日本地理学会発表要旨集
2014年度日本地理学会秋季学術大会
選択された号の論文の198件中1~50を表示しています
発表要旨
  • 佐久鯉に着目して
    橋爪 孝介, 児玉 恵理, 落合 李愉, 堀江 瑶子
    セッションID: 101
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    本研究では、水田を利用した内水面養殖業が盛んに行われてきた長野県佐久市を取り上げ、佐久鯉に焦点を当てることで地域の内水面養殖業の変容を明らかにすることを目的とする。
    現在では水田養鯉はほとんど行われなくなり、一部の自給的な生産を除き、養鯉のほとんどが内水面養殖業に特化した事業者によって担われるようになった。これらの事業者は養魚事業者、加工事業者、自給的養魚者の3つに類型化できる。事業者は佐久鯉の養殖だけでは現在経営を成り立たせることは困難であり、他の収入源を確保した上でコイの取り扱いを継続している。
    厳しい経済状況でコイの取り扱いが継続されている背景として、地域に根差した鯉食文化の存在を指摘できる。佐久市では正月や慶弔時にコイを食べる習慣が維持されているほか、佐久鯉まつりの開催など地域のシンボルとして佐久鯉が活用されている。また市民団体・佐久の鯉人倶楽部による佐久鯉復権運動、食育活動、佐久鯉を活用した新商品の開発など、佐久鯉の消費拡大に向けた取り組みが行われ、地域の内水面養殖業を支えている。
  • 水田養魚に着目して
    児玉 恵理, 橋爪 孝介, 落合 李愉, 堀江 瑶子
    セッションID: 102
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    長野県佐久市では水田養魚という特徴的な内水面養殖業が行われ、養殖対象魚種は主にコイであった。戦後は米の収量が重視され、コイについても大型の切鯉が好まれるようになり、水田と養殖池は次第に分離した。生産面でも米は農家、コイは養殖事業者に分化した。こうした中、フナは水田での養殖(水田養鮒)が現在も行われており、農家の副業として継続されている。本研究ではフナに着目し、水田養魚の変容を明らかにすることを目的とする。














  • -山口県周防大島町を例として-
    助重 雄久
    セッションID: 103
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    Ⅰ 本報告の背景とねらい
    少子高齢化に悩む多くの市町村は、他地域からの移住者を定住させる取り組みを重要施策として掲げ、移住説明会や移住体験会等を実施する市町村も増えてきた。しかし、農山村地域に移転・定住した人々の多くは、定年者や早期退職者であり、地域産業の担い手育成や人口の再生産には結びつかない。一方、子育て中あるいはこれから子育てをする若年層の移住は、満足のいく住まいや保育・教育施設、就業先がみつからないことが障害となって、なかなか進まない。こうしたなかで、全国有数の高齢化である山口県大島郡周防大島町では、「周防大島町定住促進協議会」を発足させて、官民が一体となって受け入れ体制を整えており、2012~13年には2年連続で社会増となった。本報告では、若年層の移住者への聞き取り調査をもとに、移住に至るまでの経緯や、移住者が挑戦しているさまざまな取り組み、島における移住者の役割について考察した。
    Ⅱ 移住前の状況と移住の動機
    聞き取り対象者10名のうち6名は親戚や妻の父か母が周防大島の出身者であり、その他は新規就農者フェアや島づくりのためのイベントで周防大島出身者と知り合ったのが島を知るきっかけであった。移住の動機は全員が移住後に従事している職業をしたいためであった。また関東圏から移住した2名は東日本大震災後に放射能の影響を受けない地域で子どもを育てたいことが、移住を急ぐ動機となった。東日本大震災以降はこうした「放射能避難民」が急増しており、社会増をもたらした一因にもなっている。
    Ⅲ 住まいの確保と移住後の就業状況
    移住後の住まいは、親類や親がいる場合、それらの所有物件や、親類や親の知り合いが所有している家屋であった。その他は、島の知り合いか定住促進協議会の仲介で、空き家を探して住んでいた。移住後の職業は農業が4名、漁業が1名、養蜂業が2名、設計士+ジェラート専門店1名、ジャム専門店1名、ポータルサイト運営者+観光協会1名であった。農業をしている4名のうち、2名は農学部出身者で農業に関する知識があったが、他の2名の前職はイベントプランナーとミュージシャンで、農業経験はなかった。農業以外に従事している6名の前職は旅行会社社長、CM制作者、ホテルマン、設計士、電力会社社員、情報通信関係企業の社員で、設計士以外は前職と無関係であったが、養蜂業の2名は退職後に農家や父親の養蜂業の手伝いをした経験があった。
    Ⅳ 島の産業再生に寄与する移住者
    今回対象とした移住者全員が、インターネットを島での生活や仕事にとって欠かせないツールと考えていた。業務上では①島で入手しにくい業務用資材の購入、②生産技術や市況等の情報収集、③独自の生産方法や商品のPR、生活上では①島にない生活雑貨等の購入、②島で安く入手できない商品の購入に多用されていた。  しかし、大部分がネットで物を販売するには否定的であった。彼らは、島の恵みを活かした農産物、ジャム、ジェラートを作りたい、移住時から今日に至るまで世話になっている島民と共に歩みたい、という思いが強い。このため、生産物も可能なかぎり島内のチャレンジショップや「道の駅」、近隣の有機農産物販売店等で売り、訪れる観光客に周防大島の良さを伝えたいと考えている。また、農業や養蜂業に従事している移住者は、耕作放棄地や遊休地も活用して有機農業や観光農園等に取り組んでおり、地域産業の再生にも寄与する存在になりつつあるといってよい。
  • ダービーシャー・グリンドルフォード村を事例として
    飯塚 遼
    セッションID: 104
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    本研究はイングランドの農村を事例として、ルーラル・ジェントリフィケーションの進展地域における住民のライフスタイルの諸相を明らかにすることを目的とする。
  • 外来野菜の普及との関わりを中心に
    清水 克志
    セッションID: 105
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    大正期から昭和戦前期の日本では,都市化の進行や鉄道輸送体系の整備が,近郊園芸・輸送園芸の発達を促すとともに,明治期に導入された外来野菜の普及も著しく進展した.このような現象に着目した既往研究では,野菜生産そのものや流通の実態について関心が注がれる反面,生産の前提条件となる種子の供給については関心が希薄であったように思われる.本発表では,当該期に農林省が実施した2度の野菜種子生産に関する実態調査の結果(『蔬菜及果樹ノ種苗ニ関スル調査』1929年・1940年)や,『種苗業者要覧(昭和五年度)』などの資料の分析を通して,当時における野菜種子生産の全国的な動向について検討する.その上で,品目ごとの違いを分析し,当該期に普及が進展した外来野菜の種子生産の特徴を抽出する。以上の作業を通して,野菜採種業の興隆が外来野菜の普及に果たした役割について考察する.

    2.野菜種子生産の全国的動向
    1927年当時の野菜種子の品目別の生産量をみると,ダイコン(5300石),ニンジン(2700石),ゴボウ(1200石)が群を抜いて多い.種子の大きさは品目よって大きく異なるので,その点を考慮しなければならないが,日本における伝統的な野菜生産・消費において,根菜類の比重が高いという特徴の一端を示しているといえる.
    次に野菜種子の購入率を示した図1をみると,種子を購入する割合は,品目によって差が大きいことがわかる.購入率は,葉菜類で高率,果菜類やネギで低率であり,根菜類は中位であるといえる.とくに外来の結球野菜であるキャベツ(89%),ハクサイ(88%),タマネギ(79%)が上位3位を独占している点が注目される.このことから,外来野菜,とくに結球野菜は自家採種が難しいために,普及の当初から種苗業者が生産する種子への依存が高かったことが推察される.
    1930年代における外来野菜3品目の道府県別採種量を示した図2をみると,1品目の採種量が数十から数百石という道府県が散見されることから,種子の特産地が形成されていたことがわかる.

    3.外来野菜普及の前提条件としての種子生産
    外来野菜3品目のうち,ハクサイの採種量は,愛知(310石),宮城(280石),福島(250石),福岡(150石),茨城(140石)などで多い.ハクサイは交雑しやすい特性のため,育採種業の進捗が遅かったが,1920年代から種苗業者による育種に加え,松島湾(宮城),知多半島(愛知),涸沼(茨城)などに,周囲との隔絶性の高い採種地が形成されたことにより,急速に栽培が広まった.このうち宮城,福島,茨城などでは,ハクサイ種子生産が大規模な産地形成へと結びついた.ハクサイの作付面積は,1940年代にはダイコンに次ぐ第2位となった.
    タマネギの採種量は北海道(250石)と和歌山(230石)が群を抜いて多い.北海道では開拓使によりタマネギが導入され,早くから秋穫り産地が形成された.また明治中期には大阪の泉州地方で育種に成功し,春穫り産地の形成が進むと,後背地である和歌山が種子の供給地となっていった.キャベツの場合も,北海道(63石)をはじめ,採種量の多い道府県において,産地が形成されている場合が多い.当時,五大市場へのキャベツ出荷量が最大であった岩手では,採種量が僅少であるが,これは北海道からの種子の供給が多かったためと推察される.  当日の発表では,採種地域の具体的な資料をもとに報告する.
  • 荒木 一視
    セッションID: 106
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
     戦前の日本の米が国内で自給されていたわけではない。少なからぬ量の米が植民地であった台湾や朝鮮半島から供給され,国内の需要を賄ってきた。その一方で,少なからぬ穀物(米,小麦,粟など)がこれらの地域に輸移入されていた。本発表では朝鮮半島の主要港湾のデータに基づき,これらの主要食用の輸移出入の動向を把握する。これを通じて,戦前期の日本(内地)の食料(米)需要を支えた植民地からの移入米を巡る動向と,1939~1940年にそのような仕組みが破綻したことの背景を明らかにしたい。
     第一次大戦と1918年の米騒動を期に,日本は東南アジアに対する米依存を減らし,それにかわって朝鮮半島と台湾に対する依存を高める。円ブロック内での安定的な米自給体系を確立しようとするもので,1920年代から30年代にかけて,朝鮮半島と台湾からの安定した米の供給が実現していた。しかし,1939年の朝鮮半島の干ばつを期にこの食料供給体系は破綻し,再び東南アジアへの依存を高め,戦争に突入していく。以下では朝鮮半島の干ばつまでの時期を取り上げ,朝鮮半島の主要港の食料貿易の状況を把握する。  この時期の貿易総額は1914(大正3)年の97.6百万円から1924(大正13)年には639百万円,1934(昭和9)年には985百万円,1939年(昭和14)年には2,395百万円と大きく拡大する。貿易額の最も多いのが釜山港で期間を通じて全体の15~20%を占める。これに次ぐのが仁川港で,新南浦や群山港,新義州港がそれに続く。また,清津,雄基,羅津の北鮮三港も一定の貿易額を持っている。
     釜山:最大の貿易港であるが,1939年の動向の貿易総額734百万円のうち外国貿易額は35百万円,内国貿易が697百万円となり,内地との貿易が中心である。釜山港の移出額260万円のうち米及び籾が46百万円,水産物が14百万円を占め,食料貿易の多くの部分を占める。なお,1926年では輸移出額計124万円のうち玄米と精米で50百万円と,時代をさかのぼると米の比率は大きくなる。1939年の釜山港の移入額では,菓子(4百万円)や生果(8百万円)が大きく,米及び籾と裸麦がそれぞれ3百万円程度となる。1926年(輸移入額104百万円)においても輸移入される食料のうち最大のものは米(主に台湾米)で,5百万円程度にのぼる。これに次ぐのが小麦粉の2百万円,菓子の百万円などである。
    仁川:釜山港同様に1939年の総額367百万円のうち外国貿易は67百万円と内地との貿易が主となる。1920年代から1930年代にかけて,米が移出の中心で,1925年の輸移出額64百万円のうち,玄米と精米で47百万円を占め,1933年では同様に43百万円中の28百万円,1939年では106百万円のうち32百万円を占める。なお仕向け先は東京,大阪,名古屋,神戸が中心である。輸移入食料では米及び籾,小麦粉が中心となる。
    鎮南浦:平壌の外港となる同港も総額213百万円(1939)のうち,外国貿易は29百万円にとどまる。同年の移出額89百万円のうち玄米と精米で15百万円を占め,主に吉浦(呉)や東京,大阪に仕向けられる。移入では内地からの菓子や小麦,台湾からの切干藷が認められる。
    新義州:総額135百万円のうち外国貿易が120百万円を占め,朝鮮半島では外国貿易に特化した港湾である。1926年の主要輸出品は久留米産の綿糸,新義州周辺でとれた木材,朝鮮半島各地からの魚類などで,1939年には金属等,薬剤等,木材が中心となる。いずれも対岸の安東や営口,撫順,大連などに仕向けられる。輸入品は粟が中心で,1926年の輸入総額52百万円中17百万円,1930年には35百万円中,15百万円,1939年には46百万円中12百万円を占める。移出は他と比べて大きくはないが,米及び籾を東京や大阪に仕向けている。
    清津:日本海経由で満州と連結する北鮮三港のひとつで,1939年の総額158百万円中35百万円が外国貿易である。1932年の主要移出品は大豆で,移出額7百万円中3百万円を占める。ほかに魚肥や魚油がある。移入品では工業製品のほか小麦粉,米及び籾,輸入品では大豆と粟が中心である。 
  • 花木 宏直
    セッションID: 107
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    近代日本では,海外を含む人口移動の活発化がみられた。地域住民は,出身地にとどまらない多様な居住地の選択が増加した。既存研究においては,近代日本における地域形成の担い手として,地元有力者をはじめ,出身地に居住し続けながら,自身の利益を度外視して地域振興に貢献しようと行動する者に注目されるきらいがある。しかし,出身地に居住してきたが,生計維持といったさまざまな事情で転出しようとする者も少なからず存在する。一方,転出後,出身地との紐帯を維持しながら地域形成に貢献しようと行動する者がいれば,出身者でも現住者でもない者が偶発的に地域形成に関与する場合もある。とくに,近代の地域形成においては,出身地から転出した不在者こそが,出身地に居住し続けていては獲得することのできない莫大な資金の提供や,事業の停滞を解決し,地域形成に貢献しうるという特性がみられないか。以上の点を踏まえ,本発表は,近代において不在者が出身地の地域形成に果たした役割を検討することを目的とした。本発表の研究対象地域として,沖縄県旧首里市域を事例とした。首里は,近代を通じて人口が減少し,主力産業であった泡盛醸造業をはじめ産業の衰退がみられた。一方,地域住民は,東京や大阪といった日本国内に加え,台湾や満洲,中国,朝鮮,サイパン,ハワイ,アメリカ,ペルー,ブラジル,アルゼンチンといった海外を含む各地へ盛んに転出し,さまざまな事業に従事した。これらの不在者の中には,旧家の長男が多く含まれていた。その結果,昭和前期の首里は空家が増加し,首里市役所内に公設質舗と職業紹介所が開設された。一方,大正後期以降,首里城の保存事業が展開し,首里市図書館等が開設され,文教都市化が進展した。首里の文教都市化には,不在者によるさまざまな関与がみられた。まず,卒業生の多くが首里および周辺地域出身者である第一中学校(現,首里高校)および第二小学校(現,城西小学校)の創立記念事業に注目した。大正9(1920)年に行われた第一中学校創立40周年記念事業では,事業費の高額寄付者の1位は旧王家で東京に転出した尚家であり,2位以下は主に沖縄県に居住する会社重役や医師,議員といった地元有力者の比重が大きく,少数ではあるがアメリカ居住者からの寄付もみられた。昭和5(1930)年の第一中学校創立50周年記念事業では,1位は尚家と沖縄県出身・在住の弁護士であり,主に沖縄県に居住する地元有力者や東京等の会社重役の比重が大きかった。しかし,3位にはハワイの開業医やペルー居住者が登場し,中位以降もペルー居住者からの寄付が多くみられた。次に,昭和10(1935)年に行われた第二小学校創立50周年記念事業では,1位はアメリカ居住者,2位はフィリピンの拓殖会社支配人等であり,海外居住者が尚家や首里の地元有力者を上回る金額の寄付を行っていた。また,フィリピンやハワイ,ブラジル居住者が多数登場しており,ハワイ移民は校旗も寄贈していた。南洋居住者からは,寄付金とあわせてワニやトカゲの標本の寄贈がみられた。続いて,昭和11(1936)年に開館した首里市図書館の開設経緯に注目した。計画は明治末年に成立したが,建物に充てる予定であった首里城旧寝殿を尚家が由緒地として買収したため頓挫した。昭和初年に大典記念として再び事業化し,建物として首里城御番所を譲渡する予定となったが,芸術家鎌倉芳太郎等の提唱を契機とした首里城の保存運動に伴い首里城大修理が行われたため再び頓挫した。昭和11年,首里出身で那覇に居住する旧家が,図書館建設資金5,700円を寄付したことから三度事業化し,同年第二小学校敷地内に開館した。寄付や書籍の寄贈は首里に居住する地元有力者や教育関係者等が主に行ったが,尚家からの寄付はみられず書籍を59冊寄贈したのみであった。一方,ハワイ居住者から多くの寄付や書籍の寄贈がみられ,首里市図書館には布哇首里市人会文庫が開設された。このように,大正後期以降の首里では,尚家や首里に居住する地元有力者に代わり,那覇やハワイ,ペルーをはじめ首里出身で海外を含む各地に転出した不在者が高額な寄付や物品の寄贈を行い各種事業の成立に貢献することで,文教都市化に重要な役割を果たした。
  • 1820年代ロンドン水道会社を事例として
    春日 あゆか
    セッションID: 108
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
     18世紀の終わりから19世紀初頭にかけてイギリス北部の都市は急速に工業化し,蒸気機関数や石炭消費量が拡大した.この結果,大気汚染が深刻化し,1821年に「蒸気機関炉からの煙害訴訟促進法」が成立した.本発表では,ロンドンの水道会社が「煙害訴訟促進法」成立後に煤煙削減技術の導入を検討していたことに注目する.蒸気機関はジェームズ・ワットが回転運動を可能にする以前は,鉱山などで水を排出するためのポンプとして,都市では水供給のポンプとして利用されており,そのためロンドンの水道会社は煙を大量に発生させる産業と目されていた.
     本研究では,「煙害訴訟促進法」成立時にはその有用性が強調されていた煤煙削減技術が,水道会社ごとに異なる評価を受けていたことを明らかにする.科学史や「知識の地理学」では科学知識の誕生や普及が,科学を支える制度,組織,政治体制など特定の条件に影響されることが論じられている.本発表では,ニュー・リバー水道会社が新たに注目され始めた煤煙削減技術をどのように評価したのかを,「知識の地理学」の手法を取り入れて検討する.
     ニュー・リバー水道会社はロンドンの中心部に水を供給しており,17世紀初期に設立された歴史や供給範囲からもロンドンの代表的な水道会社であった.ニュー・リバー水道会社では煤煙削減技術の発明家であるJ. パークスから無料で二つの蒸気機関ボイラー炉の改良を行うと申し出をされたことを受け,二回の実験を行い,パークスの煤煙削減技術がどれほどの燃料削減を行えるのかを確かめた.その結果,パークスの技術では8%の燃料削減が可能になることが確認された.しかし,事前に燃料削減が10%以上でなければ,実験を失敗とみなし,設置を行わないと合意されていたため,パークスの技術はニュー・リバー水道会社には採用されなかった.
     この実験はその後,パークスによって自らの技術の有用性の証拠として,ニュー・リバーによってパークスの技術の非実用性の証拠として正反対の扱いを受けていく.「煙害訴訟促進法」成立後,煤煙削減技術についてはその有用性を強調する立場とその非実用性を強調する立場の二つが現れるが,ニュー・リバーにおける実験はその両方の立場に論拠を与える結果となった.
  • 「地理学出身者」の活動を中心に
    河島 一仁
    セッションID: 109
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    世界初の野外博物館は、1891年にA.Hazeliusによってストックホルムで創出されたSkansenである。スウェーデンのSten Rentzhogの“Open air museums”(2007)には、北アメリカの11か所とヨーロッパの57か所の野外博物館が紹介されている。 野外博物館の創出にあたって地理学出身者がどのような貢献をなしたか、またその際に地理学的な発想や知見がどのように生かされたのかを、ウェールズのSt.Fagans :National History Museum(以下、St.Fagans)とその実質的な創立者であるIowerth C.Peateを事例として明らかにすることを本報告は目的とする。ウェールズでの野外博物館の創出過程を踏まえたうえで、それに関わった個人のライフヒストリーを軸にして考察を加える。St.Fagansの退職者からの聴き取り、“The Museum Journal”ならびに年次報告書、会議資料、紙碑、展示物などを考察に用いた。
  • 轟 博志
    セッションID: 110
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    Ⅰ.はじめに 
      『山経表』は朝鮮王朝時代後期に発達した、朝鮮半島における山岳と分水界(以下「山経」という)の地理的体系を表形式で整理した地理書の一種である。 従来、『山経表』の原本の作成者は申景濬であると伝えられてきており、それに対して一部の学者が異論を唱えた段階で止まっており、その真偽は確定していない。これは主として論争の根拠が『山経表』やその関連史料の体裁や発行時期、発行機関、及びそれらに言及した政府の記録等にとどまっており、本来基本的な作業というべき、表の記載内容の精査を通じての検討は行われてこなかった。 
      そこで本研究では、まず『山経表』および関連史料に記載された山経の路線体系と経由地名、目的地等に着目し、筆者が入手できた9種類の写本及び申景濬の原本である『山水考』『東国文献備考(輿地考)』の内容を比較検討し、これらの系譜的な流れを出来る限り忠実に再構築した。次にその結果を活用しつつ、山経表が実際に申景濬の作であるかについて再検討し、筆者なりの見解を披歴することとした。

