日本地理学会発表要旨集
2015年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 418
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発表要旨
植民地台湾において手押台車軌道が果たした役割とその位置づけに関する検討
*廣野 聡子
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抄録
従来の植民地期台湾における鉄道に関する研究は多くなく、それらは植民地経済或いは植民地支配システムに着目し、主に官設鉄道を研究対象としたものである。一方、植民地期台湾では私設鉄道が大きな規模を持っており、人車軌道もよく発達していた事実は着目されてこなかった。そこで、本研究では人車軌道に着目し、台湾における人車軌道の発達の背景を整理し、その地域的な特徴を捉えた上で、植民地期の台湾における人車軌道がどのように位置づけられるかを検討することを目的とする。なお、当時の人車軌道は「軌道」あるいは「台車」と呼ばれていたが、本研究では「手押台車軌道」の呼称をあてたい。
台湾総督府は台湾統治にあたり、台湾を南北に縦貫する鉄道の敷設を急いだ。縦貫鉄道は、北部と南部から同時並行で進められ、完工した部分から区間開業していったが、台湾中部は地形的制約から工事には時間を要し、台湾の南北の交通をいち早く確保したい総督府は、設備が簡易ですむ手押台車軌道を鉄道に先行して敷設して旅客と物資の南北輸送を一時的に補うこととした。
縦貫線の開業後その軌道物資が民間に渡ることで、以後1900年代初頭からこれを用いた手押台車軌道の敷設が台湾各地で進められた。路線網は急速に拡大し、1915年頃には各地域と官設鉄道を接続させる手押台車軌道ネットワークが出現するに至った。1915年当時の手押台車軌道の営業距離は総延長が1600kmを越え官設鉄道の営業距離512kmの3倍を超える路線網を持っていた。
手押台車軌道を敷設した主体は、初期投資が少額で済むことから大企業だけでなく、中小民間資本も多く参入し、極めて短時間のうちに手押台車軌道による交通ネットワークが形成された。
手押台車軌道の路線延長は1915年に最も大きな規模を見せ、1920年代を通して増減を繰り返し、1930年代中頃から道路整備の進展とバス路線の拡充を背景として急激に路線を縮小させた。
地域的な分布では、最盛期で新竹州と台中州の合計で路線延長1000km以上となっており、全台湾の手押台車軌道延長の6割以上を占めていた。これは山岳路線を多く抱えていたことと関係する。輸送実績面では、台北州の手押台車軌道が旅客・貨物ともに高密度・高収益の輸送を行っていた。台湾北部は南部と比べて製糖工場が少なく、地形も山がちであったことで、私設鉄道が発達せず、手押台車軌道の占める位置は大きかった。
また、手押台車軌道は地域ごとに特徴ある物資輸送を行っており、統計に表れる物資以外にも、台湾日日新報の記事には金紙などを運んでいた記録も残っており、植民地的生産物以外にもローカル需要を反映した輸送を行っていたことがうかがえる。
この手押台車軌道は植民地経済を支えた一方で旅客輸送でも大きな存在感を持っていた。一般には「台車」と呼ばれ、市街地では民家の軒先をかすめるように路線が敷設されていた場所もあり、身近な存在であったと伝わる。また、台湾独特の交通機関として内地向けの観光ガイドにも紹介されており、台湾を訪れた皇族方が手押台車軌道を利用して観光された記録も残っている。
ただし、日本内地の旅行者や台湾駐在の内地人にとっては台湾独自の交通機関として認識されてはいたが、庶民にとっては運賃負担の面で日常身近に利用するものではなかったようである。一方、その構造の簡便さから個人的に台車を作成して、現代でいう自家用車、あるいは自家用トラックのように利用していた記録も残されている。
以上をまとめると、植民地期台湾の手押台車軌道について以下が指摘できる。
・民間資本によって敷設が進められ、道路整備に先んじた交通網形成、特に山岳部の交通路確保に大きな成果をもたらした。
・路線規模では新竹州や台中州などの台湾中部が、輸送密度や単位路線距離あたりの収益では北部の台北州で、高い数字を見せた。輸送品目ではそれぞれの地域の産業の特徴が表れていた。このことから、手押台車軌道は敷設された地域の特色をよく反映する存在であるといえる。
・貨物だけでなく地域の旅客輸送でも大きな役割を持ち、台湾独特の交通機関として日本内地でも知られていた。植民地支配の道具としてだけではなく、民衆の生活の中でも様々な形で利用された交通手段だった。
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