベック党が勢力を強め、ついに政権を奪取してフランス語の一言語政策が強硬に進められるようになった1970年代後半以降、大企業の本社のトロントなどへの移転が相次ぎ、それに伴って英語系住民のケベック州からの流出が顕著にみられた。そのため、2001年センサスによればケベック州において英語を母語とする人口はわずか7.9%にすぎない(単一回答のみ)。そして、現在ケベック州に居住する英語系住民は、とくに若年層を中心にフランス語を習得して二言語話者となる場合がふつうになりつつある。 ケベック州の英語系住民に関する研究は、さまざまな分野においてかなりの蓄積がある。しかし、英語系住民がケベック州の言語環境にどのように適応してきたのかは十分に解明されているといえない。そこで本報告では、2006年2月に実施した質問紙調査に基づいて、モントリオール郊外に居住する英語系住民の言語能力とケベック社会への適応を検討する。質問紙調査は、英語系住民の多く住むモントリオール島西部(ウェスト・アイランドとよばれ、独特の地域と認識されている)のポイント・クレア(ポワント・クレール)において、市立図書館の利用者から回答者を募る形式で実施し、119名から回答を得た。 調査結果によると、回答者の家庭内言語は圧倒的に英語であり、教育も英語で受けてきた人が多い。一方、フランス語能力の自己評価は、「完璧に話せる」(26.1%)と「上手に話せる」(31.1%)をあわせると6割近くに達している。報告では、こうした言語能力と、実際の言語使用や言語にかかわる社会関係、さらにはケベック社会に対する意識との関係などを考察する。
  • 荒又 美陽
    セッションID: 404
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
     パリ市では、2002年から「不適格住居(habitat indigne)消滅事業」と称して衛生状態に問題のある住居の収用・修復を推進している。対象となった1,020の建造物は、市内に均等に散らばっているわけではなく、パリ北東部の移民の多い地区に集中している。特に地名を冠して集中的に事業が行われている地区に18区の「シャトー・ルージュ」と19区の「ウルク=ジョレス」がある。本報告では、より規模の大きい「シャトー・ルージュ」におけるこの事業の実態と問題点を示したい。
    1.「不衛生住宅」事業の歴史的展開
     フランスでは、1832年のコレラの流行が衛生概念と都市計画の結びつきを明確にした。被害が大きかった貧困地区、すなわち、産業化に伴ってフランス全土から移入した労働者の居住地区は、七月王政期から第二帝政期にかけての都市計画事業によって大々的に解体された。また、それまで公道からファサードまでにとどまっていた公権力による規制は、公衆衛生を理由に個々の建物や住居の中にまで入り込むようになった(吉田:1988)。衛生対策事業は、都市において不明瞭な移入労働者の集住地区に介入し、外部に安心を提供する事業でもあった。
     20世紀はじめには、結核の死亡者が平均の二倍になっている地区を割り出し、集中的な再開発の対象とする「不衛生区画事業」が計画・一部実施された。パリの中心部では、東方ユダヤ移民の集住地区がその対象となっていた。彼らは地区の不衛生性の原因とみなされ、「転居させるべき」だという議論がなされた。公衆衛生は、外国人排斥をも正当化したのである。
    2.現在の事業の基準
     現在の衛生対策は、伝染病の拡大を防ぐことではなく、個々の建造物による健康被害をなくすことを主な目的としている。近年の事業ではさらに、倒壊の危険のある建造物、占拠されている建造物、市民の告発による不衛生建造物なども事業の対象となっており、法律上の衛生対策を超えた事業が行われている。
    3.シャトー・ルージュ地区とは
     シャトー・ルージュは、地下鉄4号線のシャトー・ルージュ駅の東に広がる地区で、パリの北部にある。主に、サハラ以南のアフリカ出身の移民(以下、アフリカ系移民)の生活の場として知られ、特徴的な衣装店や料理店、美容院が数多くある。
     統計では、パリにおいて最も人口密度が高く、パリの平均に比べて、4人以上の子供がいる夫婦の率が非常に高い。外国人率、労働者世帯人口率、失業率も高く、社会的な不安定さを余儀なくされている住民が多い。
    4.問題は何か