    Ⅱ.『山経表』の類型と系譜
       『山水考』は全国一律の山経体系を持っておらず、国内の12か所の山を中心とした記述となっている。一方『山経表』では、白頭山を頂点とした一系統の体系に整理されている。正幹や正脈(一次分岐線)の数や名称はほぼ変わらないが、目的地の設定に若干のぶれが確認される。特に臨津北礼成南正脈に関して、終点を分水界の終点に近い扶蘇岬とするか、高麗の王都であった開城府とするかで大きく二つに類型化できる。また安城岐脈や黄澗岐脈などの岐脈(二次分岐線)の有無によって、国立中央図書館所蔵の『寅球』とそれ以外に分類できる。 
      途中の経由地に関してはどの写本もほぼ同じである。差異が出るのはむしろ原本の誤謬を正そうとする注の部分であり、注の有無や書き方によって分類が可能である。その他筆写時の漢字の誤記や略字の使用などを追跡すると更に細かく分けられるが、逆に大分類の意味を喪失させてしまうので、それらは写本間の前後関係の類推にのみ用いた。 結果として、『山経表』は内容面から大きく4種類に分類され、『寅球』を始祖としてそこから直に残りの3種に枝分かれしていた可能性が高いことがわかった。

    Ⅲ.『山経表』と申景濬
     
      結論から言うと、筆者は本研究を通じて、『山経表』の作成に申景濬は直接関与していないとの見解を得た。その理由は以下のとおりである。 『山経表』には、本来同一の山を指す名称が、誤って二つの山として分離されている場合が複数見受けられる。例えば『山経表』の漢南錦北正脈では「上嶺山」の次に「上党山城」が別の列に、別の山として記載されている。
      しかし『山水考』では「上嶺之山、為上党之阻」となっており、同書の他の部分との比較からも、これが同一の山を指していることがわかる。『山経表』の原著者も申景濬だったとすると、『山水考』もしくは同様の内容が盛り込まれている『東国文献備考(輿地考)』の内容を自ら引き写したことになるので、同一人物がこのような初歩的かつ明瞭なミスを犯すとは考え難い。
      さらに多くの写本において、上党山城の項に「此即在上嶺山者誤」などと、注にて筆写者によると思われる誤謬の指摘がされている。その注はさらに多くの写本に引き継がれているので、当時の識者の共通認識であったろう。特に上嶺山は忠清道の監営がある清州の鎮山であり、重要なランドマークであるので、申景濬がそうした過ちを犯した可能性は、きわめて低いであろう。
  • 吉村 健司
    セッションID: 111
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
     沖縄県本部町は、県内でも有数のカツオの水揚げの地として名を馳せてきた。しかし、近年は燃料価格の高騰や後継者不足といった問題から、衰退の一途をたどっている。燃料価格の高騰はカツオ漁の操業形式にも大きな影響を与えており、後継者不足の問題と併せて、本部町のカツオ漁の維持において非常に大きな問題となっている。 現在の沖縄のカツオ漁における主漁場はパヤオとよばれる人工浮魚礁だが、ソネとよばれる海底岩礁も利用されてきた。特に、ソネについては漁業者の経験知に基づいて利用されてきた。換言すれば、ソネの利用は本部町のカツオ漁の歴史であり、カツオ漁における伝統的技術といえる。パヤオでの操業が主流となり、燃料価格の高騰に起因する操業範囲の規制は、こうした本部町の漁場利用に関する知識や経験といった、一つの「伝統」の焼失につながる。 そこで、本報告では本部町のカツオ漁におけるソネの漁場利用について、その利用形態および特徴を2つの船団の漁業日誌(1981 年~96 年、2000 年~2010 年)と聞き取り調査に基づき、その特徴について報告する。
  • 細井 將右
    セッションID: 112
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    コレージュドフランス日本学高等研究所のクレットマンコレクションには地形図が3ある。陸軍士官学校教官の、ヴィエイヤール指導の下に明治8年秋の陸軍野営演習の際に作成された1万分1『習志野原及周回邨落圖』、その後継者クレットマン指導の下に明治9年秋の演習の際に作成の2万分1の同名の地図、明治10年秋の演習の際に作成の『下志津及周回邨落圖』である。
    第二次フランス軍事顧問団のヴィエイヤールは来日前フランス陸軍士官学校教官の経験があり、新設の陸軍士官学校のカリキュラム作成に貢献したが、明治8年秋習志野原野営演習に際して陸軍の地図測量関係者27名に対し地形図作成の指導、習志野原及び周辺地域を6組に分けて原図作成、それから集成編集,翌1876年3月ヴィエイヤール校閲の『習志野原及幾軍周回邨落圖』がある。フランス国防省公文書館に残っている原図から、教導団の関定暉ほかの第三組の南西部分のほか、教導団の矢吹秀一ほかの第一組が北東部分を分担したことがわかっている。『陸地測量部沿革誌』附圖の第四圖 最初ノ近世式地圖(下総國習志野原東南地方之圖ノ一部) は枠外の左上部に 明治八年測圖、右上部に 第二號プランセット と記されている。プランセットはフランス語のplanchetteから 平板 のことで、第二號プランセットは、第一號、第三號の例から見て、明治8年秋の野営演習時の小宮山昌壽ほかの第二組の平板である。
    工兵部門の後継者、士官学校教官クレットマンは、明治9年秋の野営演習の際に氏名は記されていないが士官学校生徒による測量から編集の縮尺2万分1、クレットマン翌1877年3月校閲の『習志野原及周回邨落圖』がクレットマンコレクションにある。これには図名、地名が日本語のほかにフランス語風にアルファベットで表記されている。
    明治10年秋の野営演習の際に、縮尺2万分1の『下志津及周回邨落圖』が作成されており、その写真からの写しがクレットマンコレクションにある。この地図には現在の佐倉市南部の大篠塚も含まれており、フランス語式アルファベットの ossipodzouka が併記されているが、n  とすべきを  p  とする誤りが見られる。『陸地測量部沿革誌』附圖第五圖ノ三の地図に、大篠塚、ossipodzouka の地名が見られるが、アルファベット表記に同様の誤りがあり、この第五圖ノ三は『下志津及周回邨落圖』ノ原図の一部である。なお、この写真からの地図には、「クレットマン校閲」が見られず、校閲前のものと思われる。
  • 福島県南相馬市における酪農家の事例
    渡辺 和之
    セッションID: 113
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
      原発事故による畜産被害を聞き取りしている。2013年秋と2014年春に南相馬市で調査をおこなった。南相馬市には福島県内にあるすべての避難区域が混在する。20km以内の旧警戒地域は小高区にあり、旧計画的避難区域(2012年4月解除)や特定避難勧奨地点(以下勧奨地点)は原町区の山よりの集落に集中する。原町区の平野は比較的線量も低く、旧避難準備区域(2011年10月解除)となり、30km圏外の鹿島区では避難も補償もない。調査では原町区の山に近い橲原(じさばら)、深野(ふこうの)、馬場、片倉の集落を訪れ、4人の酪農家から話を伺うことができた。
      南相馬では転作田を牧草地としており、いずれの農家も20ha以上の牧草地を利用する。このため、糞や堆肥置き場には困っていない。ただし、事故後牛乳の線量をND(検出限界値以下)とするため、30Bq以上の牧草を牛に与えるのを禁止し(国の基準値は100Bq)、購入飼料を与えている。
      ところが、酪農家のなかには1人だけ県に許可を取り、牧草を与える実験をしている人がいる。彼は、国が牧草地を除染する以前から自主的に除染をはじめ、九州大学のグループとEM菌を使った除染実験をしている。牛1頭にEM菌を与え、64Bqの牧草を与えてみた所、EM菌が内部被曝したセシウム吸着し、乳の線量が落ちていた。
      市内では震災を機に人手不足が深刻化しており、酪農家の間でも大きな問題となっている。南相馬の山の方が市内でも線量が高く、いずれの酪農家の方も子供を避難させている。妻子は県外にいて1人で牛の面倒を見ている人もおり、今までの規模はとても維持できないという。といって、少ない規模だと、ヘルパーも十分に雇うこともできず、牛の数を半分以下に減らした人もいる。
      現地では地域分断よりも、地域の維持がより大きな問題となっている。ある酪農家は「続けられるだけまだいいと、今では考えるようにしている」という。「小高や津島の酪農家を見ていると、いつ再開できるのか先が見えない。農家によって状況も違うし、考え方も違う。どうやって生きて行くのか、その先の見通しを何とか見つけないと。事故がなくても考えなければいけないことだったかもしれない。ただ、無駄な努力をさせられたよな」とのことである。片倉では、小学校が複式学級になる。深野でも小学校の生徒が10人に減ってしまった。「避難先には何でもある。30-40代は戻ってこない。だから、昨年から田んぼも再開した。続けていないと集落が維持できなくなる」とのことである。
      人がいなくなったことで獣害問題も深刻化している。山に近い片倉や馬場では、震災前からイノシシの被害はあったが、震災後に電気柵を設置したという。「電気柵をはずすと集中砲火を受ける。猿も定期的に群れで来る。あれはくせ者。牧草の新芽を食べる」という。
      このような状況でありながらも、彼らは後継者不足には悩んでいない。週末になると避難先の千葉から息子さんが手伝いにくる人もいれば、息子が新潟の農業短大を卒業したら酪農をやるという人もいる。「酪農で大丈夫かとも思うが、牧草さえ再開できれば牛乳は足らないし、やってゆけなくはない」。また、「一度辞めると(酪農の)再開は困難。それ(息子が家業を継ぐ)までは今の規模を維持して行かないと」という。酪農仲間たちは、「親の背中を見てるんだねえ」とコメントしていた。
  • 久留米市宮の陣新ごみ処理施設建設問題を事例に
    戴 萍萍
    セッションID: 114
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    高度経済成長期以降の「大量廃棄型社会システム」の確立・定着や都市的ライフスタイル・使い捨てライフスタイルの浸透は多様かつ大量の一般廃棄物や産業廃棄物の発生を促し、日本はごみの処理をめぐる多様な問題に直面してきた。その中で、ごみの適正処理・処分をおこなう施設の整備を推進していくことが必要とされてきたが、一般に廃棄物処理施設は、悪臭、煙害、交通問題等に起因するイメージが良くないために、いわゆる迷惑施設として捉えられ、施設の建設にあたって地域社会とのあつれきや紛争が生じる事例が全国的に少なからず見られている。それ故に、施設建設に当たっては用地の確保、周辺住民の理解と協力を得ることに困難を伴うことが多い。 迷惑施設の立地を巡る環境紛争に関する従来研究においては、政策決定過程への市民参加制度や行政側の情報公開及び環境影響評価法など制度上の問題点の指摘が少なくない。また、廃棄物処理施設建設における合意形成に関する研究も多少存在している。瀬尾ほか(1989)は特に行政の役割に着目し、「合意形成のための情報伝達」と「合意形成のための場の形成」という2点からの検討を通じて行政と住民の間での合意形成の基本条件を示した。なお、高橋・古市(2002)は廃棄物処理事業を円滑に推進するため(今後の市民と自治体の良好な協力関係を構築するため)の市民参加及び住民合意の在り方について述べた。特に、自治体が市民への適切な情報や学習の場を設けることにより、市民の参加意識の高い計画策定にすることが可能であり、住民合意の形成にはその点が重要であることを示した。一方で、厚生省は「循環型の社会経済システムへの転換を目指すとしても(中略)廃棄物の適正な処理を確保していくことは、産業界のみならず国民的な課題として避けて通ることのできない重要な問題である」というポリティクスを示す中で、廃棄物処理場の立地を巡って地元は常に翻弄されてきたといえる(土屋2008:93-94)。現在、廃棄物処理場の立地を巡る各地での隆盛な環境住民運動の中で、建設反対問題における反対派ないし推進派のような「声をあげている」人たちを直接の対象とする研究は意外と少ないといえるだろう。もっと「声をあげている」人たちの研究があってよいのではないだろうか。 そこで、本稿では福岡県久留米市における新ごみ処理施設建設問題をめぐる地域住民反対運動に焦点をあてる。廃棄物処理場の立地を巡る住民と行政の関係の検討を通じて、住民参加の実態及び課題を明らかにすることを目的とする。具体的には、市の決めたごみ処理施設の建設計画に対して地域住民はどのような点に関して反対し、行政との対立構図になってしまうのか、それを分析しながら住民参加の実態を明らかにし、廃棄物処理場の立地を巡る住民参加の課題を示したい。本稿は必ずしも直接的に問題の解決を目指したものではないが、そのための何らかのヒントや手がかりを提供しようとするものである。
  • サイド マルジュ ベン, 春山 成子
    セッションID: 115
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    マニカンジプラショバにおける土地利用変化を衛星画像から分析したところ、農業用地から都市的な利用への変化を突き止めることができた。更に、現地調査によって都市的土地利用の利用形態を明らかにできた。
  • 米島 万有子
    セッションID: 116
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究背景と目的
     終戦後まもなく蚊の発生原因としてみなされていた彦根城堀の一部の埋め立ては,マラリア防疫の偉業として知られている(小林1960).しかし,その埋め立てが実際に蚊の発生を抑制した程度は不確かである.さらに,彦根城堀の埋め立てをめぐり衛生土木事業による歴史的景観を問題視する一部の住民組織と行政が対立した経緯も明らかになっている(米島2011).このような歴史的景観としての堀の環境衛生問題は,過去の出来事に限定されない.京都新聞の記事(2010年5月3日付 二条城が蚊の「大量発生源」?住民指摘、京都市が生息調査)によれば,2009年の秋に二条城北側周辺の住民から「蚊が多い」こと,さらに堀を蚊の発生源と指摘する意見が寄せられ,堀に環境衛生上の問題を懸念する意見が表明された.京都市は蚊の発生調査を実施し,記事が掲載された5月の時点において幼虫は確認できなかったとされている.しかし,住民の蚊の被害実態や堀についての歴史的景観としての評価ならびに環境衛生問題への懸念について明らかにされていない点が多い.そこで,本研究は郵送質問紙調査により,二条城周辺の住民の蚊による被害実態および蚊の発生をめぐって堀に対する意識を明らかにし,堀の景観保全と健康・公衆衛生との関係を検討する.

