日本地理学会発表要旨集
2012年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 811
会議情報

発表要旨
米軍統治下の奄美有良集落における食糧生産と流通
*三上 絢子
著者情報
会議録・要旨集 フリー

詳細
抄録

1、はじめに
1946年2月2日、北緯30度線以南のトカラ列島、奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島は、日本政府から政治上・行政上、分離されて、アメリカ海軍軍政府の支配下に置かれた。鹿児島と奄美諸島との間の海上が境界線で閉ざされ、この「海上封鎖」で自由渡航も禁止、日本本土との交易は断絶した。海上封鎖が解禁され自由渡航が実現したのは、日本国とアメ リカ合衆国との間で、日本返還の締結が発効したことによって, 1953年12月25日に奄美諸島が1972年5月15日に沖縄が日本に返還されたことによる。
奄美において、1946年3月、軍政府は食糧問題について「食糧は、米食本位の考えは改めよ、補給はするが米の外に缶詰類、メリケン粉等を送る.」「一人一日2000カロリーは絶対に保障するであろう」と島民にメッセージを送った。放出食糧の配給価格も1946年6月当時から次第に値上りする。さらに配給基準量が半減し大人1人1日につき2000カロリーの基準は、実質的には1200カロリーから1400カロ リー となり、5月下旬には500カロリーと激減している。その結果、奄美においては食糧が不足することになった。
2、研究目的
食糧不足を補うために食糧生産を増加させる必要に迫られた。その1つの事例として、三方村大字有良集落は、農地は狭く三方が山に囲まれ耕地の少ない中で、条件の悪い山の耕地を使わなければならなかった。山の耕地での農産物は主食となる甘藷栽培で、大量の甘藷が生産されて名瀬の食糧不足を補っている。この事実から有良集落において、どのような生産過程であったか、どのようなルートによって、農産物が流通したかを明らかにしたい。
3、結果
有良集落の特徴は、藩政時代の黒糖生産に土地が狭いために集落を囲む東西の山は,背後から集落周辺まで砂糖黍耕作地であった。その土地の再活用に着手して、共同体のユイワクによって条件の悪い山の耕地において、大量の甘藷の生産を可能にしている。
その結果、名瀬の消費を目的に大量の農産物が生産され、カツギ屋や集落所有の板付け船によって、名瀬に運ばれ食料不足を補っている。
本研究によって、事実から有良集落において、食糧不足を補った農産物の生産過程と農産物が、有良集落と名瀬との間における流通の仕組みが明らかにされた。

著者関連情報
© 2012 公益社団法人 日本地理学会
前の記事 次の記事
feedback
Top