     シャトー・ルージュでは、2002年から2007年までの間に、383件の住居を収用し、154世帯を移転させた。建造物は基本的に修復する方針で実施されている事業であるが、状態が悪いとしてシャトー・ルージュでは84%が解体された。
     事業の対象となった住居に住んでいた人々は、全体の97%がパリ市内に移転したことになっている。しかし、聞き取り調査により、非正規滞在で強制退去になった世帯があったこと、彼らは公式の統計には表れてこないことが確認できた。19世紀の事業と同様、現在の衛生対策事業も、行政からは不明瞭な移民が多い地区に介入し、正規・非正規滞在の別によって、さらには家族構成や収入などによって住民を選別し、住居を「適切に」配分するシステムとして機能している。

    ※本報告は『問われるフランス的平等―移民の社会的統合は可能か』(宮島喬編、東京大学出版会)の一章として近日出版予定の議論をベースにしている。
  • 伊藤 徹哉
    セッションID: 405
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    I. 研究目的・研究方法
     1989年以降のいわゆる東欧革命を通じて,東欧諸国は民主主義へと移行し,経済的にも市場経済システムを導入した。このうち非共産党系政治勢力の活動がいちはやく自由化され,自由選挙が実施されたのはポーランドであった。2004年にEU加盟を果たしたことで,ドイツをはじめとする経済大国からの投資拡大とそれに伴う経済成長がこれまで続いてきた。本研究は,中心市街地の再生を目指す公的な都市再生事業が導入されるとともに,東欧革命以降に市場主義経済のもとで都市再生が進められているポーランド・ポズナニを事例として,公的事業を通した都市空間再編,また中心商店街における社会空間変容という観点から都市再生の地域特性を明らかにすることを目的とする。
     本研究では定量的な視点から形態的変化および社会的変化を都市規模のメソスケールで分析するとともに,事例地区の世帯レベルのミクロスケールでの住宅の改修歴を住民への聞き取り調査に基づいて分析する。分析対象として都市更新の公的事業が近年導入され,同時に市場主義経済のもとで都市再生が進められているポーランド・ポズナニを事例として選択し,公的事業を通した都市空間再編,また中心商店街における商業機能や社会空間変容という側面から分析することを通してポーランドでの都市再生の進展に関する地域的特性を明らかにする。

    II. 都市再生政策の展開に伴う都市空間変容
     ポズナン市は社会主義時代から中西部の地方中心都市として発展し,東欧革命後も製造業のほか,商業や金融業の盛んな有力都市として経済発展を遂げている。近年の少子高齢化を背景として人口が減少しているものの,当市には高等教育機関が多数立地していることもあり,周辺地域から若年者層を吸引している。こうした中で都市中心部での建物の形態的・機能的劣化や社会的・経済的衰退が一部地域において顕著であるため,市は2004年に2005年から2010年までの中期開発計画を定め,中心部と郊外の居住環境整備を進めている。居住環境整備では郊外での宅地開発と都心周辺部の衰退地域の再生事業が中核に据えられ,都市再生事業の事業候補地として130を超える地区が選定されている。ただし,財政的理由により2008年8月の時点で実施されているものはパイロット事業の2か所にとどまる。パイロット事業の実施過程において,実施までに住民との意見交換の場を複数回確保し,住民と共同しながら事業を進める制度が構築されている。

    III.  都市中心部の社会空間変容
     商業・サービス分野は当市の経済成長の柱ともいえ,市内の商業施設や宿泊施設に対して直接投資が行われており,内外からの民間投資により都市中心部には商業施設やオフィスビルが数多く建設されている。当市の都市中心地域には高次の商品を扱っている商業施設が多数集積しており,周辺地域から多数の消費者を吸引している。このうち中心商店街のPotwiejska通りは,業種構成からみると大型商業複合施設を核としながら,衣料品を中心に小規模の専門店が集積している。2006年と2008年の土地利用調査に基づいて店舗の業種構成を見ると,業種転換が活発に行われ,消費者ニーズに沿った活発な経済活動が行われている。また,所得水準の向上を背景として比較的高額の商品を扱う店舗が増加し,さらに店舗の立地条件の差異という資本主義的原理に基づいた土地利用の変化が生じている。中心商店街の店舗の上階(2階以上)は一般住居として利用されており,こうした住居では都心居住を指向する若年世帯が増加している。入居者が大幅な室内リニューアルを実施するとともに,入居後に住居の改修を自己負担でたびたび行っている。