    2.研究方法
     調査は,二条城北側の住宅地から蚊の発生に対する苦情が寄せられたことから,二条城の北側に位置し,堀川通,千本通,竹屋町通,丸太町通の範囲内にある,京都市上京区の12町を対象とした.調査票の配布対象は,これらの町内にある全住宅および事業所2,853軒である.調査票は,指定した地域のポストが設置されている住宅,事業所全て(郵便の受取拒否をしている場合を除く)に配布できる日本郵便のタウンプラスを用いて,2013年1月下旬に上記の町内全戸に郵送配布し,郵送で回収した.調査票の回収数は882通(30.9%)であり,そのうち自宅752通(85.3%),事業所70通(7.9%),自宅兼事業所47通(5.3%),その他7通(0.8%),無回答6通(0.7%)だった.

    3.結果
     アンケート調査の結果,蚊による吸血被害に「毎日」あるいは「2,3日に1回」の高頻度で遭っている回答者が全体の48.2%を占めた.特に高頻度の吸血被害は,二条城の堀に隣接しない町(42.6%)よりも,堀に隣接する町(54.5%)の居住・勤務者の方が多い.また,自宅ないし事業所敷地内で蚊に刺されることについて,気になるという回答率は71.1%にのぼった.すなわち二条城北側の住宅地,とりわけ堀と隣接する町では,蚊に悩まされていることが明らかになった.京都市が二条城堀において蚊の発生調査を行った結果,蚊の発生は認められなかったことを伝えた上で,堀が蚊の発生源になっていると思うかについて問うたところ,高頻度で蚊の吸血被害を受けている人ほど堀が蚊の発生源と認識している傾向があった.
     次に,二条城の堀から蚊が発生する疑いを受け,堀に対してどのような対策をとった方がよいのかについて質問した.ここでは,A:現段階で,堀から蚊が発生する可能性に備える場合,B:将来,堀から蚊の発生が確認された場合,C:将来,堀から発生した蚊からウエストナイル熱ウイルスが確認された場合の3つの状況を設定し,それぞれの好ましいと思う対策について回答を求めた.その結果,Aの蚊の発生がない段階では,将来の蚊の発生を未然に防止する対策には消極的であった.しかし,C堀から発生した蚊からウイルスが検出される状況では,「堀を埋め立てる」べきとの回答数が著しく増加した.他の質問項目と照らしてみると,地域住民は,城(建造物)と堀をひとまとまりとして,歴史的価値ないし観光資源としての価値を認めてはいるものの,感染症という脅威にさらされた場合には,彦根市のマラリア対策と同様に,健康・身の安全を守るためには堀を埋め立てる選択肢もやむを得ないと考える意見も多く示された.

    4.おわりに
     蚊による被害を受けている人ほど堀を蚊の発生源としてみなしている傾向があり,堀の水の衛生環境が悪い印象を与えていることが考えられる.また,堀の景観上の価値を認めつつも,仮に堀が原因で健康に支障が生じる場合には,保全よりも堀の埋め立てを推進する意見がみられることから,彦根の事例と同様に堀の保全と衛生的と思われる環境の形成との間には,潜在的に対立しうる関係が認められる.歴史的景観としての堀の保全には,その景観が「衛生的である」ことにも配慮する必要がある.
  • 和歌山県吉備町における景観生態学の都市計画への応用を例として
    廣瀬 俊介
    セッションID: 117
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    ランドスケイプデザインの本義を地理学を生かして追求し、生態学的土地・資源管理に活用すべきことを、2013年秋季学術大会、2014年春季学術大会に続いて提案する。
    2002年より2箇年、吉備町 (面積36.37m2、当時の人口14,694人。現有田川町) 都市計画マスタープラン1) を高嶋克宜 (博士、地域経済学。当時株式会社アイ・エヌ・エーに所属) と作成した。筆者は、図1の地形発達史と土地利用変遷史の相関性評価など、土地・資源管理の景観生態学的考察を基本に作業を行った。
    今回はその実際について報告する。
  • 塩崎 大輔, 橋本 雄一
    セッションID: 201
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は、開発許可制度に着目して地方都市における中規模開発の変化を時系列的に明らかにすることを目的とする。本研究では事例地域として札幌市を取り上げる。2,226件の開発行為を分析した結果、地方都市の都市開発は、景気の動向に大きく影響を受けて変化しており、特に景気減退期ではまず開発行為の規模が縮小し、その後、開発エリアが縮小するという傾向が明らかとなった。
  • 小泉 諒, 川口 太郎
    セッションID: 202
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.問題の背景
    1990年代後半以降の東京都心部における人口回復には,大量の住宅供給がその受け皿になったことが指摘されている.住宅需要は世帯のライフサイクルと密接な関係を基本とすることから,住宅の取得には家族的側面の影響が強い.しかし,持家は世帯にとって非常に高額な物件であり,住宅取得への公的な支援が縮小する今日においては,住宅取得に個人や世帯の社会経済的側面の影響が強まっていることが想定される. そこで本研究では,東京都心部における2000年代の住宅供給を分析し,住宅取得を通した,居住地域構造の社会経済的分化の可能性を検討する.  
    2.研究手法
    住宅供給の分析は,マンションの供給を収集している不動産経済研究所『全国マンション市場動向』(2000~2012年版)を資料とする.はじめに首都圏,とくに都区部におけるマンション供給の動向を分析した.続いて,平均専有面積が60平米以上のマンションをファミリータイプと定義し,時期による立地の違いを分析した.分析対象地域は,リーマンショック以降も安定したマンション供給がみられる東京都区部に対応する東京駅20km圏を分析対象地域とした.  
    3.分析結果
    首都圏におけるマンション供給戸数の分析からは,マンション供給のピークは,2008年のリーマンショック以前であったことが示された.これを需要の面である人口動態からみると,2008年のリーマンショックによって東京大都市圏への流入人口が小規模となったことに加え,2010年前後には1970~74年出生を中心とする第二次ベビーブーマーの住宅取得ピークを迎えたと考えられる時期である.しかし,首都圏におけるマンション供給を東京都区部と都区部以外とに分けると,リーマンショックの影響による供給減少は,都区部以外に比べて都区部では軽微であった.そのため,首都圏のマンション供給における都区部のシェアは2009年以降,4割を回復した. 次に,平米単価と平均専有面積の推移をみると,バブル経済崩壊以降は地価下落を背景として,2000年代前半まで平米単価の低下と平均専有面積の拡大傾向がみられた.しかし,2006年以降は景気回復を背景とした用地費や建設費等の増大に対応して平米単価が上昇したが,平均専有面積はほぼ変化しなかった.その結果,一戸当たりの平均価格は非常に高額となった. 続いて,専有面積に注目した立地の分析からは,リーマンショック以降も都区部におけるマンション供給は盛んであり,広い範囲でファミリータイプが供給されていることが示された.しかし平米単価に地価との対応がみられることから,これら住宅供給と取得を通して,社会経済的地位による住み分けが再生産されると考えられる.さらに,低層や超高層といった建築形態の差異によると考えられる価格差もみられ,同じような世帯構造であっても,住宅取得を通した居住地域構造の社会経済的分化が強化されていると考えられる.
  • -外資系企業誘致に向けて-
    佐久間 美帆, 後藤 寛
    セッションID: 203
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
     日本における外資系企業の特徴アジアヘッドクォーター特区政策をはじめ,これからの成長戦略のひとつとして外資系企業の誘致が掲げられている.では誘致のためにはどのような条件が必要なのか,そもそもこれまで外資系企業の本社はどのような条件を求めて立地してきたのかを検証する必要があるだろう.そこで本研究では東京都心部に焦点をあてて外資系企業本社の立地傾向を読み解き,それらの求める立地や周辺環境の要因から,誘致のための環境整備の条件,あり方を明らかにすることを目指す.帝国データバンク社によれば,外国資本が25%以上を占める外資系は日本に3189社あり,その本社の75%は東京に立地している.東京都内で主要企業の本社立地が集中する地域といえばまず丸の内・大手町を有する千代田区であるが,外資系企業についてだけみると港区に立地する割合が高いことが指摘できる.これが何らかの周辺環境条件のための積極的立地なのか,千代田区に新規に進出するのが難しいための消極的立地かを明らかにする.
     外資系情報・システム・ソフト業の本社分布外資系企業の存在感が際立つのが情報・通信業なかでも情報・システム・ソフト業(359社)と医薬品業(63社)である.これらに着目して本社の立地分布をみると,西新宿あるいは渋谷・恵比寿地区への立地が目立っている.この要因についても,いくつかの代表的企業の本社立地の変遷と共に検証を進めている. 
  • 東北・北海道新幹線の事例から
    櫛引 素夫
    セッションID: 204
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    整備新幹線は1973年の整備計画決定後、2011年までに東北新幹線・盛岡以北と九州新幹線が全線開通した。2015年春には北陸新幹線の長野-金沢間、2016年春には北海道新幹線の新青森-新函館北斗間が開業する。これらの新幹線開業が地域にもたらした、あるいはもたらしつつある変化については、多くの研究や報告がなされてきた。しかし、地元住民を対象とした調査や、住民生活への新幹線の貢献に関する評価作業はほとんど行われていない。一方で、本格的な人口減少時代を迎え、これまで開業効果の目安とされてきた沿線人口や新幹線の利用者数、各種の経済指標については、指標としての妥当性に検討の余地が生じている。
    本研究では、主に東北・北海道新幹線の沿線地域を対象として、地理学的視点から、整備新幹線に関わる地域課題の再整理を試みるとともに、地理学的な視点を反映させた評価作業の可能性について検討する。

    2.「新函館北斗駅」をめぐる混迷
    北海道新幹線は、函館市に隣接する北斗市の新函館北斗駅が当面の終着駅となり、駅名をめぐって、函館市と北斗市がそれぞれ「新函館」「北斗函館」を主張し対立した。また、本州と札幌を結ぶ最短ルートが選択された結果、函館市から18km離れた渡島大野地区に新幹線駅が立地することとなった。加えて、駅前へのJR系ホテル進出計画が白紙に戻った。これらの事情から開業準備の遅れが懸念される。
    駅名をめぐる地元の対立は、東北新幹線の七戸十和田駅でも発生したが、開業後は沈静化した。一方、長距離ターミナルの郊外移転やその駅前開発の停滞は、新青森駅に前例があり、住民の間には今も不満や批判が強い。 駅名は、新幹線や駅の「存在効果」に大きく関わり、地元自治体が強い関心を寄せる問題である。しかし、駅名が地元自治体にもたらし得る利益や不利益について、因果関係が必ずしも論じられないまま、対立が激化する傾向がある。駅の名称や知名度、さらには近隣都市との距離が、外来の旅行者と地元住民それぞれにどのような意味を持つか、また、開業の準備や開業後の新幹線活用に向けて、どのような理解が必要か、対立解消も視野に入れた、地元に対する地理学関係者の助言が有効であると考えられる。

    3.青森市内の調査から
    前述のように、整備新幹線開業に関する沿線の住民を対象とした調査事例は少なく、新幹線が住民生活にどのような影響を及ぼしたか、必ずしも明らかになっていない。発表者は2014年8月から9月にかけて、青森・弘前・八戸の3市の市民を対象に、開業効果に関する郵送調査を実施予定である。その予備作業として2013年11月、青森市の観光ボランティア42人を対象にアンケートを実施した。
    新幹線がもたらした全体的な効果については、回答者の7割が肯定的に評価した。また、個別の項目では、観光客の増加や地元の接遇向上に対する肯定的な評価が目立った。半面、物産開発や広域観光の進展に関しては否定的な評価が多く、空き地が広がる新青森駅前の現状については、肯定的な評価が2割にとどまった。
    新青森駅が持つ新幹線ターミナルとしての機能や利便性と、駅前の景観・商業集積、そして新幹線の「開業効果」は、本来ならそれぞれ、切り分けて論じるべき問題である。しかし、住民は新幹線駅周辺の景観を「開業効果の重要な要素」と位置づけている可能性がある。このような現象をどう理解し、誰がどう対策を提起していくべきか、地理学的な視点から再検討する余地があるだろう。

    4.展望
    整備新幹線の沿線地域では、開業に前後して、住民の意識や行動様式に多くの変化が生じていると考えられる。これらを適切に観察し、指標化して、新幹線がもたらした変化を評価していく作業は、一過性の観光振興策よりはるかに重要であろう。しかし、現時点では多くの地域で、評価の必要性に対する共通認識自体が形成されていない。
    他方、新青森駅と新函館北斗駅の郊外立地の事例は、新幹線が果たす、国土を網羅する高規格鉄道としての役割と、特定地域の振興における役割が、必ずしも整合しないことを示している。
    北陸新幹線や九州新幹線を含め、整備新幹線の沿線地域は今後、人口減少が加速していく。さまざまな時間的・空間的スケールから、地域振興策としての整備新幹線の意義を再検討し、人口減少社会に向けた施策に適切な助言を行っていくことは、地理学の重要な課題と位置づけられよう。
  • 劉 英威
    セッションID: 205
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    Ⅰ、 はじめに
    改革開放以降の中国では、著しい経済発展に伴い、地方中心大都市でも都市化の進行などにより、都市の地域構造は多核化しつつあるが、工業、住居などの都市機能が都心から郊外への分散により、各都市区においても、多機能化が進んでいる。このような都市機能の郊外分散による地域がどのように変容しているのかについて、明らかにした実証研究は多くない。本報告は青島市膠南大学城を対象として、高等教育機関の立地による近郊地域の変容とその都市全体への影響について検討する。
    Ⅱ、 研究対象地域の概要
    分析対象地域の膠南大学城は、青島市黄島区の東南の大珠山鎮に位置している。ここはもともと県級市であった膠南市に属していたが、『山東半島藍色経済発展計画-2011』に従い、2012年、国家級経済開発区である青島市黄島区に併合され、青島市の一核に位置づけられた。それによって黄島区は都市機能を充実するために、黄海沿岸に沿う幾つかの郷・鎮区域を新たな都市区域として計画し、都市区域が南部に展開されるようになった。その中で、大珠山鎮では2004年に高等教育機能区域として26.5km2の膠南大学城が計画され、2012年に濱海街道となった。 
     Ⅲ、 膠南大学城の形成と近郊地域の変容
    現在、膠南大学城は5つの大学と5つの研究機関が集積立地し、将来的には約5万人の学生と研究員を擁し、主に船舶に関連する設計、製造、船員等のハイレベルな人材を育成する高等教育基地となる予定である。この開発により、大珠山鎮は従来の農業用地が都市用地に変貌した。これらの高等教育機関の立地は顧崖頭村、海崖村などの区域を中心に計画されたものであり、都市住民となった農村住民の居住環境を改善するために、各村を中心に社区が建設され、道路の整備などが行われた。そして、地域住民の雇用と産学連携のための濱海工業園区が整備され、研究機関や高等教育機関に関連する企業も進出している。特に、2013年には国家的重点大学であるハルビン工程大学青島船舶科技園も建設がはじまり、港湾・船舶製造所・国家船舶実験室等が設置されている。 このように、膠南大学城は黄島区だけではなく、青島市全体の海洋産業の発展にも大きな役割を果たすものと考えられる。膠南大学城の開発は黄島区の都市機能を充実し、周辺近郊地域の都市化を牽引し、黄島区の多機能化を促進している。黄島区は経済機能の強化のみならず、高等教育機能を備えた青島市の新たな核心になりつつある。 
  • 中村 努
    セッションID: 206
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    Ⅰ.はじめに
    台湾において,日本と同様の社会保険制度のもと,フリーアクセスを基本とした医療サービスが供給されている。しかし,医療供給体制の態様は,台湾と日本で異なる。台湾では全住民の医療データが電子化されるとともに,それぞれの医療機能に基づいて,センター病院を中心とした階層的な医療供給体制が構築されている。同時に,政府のトップダウンで僻地医療対策が実施されている。2012年12月には,遠隔医療の手段として,クラウド医療情報システムが試験的に運用されるなど,医療機関への物理的なアクセシビリティの改善が図られている。そこで,本発表では台湾を事例に,階層的な医療供給体制における公平性の維持に向けた取組みを明らかにするとともに,日本と異なる展開を示す地域的要因を検討する。本発表は僻地医療の事例として桃園県復興郷を取り上げ,各医療供給主体の行動についてヒアリングを通じて分析した。

    Ⅱ.復興郷における巡回診療
    復興郷には1.1万人が住んでおり,うち7割が原住民タイヤル族である。復興郷は山間部にあり,平地に下りるためには自動車で最低でも2時間を要する。漢民族の主な疾病は高血圧や糖尿病である一方,原住民は過剰飲酒による痛風,糖尿病,重労働による関節炎が多く,平均寿命が低い。かつての患者は自己負担で平地の医療機関を受診する必要があったが,現在,医師は政府運営の衛生所における診察に加え,点在する少数民族が住む10の集落への定期的な無料巡回を通して,診察と健康管理に努めている(図)。巡回先の診察室では,衛生所に蓄積された診療情報がクラウドシステムを通じて共有されるため,紙カルテを持ち出す必要がなく,パソコンと必要な医薬品を積載すればよい。現在は①医薬品使用履歴,②検査履歴,③入院・退院時サマリ,④レントゲンの情報のみに限定して公開されている。巡回先の衛生室には無料で接続できるWifiが備わっている。復興郷がメディカルクラウド計画の対象地域に選ばれた理由は,①人口に対して医療機関が少なく,需要があること,②48のIDS(Integrated Delivery System)のうち,台北に近く,タイヤル族の林医師が積極的に僻地医療に取り組んでいること,である。林医師は80年代~90年代,研修で山村医療の格差に驚き,地元に貢献したいという思いで,原住民出身の医師を育成する奨学金を用いて医師になった。他の医療従事者もタイヤル族出身である。看護師は13人で,1村に1看護師の体制を維持している。
    さらに,衛生所で撮影されたレントゲン画像は,近隣の政府直轄の桃園病院へ読影依頼のために転送し,読影結果を即座にフィードバックする仕組みが構築されている。この遠隔画像診断ネットワークは台湾の山間部や離島に立地する19の衛生所向けに構築されている。2008年11月に試験的に稼働して,2010年5月に本格稼働した。画像判読センターは月に200~300枚の画像判読を行っており,結核や骨折など緊急の場合には,復興郷から桃園病院など大型病院へ衛生所が患者を転送する。利用者数は2010年の5,291から2012年の12,206と順調に増加している。このようにして,政府は衛生所の運営を中心とした遠隔医療をはじめとする医療の地域格差是正に向けた実効性のある施策を進展させている。

