抄録
従来の通婚パターンに関する研究は,通婚パターンの形成の原理を解明するものと,通婚パターンを社会変動や社会関係の指標として扱うものとに大きく分かれる.本発表は後者の立場から,通婚パターンの世代間比較をおこなうことにより,バングラデシュ農村のムスリムの間の社会関係形成における出自や家柄の相対的重要性の変化を考察する.バングラデシュのムスリム社会は一般に父系制であり,調整婚(見合い婚),嫁入婚が主流である.バングラデシュのムスリムの通婚を扱った従来研究は,インドやパキスタンのムスリムを対象とした研究蓄積に比べてきわめて乏しく,階級や社会階層の議論において断片的に言及されてきたにとどまる. 本発表で主に検討する出自や家柄に基づく社会関係の形成は,バングラデシュを対象とした従来研究においてjati thinkingと呼ばれてきたものである.ジャーティは,通説的には内婚で序列化された世襲の職能集団を意味するカーストの現地語とされる.従来,南アジアのムスリムの間では,ヒンドゥーのカーストと類似した階層が見られることが報告されてきた.jati thinkingという用語は,バングラデシュのムスリムの間で包括的なカースト秩序を欠きつつ特定の集団に対する通婚の拒否や下位の序列付けが維持されている状況や,より広く,人間社会および人間の性質を本質的にヒエラルキカルな観点から捉える思考法を指して用いられてきた.主としてほかのムスリムから通婚を拒否されることにより内婚が保たれている集団は,特定の職能と結び付いた集団である場合がほとんどである.一方で,特定の職能を持たないが,複数の父系親族集団gustiがそれぞれのタイトルbangsaに基づいて序列化され,異なるタイトルを持つ集団との通婚が制限されている事例も報告されてきた.タイトルは,単数あるいは複数の父系親族集団に共有された姓にあたるものである.タイトル名には地位や職業に由来するものが多く,タイトルによる序列付けは広義のjati thinkingに基づくといえる.しかし,タイトルは,経済的上昇や上位のタイトルを持つ家族との通婚等による社会的上昇等を通じて改称が可能なものであり,生来的なものというより,達成されるものである側面も見られる. 本発表では,これらの出自や家柄による通婚規制,すなわち社会関係の形成におけるjati thinkingの継続あるいは変容を,実証的なデータに基づいて検討する.事例として取り上げるのは,首都ダッカから北西80 kmほどに位置するタンガイル県の,様々なタイトルを持つ父系親族集団から成る村と,複数の村にまたがって居住する楽師を職能としてきた集団である.発表では,住民へのインタビューから配偶者選択の基準の変化を描き出すとともに,実際に,これらの村の婚入・婚出女性の通婚パターンがどのような傾向を持ち,世代を経ていかに変化したのかを示す.