    IV. おわりに
     ポズナン市においては,公的事業である都市再生事業や国内外からの直接投資に基づいた商業施設更新を通じて,都市空間が社会的・経済的に大きく変容している。とくに中心商店街は消費者ニーズに対応した業種転換が活発であり,景観が著しく変化している。同時に都市中心部では都心居住を指向する若年世帯が増加しており,居住者による住居の改良も継続的に行われている。一方,都市再生事業は立案されてはいるものの,実施件数は少数であり,その事業内容をみても道路や公共施設を中心としたインフラ整備が実施されているのみである。個別の事業実施にあってはEUからの補助金に大きく依存しており,市の主体的な都市再生事業がこれまで十分実施されているとはいえない。
  • 加賀美 雅弘, コヴァーチュ ゾルターン
    セッションID: 406
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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     中央ヨーロッパ型都市においては,CBDに隣接して19世紀後半以降に造成された労働者向け賃貸住宅地区がインナーシティ化するケースが目立つ。そこでは外国人や移民,ロマなどのエスニック集団をはじめ,低所得者や失業者が多く居住する傾向がみられる。  ハンガリーの首都ブダペストにおいては,老朽化した住宅とロマの集住が顕著なJózsefváros地区がインナーシティとしての特徴を持つ地区として知られ,1990年代以降,その改善が指摘されている。  報告者は,この地区の変化を都市整備事業に着目して検討しており,今回はこうしたインナーシティが存続する背景について若干の考察を行ったので報告する。  Józsefváros地区は,19世紀後半以降,ブダペストに流入する労働者の受け皿として機能してきた。ブダペストの事実上の中央駅である東駅に近接し,第一次世界大戦以前には広大な国内各地から労働者が流入した。その結果,多様なエスニック集団が居住する地区が形成された。  社会主義時代には,特に1960年代以降,居住者の多くが郊外に造成された住宅団地に転出したために居住者数は減少した。住宅の老朽化が進む中で,1970年代以降にはハンガリー東部出身のロマの転入が目立つようになった。  政治改革後,ブダペスト市内では住宅の個人有化が急速に進行したが,Józsefváros地区では2001年時点でも区有住宅が多く残存している(26.6%;市平均8.5%)。また,第一次世界大戦以前の建物が地区全体の88%(2001年)を占めている。整備が遅れ,老朽化が著しく進み,世帯あたりの居住面積は狭く,水道やトイレが共同利用であるなど住宅設備が劣悪な居住環境が存続している。ユーゴスラヴィアの解体やルーマニアなど隣接諸国からのロマの連鎖移住も生じており,ロマの住民数は増加している。また,近年は中国人労働者の流入も起こっており,この地区への集住が顕在化している。  Józsefváros地区の住宅整備事業は,1998年に発足した都市整備会社(Rév8)によって実施されている。その際,ロマの集住地区であることから,住宅や街路などハード面の整備とともに,住民組織の強化と事業への参加の促進,住民の交流を推進するための公共施設の確保,ロマを対象にした学校教育の重点化など居住者の社会的環境の整備も同時に進められている。しかし,根強い地区イメージと,行政主導の整備事業に対する住民の不公平感など事業は必ずしも順調ではない。この地区が依然としてインナーシティとしての性格を持続させていることを,エスニック集団とのかかわりから考察することができる。
  • 番匠谷 省吾
    セッションID: 407
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに
     1964年の木材輸入の自由化以降,わが国の木材輸入量は急増し,外材に依存する状況が定着した。国産材回帰と言われている現在においても,建築用に使用される木材の過半は海外からの輸入木材であり,外材が国内の木材供給に与える影響は大きい。