    Ⅲ.台湾の医療供給体制の特徴
    台湾では,医療機関の情報技術利用行動において,市場部門が中心の都市部における消極的な姿勢と,公的部門が中心の地方や島嶼部における積極的な態度といった二極化が認められた。台湾の医療分野におけるICTの急速な普及は,単一の医療保険制度であるという制度的要因,面積や人口が相対的に小さく,僻地医療の展開が容易であったという地形的,人口学的条件,旧植民地時代に日本政府によって設置された衛生所を中心としたこれまでの僻地医療の歴史的経緯,そして台湾政府のトップダウンによる政策の実施という政治体制によって可能になったといえよう。
  • 東京都小笠原村と島根県海士町の事例
    佐竹 泰和, 荒井 良雄
    セッションID: 207
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.背景と目的
    2000年代以降,全国的に整備が進むブロードバンドは,高速・大容量通信を可能とした情報通信基盤である.音声や文字だけでなく静止画や動画の流通が一般的となった現在では,ブロードバンドはインターネット接続に必要な基盤として広く普及している.インターネットの特徴の一つは,距離的なコストを削減できることから,地理的に隔絶性の高い地域ほど利用価値が高いことにあり,こうした地域に対するブロードバンド整備の影響が着目される.
    離島は,地理的隔絶性の高い地域の典型的な例であるが,それ故に本土との格差が生じ,その対策として港湾・道路などのインフラ整備に多額の公費が投入されてきた.しかし,高度経済成長期以降強まった若年層の流出は続き,多くの離島で過疎化・高齢化が進行するなど,離島のかかえる問題は現在もなお解消されていない.
    それでは,離島におけるインターネットの基盤整備は,どのような地域問題に貢献しうるのだろうか.本研究では,離島におけるインターネットの利用実態を把握し,その利用者と利用形態の特徴を明らかにすることを通じて,インターネットが離島に与える影響を検討することを目的とする.なお,本発表では住民のインターネット利用について報告する.

    2.対象地域と調査方法
    東京都小笠原村および島根県海士町を研究事例地域としてとり上げる.本研究では,島民のインターネット利用実態を把握するために,両町村の全世帯に対して世帯内でのインターネット利用状況についてアンケート調査を実施した.小笠原村に対しては,2013年5月に父島および母島全域にアンケート票を送付した.回収数は403,国勢調査の世帯数ベースでの回収率は29.9%である.また海士町に対しては,2013年12月に町内全域にアンケート票を郵送し,394の回答を得た.2010年国勢調査によると,海士町における世帯数は 1,052(人口2,374)であるため,国勢調査ベースで回収率は37.5%である.

    3.結果の概要
    総務省が毎年実施している通信利用動向調査によれば,2012年の世帯内インターネット利用率の全国平均は86.2%だが,小笠原村は,82.1%と全国平均に近い一方で,海士町は54.2%と低い.海士町を例に回答者年齢別のインターネット利用状況を分析した結果,離島も全国的な傾向と同様に年齢の影響を強く受けることが明らかになった.一方,コンテンツの利用状況をみると,小笠原村と海士町共にインターネット通販の利用率が最も高く,次いで電子メールとなっており,電子メールの利用率が最も高い全国平均と異なる結果を示した.このように,インターネットの利用有無は回答者属性に依存するものの,利用内容については離島という地域性が現れたと考えられる.たとえば小笠原村では,観光業が盛んなことから自営業の仕入れにインターネット通販を使う例もみられた.
    次に,居住者属性として移住の有無に着目し,海士町においてIターン者のインターネット利用状況を分析した.海士町のIターン者は若年層が多いため,インターネット利用率は約66%と隠岐出身者よりも高い値を示した.また,品目別にインターネット通販の利用状況をみても,Iターン者のほうが多品目を購入していることが明らかになった.
    以上から,年齢の影響は無視できないものの,離島生活におけるネット通販の必要性,特に Iターン者に対する影響は大きく,ブロードバンド整備は移住者の受け入れに必要な事業であるといえよう.しかし,この結論は限定的であり,より対象を広げて議論する必要がある.

    付記 本発表は,平成24-26年度科学研究費補助金基盤研究(B)「離島地域におけるブロードバンド整備の地域的影響に関する総合的研究」(研究代表者:荒井良雄,課題番号24320166)による成果の一部である.
  • 小笠原父島の事例
    上村 博昭, 箸本 健二
    セッションID: 208
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     情報化社会の到来は,社会に多面的な影響を与えた.そのなかで,産業活動に大きな影響を与えたのは,電子商取引(e-commerce)だといえよう.電子商取引は,インターネットなどの情報通信技術を介し,財・サービスの販売などを取引する活動であるが,日本では,その市場規模が現在まで拡大してきたとされる.
    電子商取引は,サイバースペースで行われる取引なので,通信インフラの整備が進めば,地理的制約は受けにくい.そのため,従前よりも産業活動に伴う地理的制約を緩和する.しかし,財の送達には物流体制の構築が不可欠であるほか,取引相手の信頼性などが,電子商取引の課題となっている.地理学では電子商取引そのものに限らず,各地域の商工業活動に与える影響も議論の対象となる.とくに,遠隔度の高い地域では,外部との経済的つながりが薄かったため,電子商取引浸透の影響は大きいものと推察される.
    本研究では,遠隔度の高い地域である小笠原諸島・父島を対象に,電子商取引の浸透が島内の商工業に与えた影響を検討する.電子商取引と小笠原村の概況は,文献サーベイと資料分析,小笠原父島における電子商取引の浸透とその影響はヒアリング調査によって,把握・分析した.
    2.対象地域の概要
     2010年国勢調査によれば,小笠原村の人口は2,785で,微増傾向にある.同年の高齢化率は9.2%と低く,高齢化は進んでいない.これは,歴史的な経緯,地理的遠隔性の影響もあるが,小笠原諸島が観光拠点であることと関係する.小笠原諸島は,2011年に世界自然遺産へ登録されたほか,ダイビングや史跡観光などが盛んで,観光関連産業が発達した.離島統計年報によれば, 2010年3月から2011年2月までの1年間に,約28万の観光客が小笠原を訪れている.
     小笠原村の産業を概観すると,就業者数(2010年)は1,921で,うち公務が564,建設業が284と多いが,飲食・宿泊業220,卸・小売業88なども多い.また,経済センサスによれば,事業所数は公務を除いて266と少なく,1事業所あたり従業者数は5.4人と,比較的小規模である.
     小笠原諸島では,近年に通信基盤の整備が進んだが,それと並行して,電子商取引が浸透した.住民を対象にインターネット利用動向の調査を行ったArai(2013)によれば,回答者の9割以上は通信販売を利用し,しかも,その割合は2007年から2013年の間に増加したとされる.
    3.本研究の知見
     父島の商工業者10件へのヒアリング調査を通じて,島内での電子商取引の浸透が,商工業者に脅威と認識されたこと,また,その対応を商工業者が模索していることが確認できた.ただし,Arai(2013)が示したように,島内住民がネット通販で購入するのは,書籍・文具などが多く,これらの業種の商工業者が,脅威と捉える傾向がみられた.
     その一方で,商工業者は電子商取引の長所に着目し,その積極的な活用を図った.小売店における電子受発注システムの導入,土産品の製造業者によるネット通販での原材料調達などの仕入行動と,ネット通販による土産品の対外的な販売などがある.ただし,商工業者なかには,電子商取引に関心を持たず,対応を検討していない例もみられた.
     遠隔離島の小笠原諸島で電子商取引が浸透した要因は,通信条件の改善などのインフラ整備のほか,船便輸送への行政の補助,若年層が多い人口構成のほか,観光関連産業の発達による仕入・物販ニーズの存在を挙げられる.このような条件のもとで,遠隔離島において商工業の競争環境が変化し,電子商取引への対応も進んだと解釈できる.
    参考文献
    Arai, Y. et.al. 2013. Broadband Deployment and Living in the Island : A Case Study in Ogasawara, Japan. Paper Presented at IGU Kyoto Regional Conference, 2013, Kyoto, Japan (Aug. 5th) .
  • 石丸 哲史, 友澤 和夫
    セッションID: 209
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    地方圏では市場が小規模で未成熟なため活発な企業活動が認められず、勤務先の廃業や家庭の事情などによる、収入を得るための選択肢が他にないことからの起業が多くみられる。本発表は、この点を裏付けるべく、北海道の起業家に対するインタビューから得られた情報を報告し、地方圏における起業家の行動と創業・起業支援環境との関係に言及する。
  • 伏木富山港周辺を事例に
    岡本 勝規
    セッションID: 210
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    ◆研究目的
    現在、日本からの中古車輸出業の集積動向については、様々なアプローチから研究がなされている。例えば、外川・浅妻・阿部(2010)1)や、浅妻(2008)2)では、環境経済学の立場から流通面に着目した研究がなされている。一方で、福田(2006)3)や藤崎(2010)4)は、エスニック・ビジネスとしての面に着目して社会学の立場から研究を行っている。また、岡本(2012)5)は港湾物流に着目して港湾経済学の立場から、塩地(2006)6)は自動車産業の海外展開の一動向として産業論の視点から研究を行っている。地理学の観点からは、環境経済学や港湾経済学からのアプローチは経済地理学の範疇といえよう。
    港湾にとって、とりわけ地方港にとって、中古車はすでに重要な貨物となっているが、港湾後背地の変容とロジスティクスの中における位置づけを論じたものはあまりない。そこで本研究では、港湾を核とした中古車のロジスティクスから後背地と港湾の結びつきの様相を明らかにしようとするものである。また、日本海側地方港の活性化策に寄与することも念頭に置いている。

    ◆概況
    伏木富山港におけるロシア向け中古車輸出台数は2004年以降急激に増加し、2008年には約18万台を記録した。この頃の伏木富山港周辺における中古車輸出業者の集積は250件程度と考えられ、その多くがパキスタン人業者であった(パキスタン人業者が立地し始めたのは1994年頃)。しかしながら2009年には1万8千台にまで下落し、輸出業者の集積も急激に縮小した。しかしながらその後は比較的早く回復基調に乗り、2012年には約7万2千台にまで増加している(図参照)。この数値は、すでに活況と言われていた2005年の水準に近づくものである。現在の業者の集積は、聞き取りによれば50~60件程度ではないかと思われる。
    しかしながら業者の内容は変化しており、パキスタン人業者の集積が言ってい維持されているにもかかわらず、多くが主たる仕向地を中東、アフリカ方面に変更している。その一方でロシア人業者が台頭している。

    1)外川健一・浅妻裕・阿部新「潜在的廃棄物としての日本からの中古車輸出の展開」,経済地理学年報56-4,pp.66-83,2010
    2)浅妻裕「中古車輸入制度の国際比較」,北海学園大学経済論集第55-3,pp.56-1,pp.27-43,2008
    3)福田友子「滞日パキスタン人のエスニック・ビジネス―中古車輸出業者とトランスナショナルな親族配置―」,桜井厚編『コミュニティ形成におけるメディア経験と語り(社会文化科学研究科研究プロジェクト報告集第34集)』千葉大学大学院社会文化科学研究所所収,pp.117-129,2006
    4)藤崎香奈「在日外国人と地方都市--中古車ビジネスを通しての定住を探る」,都市問題101-12,pp.92-108,2010
    5)岡本勝規「ロシア向け中古車輸出動向と輸出業者の業態変容-伏木富山港周辺を事例に-」,砺波散村地域研究所研究紀要29,pp.39-45,2012
    6)塩地洋「舞鶴港からの中古車輸出の拡大に向けて」,日本海対岸貿易研究会・京都大学経済学研究科上海研究センター『日本海対岸貿易の可能性について』所収,pp.17-25,2006
  • 宮町 良広
    セッションID: 211
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    生産、貿易、直接投資という世界経済の三大指標の中で、伸びが著しいのは、直接投資すなわち企業の海外進出である。欧米諸国では、送り出し(対外投資)と受入れ(対内投資)が相互に行われたため、各国における送出額/受入額の比率は1~2程度である。一方で日本は、送り出しに偏重し、受入れが少ないため、同比率は10倍ほどであり、世界的にきわめて特異である(Dicken)。そのため、直接投資に関する日本での学術研究は、日本企業の海外進出に偏重し、外資系企業の日本進出に関する研究は不十分であった。 しかし、1999年の仏ルノーの日産自動車への出資に見られるように、直接投資の受入れは日本経済の再生に不可欠なものとなりつつある。日本政府は対日投資の拡大を経済再生政策の主要な柱に据えており、 2014年6月には、諸外国に比べて高いとされる法人税率の引き下げを決定した。2014年に入って為替レートは1ドル100~105円で推移しているが、長期的には円高傾向が続いていると見てよく、したがって対日投資が急増する気配はない。しかしながら、日本経済のファンダメンタルズを考えると、中長期的には円安に動くことが予想され、そうなるとドルベースで見た日本での生産価格は低下するので、外国企業による費用指向型投資(製造・R&D拠点の設置など)が増加するとみてよいだろう。仮に円高傾向が続くとしても、ドルベースでみた日本市場の規模は拡大するので、外国企業による市場指向型投資(販売拠点の設置など)が進む可能性がある。こうした状況を考えると、対日直接投資の研究を早く始める必要性がある。 他方、足許の国内経済の現状を見ると、とりわけ地方経済の疲弊が目立っている。1次産業や商店街の衰退に加え、機械工場などの閉鎖が生じている。経済地理学ではこうした課題に関する研究が進んでおり、とくに1990年半ば以降の低成長期には「内発的発展論」が注目を浴びてきた。地方経済の現状を見ると、外からの新たな刺激を取り入れ、内発型と外来型の発展のバランスをとることが必要である。外からの刺激として、かつては国内大手製造業が想定されたが、今後は外資系企業を考える必要があるのではないか。20世紀後半に衰退を経験した英国の地方経済が、外資系企業の誘致によって再生したことはその証左である。 以上の問題意識により、本研究では、外資系企業の日本進出の経緯と現状を明らかにし、今後の展開を予想するとともに、それが日本の地方経済の再生に役立つ道筋を経済地理学の視点から研究することを目的とする。今回の報告では、まず対日直接投資の現状を概観する。
  • 荒堀 智彦
    セッションID: 212
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1. 研究の背景と目的
     感染症流行の調査監視,防疫を行う際,流行状況や患者数の把握を目的として運用される感染症サーベイランスがある.日本では都道府県単位,保健所管轄区単位における広域な流行状況の把握を基本としているが,サーベイランスのみでは局地的な地域内伝播を把握することは難しい.また,重松・岡部(2008)ではサーベイランス情報には地域に関する情報が含まれておらず,ローカルな防疫戦略や,住民に提供する情報に付加価値を付与するためにも他の地理情報との結び付けが重要となると指摘している.
     そこで荒堀(2013)では,和歌山県の学校施設における学級・学校閉鎖状況から,県内諸地域におけるインフルエンザの空間的拡散について,学校間距離による分析を行った.しかし,2009年9月以降を対象とした伝播のみを扱っているため,県外からの伝播経路の考察ができていない.また,インフルエンザはヒト同士の接触,移動によって感染が広がると考えられるため,環境要因として人々の行動範囲である生活圏を考慮する必要がある.和歌山県は全体の約81%が山間部で占められており,全市町村において,常住地における従業・通学者数が最も多い.そのため,生活圏内における伝播を分析することで,局地的な地域内伝播を考察することが可能であると考えられる.本研究では,2009年の新型インフルエンザパンデミックを概観し,県外からの侵入と局地的な地域内伝播について,生活圏との関係を考察することを目的とする.
    2. 研究方法
     本研究では国立感染症研究所と和歌山県による感染症サーベイランスデータ,および新聞記事資料を用いる.新聞記事資料からは,2009年シーズンにおける世界の流行状況と,サーベイランスから得ることが困難な学校施設以外の地域伝播に関する情報を抽出した.生活圏は流行シーズンに近い平成22年国勢調査従業地・通学地集計により,通勤・通学圏を生活圏として用いた.
    3. 新型インフルエンザパンデミックと日本への影響
     2009年の新型インフルエンザは,3月下旬のメキシコにおける発生を発端に,約1ヶ月の間に米国,英国,トルコなど40ヶ国・地域に急速に伝播した.流行開始直後に米国とメキシコのウィルスがA(H1N1)亜型と判定され,これを受けて世界保健機関(WHO)は6段階ある警戒水準をフェーズ5に引き上げた.最終的に6月には警戒水準をフェーズ6に引き上げており,ウィルスの感染力が強かったことがわかる.
     日本においては,2009年5月上旬にカナダから成田空港に帰国した3名の感染が確認された.当初は成田空港検疫所の症例が,国内最初の症例とされていたが,国内流行開始後の調査で神戸市における発生が成田空港よりも先であったことが明らかにされている(谷口,2009).インフルエンザは潜伏期間のある感染症であるため,感染から発症までのタイムラグが関係していると考えられている.その後,5月下旬にかけて,近畿地方では兵庫県,大阪府で,関東地方では東京都から神奈川県,埼玉県で患者が確認された.和歌山県内においては和歌山市において5月下旬にハワイに渡航歴のある患者が1名確認され,7月上旬の山形県の発生をもって国内全都道府県の発生が確認された.
    4. 和歌山県におけるローカルな伝播過程
     2009年5月下旬に県内で初発例が確認された後は,6月下旬に橋本市においてタイに渡航歴のある患者が1名確認された.大阪府では6月下旬まで患者の増加が続いていたものの,和歌山県においては2例目の確認が初発例の1ヶ月後であったのは,和泉山脈を隔てた生活圏の分断の影響と考えられる.以後7月下旬までの患者数の増加は,和歌山県北部から大阪府南部への通勤・通学者から発生し,和歌山市と岩出市において高校生を中心とした集団発生が確認されている.北部の市町村のうち,和歌山市と岩出市は,泉佐野市などの大阪府南部への通勤・通学者数が多いことが要因として考えられる.7月下旬以降には和歌山市から約70km離れた田辺市において高校生の集団発生を発端とした感染者増加が確認されている.田辺市の事例は,初発患者が夏季のクラブ活動において田辺保健所管内を移動したことによる接触の影響が考えられているが,初発患者の感染経路は不明である.他の市町村では,9月以降に感染者の増加が確認された.以上により和歌山県へのウィルス侵入は関西空港を経由した渡航経験者から始まり,地域内伝播と生活圏については,北部は大阪府との通勤・通学,中南部は中心地から生活圏内の移動による影響が強かったと考えられた.
     こうしたローカルな伝播過程は,荒堀(2013)による学級・学校閉鎖からみた和歌山県内の空間的拡散パターンの裏付けとなる.
  • 小池 司朗
    セッションID: 213
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
     国勢調査において,人口移動に関する問いは従来大規模調査年に設けられ,直近3回(1990年・2000年・2010年)の調査では5年前の居住地をたずねている。この人口移動に関する集計結果は,都道府県別および市区町村別に表象され,過去5年間の人口移動状況が現住地ベースかつ男女年齢別にODで把握できる貴重な資料である。しかし,2010年調査では5年前居住地不詳が急増したことに加え,不詳の分布が地域別・年齢別に大きく偏っているため,移動状況を精確に捉えることが困難になっている。そこで本報告では,5年前居住地不詳に占める都道府県間移動数を男女年齢別に推定することにより,人口移動集計で表象されている都道府県間移動数の補正を試みる。本補正により,1990年・2000年の人口移動集計における都道府県間移動数との比較分析をはじめとして,人口移動に関連する様々な分析が可能になると考えられる。
     補正は,(1)都道府県間移動総数の推定,(2)都道府県別男女年齢別転入数の推定,(3)都道府県別男女年齢別転出数の推定,(4)都道府県別男女年齢別都道府県間移動数(OD)の推定,の4段階で行い,その際には2000年国勢調査の人口移動集計や住民基本台帳人口移動報告のデータも活用する。なお本研究では,推定精度の確保および2000年国勢調査との比較の容易性の観点などから,5歳以上について5歳階級別の推定を試みることとした。
     補正の結果,2010年国勢調査における5年間の都道府県別転入超過数は「住民基本台帳人口移動報告」による2006~2010年の都道府県別転入超過数にかなり近い値となり,補正が概ね正しく行われていることが確認された。補正前後の都道府県別・男女年齢別の詳細な比較考察等については,当日報告する。
  • 北島 晴美
    セッションID: 214
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     2012年の死亡数は,悪性新生物,心疾患,肺炎,脳血管疾患,老衰の順に多い。高齢化の進行とともに,死因の順位も変化している。老衰を死因とする死亡者は,ほぼ60歳以上に限定され,高齢になるほど老衰を死因とする比率が高くなる。年齢階級別にみると,老衰は95~99歳の死因第2位,100歳以上の死因第1位であり(2012年),これまでの死因の年次推移からみて,今後,高齢化が進行すると,老衰による死亡の比率は現在よりもさらに上昇すると予測される。
     発表者らは,高齢者死亡率の季節変化に関して,全国,都道府県別に調べ,全死因,心疾患,脳血管疾患,肺炎死亡率は,夏季に低く冬季に高い傾向を確認した(北島・太田,2011,2013,など)。
     本研究では,老衰による死亡数の推移,死亡率の季節変化について,最近の傾向を年齢階級別に調べ,高齢者の中でも,若い層とより高齢な層では,どのような違いがみられるのかを検討した。

