抄録
江戸時代の武蔵国では,定期市が広範に展開し,市場網が形成されていた.先行研究では,幾つかの定期市について詳細な検討が行われているが,実態があまり知られていない定期市も少なくない.本研究で取り上げる武州所沢の定期市も,町場関係の史料の不足からこれまで十分な検討が行われてこなかった.しかし,所沢のような中心性の高い定期市では,周辺地域の史料から間接的にアプローチすることで,直接の町方文書の不足を補い得る.本研究では,周辺地域の村明細帳に特に注目し,江戸時代の所沢六斎市と周辺地域との関係を検討したい.
所沢町は東西に走る往還沿いに町並が形成され,北側町並の背面は東川で区切られた.往還は町並の南東端で田無道と府中道に分岐し,また,東川を越える道は川越に通じた.
江戸時代の所沢の市に関する最初の記録は,1639年の市祭文である.だが,定期市の内実にアプローチできるような史料は,17世紀には確認できない.3・8の市日を記録する史料は,管見において1702年の「河越御領分明細記」が最初である.
18世紀中期の所沢町は,6つの市立街区に分かれ,市日を巡回させていた.これは,上州桐生など,規模の大きな市町にみられる形態であり,所沢六斎市の発展を窺わせる.当該期の六斎市では,四十物や古着,古道具などが取引されたことが記録される.市場商人はそれらを川越城下で仕入れ,所沢六斎市で販売した(仲家旧蔵文書,1770年「所沢村御請証文之事」).
周辺地域の村明細帳を分析したところ,所沢六斎市を近隣市場としてあげる村は,南方の武蔵野台地に多く確認でき,現在の国立,小金井,府中市域にまで及ぶ.当時の武蔵野台地では,農業用水の確保が難しく,人々は穀物や日用品を購入する定期市を必要としていた.しかし,江戸時代の武蔵野台地は,人口密度も低く,町場は発達しなかった.18世紀中期には,小川新田・鈴木新田に定期市が設立されたが,周辺村々の記録にそれらはほとんど表れず,また,度々中絶して再興願が出されている.そのため,武蔵野台地の人々は,より遠方の定期市まで出向いたと考えられるが,所沢六斎市は,なかでも特に重要であった.一方で,北方の村々では,所沢六斎市との結びつきを示す史料は現時点でほとんど確認できていない.より中心性の高い川越城下町との競合関係がその背景として考えられる.
町場の発展とともに,幕末期の所沢町では風紀の乱れが顕在化した.1845年には,市日の度に「所々悪もの共」が集まり博奕を始める状況になり,組合村々から取締りの嘆願書が地方役所に提出されている(伊藤1967:92).このとき,歎願を行った村々は所沢組・府中組・拝島組の村々であり,所沢六斎市と武蔵野台地の村々との関係の深さを窺わせる.このような治安の乱れも,所沢六斎市が多くの人々で賑わったことの反映といえる.
文献
伊藤好一1967『近世在方市の構造』隣人社.