抄録
1 はじめに
これまで世界の牧畜の地理学においては、モンゴルや西アジアや東アフリカのような、典型的といわれる牧畜民の生活が対象になることが多かった(池谷2007)。一方、農民の経済の中心は農業であるということから、彼らが家畜を飼育していたとしても、その研究は無視されることが多い。しかし、南アジアをみてみると実際の家畜飼育の担い手は農民であることが多い(篠田・中里編2001)。例えば、バングラデシュの豚飼育の担い手は非ムスレムの農民たちであった。
以下、南アジアの牧畜研究は、以下のように3分類できる。まず、地理学や文化人類学からのアプローチである。この分野は、現地調査を基礎としてミクロな調査・研究を得意とする。次は、経済学や政治学などである。ここでは、放牧地をコモンズとしてとらえて放牧地と国家の森林政策などとのかかわりをマクロに分析する。最後は、牧畜開発などに従事するNGOや政府などのアクティヴィストの実践的なかかわりである。本研究では、南アジアを対象にして家畜飼育のなかで牧畜に焦点を当てて、その地域的性格を把握することを目的とする。
これまで、筆者は、南アジアのなかでインド・ラージャスターン州のラクダや羊の牧畜、アンドラ・プラデッシュ州(AP州)の羊牧畜、バングラデシュの豚やアヒルの放牧を現地調査する機会があった。また、既存の文献によってネパールやブータンでの羊やヤクの牧畜はよく知られている(渡辺2009)。ここでは、南アジア全体をとらえた場合、牧畜の地域性が明らかにされる。なお、ここで南アジアとは、インド、バングラデシュ、ブータン、ネパール、パキスタン、スリランカを示す。
2 結果と考察
南アジアの牧畜は、いかなる地域においても主に農業に従事する農民とのかかわりを無視することはできない。全体的に人口密度が高いということもあって、放牧地の確保が常に問題にされる。現在でも、収穫後の農地を放牧地として利用することがあるが、ラージャスターン州のように農民との社会関係が維持されているところもあれば、バングラデシュの豚のように、農地を利用するものの固定的な関係がみられない地域もある。両者の違いは、ラクダ・羊と豚との家畜種の違いよる放牧パターンの違いや農民側の状況の違いも反映したものであろう。
本報告では、南アジアにおける多様な牧畜の形を示すのみならず、その地域差が生まれた要因について、主として歴史地理学的視点から分析する。そこでは、ユーラシアにおける家畜化の起源地といわれる中東と中国南部からみた場合、南アジアは両者の中間であるという地理的位置やイスラム教徒の拡大過程などが密接に関与していると考えられる。
文献
池谷和信2007世界の牧畜民における地域性.地理52(3):18-31.
篠田隆・中里亜夫編2001『南アジアの家畜と環境』東京大学東洋文化研究所。
渡辺和之2009『羊飼いの民族誌』明石書店。