    2.研究方法
     使用した死亡数データは,人口動態統計(確定数)(厚生労働省)である。死亡数が多い75~84歳,85~94歳,95歳以上の3年齢階級を対象とし,季節変化を見るために,各年齢階級の毎月の死亡率を算出した。北島・太田(2011)と同様に,各月死亡率は,1日当り,人口10万人対として算出した。人口は各年10月1日現在推計人口(日本人人口)(総務省統計局)を使用した。

    3.老衰死亡数の推移
     2000年以降の,全国の全死因による死亡数が増加傾向にあるのと調和的に,老衰による死亡数も増加している。高齢人口が増加したことを反映したと考えられる。2000年代後半から,増加が加速し,85~99歳で顕著に増えている。10歳階級別では,最も老衰死亡数が多いのは,85~94歳,次いで,95歳以上,75~84歳である。

    4.老衰死亡割合の推移
     75~84歳,85~94歳,95歳以上の年齢階級において,老衰死亡割合(老衰死亡数が全死亡数に占める割合)は,2000年以降では,75~84歳はほとんど変化がない。2000年代後半から,85~94歳はやや増加,95歳以上では増加傾向が見られる。95歳以上の老衰による死亡割合は,2005年には15.3%であったが,2012年には21.3%となり,5人に1人は老衰で死亡している。

    5.老衰死亡率の季節変化
     2009~2012年の年齢階級毎の老衰死亡率は,冬季に高く夏季に低い傾向が見られる(図1)。年齢階級が上がるほど,死亡率の季節変化が顕著になる。75~84歳老衰死亡率の,季節変化は微少である。4年間のデータでは,85~94歳,95歳以上の老衰死亡率は,6月に最も低く,12月に最も高い。
  • 川崎市麻生区の事例
    佐藤 将
    セッションID: 215
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究背景と目的
    バブル崩壊以降,地価の下落から都心回帰が進む等,子育て世帯の居住地移動も多様な動きが見られるようになった.しかし近年まで統計データの量が不十分であったことから,子育て世帯のみに焦点をあてた居住地移動の分析は難しかった.しかし2010年の国勢調査より0~4歳のみではあるが特定年齢層の市区町村間での移動人口が把握可能となり,子どもを出産した直後の子育て世帯の居住地移動の動向が把握できるようになった.さらに川崎市の独自集計では町丁目単位で前住地の市区町村が把握できることから,より細かな子育て世帯の居住地移動の実態が把握できるといえよう. そこで本研究ではその川崎市の中でも0~4歳の常住人口に占める転入人口の割合が高く,かつ郊外住宅地としての特徴をもつ麻生区を対象に子育て世帯の転入動向を0~4歳の移動人口から明らかにする.
    2.麻生区全体でみた子育て世帯の転入動向
    まずは麻生区全体での転入動向を見ていく.前住地が40人以上の自治体は世田谷区,町田市,川崎市多摩区,横浜市青葉区と隣接自治体あるいは人口規模の大きい自治体であった.特に多摩区は111人であることから,隣接地からの転入が多いことがわかる.20人以上の自治体では調布市,稲城市,川崎市中原区,高津区,宮前区が加わり,東急田園都市線および京王線の沿線地域からの転入傾向があることが伺える.さらに麻生区より西側の都心から30km以遠では相模原市南区,厚木市から10人以上の転入が見られる.小田急線沿線でみると都心および隣接地だけでなく,都心から離れた地域からの転入傾向も見られた.
    3.町丁目単位でみた子育て世帯の転入動向  
    ここまで区全体での居住地移動の動向を見てきたが,転入する子育て世帯が麻生区内の中でも具体的にどういった地域に居住地移動をするかは町丁目で見ていく必要がある.そこで先の分析で前住地人口が40人以上だった世田谷区,町田市,川崎市多摩区,横浜市青葉区を対象に各市区から麻生区内に転入する0~4歳の人口が多い町丁目の転入動向について検討する.  まずは各市区からの転入動向を見ていく.世田谷区では万福寺4丁目への転入人口が8人と最も多く,次いで百合丘3丁目の4人が多い.町田市では,はるひ野3丁目の4人が最も多く,はるひ野2丁目,百合丘3丁目の3人が次いで多い.町田市からの転入人口は,はるひ野地区と町田市との境に近接した町丁目が多いことから,短距離移動が多い側面が見受けられる.多摩区では王禅寺東6丁目の4人が最も多く,次いで東百合丘1丁目,王禅寺東5丁目,万福寺4丁目の3人と続く.青葉区では王禅寺と王禅寺東6丁目の6人と最も多く,それ以外では万福寺3丁目の5人,岡上と早野の3人と続く.青葉区への転入人口は町田市と同様,青葉区との境に近接した町丁目が多いことから,短距離移動が多いといえる.  4市区全体からの転入動向を見ていくと,万福寺4丁目への転入傾向が強い.転入人口が106人と麻生区内の町丁目で1番多いことからも,子育て世帯の転入が高い地域であるといえる.万福寺4丁目は持ち家率が約88%,共同住宅の居住率が約78%で,6階以上の共同住宅への居住率が約64%と,マンションタイプの特徴をもつ.このことから麻生区の事例からも高層マンションへ転入する子育て世帯が増加していることが明らかとなった.
    4.まとめ  
    本研究では川崎市麻生区を事例に0~4歳の移動人口から子育て世帯の転入動向をみてきた.区境に近接した地域では隣接地からの転入が多いこと,また既存研究でも見られる高層マンションへの転入人口の増加傾向が麻生区でも見られることが明らかとなった.しかし一方で,子育て世帯の居住地選択の規定要因は彰となっていない.たとえば第2子の出産にあわせて等の転居理由の解明について今後の検討課題としたい.
  • 1990-2010年
    桐村 喬
    セッションID: 216
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    I 研究の背景・目的
    近年の晩婚化の進展を背景に,単身世帯の占める割合が増大してきており,その傾向は大都市圏においてより顕著である.同時に,単身世帯の特徴も大きく変化してきた.単身世帯の大幅な増加には,晩婚化や子との同居の減少などのライフスタイルの変化だけでなく,団塊世代の高齢化などの人口構造的な要因も影響を与えていることが明らかされている(藤森2010).また,単身世帯の増加の地理的な側面については,1990年代後半から続く都心部での人口回復現象(宮澤・阿部2005)や,女性の単身世帯の都心居住志向の強さ(中澤2012)などが,都心部を中心とする単身世帯の大幅な増加に寄与しているものと思われる. 一方で,マクロな視点からの分析は不足しており,大都市圏全体からみた単身世帯増加の地理的な動向にはまだ不明な点が多い.また,単身世帯に関する地域統計は少なく,単身世帯の特性についても十分には明らかになっていない.そこで,本発表では,二大都市圏(東京・京阪神)を対象として,近年の増加が顕著である若年未婚単身世帯に特に注目し,1990年から2010年までの市区町村別の国勢調査結果を利用して男女別のコーホート分析を行う.それによって,近年の大都市圏における単身世帯増加の地理的な変化の動向を把握する.さらに,2005年の国勢調査結果に関するオーダーメード集計結果を利用して各コーホートの職業構成を分析し,その基本的な特徴を明らかにする.
    II 若年未婚単身世帯のコーホート分析
    分析の対象とするコーホートは,1990年から2005年の間に初めて20歳以上になる,①1960年代後半生まれ(1990年時点で20~24歳),②1970年代前半生まれ,③1970年代後半生まれ,④1980年代前半生まれの4世代である. これら4つのコーホートの残存率を,1990~1995年,1995~2000年,2000~2005年,2005~2010年の4期間について求め,二大都市圏の動向について検討した.その結果は,おおよそ表1のようにまとめられる.
    III 2005年時点の若年未婚単身世帯の職業構成
    単身世帯に関するオーダーメード集計は,現時点で2005年までの国勢調査結果に関してのみ可能である.そのため,2005年時点の各コーホートの職業構成を検討し,2000~2005年での残存率の変化との関係について分析する.コーホート①は,2005年時点で35~39歳であり,残存率の高い地域は,男性についてはブルーカラーの多い地域との対応関係が比較的明瞭である.相対的に賃金が低いと考えられるブルーカラーほど,結婚や転居,転職が難しく,残存率が高くなっているものと思われる.一方,コーホート②および③については,男女ともに残存率の高さと特定の職業との明瞭な対応関係は確認できなかった.
    IV まとめ
    二大都市圏における若年未婚単身世帯に関する各コーホートの残存率を分析するともに,職業との関係を検討した.その結果,1995年以降の都心部あるいは都心周辺部での残存率の相対的な高さが示され,都心部での人口回復現象との一致を確認できた.一方で,大都市圏郊外にも一定の残存率の高い地域が存在している.残存率の変化には,一定のサイクルを認めることができるものの(表1の●◆■□など),2005年以降,そうしたサイクルは変化しつつある.職業構成と残存率の高さの関係は,一部のコーホートについては一定程度認められたが,概して不明瞭であった.
    参考文献
    藤森克彦2010. 『単身急増社会の衝撃』日本経済新聞出版社.
    宮澤 仁・阿部 隆2005. 1990年代後半の東京都心部における人口回復と住民構成の変化-国勢調査小地域集計結果の分析から―地理学評論78: 893-912.
    中澤高志2012. 多様化する女性のライフコース-東京圏における仕事と住まい. 由井義通編著『女性就業と生活空間-仕事・子育て・ライフコース』157-174. 明石書店.
  • 都道府県別の分析
    山内 昌和
    セッションID: 217
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに 将来人口の推計法として広く利用されているコーホート要因法は、出生、死亡、人口移動の3要因と基準時点での人口構造を利用して人口変化を記述する理論的に優れた方法である。
     コーホート要因法を用いて将来人口を推計する場合、出生、死亡、人口移動の各要素の仮定が必要である。これら3要素の仮定に関する既存研究のうち、地域人口の将来推計に関しては、人口移動の仮定が重視され、日本でも一定の研究蓄積がある。 それに対して、出生や死亡の仮定は、地域人口の将来推計との関連では積極的に検討されていない。近年は、日本の地域人口の変動において自然減少、すなわち死亡数に比べて出生数が少ないことによる影響が強まっている。したがって、地域人口の将来推計に関して出生仮定について方法論的検討を加えることの重要性は増しているといえよう。
    地域人口推計における出生仮定に関する研究は、大別すると、仮定値設定の方法に関するものと出生指標の選択に関するものがある。本報告は後者に関心を寄せるものであり、1980~2010年の日本の都道府県別人口を例に、出生指標の選択が地域人口の将来推計の結果に及ぼす影響を明らかにすることを目的とする。
     方法 本報告で検討の対象とした出生指標は年齢別出生率(Age Specific Birth Rate:ASBR)、子ども女性比(Child Woman Ratio:CWR)、総出生率(Genenral Fertility Rate:GFR)、標準化出生率(Standardized Birth Rate:SBR(EUの地域人口推計で採用された出生指標の仮定設定方法))の4指標である。これら4つの出生指標を地域人口の将来推計に適用した場合の影響を評価するために、1980~2010年の都道府県別人口のデータを利用して男女別年齢5歳階級別にコーホート要因法によるモデル推計を実施する。
    具体的な検討方法は次のとおりである。コーホート要因法の考え方を用いて1985年、1990年、1995年を基準年として15年後の男女別年齢5歳階級別人口を算出する推計モデルを作成する。このモデル推計に必要な仮定については、出生仮定以外は実績値を利用し、出生についてのみ上記4指標を用いて仮定設定を行って推計人口を算出し、実績人口と比較する。出生仮定は、いずれの出生指標についても、基準期間(年)における全国と都道府県の比を一定とし、全国の実績値を用いて作成した。作成した推計人口のうち15歳以上人口は実績値と等しくなることから、0-14歳人口(男女計)の推計値と実績値を比較した。
     結果 分析の結果、推計人口と実績人口の乖離が少ない出生指標は、都道府県別にみれば様々なパターンがみられたが、乖離の程度が相対的に小さいのはSBRを用いたケースで、それ以外の3つの指標を用いたケースでは乖離は同程度であった。その要因は、SBRが年齢構造の影響を受けない指標であって、基準期間(年)における全国と都道府県との出生指標の値の比が推計期間中に安定的であったためと考えられる。ただし、SBRの場合に全国と都道府県との出生指標の値の比が安定的であったのは、1つには1980~2010年の都道府県別人口を対象としたためであると考えられた。したがって、SBRを用いたケースで実績値と推計値との乖離が小さくなりやすいという本稿の結果は、どのような人口集団にも当てはまるものとはいえない。このため、本稿の結果が示すのは、出生指標の選択自体が、直ちに推計人口と実際の人口との乖離の大きさを決めるものではないということである。
    今後の課題は次の2点である。第1に、市区町村別のデータを用いた検証である。とりわけ人口規模が小さい自治体を対象として本稿と同様の検討をすることである。第2に、ベイズ統計の考え方を用いて地域別の出生率が推定されることがあるが)、そのような出生率を地域人口の将来推計に用いた場合に及ぼす影響を検証することである。いずれも今後の課題としたい。