     これまで,地理学や隣接分野である林業経済学においては国内林業の振興という観点もあって,国産材製材の研究が中心であった。したがって,外材に依存しているにもかかわらず,国内における外材製材業の発展や生産システムについて論じた研究は不十分であった。外材製材業を対象とした地理学の先行研究として藤田(1984)は貴重な成果であるが,大型製材メーカーの寡占化が進む前の研究であり,その後の変化は著しい。特に,外材をとりまく環境の変化の中で,外材製材業の立地に着目する必要がある。
     以上より,本研究では,主に統計により木材輸入の変化,外材製材業の発展プロセスを明らかにし,外材製材業においてどのような生産,構造および立地の変化が生じたかについて検討する。

    2.日本の木材輸入の動向
     図1は1983年以降の日本の製材・合板用丸太の調達量を地域別に示したものである。同図から,大きな特徴として3点を指摘することができる。
     一つ目に,丸太輸入用は1990年代以降減少している。特に,南洋材と米材の減少が目立つ。この要因として,南洋材については資源ナショナリズムの動き,米材ではアメリカ合衆国国内での森林保護の動きと,輸出国側の丸太輸出規制があげられる。
     二つ目は,北洋材の輸入量増加とシェア拡大がみられる。1992年の北洋材貿易の自由化に加え,価格が安いことから,太平洋岸に立地する米材製材工場が北洋材製材を併用するようになったことが要因である。
     最後に,国産材が伐期を迎えつつあり,製材・合板用丸太においてシェアが上昇し,約5割を占めつつあることも近年の特徴であるといえよう。その結果,原料丸太における国産材と外材の競合をみることができる。
     外材の輸入港についても大きな変化がみられた。特に注目されるのは米材丸太の変化である。1995年までは大阪,名古屋,東京などの大都市の港に加えて,清水,和歌山などの木材港の整備された港湾の輸入量が多かった。しかしながら,1995年前後を境に,呉,松永,松山,岩国といった瀬戸内海の港へと米材丸太が集まるようになった。現在では鹿島を加えた上位5港で全体の約75_%_を占めている。この要因として,米材製材メーカーの規模拡大による寡占化が進んだことがあげられる。日本の米材製材メーカーの大型製材工場の立地に伴い輸入港が再編されていった。
     本発表ではこのような外材輸入の変化の下,外材製材業においてどのような生産構造および立地上の変化が生じたかについて,具体的に報告したい。
  • 中田 昭一郎
    セッションID: 408
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.研究目的
     近年、安価な海外製品の台頭や消費者の嗜好の多様化等、地場産業をとりまく環境は大きく変化している。そのことは、従来の効率化・大量生産を目的とした産地内の分業体制にも大きな影響を与えている。
     そこで本研究では、経済のグローバル化をはじめとする経済的・社会的要因が地場産業産地にどのような影響を及ぼしたのか、各企業はそれに対してどのように対応しそれまでの分業体制にどのような変化が起こったのか、その結果産地構造がどのように変容したのかについて、兵庫県豊岡市の鞄産業を事例に考察していく。

    2.豊岡の鞄産業の概要
     豊岡市は鞄の4大産地(東京・名古屋・大阪・豊岡)のうちの1つで、鞄関連の中小企業が集積しており、地方都市としては唯一の鞄産地となっている。豊岡の鞄産業はこれまで、全国の市場への窓口となる「産地問屋」、製造に携わる「製造業者」、全国から材料を仕入れる「材料商」および数多くの下請け・内職による分業体制のもとで、地場産業として成立していた。BR  このような産地構造のもとに、豊岡では主にビジネス・旅行用の鞄を大量生産してきた。しかし、現在では出荷額・事業所数・従業員数ともに減少傾向にある。

    3.産地の対応
    i)産地問屋
     産地問屋には、1980年代以前から海外製品を貿易会社を通して輸入する動きはあったが、本格的に輸入製品を扱うようになったのはバブル崩壊以降である。安価な海外製品が流入して市場に広がると、豊岡の産地問屋への発注価格も下がり、産地の製造業者に発注していては採算が合わなくなったためである。大ロットの製品を海外に注文する一方で、地元の製造業者に対しては主として小ロットで納期の短い製品を注文するようになった。
    ii)製造業者
