日本地理学会発表要旨集
2011年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 604
会議情報

「高い島」と「低い島」との島嶼交流史
19世紀末期から20世紀初頭における西表島南東部と北部とを事例として
*藤井 紘司
著者情報
会議録・要旨集 フリー

詳細
抄録

研究の目的
 本報告では、琉球弧のもっとも南に位置する八重山諸島を対象にして、「高い島」と「低い島」とで構成されたこの海域世界における19世紀末期から20世紀初頭における島嶼間交流を復原することに目的がある。島嶼間交流の研究は、おもに異なる生業経済を持った主体間の交流に焦点を絞ってきた。しかし、本報告は、歴史的に「低い島」の住民が「高い島」の生態環境を利用し、耕作地や水源地を所有してきた事例を通して、海上を越える埋め込まれた生業適応のあり方について分析する。なお、本報告では、この海上を越える生業適応を「通耕」という語彙を用いて、森林資源や飲料水の獲得といった行為を含めて使用する。

研究の方法と結果
 本報告では「高い島」への通耕経験を跡付ける史料として、竹富町役場の所有する土地台帳とそれに付随する地籍図を用いた。また、地籍データの欠如した箇所は、税務課に保管されていた和紙製の「旧公図」を適宜用いて復原した。
 まず、土地台帳に関しては、記載項目を相互に照らし合わせ、合計2083筆の土地について、その所有者の属する大字(所有質取主住所)を1筆ごとに特定し、これを地籍図上で彩色表示した。本報告では、これを「土地の所有権者住所大字分類」と名付けている。
 さらに、統計データとしては、1885(明治18)年当時の八重山諸島に位置する村落の実態をまとめた田代安定(1857-1928)の復命第一書類(国文学研究資料館所蔵)の第28冊「八重山島管内西表嶋仲間村巡檢統計誌」と第35冊「八重山島管内宮良間切鳩間島巡檢統計誌」とを使用した。1892(明治25)年時の「沖繩縣八重山嶋統計一覽略表」(国立国会図書館所蔵)と併せて、当時の「高い島」と「低い島」との関係を検討するためには貴重な史料である。
 また、同時代史料として、「低い島」の頭職に就いていた宮良當整(1863-1945)の記した日誌や備忘録、南島踏査を行った笹森儀助(1845-1915)の『南島探驗』(1894年)を参照した。さらに、視覚的な史料としては、1890年代の前半に作成されたと考えられる「八重山古地図」(沖縄県立図書館所蔵)と「八重山蔵元絵師の画稿」(石垣市立八重山博物館所蔵)とを使用した。
 これらの史料と、土地台帳とそれに付随する地籍図、および明治30年代の状況にふれた「宮良殿内文書」の分析、また聞き書きによるフィールド調査や伝承されてきた古謡の分析をもとに、八重山諸島における「高い島」と「低い島」との交流史を復原した。
 これらの調査によって、本報告の対象とした事例には、狭域集中型の通耕と広域分散型の通耕の2つの形態があり、また、「低い島」の住民は、「高い島」に水を得るための「池沼」や、通耕先で寝泊まりするための「宅地」を村(字)持ちで所有していたことをあきらかにした。
 1904(明治37)年の「琉球新報」には、本報告の対象とした「低い島」の住民による刳舟の操縦技術の卓越さを記した記事があり、おそらく、通耕と操舟の技術とは、歴史的に併行し成長してきたといえる。「高い島」と「低い島」とで構成されたこれらの海域世界は、このような「海上の道」を維持することによって、島嶼環境に規定された制約性に対応し、埋め込まれた生業適応という現象を発生させてきたのである。

著者関連情報
© 2011 公益社団法人 日本地理学会
前の記事 次の記事
feedback
Top