      ※本報告は下記の成果に基づいている。 山内昌和2010.地域人口の将来推計における出生指標選択の影響:都道府県別の分析.人口問題研究70-2:120-136.http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/19954404.pdf
  • 福島の復興に向けて
    カラチョニイ デイヴィッド, 花岡 和聖
    セッションID: 218
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    チェルノブイリ原発事故から25年後、東日本大震災において原発事故が福島で発生した。両地域において、事故の原因や技術的要素は異なるが、その後に経験する人口的、社会的な影響には共通性があるものと考えられる。本研究で示した、この25年間にチェルノブイリで生じた社会的、人口的変化は、今後の福島の復興を考える上での先行事例となるであろう。
  • 石川県かほく市を事例に
    阿部 智恵子, 若林 芳樹
    セッションID: 219
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
     平成の大合併をめぐって地理学では,その地域的傾向や様々な問題点が検討されてきた(森川, 2012;神谷ほか, 2012)。とくに住民生活に直結する公共サービスへの影響に対して強い関心が向けられ,高齢者福祉を対象とした研究が進められている(畠山, 2007; 杉浦, 2009)。こうした高齢者福祉サービスは,市町村を越えた広域的運営がみられる(杉浦, 2007)のに対し,保育サービスは基礎自治体が担っているため,市町村間の多様性も大きい。しかしながら,市町村合併による保育サービスへの影響を取り上げた地理学的研究はみられない。本研究は,石川県かほく市を対象として,市町村合併に伴う保育サービスの調整過程を明らかにし,合併後の変化について検討することを目的とする。 かほく市は,2004年3月に河北郡の3町(高松町,宇ノ気町,七塚町)が対等合併して成立した。合併の動きが本格化したのは,地方分権一括法が施行された翌年の2001年からで,旧3町による合併協議会は2002年4月に発足した。2003年7月の合併協定書調印および町議会での議決を経て,2004年に平成の合併としては県内最初のケースとなった。合併に伴い,市庁舎を旧宇ノ気町役場に設置した。当初は旧高松町役場,旧七塚町役場にも一部の部署を分散させて支所として利用していたが,その後は宇ノ気の本庁舎に統合され,他の二つの旧庁舎はサービスセンターとして住民への窓口機能のみを担っている。合併前の職員は,新市でも継続して雇用されている。保育を担当する部署は子育て支援課で,保育所のほか,児童手当,子ども医療費助成,学童保育クラブ,児童館,ひとり親助成 などの業務を担当している。  合併協議会では,公共料金決定の基本方針を「住民の負担は軽い町に,サービス水準は高い町に合わせる」としており,保育サービスの水準もこれに基づいて定められている。表1のように,合併前の水準が相対的に高かった旧高松町に合わせてサービス水 準が設定されている。合併協議会においても保育料の設定をめぐる目立った議論はなく,また住民から特段の要望は出されていない。ただし,児童数の減少により定員充足率が低かった旧宇ノ気町では2つの保育所が休園している。 前述のように,保育所の定員充足率は合併前から低下しており,2004年当時は83.3%であった。その後も未就学児は減少が見込まれていたが,0歳及び1歳児の入園数の増加や,土・休日保育,延長保育のニーズの高まりに伴い,保育士を増やす必要性があった。当時市内にあった17箇所の保育所は,定員充足率に大きな差があり,また多くの施設が1970年代以前の老朽化した建物であったことから,効率的な運営のために保育所の統廃合が実施された。統廃合に当たっては,2005年に住民意向調査を実施し,保護者へのアンケート結果に基づいて立地やサービスに対する要望を把握している。これに基づいて統廃合の方針を定め,需要予測と通園圏を加味した上で,必要となる保育所数を高松地区3カ所,七塚地区3カ所,宇ノ気地区4カ所と割り出し,統合計画をたてている(図1)。また,かほく市の認可保育所はいずれも公設公営で,民間に比べて維持コストがかかるため,2014年度中には9カ所に統合されることになっている。
  • 實 清隆
    セッションID: 220
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに 当発表はトラムを軸とした公共交通を新設・充実させることを通じて富山の街を「活性化」、「低炭素交通」などを実現させた富山のまちづくりのプロセスを解明するとともに、今後に残されている課題と展望を論じる。 2 1980 年代における富山の都市問題と實プラン 1980年台以降、富山では、モータリゼーションに伴い①郊外部への大型店の進出による中心商店街の疲弊、②豪雪時の交通渋滞など、深刻な都市問題に悩んでいた。この課題を解決策は「公共交通、とりわけトラムを充実させ、「車」交通から公共交通への転換を図る」ことが一番のポイントになると考えた。ここで、公共交通を軸にした實プランを提示するにあたり以下のヒントを得た。①街の活性化させるには、車を都心部まで入れる米国の都市より、トラムを充実させ都心部から車を排除するヨーロッパの都市の方が有効である。②豪雪時の都市交通には「トラム」が強く、渋滞解解消の効果が大きい。 以上をヒントにトラム(イメージとしてはミニ地下鉄:VAL)の導入を軸の以下の「實プラン」を呈した。①    トラムのルートは起点を旧富山港線の岩瀬浜(回船問屋)。南下して、カナルパーク、富山駅を通り、富山城をくぐり、城南公園(富山科学文化センター)、富山インター、富山空港(能楽堂、富山市体育館、テクノホール)、スポーツ村(野球場)まで。富山の顕著な名所を一本の線路で連結される。さらに、都心部はループにし、西町から東の不二越工業まで延伸させる。これにより、郊外からも都心部へのアクセスが「車」から「トラム」転換される。低炭素都市になり大気汚染が浄化され、都心部での交通事故も減少する。②    トラム創設により、豪雪に強い街になるとともに、安心してワインが飲め、都心部での触れ合いの時間が充実し、都心部の活性化が図られる。 3 富山のライトレールの導入とその効果 2007年に、旧JRの富山港線の廃線の跡に、富山市や地元企業の出資の第三セクターの富山ライトレール(株)が上(新会社:交通サービスの提供、施設の運営)下(富山市:路面部の施設整備・維持・管理)分離の経営で、日本初、全車LRVのトラムが運行した。2015年の北陸新幹線の乗り入れにあわせて、LRVの車輛が7セット(14.1億円)確保できたのは大きかった。その結果、2005年と2007年を比較すると、乗客数は平日で2倍、休日で3.6倍、ダイアの本数も1時間当たり2本から4本に増加した。利用交通機関の転換は、平日で自動車から11.7%、徒歩・二輪・タクシーから7.9%と約20%近く変換した。また、富山市は「コンパクトシティ」を狙い、都心及び沿線周辺に人口を誘導するため、区域名の住宅建設に補助金を出すなど財政的支援を行った。この結果、2006年以降、富山のまちなかの人口減少傾向に歯止めがかかった。 4 富山の公共交通による街づくりの今後の課題 富山のトラム創設による街づくりへの効果はコンパクトシティの形成、都心部の活性化など一定の成果はあったものの、北陸新幹線の建設にともない、在来の北陸線が県ごとに分割されたうえ、第三セクターの経営となり、運賃・運行サービスの削減が懸念される。低炭素都市建設のためにも「運輸連合」「ゾーン運賃制」の検討が待たれる。
  • 日野 正輝, 由井 義通, 宇根 義己, シャルマ ビシュワ ラジ, ラムダニ ファタファ
    セッションID: 301
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究課題 ここに言うアーバン・ビレッジとは、かつて都市周辺に立地していた村落が都市の成長・拡大のなかで市街化した地区を指す。アーバン・ビレッジの市街化は一般に計画的なインフラ整備を欠いたまま進行する結果,高密度で住環境は悪く,問題地域と目される.中国の大都市に多く存在する城中村は広く知られる。成長著しいインドの大都市にも、数多くのアーバン・ビレッジがある。 一方,アーバン・ビレッジは大都市経済との関係では,増大するフォーマルおよびインフォーマルな就業機会を求めて流入する貧困層に安価な居住の場所を提供する役割を果たしていることが知られている。また,自然発生的商業中心地として機能するところもある(岡橋編,2003). 本報告は,デリー南郊に立地するアーバン・ビリッジの一つHR地区を調査地に選び、居住者の社会・経済的特性を検討したものである。
    2. 調査地域と調査方法HR地区は、デリーの外環状道路の外側に位置し、デリー開発公社が1962年に策定されたマスタープランに従って開発を進めた住宅地域に位置している。地区面積は10haほどでしかないが、2014年選挙人名簿に基づく人口(18歳以上人口)は12,106人に達する。住民属性を把握するためにアンケート調査を実施した。調査は、持家世帯と賃貸住宅世帯それぞれにアンケート票を作成し、戸別訪問して直接聞き取る方法で実施した。訪問先は地区全体に分布するが,訪問先は巡回のなかで在宅者が確認できた持家世帯の建物であった.調査した賃貸住宅世帯の多くは、持家世帯が住宅の階数を増築して造ったアパートの住人であった。その結果、持家世帯103戸、賃貸住宅世帯76戸から、所属する社会グループ、宗教、家族構成、出身地、職業、世帯収入、家族構成員の属性などについて回答を得た。調査日は,2014年2月19日から24日であった.
    3.調査結果1)持家世帯の回答者の73%がイスラム教徒であった。住民の出身地は、持家世帯では50%がHR地区出身者であったが,ウッタル・プラデーシュ州およびビハール州出身者もそれぞれ20%,11%と相対的に多かった.それに対して,デリー他地区およびハリヤーナー州出身者は少なかった.賃貸住宅世帯では,HR地区出身者は皆無であった。代わって,ウッタル・プラデーシュ州およびビハール州出身者がそれぞれ40%と29%と多かった.回答者の社会グループは,「一般」(General )が過半を占めたが,後進諸階級,指定カーストも45%であった. 2)世帯形態は、核家族が60%であった.次いで、世帯主夫婦と既婚および未婚の子供世代からなる家族、親子孫の3世代家族が相対的に多かった。単身世帯、夫婦のみの世帯は少なかった。世帯主の学歴は、無学歴と大学卒とがともに25%を占めた。一方、世帯主の子供世代にあたる19・20才人口に限って、学歴構成を見ると、ほとんどが中・高等教育の修了者あるいは在籍者であった.3)世帯主の職業は自営業と非雇用者がそれぞれ40%と48%であった。自営業の多くはHR地区での店舗経営である。非雇用者の職種は多様である。臨時雇いが多数を占めるが、公務員、大学教授、教員なども見られた。世帯の労働月収も、貧困層に分類される労働収入7,500ルピー以下の世帯は10%未満であった。持家世帯の場合には、自宅の階数を増築して賃貸住宅を保有する世帯が多く、当該世帯の月収には労働月収に家賃収入が加わる。賃貸住宅の家賃は2部屋で5,000ルピー程度の収入が見込まれことから、賃貸住宅所有は安定した収入源を確保する有効な術になっていると理解できる。4)以上の点からすると、調査地区も他地域からの低所得者の流入先地としての役割を果たしてきたと指摘できる.同時に,子弟の学歴構成から推察されるように,当地区は流入家族が社会的上昇を果たす場としても機能しているとみてよい。持家世帯に他州出身者がすでに多い点も、そのことを示唆している。また、地区内では建物の増築が多くみられるが、不法建築の問題を別にすると、それらは住民の投資活動の現れであり、地区の活力を物語っている。
    参考文献岡橋秀典編 2003. 『インドの新しい工業化―工業開発の最前線から―』古今書院.
  • デリーのサリー類卸売業を事例に
    宇根 義己
    セッションID: 302
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究の目的
    発表者らは,インド・デリーのムスリム地区ジャミア・ナガールにおいて婚礼用伝統衣服などを生産する繊維・縫製工場群に対する聞き取り調査を2013年に実施し,同工場群における生産構造と労働者特性について,2014年日本地理学会春季学術大会にて報告した(宇根・友澤 2014).調査結果から,繊維・縫製工場は直営の販売店を有しているものもあるが,主にはデリー市内の卸売業者やショールームから受注を引き受けるジョブ・ワーク型の取引が中心となっていることを明らかにした.この形態の取引は,卸売業者やショールームが主導権を握っている.衣料品は,商品連鎖(commodity chain)研究においては「買い手主導の連鎖(Buyer-driven Commodity Chains)」の代表的な事例の一つとされており(Gereffi 1999),発表者らの上記研究の場合もこれと同じことがいえる.このことを踏まえると,「買い手」側,つまり卸売り・小売業者の取引行動に着目することにより,婚礼用伝統衣服における生産・流通システムの特性の把握に迫ることができる.
    そこで本報告の目的は,デリーにおける婚礼用伝統衣服卸売業者の商品取引の実態を明らかにし,婚礼用伝統衣服の流通・販売構造とその空間的特性を把握することとする.
    宇根・友澤(2014)で取り上げた繊維・縫製工場の納品先は,デリー中心部のチャンドニー・チョウクやラージパット・ナガールなどのほか,輸出業者の集積するノイダ,グルガオンに立地している.これを踏まえ,2014年3月にチャンドニー・チョウク(18店)とラージパット・ナガール(9店)に立地する合計27店に対して聞き取り調査を実施した.

    2.調査対象地域
    デリー中心部のオールド・デリーは,19世紀以降に繊維・衣料品や銀・銅製品,紙製品,食料品や香辛料など様々な商品の卸売・小売商店が集積するようになり,インドにおける一大商業地域となった.現在,繊維・衣料品を扱う卸売・小売商店はラール・キラーの正面付近から西に伸びるチャンドニー・チョウク通りの両脇を中心に立地している.この地域の一角にあるキナリ・バザールには,糸や装飾品など中間製品を扱う商店も集積している.一方,ラージパット・ナガールは布・衣料品を中心とした商業地区であり,卸売ではなく小売店が主体である.

    3.調査店舗の特性 調査店舗では,結婚式やパーティーなどで着用するサリー(ヒンドゥー教徒向け)やランガー(ムスリム教徒向け),西洋風ドレスを販売している.経営者は,ヒンドゥー教徒20店舗,ムスリム5店舗,シク教徒および不明が各1店舗である.ヒンドゥー教徒経営者はブラーミンなどの高カーストや,グプタ,アグラワルなどの商人カーストが卓越している.特定のカーストが支配的になっている構造は確認されなかった.出身地は宗教にかかわらず北インドが中心である.なかでも,ムスリム経営者は全員がウッタル・プラデーシュ州出身であった.
    商品のデザインは,工場側が行う場合と店舗側が行う場合,そして両方の場合が確認された.工場側がデザインした商品の場合,工場側が店舗へ商品を売り込み,価格と取引数等を交渉して契約が決定される.調査店舗の商品仕入れ先は商品の種類によって異なっている.手縫いの高価格商品は,デリー首都圏やウッタル・プラデーシュ州の産地から購入し,機械織りの比較的低価格商品は化繊サリーの産地として有名なグジャラート州スーラトから購入する.ジャミア・ナガールの工場と取引を有する店舗はごくわずかであったが,そうした店舗の経営者はムスリムである.調査店舗の顧客は全インドおよび海外から来訪する小売業のバイヤー,一般消費者,輸出業者である.輸出業者の占める割合は低いが,欧米や中近東に在住する,移民を含む南アジア人向けに輸出されている.