     前述の産地問屋の対応をうけて、製造業者の仕事は激減し、きわめて厳しい状況に陥った。そのような状況の中、1995年頃、東京の大手鞄業者(Y社)が豊岡に進出し、産地の製造業者に大きな影響を与えた。Y社は製品の品質管理が厳しく、注文を受けるためには多額の設備投資が必要となった。しかし、Y社の注文を受けるようになった企業とその下請けは、大ロットの製品を扱えるようになり、技術の面でも向上が見られた。一方で、Y社の注文を受けなかった製造業者の中にも、産地問屋を通さずに直接市場と結びつこうとする動きが見られるようになった。そのような企業の中から地域ブランドを立ち上げようという動きが起こった。また、自社ブランドの育成や、特殊な技術によって付加価値をアピールしようとする企業も存在する。他方、小規模で手が回らない等の理由で市場の開拓を行なえなかった製造業者は依然として産地問屋に依存した経営を続けており、廃業を考えている企業も存在している。
    iii)材料商
     材料商は大ロットで仕入れた材料を産地に小分けして供給する役割を担っている。材料商は概して産地内への出荷率が高いため、産地の製造業が不振だと、材料商もその影響を当然こうむることになる。材料商には零細なものが多い。従来は、仕入れる製品の種類が少品種ですむので零細でも経営できたが、消費者の指向の多様化により、多種類の材料を仕入れる必要が生じた。加えて大ロットの注文は少ないため、在庫のリスクも抱えなければならず、零細な規模での経営は厳しくなっている。
    iv)下請け業者
     下請け業者の仕事は、産地の製造業者に依存しており、零細な企業が多い。そのため、製造業者が不振だと、下請け業者も大きくその影響を受けてしまう。下請け業者の多くはある特定の工程に特化しており、多品目少量生産では、同じ作業で出来る製品の数が少なくなり、採算が合わない。また、外注だと品質管理が困難なため、製造業者は社内生産を増加させる傾向があり、下請け業者の仕事はいっそう減少している。

    4.結論
     経済のグローバル化を背景に、産地問屋が生き残りのために海外製品の輸入を拡大するようになったため、産地の製造業者の仕事は減少し、豊岡の鞄産業における産地構造に変化が生じた。産地内の企業間のつながりは薄れており、零細な企業にとっては生き残りが厳しい状況になっている。とりわけ零細企業が多い材料商が廃業すると材料を仕入れにくくなり、製造業者も廃業へと向かうことになりかねない。その結果、零細企業の持つ技術が失われる可能性があり、また、産地として成り立たなくなるおそれもある。
  • 山本 俊一郎
    セッションID: 409
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1. はじめに 京都には,京友禅,西陣織をはじめ,伝統的工芸品を生産する多数の伝統産業産地が存在する。しかしながら,1970年代以降,当該産地では職人の高齢化がすすみ,後継者不足のなか,技術・技能の喪失が危惧されている。自治体,各産地組合などを中心に,人材育成事業や販路開拓PR事業などがすすめられているが,現在まで目立った効果は得られていない。実施している人材育成事業は,はたして当該産業に従事する若年従業者が求めているものと適合しているのか。産地の活性化に対してどれほど有効であるのか。現在まで,当該産地では支援事業の効果について詳細な調査がなされていない状況にある。  そこで,本研究では,第一に,京都府内の伝統産業産地における若年従業者に対する多様な支援事業について把握することを目的とする。第二に,伝統的工芸品である「京石工芸品」を生産する京都府石材業産地を対象に,若年従業者の就業意識と当該者による産地活性化への取り組みについて把握する。調査データは,主に京都市産業観光局商工部伝統産業課,京都府石材業協同組合加盟企業,京の伝統産業わかば会,京都伝統産業青年会,石青会などへのヒアリング調査に基づく。 2. 若年従業者間の異業種交流事業の進展 当該産地では自治体による数多くの技能者・後継者育成事業が行われてきた。なかでも,京都市が実施している伝統産業技術後継者育成制度は注目される。主な目的は,若年従業者への育英資金の交付であるが,これらの受給者が自発的に集まり,異業種交流グループ「京の伝統産業わかば会」を形成し,勉強会,展示会を積極的に開催している点は非常に興味深い。その他,各産地組合が組織する青年部の上部組織である京都伝統産業青年会をはじめ,当該産地には,勉強会,展示会を主とした数多くの異業種交流事業の場が形成されている。 