日本地理学会発表要旨集
2014年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: S1306
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発表要旨
昭和初期の「大呉市」成立過程
*松山 薫
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抄録

広島県呉市は、1889(明治22)年の呉鎮守府の開庁を契機に、軍港都市として近代以降急速に発達した都市である。1902年に宮原村、荘山田村、和庄町、二川町が合併して市制を施行し呉市となった。その後、周辺に海軍関連施設用地が拡大するのにともない、さらに隣接町村の合併を視野に入れた「大呉市」構想が模索されたが、それが実現するのは昭和に入ってからであった。すなわち旧呉市に隣接する吉浦町、警固屋町、阿賀町の編入(1928[昭和3]年)、そしてさらに東方の広村、仁方村の編入(1941年)である。こうした市域拡大の背後には海軍の意向が働いていたが、一方で関係する自治体の側も、地域性や歴史的経緯の違いから、合併に対する態度は町村ごとに大きく異なった。本発表では、独自路線を貫こうとしたものの、海軍と広島県の圧力により最後に合併を受け入れた賀茂郡広村を主にとりあげる。 1941年に呉市と合併することになる広村は、地勢的にも歴史的にも当初の呉市域とは一線を画しており、呉市との合併を最後まで拒否しようとした自治体であった。広村は黒瀬川(広大川)河口部の低地を中心に発達した農村で、広村の西に位置する灰ヶ峰や休山などの山塊が、旧呉市の市街地が広がる二河川・境川流域との間を隔てている。広村はもともと優良農村として全国的な知名度を誇っていた。1910(明治43)年、内務省の模範村選奨制度が始まった際に、広村は最初に表彰を受けている。その後、1921(大正10)年に呉海軍工廠広支廠が開庁(2年後に広海軍工廠として独立)すると、それまでの農村的性格は次第に変貌した。広村は、急激な人口流入と市街化に対応し、将来的には「広市」としての市制施行を視野に入れた独自の都市計画に着手した。しかし、一方で呉市も呉市、阿賀町、警固屋町、吉浦町、広村を範囲とする広域的な呉都市計画区域案を作成していた。広村は当然そこに含まれることに強く反発したが、海軍、広島県、呉市の3者の意向のもとで1925年に呉都市計画区域は決定され、広村独自の都市計画構想は消滅した。 このような軍港周辺の都市計画決定や市町村合併には、海軍関連施設等の散在する地域を一体的に扱おうとする海軍の意向が強く働いており、それに抗うことは時代を追うごとに困難になった。田村(1957)によると、1940年11月に、元呉市長・澤原俊雄が自邸で山中直彦広村長、相原環仁方町長、水野甚次郎呉市長らと会見し、広村、仁方町の両首長に呉市との合併を説いた。その後5ヶ月間、山中村長は、海軍(鎮守府参謀長、工廠長等)と、その意を受けた広島県(知事、総務部長等)との交渉にあたって奔走したが、最終的には両者からの強硬な申し入れにより、「高度国防国家建設」のために合併を受け入れざるを得なかった。なお、こうした一連の軋轢は、戦後における広の呉市からの分離を目指す運動(1948~1950年)にまで尾を引いた。 田村信三 1957.『広町郷土誌』広町郷土史研究会.

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