    【文献】 宇根義己・友澤和夫 2014. インドにおける「もう一つの工業化」―デリーのムスリム地区ジャミア・ナガールにおける繊維生産―.2014年日本地理学会春季学術大会発表要旨集.No.85: 139. Gereffi, Gary. 1999. International trade and industrial upgrading in the apparel commodity chain. Journal of International Economics, 48: 37‒70.
  • 浅田 晴久
    セッションID: 303
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに
    本発表ではインド北東部、アッサム州のブラマプトラ川氾濫原に暮らすムスリム移民の生業活動について、2013年から2014年にかけて実施してきた現地調査の結果を報告する。
    アッサム州のブラマプトラ渓谷では文化や言語、宗教を異にするさまざまな民族が農業を主とした第一次産業に従事している。これまで発表者とその共同研究者は、アホム(浅田2011)、アホミヤ(デカほか2011)、ミシン(浅田2014)などの在来住民を対象にして、村落調査を行いその生業構造を明らかにしてきた。その結果、これらの在来民族はブラマプトラ渓谷が作り上げた自然環境に適応する形で耕地利用や作付体系などの技術を発達させており、現在まで外部技術の導入は最小限にとどめて伝統技術を利用して生計を立てていることが判明した。
    在来住民の大多数が伝統技術を用いて生業活動を行う一方で、比較的新しい時代にブラマプトラ渓谷に移入したムスリム住民は全く異なる技術で自然環境を利用していることがたびたび指摘されてきた。アッサム州内のムスリムは古くはムガル帝国期から住み着くようになったが、大多数は19世紀末から20世紀初頭の英領期に耕地開拓のために移住してきた人々である。印パ分離やバングラデシュ独立時にも多数の住民がアッサム州に流入したと言われている。外からやってきたムスリム住民は、それまで在来住民に利用されてこなかった河川の中州や河岸地など洪水常襲地域に住みつき、過剰な水を克服して独自の生業活動を行っているとされる。
    ムスリム住民の人口は年々増加しており(2001年センサスで州人口の31%)、在来のヒンドゥー教住民との衝突が大きな社会問題となっている。このような社会問題の解決のためにも、自然環境の利用に主眼を置いて在来住民と外来移民間で生業活動を比較することは意義が大きいと思われる。地元研究者によるムスリム村落研究はほとんど見当たらず、在来住民の側からみたムスリム住民の事例報告でも(木村2012)、村落調査に基づいた生業活動の実態は未だ明らかにされていない。
    2.調査地および調査手法
    調査地域はアッサム州の中でもムスリム住民比率の高いナガオン県である(2001年センサスで51%)。アッサム州中部にあるナガオン県は北側をブラマプトラ川が流れ、河岸沿いでは雨季に河川氾濫による湛水がみられる。
    河川近傍に位置し、ムスリム住民が多数を占める調査村落において2013年8月(雨季)、2014年3月(乾季)、9月(雨季)の3度現地調査を行った。現地調査に際してはノウゴン女子大学地理学科の協力を得た。
    3.結果と考察
    調査村落で行われる生業活動のなかで他地域に見られないものが、乾季のボロ稲作と雨季の養魚である。耕地が湛水して雨季に稲作が行えない代わりに、乾季に管井戸で地下水を汲み上げてボロ稲が栽培される。このボロ稲作と組み合わせて、水田内で養魚が行われている。ボロ稲が刈り取られる前の4-5月に孵化した稚魚を放つために、水田の一画を掘り下げて乾季の間でも水が溜まる構造が作られている。雨季には水田一面が広大な養魚池に変貌する。
    ムスリム住民は自然環境を積極的に改変することで、本来は不可能であったボロ稲や養殖魚など生産性の高い生業を実現している。これは与えられた自然環境に合わせる形で雨季の天水稲作を続けてきた在来住民とは全く異なる自然の利用技術である。外来技術と在来技術の生産力のちがいによって住民間に摩擦が生じており、今後は農家経営や村落社会システムの差異にも着目する必要がある。
  • 高橋 誠, 伊賀 聖屋
    セッションID: 304
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    2004年12月26日にスマトラ島北西沖で起こったマグニチュード9.1の超巨大地震は大津波を引き起こし、インド洋全域にわたって死者25万人以上という史上最悪の津波災害をもたらした。私たちは、文理連携型の調査団の一員として、2005年に最大被災地のインドネシアのアチェ州都バンダアチェに入り、それ以来およそ9年間にわたって被災から緊急対応、復興に至るプロセスについて現地調査を行ってきた。この発表では、災害研究の視点から、特にバンダアチェおよびアチェベサールにおけるエビ養殖に焦点を置きながら、土地利用型の食料生産と、そういった第一次産業に依拠した地域の社会が巨大災害のあとにどのように再編されるかということを議論する。とりわけ、自然ハザードの超巨大性と、地域社会の脆弱性や回復力、そして30年間にわたる武力紛争の影響といった長期間の社会変動に言及する。
  • 高木 仁
    セッションID: 305
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     東ニカラグア・ミスキート諸島海域には、中米最大規模のサンゴ礁海域が発達し、そこに暮らす住人のみならず、多くのものがこの豊饒な海の恩恵を受けて暮らしている。地元住人達による漁場利用に関する先行研究は、この地で優れた業績を残したアメリカ人地理学者のベルナルド・ニーチマン博士による極めて詳細で、かつ広範囲を網羅している認知地図研究がある(Nietschmann 1997)。しかしながら一方で、この残された認知地図そのものや漁場としての機能にはいまだ謎が多いとも感じる。本発表の目的は、①東ニカラグア住人による漁場利用の実例を提示し、その結果が先行研究者の提示する認知地図を読み解く一助となりうるのか否か、もしなり得るのであればどのような点であるのかを議論することである。現地調査方法は漁師たちの航行に加わって、船上で聞き取りや観察する方法をとった。
    2.研究結果
    1)ミスキート諸島海域の漁場利用、その概況
     ミスキート諸島は、ミスキート族やその混血子孫たちが暮らす複数の村々が共有するこの地域では比較的大きな漁場であった。中心的な利用は、海岸部に発達した人口5万人の港町Aとその北側の湿地に位置するA~Eの5つの小規模漁村(約千人~3千人程度)と中規模の村F(人口約1万人)の一都市、6村落であった。 
     各村々で漁撈・漁業の対象とする生き物やその空間・利用の強度には違いがあるようであった。例えば、港町Aに隣接するA村とB村は比較的交通の便がよく、氷の入手がしやすい。大きな湖の河口に位置しており、豊富な沿岸汽水域の魚を捕獲・流通させて暮らしていた。また、極端に人口の多い港町Aや湿地によって陸上交通が未発達のD~F村では、より沖合にて巻貝やロブスターを対象とした潜水漁業や大型魚に力を入れているといった印象を受けた。主な調査地のC村だけは、アオウミガメの網での捕獲をほぼ独占的に発展させていた。
    2)アオウミガメ漁による漁場利用
     アオウミガメ漁師たちは一週間から10日、多い時ではそれ以上を木造船の上で過ごした。漁師たちはこの地域に広く分布するサンゴ礁が堆積する小島や比較的浅い海域を停泊拠点とし、季節ごとに異なるアオウミガメの分布・経路を見極め、なんとか過酷な漁を手短に終わらせようと専心していた。
     漁船の船長たちが最も注意を払っていたのは、「アオウミガメが夜眠りにつく岩」と考えられている海底の岩場(Walpa)の位置であった。船長や乗組員たちは毎日のように浅瀬の位置を変え、海面の色の変化に注意しながら、好ましい漁場を見つけては網を仕掛けた。漁が成功した時は、その岩場の位置を目印にして近隣の岩場を攻め、失敗したときは、長い航海の末に別の新しい岩場を発見し、そこでの成功を祈って網を仕掛けていた。
    3.考察
     文献には、先行研究社が部分的に提示した認知地図が残っており、その中には計43ヶ所の名称がある。中でも海底のいわば(Walpa)に通ずる言葉は、20ヶ所に記載がある。
     本発表で提示するアオウミガメ漁に関する結果は、この岩場を重視する住人の認識を支持するものであった。ただ、得られた結果では、この岩場に関する漁師たちの認識はかなり流動的で、実際、漁師たちはその場その場で想像力豊かに「アオウミガメが夜眠りにつく岩」を生み出したり、消失させたりしていたので、認知地図での岩場に関する記載も、それほど固定的ではないのかもしれない。先行研究者が残した東ニカラグア住人の認知地図には数多くの個人名称、地形境界、Bunfka, Tiufka, Muhtaなどのよくわからないミスキート語が凝縮して平面図に投影され、非常に難解である。今後は、こうした疑問点を現地調査で更に追求していきたい。

    参考:Nietschmann Bernard. 1997 Protecting Indigenous Coral Reefs and Sea Territories, Miskito Coast, RAAN, Nicaragua, in "Conservation Through Cultural Survival: Indigenous People and Protected Areas, Stanley F. Stevens (ed). Island Press, Washington.
  • ~呼和浩特市の生鮮野菜通販を事例として~
    関根 良平, 庄子 元, 佐々木 達, 蘇特 斯琴, 小金澤 孝昭
    セッションID: 306
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    報告者らはこれまで1990年代後半以降の変動期にある農牧業の変容過程について3つの観点から実態調査を進めてきた。一つは、シリンゴル盟,四子王旗を対象にした禁牧政策下の牧畜業の対応形態の実態把握である。二つめは、武川県大豆輔五福号,四子王旗,烏海市を対象にした世帯生産請負制の導入移行,急速に進んでいる商業的農業の展開とその性格の把握である。そして、三つめは生態移民による酪農団地の形成と酪農民の経営実態の把握である(蘇徳斯琴ほか2014)。
    本報告は、上述した対象地域のうち、これまでジャガイモやトウモロコシを中心とした畑作と羊を中心とした組み合わせのいわゆる伝統的な在来型農畜生産を生業としてきた呼和浩特市近郊地域において成立した、農民専業合作社形式による生鮮野菜の通信販売を中心とする地域的な取り組みである。農民専業合作社は、これも前述した伊利や蒙牛などの酪農巨大企業、すなわち「龍頭企業」とともに地域経済の牽引役として2007年から制度化された新たな協同組合である。前者は、農牧民を垂直的に統合しつつ地域経済をリードし、後者は農牧民の共同により生産から流通までを合理化し、農牧民の利益拡大をはかる役割を担うものである(李・大島2010)。
    その結果以下のことが明らかになった。特に呼和浩特市の近郊地域では、とりわけ農業/農村地域の場合、既に現状において若年層の都市部への移動によって日本以上に高齢化が進行しており、かつ従来の農産物(穀物やジャガイモ等)の生産地域再編成によって農業生産の魅力が急激に落ちている。加えて、個々の地域住民は一時的な金銭(補助金含む、ここでは主に土地利用権の賃貸)獲得に走りがちであり、合作社の設立によって逆に大きく需要が発生している農産物生産にそこが利用されるという構図がある。この類型(企業インテグレーション型)における今回の生鮮野菜を産品とする合作社は、とりわけ地域資源に依存しない経営形態が可能であるのに加え、その展開は過度な環境負荷を地域にもたらす可能性もあり、地域産業としての持続性にも疑問符をつけざるを得ないと考えられる。
  • 山田 耕生
    セッションID: 307
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
      今世紀半ばからの政治的な安定を土台として、インドネシアではここ数年、旺盛な経済成長を続けている。国内総生産(GDP)は2010年、11年と対前年比6%以上の伸びを記録している。経済成長や格安航空会社(LCC)の浸透などにより、都市住民を主としたインドネシア国民の旅行も活発になってきており、各地で旅行者数が増加している。  都市部でのめざましい経済発展の一方において、低所得者層が多くを占める農村地域では、維持に費用がかかる伝統的な様式の家屋や民族衣装、祭事など、伝統文化の維持、保存が困難になりつつある。  本研究ではインドネシアにおける農村地域の現状について、人々の生活、暮らしぶりという視点から明らかにし、伝統文化を活用したツーリズムの可能性を考察する。

     2.研究対象地域の概要
      研究対象地域として選定したランプン州は、スマトラ島南端に位置する。国内最大規模のジャカルタ首都圏からスンダ海峡を隔てて直線距離にして約200㎞の距離にあり、経済開発も急速に進められている。原住のランプン人による特徴ある生活文化(高床式伝統的家屋、伝統的慣習)は州の観光資源の一つで、インドネシア国内の評価も高い。  

    3.ランプン州ワナ村にみる農村および観光の現状
      ワナ村(Desa Wana)はランプン州東部、東ランプン県に位置し、村の面積は40km²、人口は9,150人である。労働者人口3,400人のうち、95%が農業従事者という農村地域である。州都バンダル・ランプン市からの交通手段は車に限られ、約2時間の距離である。  ワナ村の中心部には約2kmにわたり高床式の伝統的家屋が立ち並んでいる通りがある。家屋にはマホガニー、チーク材が使用され、古いものでは築80年、最も新しいものは築30年である。2階部分に玄関があり、生活もほとんどを2階で行う。もともとランプン州では全土に高床式の家屋が見られたが、集合して残されている地域が他にはみられなくなってきたことから、州では1990年にワナ村を文化観光村に指定している。  ワナ村の一般的な世帯では農業が世帯収入の柱であり、約1haの農地でコショウやカカオ、フルーツなどを栽培している。さらに土木作業や近隣の都市でのバイクタクシーなどの臨時収入を加えて生計を立てている。観光については、90年代後半まではランプン州および東ランプン県によるプロモーションも行われるなど、ワナ村の伝統文化の観光活用が取り組まれてきた。90年代後半には毎週10人ほどの外国人観光客も訪問し、3軒の世帯で宿泊を受け入れていたが、98年のアジア通貨危機を契機にワナ村に関する行政の予算もカットされ、観光客は激減した。現在では年間数十人が観光でワナ村を訪問するにとどまっているため、観光に関連した収入はほとんどない。  

    4.考察
      ワナ村の住民たちは高床式の伝統的家屋が重要だと認識しているが、使用する材木(モルバウの木)がほとんど残っていない点や、一般的な住宅の4倍と言われる維持費用を負担できない点により、維持が困難になっている。そのため、老朽化が目立つ家屋や、高床式を壊して平屋に建て替えた家屋もみられる。インドネシアでは急速な経済成長の一方で各地に残る伝統文化も失われつつある。観光による農村地域の持続可能な発展のシステムづくりが急務といえる。
  • 申 知燕
    セッションID: 308
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    新自由主義に基づく経済活動のグローバル化は,商品や資本はもちろん,労働力もグローバルシティに集中させ,今までにないほどに,国境を越える移住を活発化させている.特に,近年の移住は,移住先で永住し,現地社会に同化・吸収される移民よりも,起源地のアイデンティティやネットワークを維持しながら,国境を越えて複数のローカルを行き来する,いわゆるトランスナショナルな移住に近い.様々な形で行われるトランスナショナルな移住により,移住の起源地はもちろん,目的地のエスニシティも多様化され,都市空間も急変している.
    欧米諸国での民族空間形成の様相は,アジア圏の大都市においても,時間差をおいて繰り返されることが多い.そのため,グローバルシティへの移住の傾向,そして移住者空間の変化へ注目することは,今後の日本やアジア各国での移住の動向を予測できるために,研究を行う必要がある.以上を踏まえて,本報告では,アメリカ合衆国ニューヨーク市の大都市圏に位置する3ヶ所のコリアタウンを事例に,トランスナショナルな韓人移住者の増加が,ニューヨーク市の移住者空間に如何なる変化をもたらしたのかを議論する.本研究の分析にあたり,2012年5月,そして2013年6月に参与観察,In-depthインタビューを含む現地調査を実施し,関連資料を収集・分析した.

    2.研究対象地域の概要
    本報告の事例地域であるニューヨーク市は,アメリカ合衆国ニューヨーク州にある,人口約2千万の世界的中心都市である.ニューヨーク市,そして境界を接するニュージャージ州の一部地域を含む大都市圏の韓人の人口は,公的統計では約22万と集計されている.ここに短期滞在者等を含めると,その人口規模はさらに大きくなると考えられる.
    現在,ニューヨーク市には3ヶ所のコリアタウンが存在する.1970年代,クィーンズボロー(日本での行政区にあたる)・フラッシングに韓人向けエスニック・ビジネスと居住地を含むコリアタウンが形成されたのを端緒とし,ニュージャージ州バーゲン・カウンティー(日本での郡にあたる)ペリセイズパーク地域にも集住地が形成された.これらの地域には,それぞれ約3万,約1万の韓人が居住している.また,マンハッタンの中心部である5番街の32丁目付近には,商業施設を中心とするK-town(公式名称Korean way)が形成され,ニューヨークにおける韓国の最新トレンドの発信地となっている.