3. 石材業における京石工芸品生産の実態  京都府石材業協同組合に加盟する企業の大半は墓石を扱っており,全73社のうち「京石工芸品」を生産している企業は7社にとどまる。さらに7社のうち,工芸品のみ生産している企業は1社にすぎない。1970年代以前は,墓石も手彫りであり,「石をたたく」職人が多数存在していたが,2009年現在,墓石の大半は完成品が中国から輸入されており,その生産工程もほぼ機械化されている。そのため当該産地では,彫りの技術が急速に失われつつある。 4. 技能者・後継者育成事業の課題  調査の結果,現在の技能者・後継者育成事業の実施の際に留意すべき課題としては,以下の4点が指摘できる。  第一に,当該産地では「生産者」と「消費者」を結びつける媒体の役割として,実際にものづくりをおこなう若年従業者がどれほど存在し,どのような就業実態にあるかについてほとんど把握できていない。詳細な産地の実態調査を早急に行う必要がある。  第二に,現在の若年従業者は,明確に「自分の作品」と認識できる製品づくりを希望する傾向にある点を指摘できる。京焼(清水焼)や京石工芸品のように大半の生産工程を自らの手によって手がけることが可能な業種には,若年従業者が比較的多い。よって,京鹿の子絞りや西陣織のように,細かく分業体制が構築されている産地では,全体の工程を最低限継承することで,「自分の作品」を製作できるような支援プログラムづくりが必要である。  第三に,若年従業者は技術面の支援と同時に,ニーズの把握,新規販路の開拓,原材料の調達,生産コストの削減など経営面に関する知識も欲している。技術の習得が優先課題であることは当然だが,安定した収入を得るための経営ノウハウも継承していく必要がある。  第四に,伝統工芸技術を学んだ若年従業者が就職できる場があまりにも少ない。京都にこだわらず,日本全国での求人情報の収集やインキュベーション施設の設置など,幅広い産業・雇用支援策を実施する必要がある。 本調査にあたっては,平成19年度福武学術文化振興財団歴史学・地理学助成金を使用した。
  • 乾 睦子
    セッションID: 410
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    日本列島は、プレートテクトニクスの働きによって様々な時代・場所でできた岩石の寄せ集めで成り立っている。このため、国土の狭さに比して多様な石材が分布しており、明治期に西洋建築が導入されると、その一部は建材として利用されるようになった。なかでも大理石は、岩石の中では耐化学性・耐候性に劣るため外構にはあまり用いられてこなかったが、様々な色彩や縞模様、角礫状の模様などが美しく、磨くと光沢を放ち高級感があることから、建築内装材として多用される岩石である。しかし、現在、国産大理石はほとんど建材として採掘されておらず、産地からも、それが用いられた建築物の管理者からも、国産石材の記憶が失われつつあることが分かってきた。本研究は、国内の建築石材産業の歴史を関係者へのインタビュー調査から整理し、とくに岩手県一関市付近の大理石産業の変遷を例として、日本の地域風土と大理石産業との関連を解き明かそうとするものである。
    日本の大理石産業を隆盛に導いたのは、昭和11年竣工の国会議事堂建設であるとされている。その設計にあたっては、国産石材だけを用いるという強い意志のもと全国で大理石資源が探索された。その結果、今ではほかで見ることができない国産大理石のサンプルが一堂に会する貴重な建築物となっている。しかし、大理石の建材への利用がすぐに一大産業になったのではなく、置時計や配電盤といった、建築設備関連への利用をまず中心として大理石産業の基礎が築かれたということである。その後、建築工法の発達(湿式工法から乾式工法、PC工法へ)によって大理石の安全・効率的な施工が可能になり、建築石材としての需要が伸びていった。
    ところが、その後国産石材産業は大きく市場規模を縮小し、前述のように今では国産大理石はほとんど建材としての採掘が行われていない(あるとすれば、文化財の修繕などの特殊な用途)。その理由としては、まず安い輸入石材の増加、国内の人件費の高騰によって採算が取れなくなったということが挙げられた。また、冒頭に述べた日本の地質学的特徴により、日本の大理石産地はいずれも規模が小さく、採掘が進められるにつれて品質が落ちたり、同じ色目の石材を大量に揃えることが難しいという欠点がある。さらに、採掘場からの石材運搬が困難になったり、石材採掘という行為が環境基準に見合わなくなったなどの理由によって採掘が中止された産地が多いことが分かった。建材の採掘が終了した後、大規模産地では石灰石(鉱業資源としての石灰岩)としての採掘が続けられている場所が多い。また、材料を輸入石材に切り替えて石材加工業が稼働しているところも国内にいくつかある。
