抄録
はじめに
イヌブナ(Fagus japonica)は本州太平洋側の雪の少ない地域に生育する樹種で、多樹種との混交林や、小規模な優占林を作ることが知られている。関東平野の辺縁の山地では、イヌブナの小規模な優占林が点在しており、成立についての研究が行われている(大久保 2002など)。イヌブナは根元から分枝する、いわゆる株立ちの樹型を持つことが一般的であるが、稀に株立ちせず、通直な幹を持つ高木となることがある。群馬県中之条町の岩櫃山中腹には、このような通直な幹を持つ、いわゆる非株立ち樹型を持つイヌブナが優占した林が成立している。この非株立ちイヌブナ優占林については、これまでその成立について調査された事はなく、その成立要因は明らかではない。そこで、本研究では、岩櫃山のイヌブナ林について、地形、地質、気象などの調査を行い、非株立ちイヌブナ優占林が成立する条件を検討した。
調査方法
調査はイヌブナ優占林が存在する群馬県中之条町の岩櫃山において行った。イヌブナが優占する場所は中腹に広がっているが、通直な幹を持つイヌブナは北向きの斜面に多く生育している。そこで、イヌブナ優占林を大きく南向き斜面(南面)と北向き斜面(北面)に分け、調査を行った。対象区域では毎木調査を行って、樹種、幹数、胸高直径、樹高および、斜面の方位と傾斜角を記録した。また、概査の際、イヌブナの萌芽本数が多い南面では落石が多く認められたため、落石が多いとされる冬期に、各斜面に落石検出板を設置し、落石数を調査した。また、各斜面の露岩についてシュミットハンマーによる風化度調査をおこなった。また、これと同時に気温・湿度のデータロガーを設置し、気象条件を記録した。
結果
北面、南面ともにイヌブナの出現率に大きな違いは見られなかったが、北面のイヌブナは萌芽が少なく高木となっているものが多かったのに対し、南面では萌芽が多く株立ちしているものが多かった。北面ではイヌブナ以外の樹木の出現種数が多く、南面では比較的少なかった。北面では、部分部分でによってイヌブナの出現率が大きく変化するなど植生が不均一であるのに対し、南面では比較的均一であった。またシュミットハンマーによる調査から、南面のほうが岩石の高度が不均一であり、風化が進んでいる事が明らかとなった。落石検出板の調査から南面の方が落石が多いことがわかった。また、データロガーによる計測の結果、南面は北面よりも気温・湿度の上下動が大きかった。
考察と結論
南面は北面に比べ落石が多いことが落石検出板の調査から明らかになった。 樹木の多くは、何らかの要因で傷ついた後、傷の周辺から萌芽を出す事が知られている。南面のイヌブナに株立ちの樹型が多いのは、落石などによって幹に傷がつき、そこから分枝した結果ではないかと推測された。落石の原因については、南面の方が岩石の風化が進んでいるが直接の原因であると推測される。データロガーによると、南面の方が気温の上下動が大きいが、これは直射日光によるものである。つまり、南面では直射日光による露岩の風化が促進され、落石が引き起こされたのではないかと考えられた。
イヌブナは株立ちの樹型となる事が一般的で、非株立ちイヌブナはあまり見られないとされている。本研究の調査の結果では、北面では特出した環境要因は認められず、非株立ちイヌブナ優占林は特別な要因によって成立しているとは考えにくい。しかしここで、南面のように撹乱が大きい立地がイヌブナの生育適地であると仮定すると、北面で特殊な環境要因が認められなくても、非株立ち樹型のイヌブナが優占する事は説明できる。つまり、比較的撹乱の少ない北面の環境がイヌブナにとって特殊な環境なのである。北面ではイヌブナ以外の樹種が多く生育している事もこの考えを支持する。
しかし、既存の研究ではイヌブナは非撹乱条件でも萌芽する能力が高いとするものもあることから、今後本研究で得られた結論をさらに検討することが重要で、他のイヌブナ優占林との立地条件の比較を行っていく必要があるだろう。
文献
大久保達弘 2002. イヌブナの萌芽特性及びイヌブナ天然林の更新に関する研究. 宇都宮大学演習林報告 38:1-86.