    3.本研究の知見
    ニューヨークにおける韓人移住者を移住時期,目的,経路,アイデンティティなどを基準にオールドカマーとニューカマーに分類すると,ニューカマーに分類される移住者は,1990年代からトランスナショナルな移住を行っていることが分かる.このような移住者の様相は,永住を目的とし,受容国の社会へ同化してきたオールドカマーとは区別される.
    韓人オールドカマーとニューカマーは,移住過程や定住の在り方において,それぞれ独特な傾向を持つ.オールドカマーの場合,フラッシングのコリアタウンでの文化的・言語的適応を経てから郊外へ再移動するが,ニューカマーは,生活環境や通勤距離を優先的に考慮し,最初からニューヨーク市やニュージャージ州の各地へ流入した後に,近くのコリアタウンを訪れる.
    3ヶ所のコリアタウンは,それぞれを構成する移住者により,異なる景観とエスニシティを持っている.フラッシング・コリアタウンは,移住者が自発的に凝集し,主流社会から自らを守るエスニック・エンクレイブ(ethnic enclave)で,オールドカマーの生活の根源となっている.一方,ペリセイズパーク・コリアタウンは,オールドカマーとニューカマーが混在する民族郊外地(ethnoburb)であって,開放的な民族空間として機能している.また,マンハッタン・K-townは,オールドカマーにより形成され,ニューカマーから主流社会の構成員にいたる幅広い客層に利用される空間である.K-townは,ニューカマーにとってはトランスナショナルなネットワークの交差点,主流社会の構成員にとっては,混成的な文化の体験の場という意味を持つ.なお,現代社会における交通網と情報通信技術の発達は,移住過程で形成される韓人ネットワークに対し,コリアタウン間,そして韓国とニューヨーク間での多層的な連携を可能とさせたほか,広域的な韓人の移住者空間を作り上げる役割を果たした.
  • ージェントリフィケーションの進行と経営者の社会関係に着目してー
    高橋 昂輝
    セッションID: 309
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    従来,都市の移民街に関する研究は,居住,事業所,コミュニティ施設の分布など,エスニック集団内部の物理的構成要素から捉えられてきた。しかし,近年,欧米の諸都市ではジェントリフィケーションが進行し,移民街をはじめとしたダウンタウン周辺に対するホスト社会住民の居住選好が指摘されている。すなわち,近年における移民街の変容を明らかにするためには,エスニック集団内部の変化のみならず,集団外部(ホスト社会)の動きと連関して考察することが求められている。また,ジェントリフィケーションの進行過程において,エスニック集団とジェントリファイアーは空間的に混在すると考えられ,両者の関係性に注目することにより,都市空間の変容をより詳細に描出できると考えられる。
    トロントにおいても,ダウンタウン周辺部に移民街が形成されたが,近年,ホスト社会住民の都心回帰現象が進展している。その結果,ダウンタウンに隣接するリトルポルトガルとその周辺では,既存のポルトガル系住民と近年流入した非ポルトガル系住民の混在化が進行している。商業地区であるリトルポルトガル内部においても,ポルトガル系から非ポルトガル系へと経営者の交代が進行し,現在,両者は域内に併存している。本発表ではリトルポルトガルの主要なアクターである事業所経営者に注目する。現地でのインタヴュー,質問票調査などによって得られた資料をもとに,個人属性にくわえ,経営者間のソシオグラムを作成することにより,社会関係を分析し,ジェントリフィケーションに直面するリトルポルトガルの動向を明らかにする。なお,現地調査は2012年10~11月,および2013年7~10月におこなった。
    リトルポルトガルを含むトロント市中心西部は建築年代の比較的古い半戸建住宅(semidetached house)が集積し,従来,ホスト社会住民の関心を引かなかった。しかし,近年における社会的多様性,古い建築様式への肯定的評価,通勤時間縮減への志向など,都心周辺部への価値観の転換にもとづき,ホスト社会住民は同地区に流入している。これにより,リトルポルトガル周辺の地価は2001~2006年の間に約1.5倍上昇し(Statistics Canada),2006年以降,さらに高騰している。地価の上昇は土地所有者にとって固定資産税の増加をもたらすとともに,賃借者にとっても家賃の上昇を引き起こす。すなわち,1960年代以降同地区に形成されたポルトガル系人の集積形態はホスト社会住民との関係性によって変化しつつある。
    リトルポルトガルに立地する非ポルトガル系事業所32軒のうち,28軒は2003年以降に出店した。非ポルトガル系経営者はポルトガル系経営者が閉鎖した空き店舗に開業するため,両者は域内にモザイク状に分布する。また,各経営者に「域内で最も親しいと思う経営者」を最大3人答えてもらい,得られた回答からリトルポルトガル内の社会関係を示すソシオグラムを作成した。分析の結果,ポルトガル系・非ポルトガル系の両経営者集団はリトルポルトガルという同一の空間に併存する一方,それぞれが社会的には異なるネットワークを形成していることがわかった。
    こうした両経営者集団の社会的な分離状態は,地域自治組織であるBIA(Business Improvement Area)の運営において,顕在化する。前身の地域自治組織が設立された1978年以降,ポルトガル系経営者が組織の代表を務めてきたが,2012年において非ポルトガル系経営者の中心的人物であるK氏が代表に就任した。K氏の就任以降,BIAの委員はポルトガル系から非ポルトガル系中心の人員構成へと変化し,まちづくりにおいてもポルトガル系に特化しないフェスティバルの開催などが企画されるようになった。K氏が代表に就任した初年度にあたる2012年には,ポルトガル系経営者の反対により,フェスティバルの開催は実現に至らなかった。K氏は6名の非ポルトガル系経営者から親しい人物として支持され,非ポルトガル系社会の中では最も高い中心性を示す。しかし他方,同氏はポルトガル系社会のネットワークには接続しておらず,地域自治組織の運営において課題を有しているといえる。ジェントリフィケーションに直面するリトルポルトガルを社会関係の観点から分析することによって,今日における多民族都市トロントの展開を端的に説明することができる。
  • 南房総市岩井地区を事例に
    太田 慧
    セッションID: 310
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1研究背景と目的
    大都市周辺の海岸観光地は,数ある海岸観光地の中で最も古い形態の観光地である.このため,近年の大都市に近い海岸観光地では衰退傾向が指摘されており,観光地における新たな地域問題となっている(Urry, 2002; Agarwal, 2007).東京大都市圏に位置する千葉県の南房総地域は,第2次世界大戦以前から海水浴客が訪れていた地域であり,海岸観光地としての長い歴史がある地域である(山村,2009).従来,南房総地域は東京方面からのアクセスが長年の課題であった.しかし,1990年代以降になると,東京湾アクアラインや館山自動車道の開通によって,東京や神奈川方面からのアクセスが著しく改善した.その結果,1980年代をピークに宿泊客数が減少した一方,日帰り観光客が増加傾向にある.このような状況から,南房総地域は日帰り観光地としての性格を強めており,従来の民宿地域は衰退傾向にある.そこで,本研究では房総半島有数の民宿集積地である南房総市の岩井地区を事例として,民宿地域の変容を明らかにすることを研究目的とした. 
     2研究方法
      本研究では,千葉県民宿組合連合会のデータから,房総半島における民宿の最大の集積地として南房総市の岩井地区を選定した.南房総における民宿地域の形成について,町史や地誌をなどの文献から示した.さらに,宿泊客数が最大であった1980年代と現在の民宿地域の構造の変化を,聞き取り調査や土地利用をもとに示し,民宿地域の変容について検討した.  
    3岩井地区における民宿地域の形成
    現在の岩井地区は南房総市の一地区であるが,2006年の町村合併以前は富山町に属していた.旧富山町は海岸側の岩井地区と山側の平群地区からなり,町の中央には南総里見八犬伝の舞台となった富山がそびえている.岩井地区に初めて海水浴客が訪れるようになったのは,明治時代のことである.明治時代の半ばになると,穏やかな海である岩井海岸が中学校の水泳訓練場として利用されるようになった.1918年に北条線(現・JR内房線)が那古船形駅まで延伸されると同時に岩井駅が開業すると,海水浴客や避暑客が増加していった.第2次世界大戦以降には,東京や埼玉などの臨海学校が次々に開設され,1964年にピークに達した(『富山町史』,1993). 
     4岩井地区における民宿地域の変容
    富山町における海水浴客数は1980年代をピークに減少し続けている.南房総市の岩井地区では,2014年現在における民宿数は最盛期よりも減少したが,現在でも房総半島で最大の民宿地域として維持されている.この要因には,岩井海岸の海水浴場が内房の穏やかな海として臨海学校に利用されているほか,大学生のサークルや臨海学校などの団体客の合宿場として音楽スタジオや体育館や多目的ホールなどを積極的に設置することで,季節型の民宿から通年型の民宿への転換を図ってきた.宿泊客数は夏季の方が多いものの,大学生のサークルが利用することで冬季や春季にも一定の宿泊客が訪れている.  さらに,学生の団体客を対象とした「ビワ狩り」などの農業体験や,地域に伝わる昔からの漁法である「地曳網」体験など,農業や酪農や漁業の体験教室を開設することで,従来観光客が集中していた夏季以外の春季や秋季の集客を図っている.また,岩井地区の農家で生産されたビワを使ったワインづくりが行われ,有料道路と一般道の両方から利用できる「ハイウェイオアシス・道の駅富楽里とみやま」で販売されている.以上のように,岩井地区における民宿地域の維持システムには,合宿客をターゲットとした施設改修や農業や漁業をはじめとした地元の産業を活かしたイベントが関わっている. 
    [参考文献]
    富山町 1993. 『富山町史 通史編』, pp.476-484.
    山村順次 2009. 5)南房総地域, 『日本の地誌5 首都圏Ⅰ』朝倉書店, pp.552-567.
    Agarwal, S. and Shaw G. 2007. Managing Coastal Tourism Resorts –A Global Perspective.
    Urry J. 2002. The Tourist Gaze Second Edition, pp.32 Sage.
  • 坂口 豪
    セッションID: 311
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究背景と目的 2008年から始まった日本でのジオパーク活動は、わずか6年で日本各地に広がり、2014年7月現在、33地域が日本ジオパークに認定され、またそのうちの6地域が世界ジオパークネットワーク(以下、GGN)加盟の世界ジオパークである。ジオパークは、地球活動の遺産を主な見どころとする自然の中の公園である。ジオパークでは、対象とする素材の保全・保護を確実にしつつ、教育や観光等に活用し、地域振興につなげる目的がある。GGNのガイドラインでは、地質学に直接関係ないテーマであっても、地形や地質の関わりが学べるような対象は、ジオパークを構成する要素として協調すべきとされている。日本のジオパークにおいては、その地域ならではの食や伝統産業などもジオパークの対象としてパンフレットで紹介をしている事例もみられる。一方で、食や伝統産業のような文化資源はコラムのような扱われ方をすることが多く、社会・文化的な地域資源を地形や地質、または広く自然環境と結びつけたストーリーの構築がジオパークでは望まれる。 本研究では、ジオパークにおいて大地の恵みとして取り上げられることの多い「食」のなかでも、特に原料として「水」と「米」という地域の自然に立脚したものを使用する酒造業に着目する。日本の複数のジオパークにおいて、パンフレットやウェブサイトに「大地の恵み」といった説明を付して日本酒や焼酎などの酒類を紹介している。しかし、造り酒屋や仕込み水の採水地がジオサイトやジオポイントしてジオパークのアトラクションとして位置づけている例は少ない。また、食に関する説明についても「大地の恵み」といった簡易的なもので済まされることもあり、大地の恵みの部分の解説が不十分である事例も見受けられる。そこで、糸魚川世界ジオパークを事例に、酒造業の実態を明らかにするとともに、日本酒をどのようにジオパークのストーリーの中に位置づけていくことができるか検討する。   2.糸魚川市内における酒造業 糸魚川世界ジオパークは糸魚川市全域とその範囲が一致する。新潟県の最西部に位置し、富山県と接する。2009年に日本で最初の世界ジオパークに認定された地域の一つである。 酒造業をジオパークのアトラクションとして位置づけるにあたっては、仕込み水の水源や水質、また酒米の銘柄と栽培地、また酒造業が維持されてきた社会・経済的な背景を整理する必要がある。ここでは、仕込み水に着目し、その採水地や方法、関連する地理的な諸要素を述べる。調査の方法としては、酒蔵における聞取り調査および糸魚川世界ジオパークで作成している各種資料(パンフレット類)をもとにした。 糸魚川市内には池田屋酒造(株)、加賀の井酒造(株)、(名)渡辺酒造店、猪俣酒造(株)、田原酒造(株)の5つの酒蔵が存在する。酒どころ越後の中でも特に糸魚川は水が良いとされる。酒造りのための水は基本的には伏流水が使用される。しかし、5蔵が一律で同じ水を用いているわけではない。例えば、糸魚川市街地に位置する加賀の井酒造では敷地内の井戸水を仕込み水としている。糸魚川市街地を流れる姫川水系の伏流水が地下水となっているものをくみ上げている。この水は新潟地酒では珍しく硬水である。加賀の井酒造では、「硬水の醸す酒造りを極める伝統の蔵元」というフレーズを掲げている。また、猪又酒造は糸魚川市街地から車で20分ほどの早川沿いに位置し、ジオサイトの一つである月不見の池ジオサイトが近くにある。仕込み水は、酒蔵から早川沿いに上流に進んだところに位置する湧水を採水地としている。この湧水は、ジオサイトである月不見の池を形成しており、仕込み水とジオサイトの水が同じ供給源である。ここで示した2つの酒蔵の仕込み水は硬水という点で共通点があったが、姫川水系と早川水系と異なる水系であり、また属するジオサイトも異なる。   3.まとめ 糸魚川世界ジオパークにおける酒造業とジオパークとの関係を検討するために、ここでは仕込み水に着目して、その概要を記した。紹介した2つの酒蔵の仕込み水は硬水を使用していた。
  • 北海道十勝管内における起業家の諸活動と協働の事例から
    鷹取 泰子, 佐々木 リディア
    セッションID: 312
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    ■はじめに:研究の目的 

    北海道十勝総合振興局(旧・十勝支庁)管内(以下、十勝管内)において、農村を志向して移住してきた起業家たちの流動によりもたらされたルーラル・ツーリズムを事例としてとりあげながら、その構築の諸相を明らかにすることを目的とする。

    ■研究の背景と事例地域概観 

    十勝管内の農業は、日本の食料供給の重要拠点として機能しながら加工原料などを主たる生産物とする産地形成が進められてきた。畑作では麦類、豆類、ばれいしょ、てん菜の4品目主体の輪作体系が確立され、北海道の典型的な大規模畑作農業地域を構成している。また、農業出荷額の約半分は酪農・畜産によって占められ、冷涼な気候に恵まれて飼料生産にも適した管内は、道内でも有数の酪農・畜産地帯となっている。したがって十勝管内における農業・畜産業の本流は、生産主義を代表するような専門的で大規模化された経営に特徴づけられてきたといえ、ルーラル・ツーリズムに関する先行研究で見られるような、観光農園や直売所といったツーリズムの一形態との親和性は決して高くない。各種直売施設は現在では管内各地に立地しているが、冬季の制約もあり、近年になるまでほとんど存在しなかったという。

    ■農村志向の移住起業家が生んだルーラル・ツーリズム 

    起業家A氏(札幌出身)の場合、農場ツアー等を企画する会社を開業し、自ら農場ガイドとして圃場を案内する一方、農場経営者と都市住民とを結ぶコーディネータとしての活動も積極的におこなっている。ツアーは作物自体の収穫・消費を必ずしも主眼とはせず、また農場における観光用に準備された栽培もみられない。あくまで農家が提供する生産空間を活用していることが特徴で、ツアー参加者は広大な大地に野菜の花や実、葉が生育した様子を五感で体験することができる。農家がツアー会場に登場することは稀で、通常は農業に専念し、広大な農場というルーラリティの一部の空間を提供しているにすぎない。つまりここではルーラリティの価値が農場ガイドによって新たに引き出されながら、消費者に提供されている。現在の協力農家も消費者との交流活動には興味がありつつも、高度に専門化した農業の片手間での実施が難しかった状況で、A氏が取り持つ形で農場ツアーの実現を見たことが、この起業のきっかけにあったという。同様に、現在管内ではさまざまな動機から農村を志向し、移住してきた起業家が活動している。家庭の事情で東京からUターンし有機志向の活動に取り組む飲食店主、アメリカからCSAを逆輸入した夫婦等、彼らの経営規模はまだ小さいながら起業という形で地域に根ざした活動と協働を実践しているという点等の共通点が見出せた。

    ■農村を志向する起業家と地域との協働 

    管外から移住し農村志向の諸活動に関わる起業家たちは、地域の農業やさまざまなコミュニティと複合的に結びつき、自身の事業の安定等を模索しながら、互いの結束を強めたり、新たな絆を生んだりしている。十勝管内のルーラル・ツーリズムの構築を支え、さらに展開させる地域要因としては、各移住者のライフステージの変遷とキャリアの蓄積にみる内容の豊富さ、フードシステムにおける地産地消への動き、有機農業者等のネットワークなどが関わっていた。管内の農業はグローバル化の影響を強く受ける品目も多いが、現在彼らとその仲間によって取り組まれつつあるルーラル・ツーリズムの多様化の諸相が、持続可能な農村空間やネットワークの重層化に寄与しうる等、今後の動向が注目される。

    ■謝辞: 本研究を進めるにあたり,JSPS科研費 26580144の一部を使用した。
  • 苅谷 愛彦, 松四 雄騎
    セッションID: 313
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    ◆はじめに  立山(富士ノ折立,大汝山,雄山)東面には圏谷や氷食谷が発達し,それらの底部で現成氷河も確認されている.立山東面の氷河地形は主に更新世後期に生じたと考えられるが,未踏査域も多く,氷河消長の復元には至っていない.また崩壊や流水侵食による氷河地形の解体史は論じられておらず,氷河形成前の地形場も不明な点が多い.飛騨山地の地形形成を様々な時空間スケールで論じるには,事例集積がさらに必要である.本発表では,氷食の影響を強く受けたとみられるタンボ沢(図1)で発見された岩石なだれ(深層崩壊)堆積物を報告する.
    ◆地域・方法  タンボ沢は雄山から東に向けて開いた流域をもつ.標高2300 m付近より上流側は岩壁が北北東-南南西方向に連なる.周辺流域で発達する氷河地形の高度と形態の類似性から,これらの急壁は圏谷壁と考えられる.一方,標高約2300 m以下では幅500 m前後の平底状谷底面が標高1650 m付近まで連続する.この谷底面には複数のリッジがあり,巨礫が点在する.リッジはその形状と規模から土石流性とは考えにくく,氷河-融氷流性または崩壊性と推察される.地質は,標高約1800 m以上にジュラ紀の角閃石黒雲母花崗閃緑岩・トーナル岩が,同以下に中新世の斑状黒雲母花崗岩-花崗閃緑岩が分布する.
    ◆結果  タンボ沢下部に大規模露頭(Loc.1)を確認した.露頭高は約30 mで,中部を境に岩相が異なる上下2層の堆積物が露出する.上位層は花崗閃緑岩の角礫・亜角礫を主とするルースな礫層(層厚≧15 m)で,淘汰は悪い.最大径3 m程度の巨礫を含む.基質より礫の含有率が高く,下位層より色調は明るい.一部の礫にジグソー・クラック(JC)を認める.上位層の下限付近には粗砂の基質を主とするオリーブ灰色の厚さ1 m前後の礫層が挟まれる.この礫層は側方連続がよく,水平に15 m以上追認できる.上位層上限は不明である.一方,下位層は粗砂の基質に富む礫層(層厚≧15 m)で,礫は花崗閃緑岩からなる.淘汰は悪く,やや固結する.多くの礫がJCを伴う.また花崗閃緑岩の細粒相が破砕して細礫層をなし,それらがダイアピル状に立ち上がり下位層内を伸展する状態が確認された.さらに,JCを伴う礫が上下方向に約0.8 mにわたって再配列し,破砕した礫の一部に上流側(西)上がりの系統的変位(2-3 cm)を生じていた.礫の再配列を含む変形帯の幅は約20~30 cmで,これに平行する最大厚さ5 cmの礫混じりシルト層を伴う.シルト層と周囲の礫層との境界面はN26°W・73°Sだった.下位層の下限は不明である.なお,Locs. 2, 3でもJCの発達した礫層を確認したが,Loc. 1の上位層・下位層との関係は不明である.            
    ◆考察  JCは,火山体・非火山体を問わず岩石なだれなどの大規模深層崩壊で形成される.崩壊物質の移動過程で礫が圧砕されるものの,礫相互の位置関係は変わらずに生じると考えられる.下位層中の礫の上流側上がり変位は岩石なだれ堆積物にしばしば発達する圧縮場での剪断構造と解釈される.また上位層下限に挟まれる薄い礫層は,上位層が流動する際に剪断を受けて生じた基底すべり層(basal layer)と考えられる.下位層中のダイアピル状貫入も含め,ここに挙げた堆積・変形の特徴は,海外の岩石なだれ堆積物で報告されているものと多くの点で共通する.なお,類似の堆積・変形構造は山岳氷河堆積物でも確認されているが,Loc. 1の上位層・下位層は厚く,水流円磨礫を含まない点で特異である.以上より、上位層・下位層は岩石なだれ起源の礫質堆積物と判断される.ただし,岩石なだれ発生斜面を特定するには至っていない.上位層・下位層の堆積と氷河消長との関係は不明であるが,Loc. 1が氷河性の可能性をもつリッジを伴った背後の地形面より下位にあることを考えれば,上位層・下位層は氷河形成前に生じたことが疑われる.岩石なだれ発生斜面は涵養域の形成に好条件をもたらしたが,後の氷食で消失したことも考えられる.
feedback
Top