    岩手県一関市付近には浅海性石灰岩層が多く分布し、一部は再結晶作用を受けて大理石となっている。第二次世界大戦中から昭和50年頃まで、この地域ではいくつか大理石の採石場が稼行しており、建築石材として採掘・加工が行われていた。市街地の中に石灰岩の山が点在する地形で、その山のいくつかが小規模に採掘されていた。しかし、採掘が進むにつれて大理石の品質が悪くなり、歩留まりが下がる一方、おもに台湾から輸入されたよく似た模様の石材に価格面で対抗できなくなり、昭和40年代後半から徐々に採掘規模を縮小し、昭和50年頃には最後の山が閉山された。最後まで残った石種は黒に近い大理石で、類似の輸入品がほとんどなかったことから長く採掘できたということである。石材業は、加工技術に活路を見出し、ほぼすべて輸入石材を用いて現在も加工・施工業が営まれ続けている。しかし、当時使われた地元産の建築石材は、現存するものを探すのも困難なほどである。
    いくつもの採掘場を数十年間も運営してきた大規模産地においてさえ、上述のように国産石材については忘れ去られようとしていることが分かった。日本の歴史的な大理石産地の多くが同様の状況にあると思われる。大理石産地の歴史と、施工された大理石建材の現況調査を早急に進めていく必要があると考えている。
  • 野澤 一博
    セッションID: 411
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    研究の目的: 地域経済の活性化を目的として、地域の大学にある技術を活かしたイノベーションの取り組みが日本各地で行われている。そこでは、県などの行政機関が中心となり、地域の大学と地元企業との関係構築を促進し、新技術・新製品の開発を行っている。しかし、地方圏では企業や学術機関の集積が小さいので地域でイノベーションを起こすことが難しく、科学技術を基にした新産業創造が困難な状況であると言える。 そのような状況の中で、長野県では行政が中心となって信州大学にある技術シーズを活用した新産業創造の取り組みを行っている。本研究では、信州大学工学部遠藤守信教授のカーボンナノチューブの研究活動を事例として取り上げ、研究成果の展開状況を分析し、地域におけるイノベーションに関する考察を行うこととする。 研究の方法: 本研究では、特許庁のデータと知的クラスター創成事業の資料を基に遠藤教授の共同研究者の立地状況の分析を行い、同時に関係者へのインタビューから共同研究の内容および関係構築方法などについて分析を行った。 結 果: 特許庁のデータベースによると、遠藤教授を発明人として出願公開されている特許は2008年10月現在134件ある。共同研究先と類推される企業・機関は、2002年の39件が最も多く、近年20件程度で推移している。知的クラスター創成事業が開始された2002年以前は県外企業が合計24件、県内企業4件、と県外企業が圧倒的に多かったが、知的クラスター創成事業の成果が出始めた2003年以降の共同研究機関数合計は県外企業8件、県内企業8件と同数になっている。出願分野について、知的クラスター創成事業が始まる2002年以前は電池・キャパシタや電気関連分野の特許が目立つが、2003年以降は複合材成形やめっき関連分野の出願が目立つ。 まとめ: 研究開発の参加企業は、知的クラスター創成事業以前は県外企業が中心であったが、その後東信地域や諏訪・岡谷地域を中心として県内に拡がっており、知的クラスター創成事業の活動により、地域内にカーボンナノチューブの技術が蓄積された。成果の分野としては、県外企業を中心に電池・キャパシタなどの電気関連分野が多かったが、知的クラスター創成事業以降は県内企業を中心に部材関連分野も広がっている。これは知的クラスター創成事業の研究テーマがナノコンポジットの開発ということで、その研究成果として部材の開発が進んでいることを示している。 つまり、地域イノベーションの特徴としては、元々県外を中心に展開されていたイノベーション活動が地域機関のイニシアチブにより地域化されたものであるといえる。それは、政府の政策をきっかけとして、地域機関により技術が見い出され、地域大学と地元企業との関係構築が図られ、活動が地域内に展開していった。 その理由としては、技術の受け皿となる企業が地元にあったというだけではなく、地域機関に産学連携の経験があり、関係構築のためのマネジメントノウハウがあったという為でもある。つまり、知識の伝播のためには、地理的近接性は十分条件ではなく、制度的近接性を伴い展開されるものと言える。
