抄録
1.はじめに
本報告では明治時代初期における京都市中出身者の奉公先とその特徴を明らかにすることを目的とする。
歴史人口学で使用される宗門改帳は、大都市では「現住地型」とよばれる形式の場合が多い。京都の宗門改帳も同様で、江戸時代における人口移動や労働移動に関する研究では転出者を検討することが困難であった。本報告は明治期の史料を使用することによって、こうした研究の空白を埋めることを目指すとともに京都の地域構造を理解するための一視点を提示したい。
2.対象地域と史料
明治初期の京都では、明治2年の第2次町組改正によって上京・下京で合計65組が成立した。下京第四区はそのひとつであり、三条・四条・烏丸・柳馬場の各通りに囲まれた28か町から構成される。明治期の地誌である『京都坊目誌』によれば、明治6年時点における下京第四区の人口は3,103人であった。
本報告の史料としては、京都市歴史資料館所蔵の梅忠町文書(写真版)に含まれる「下京第四区 区内職分総計」を使用する。この史料は「本籍地主義」で作成されており、明治5年7月時点での各町における家ごとの職業がまとめられているほか、雇用労働に従事していた「雇人」の「奉公」・「通勤(日勤)」・「出稼」先が記載されている。以下ではそのデータを使用して、「雇人」の雇用先の広がりについて検討を行う。
3.住民の奉公先
下京第四区の「雇人」は合計で168人(男139人・女29人)が記載されており、区内人口の5%程度にあたる。ただし、10人以上の「雇人」が登録されている町がある一方、ひとりも登録されていない町もみられ、区内でもその人数にはばらつきがある。
「奉公」は住込奉公を示していると思われ、120人(男93人・女27人)が記載されている。彼らの8割は京都市中へ、1割強は大阪へ奉公入りしていた。京都では下京第四区を中心として距離減衰的な分布がみられ、三条通や四条通など繁華な通りの大店への奉公が多くみられた。継続年数をみると、8割以上が5年以内であり、奉公の継続と終了の分岐点が5年目頃であったことが推察される。
「通勤」は36人(男35人・女1人)で、上京へは5人、下京へは31人となっている。下京のうち、22人が下京第四区内、さらに11人は居住する町内への「通勤」であった。このように、彼らの「通勤」先は「奉公」よりもさらに近距離に分布していた。これは、彼らの多くが住込奉公を経て別家を許可され、主家の近隣に居宅を用意されたためと考えられる。
「出稼」は12人と少数であるが、東京・大坂などの大都市のほか、渡島や薩摩といった遠方へも向かった者もみられた。ただし、彼らの場合は必ずしもすべてが雇用労働者ではなく、商売を行うために遠隔地へ向かった者もいたと思われる。
4.おわりに
工業化開始以前の明治時代初期の傾向は、江戸時代後期の状況をある程度反映していたものと考えられる。当時の京都の住民の奉公先は近隣の地区が多く、多数の奉公人を抱えるような表通りの大店が一定の影響を与えていた。