抄録
調査地の方正県はハルビン市の東郊外に位置する典型的な農村地域であり、日本人残留孤児の多い町として有名である。地形分類上では低山丘陵と地溝河谷平野に属する。河川地形は螞蜒河・亮珠河・大羅勒河・松花江に沿って分布し、広い谷底平野と河岸段丘が発達している(方正県誌)。農業地域は主にこのような地形条件のところに分布している。寒温帯大陸性モンスーン気候で、年平均気温2.8℃、1月の平均気温‐19.4℃、7月の平均気温22.1℃、≧10℃の積算温度2,518.4℃、無霜期間138日、年降水量579.7mmとなっている(方正県誌)。 農家数は31,024戸、農村労働力は70,940人、うち53,234人(75%)は農業に従事している(哈爾濱市統計年鑑)。耕地面積68,107haそのうち水田は47,577ha(70%)、畑は20,530ha(30%)となっている(ハルビン市統計年鑑)。 本発表は主に方正県における水稲栽培の歴史、農村部の人口流出と国際結婚等について述べる。 方正県では、民国3年(1914)には主に食糧作物と豆類(90%以上)が栽培され、換金作物と野菜は少なかった。満州国時代初期はアワが多く栽培され、その後トウモロコシが主要作物となった。日本人の開拓団員と朝鮮族の増加に伴い、水稲と陸稲の栽培が始まった。水稲栽培面積は1949年に3,200haであったが、1981年以降、「水稲王」とよばれた藤原長作によって畑地育苗疎植法が導入され、水稲栽培面積は1982年に3,733ha、1985年に12,200haに急増した(方正県誌)。2010年には47,577haに達し、単収も1985年の328kg/ムー(1ムー(畝)=6.67アール)から626.4kg/ムーにほぼ倍増した(方正県政府資料)。現在、方正県は中国寒冷地水稲畑地育苗疎植技術発祥の地として、また中国方正米の里として知られている。 ハルビン―同江高速道路の方正県ICの近くに有機米生産基地が設置され、敷地(6,700ha)内に方正県稲作博物館や方正水稲研究院も建設されている。この土地は付近の朝鮮族の村から購入されたもので、稲作を得意とする朝鮮族の農民が有機米生産基地内で働いている(現地調査により)。方正県中心部の南西に位置する会発鎮は、県内一の水稲産地で、水稲作付面積は12,221haに上る。同鎮の愛国村の愛国正屯は、人口約600人(2012年)、耕地面積約130haの集落である。文革時代から改革開放の始まりまで、畑ではトウモロコシ、大豆、コウリャン、アワなどが栽培されたが、現在はほとんど水稲になった。藤原長作が稲作指導に来るまでは、わずかな水田があったが、それ以来、井戸を掘削して、その用水で水稲を栽培した。その後、電気ポンプが使えるようになり、わずかな自給用野菜を除いて、農地のほとんどで水稲が栽培されるようになった。 水稲作の労働生産性は高く、余剰労働力は方正県中心部や隣接する通河県への出稼ぎに向けられている。30~50人が、日当100元程度の賃金(昼食支給)で、ビル建設現場などで働いている。ハルビン市の中心部まで出稼ぎに行く者もみられる。 また、方正県には日本人残留孤児と結婚した中国人が少なくない。日中国交正常化後、残留孤児およびその家族の日本帰国に伴い、方正県と日本との間の人的交流が活発になり、方正県から留学や結婚等の目的で来日する者が増加した。特に方正県の女性が日本人男性と結婚して来日する者が多くなる一方で、方正県では嫁不足問題が起こった。このため周辺の農村地域から新婦を迎える例が増加したが、なかにはベトナム出身の女性を配偶者とする例もみられる。参考資料哈爾濱市統計局 2012,『哈爾濱市統計年鑑2011』,中国統計出版社。方正県誌編纂委員会 1990,『方正県誌』中国展望出版社,708p。