  • 與倉 豊
    セッションID: 412
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    _I_ はじめに これまで,主に都市経済学や地域経済学を専門とする研究者達を中心に,産業集積におけるイノベーションや成長を促す要因として,動学的外部性の存在が指摘されてきた.既存研究では,動学的外部性を_丸1_特定産業への特化,_丸2_地域に存在する産業の多様性,_丸3_市場の競争性によって捉えており,また集積の存在理由を,地理的近接性にもとづく企業間における知識・情報のスピルオーバーに求めている. 一方,経済地理学の分野では産業集積の「外部」とのつながりが重要であるという主張が多くの論者によってなされている.それは有形的なモノやカネがやりとりされる企業間の取引関係だけではなく,無形的な情報・知識の交換が行われる共同研究開発のような水平的な組織間関係においても当てはまる.そこで本研究では動学的外部性概念に加えて,産業集積「内」と「外」といった空間的な次元の違いを導入した回帰モデルを構築することによって,知識資源や研究開発ネットワークによって生み出される外部性と,イノベーションとの因果関係について検討する.

    _II_ 推定モデルの枠組み 本稿では産業集積内におけるネットワークとイノベーションに関する計量的分析を行う際に,産学公連携による共同研究開発に関する悉皆的データが利用可能である「地域新生コンソーシアム研究開発事業」を取り上げる.また事業所企業統計調査で定義されている広域市町村圏(計350都市圏)を分析単位として用いる.  本回帰分析で採用した被説明変数は,各地域における,事業化を達成した主体の総数である.なお,被説明変数が計数データであり負の値をとらないこと,分布が右に歪み,かつ高い尖度を示すことから,OLSによる推定ではバイアスが生じてしまい不適当である.そこで本研究では,Feldman and Audretsch(1999)の分析枠組みに倣って,被説明変数の正規性の仮定を緩めた一般化線形モデルを採用し,ポアソン回帰分析によって推定している.  動学的外部性の効果は,_丸1_5つの技術分野別の従業者数による特化係数,_丸2_産業の多様性を計る指標であるハーシュマン・ハーフィンダール指数,_丸3_当該地域における従業者一人当たり事業所数を,全国における従業者一人当たり事業所数で除した値,によって捉えている.また域内および域外における共同研究開発による組織間ネットワークの影響を検討するために,「域内ネットワーク比率」と「域外ネットワーク数」を説明変数として採用している.さらに域内の大学や公設試といった知識資源の影響を捉えるために,学術開発研究機関と高等教育機関の従業者数を説明変数に含んでいる.

    _III_ 推定結果 表1の推定結果から,域内の主体が多く参加して密な研究開発ネットワークが形成された地域ほど,イノベーションを多く達成していることが明らかとなった.ただし,域外との関係がイノベーションに対して負に働くわけではなく,域外の組織が有する知識が,域内の共同研究開発を補完する役割を果たしていることが分析結果から示唆された.また,動学的外部性のなかで,地域特化の経済と市場の競争性は,事業化達成に対してほとんど影響を与えていないことが示された.
    表1 事業化達成の決定要因に関するポアソン回帰分析による推定結果

    文献 Feldman, M. P. and Audretsch, D. B.(1999): "Innovation in cities: Science-based diversity, specialization and localized competition," European Economic Review, 43: 409-429.
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