抄録
1.はじめに
元文3年(1738)に盛岡藩で作成された「諸士知行所出物諸品并境書上」(以下「書上」と表記)は,盛岡藩が地方知行を行っている全給人に,知行地ごとの知行内容や自然環境,生産物とその用途を書き上げさせた「産物調査」である.本研究では,給人ごとの属人データである「書上」の情報を,村落ごとの属地データに変換してデータベース化する作業により,816名の給人が提出した1,935件分の給地情報を抽出した.本発表では,「書上」の分析により,近世中期の盛岡藩における知行の形態と地域資源の分布を提示し,近世における自然環境と人間の生産と生活の具体像,それを取り巻く社会環境のありようを考察する.
2.知行の形態
盛岡藩の知行取り給人は,藩庁の職務に従事している「諸士」と,各地の代官所に所属し,そこでの職務を補佐する「在々御給人」に大別できる.「書上」で確認できる人数は,「諸士」が455名,「在々御給人」が361名である.「諸士」は100~200石前後の石高を拝領している層が多く,「在々御給人」では,そのほとんどが50石未満である.給人は1名で複数の給地を得ており,しかも,多くの村が「相給」の状態にあった.「諸士」に含まれる上級・譜代中級家臣に対する給地は,南部氏の伝統的な本貫の地である藩領北部で旧領安堵の形をとり,加増分は天正18年(1590)以降に確定した藩領南部から給与されるのに対し,新参系統の家臣の給地は,藩領南部に限られるのが一般的であった.「在々御給人」の多くは,盛岡以北に所在する12の代官所に所属しており,その給地も所属代官所内の村にある場合がほとんどであった.
3.地域資源の分布
各給地に課せられる所務の分布をみると,北上低地では多くの村落が米で賄うのに対し,山間部や丘陵地では大豆(一部は稗)で賄う村落が集中しており,盛岡藩では畑作地帯が広く分布していたことがわかる.工芸作物では,葉煙草や楮は藩領北部の山間部や丘陵地,藺草や萱類は低湿地にそれぞれ集中しており,適地適作ともいえる地域的偏在が顕著といえる.農業生産以外にも,山林原野や河海川湖沼における採集・漁撈など、多様な地域資源の利用のあり方も確認された.
いずれの村落においても,多かれ少なかれ複数の生産部門や品目の組み合わせの上に成り立っている状況が明らかとなった.藩領北部の山間部などにみられる大豆生産と堅果・山菜類の採取,漆器製造の複合は,その好例といえる.