抄録
現在まで様々なメディアによって別府は語られ、観光客は画一的な「温泉観光地」という言説が生産されてきた。しかし、こうした画一的な言説のみで別府が構成されているとは言えないのではないだろうか。以上のことから、本研究の目的は、明治期以降に近代的温泉観光地として発展を遂げ、現在も年間1000万の観光客が訪れている国際温泉観光都市別府を事例に、戦前から現代までの温泉観光地としての別府の言説が旅行雑誌や新聞記事などのメディアによってどのように創られ、どのような変遷を辿ったのか、その社会的・政治的背景について明らかにすることである。 本研究の研究方法は、バトラーの「観光地ライフサイクル理論」を援用し、別府の観光地発展過程を探検期から衰退期に時期区分していく。そして、時期区分に従って言説の変遷を明らかにしていく。別府の言説の変遷とその政治的・社会的背景を明らかにするためには、大分新聞や大分合同新聞、雑誌『旅』などのメディアを用いて、その言説を読み解く。「観光地ライフサイクル理論」を援用した結果、別府の観光地発展過程は次のように時期区分ができ、言説の変遷が生じたことがわかった。探検期は明治期以前で、海岸部に僅かに宿泊施設が立地し、訪れる人も僅かであった。関与期は明治期で、近代的温泉観光地としての土台となる交通・観光インフラの整備が実施された。各メディアによっても、近代的観光地として繁盛している別府が語られていた。発達期は大正期から終戦までで、関与期から引き続き交通・観光インフラが整備され、好景気の影響で宿泊客が増加すると共に、木賃宿から旅籠宿への転換が進んだ。この時期、宿泊客の増加や観光施設の整備により市内南部の浜脇や流川を「歓楽地」とする言説が、市内北部の鉄輪を「湯治場」とする言説がそれぞれ語られ始めた。確立期は終戦から高度経済成長期までで、別府国際観光温泉文化都市建設法が制定され、別府国際観光港や九州横断道路が整備された。その結果、別府を訪れる観光客は団体観光客を中心に増加を続けた。確立期では、発達期同様に鉄輪は「湯治場」として、流川は「歓楽地」として語られていた。流川を「歓楽地」とする言説は団体観光客と供に語られていた。停滞期は高度経済成長期後からバブル経済崩壊までで、それまで増加を続けていた観光客数が初めて減少に転じた。特に、宿泊客の減少が大きく、確立期に整備された大型旅館やホテルが撤退を始めた。特に、浜脇などの市内南部地域の衰退は激しかった。その影響から停滞期では、新たなに浜脇や竹瓦温泉周辺を「レトロ」な雰囲気が漂う場所とする言説が語られた。衰退期は、バブル経済崩壊後から現在までで、宿泊客数の減少は続いていたが、外国人観光客の積極的な誘致により、韓国や中国からの外国人観光客が増加し、別府観光の国際化が進んだ。衰退期では、それまで「歓楽地」として語られていた地域が衰退していき「レトロ」で情緒ある場所として語られている。 別府市内で言説の変遷に地域差があることが明らかになった。別府市北部の鉄輪温泉や亀川温泉では、関与期から湯治場として、地獄地帯は発達期から観光地としてそれぞれ語られていた。一方、別府市南部の浜脇温泉や松原では確立期から歓楽街として語られていたが、浜脇温泉は停滞期から、松原は衰退期から歓楽地としてではなく、レトロで情緒ある地区として語られ始め、現在でも続いている。