抄録
「ワヒ」は,中央アジアに暮らすイラン系の民族で、伝統的に移牧と灌漑農業を生業としてきた。しかしながらその居住地域が4か国に分断されたことで,生業の形態や生活様式・文化などが,地域ごとに異なるものへと変化しつつあると考えられる。本研究は,その居住地域の一つ,タジキスタン南部において,住民の生業,生活の変化の過程や現状を把握し,それらに影響した要因や地域が抱える課題について考察することを目的とする。
アフガニスタンとの国境をなすパンジ川の河谷底部,標高2,500~3,000mの地域には26の集落があり,そこでは,小麦や大麦,豆類を栽培する灌漑農業と,リンゴやアンズなどの果樹生産が,自給的に行われている。また,山羊・羊,牛などの家畜を,標高4000m以上にある夏の放牧地と集落周辺との間を季節的に移動することで飼養し,乳製品を自給している。すなわち,農牧業は,ソ連邦時代の共同農場による生産方式を経た今日も,伝統的な様式を大きく変えてはいない。一方でソ連邦崩壊後は,市場経済の進展により,住民の家計における金銭的支出は大きく拡大したが,伝統的な農牧業は自給的な色彩が強く,それだけで生計を維持することが困難になってきている。地区内には農牧業以外の就業機会が乏しく,いきおい多くの生産年齢人口が,都市部やロシアなど国外へ流出している。
タジキスタンワハンにおける地域経済の浮揚に向けては,現在の基幹産業ともいえる農牧業の改善をすすめることはもとより,新たに他産業を導入・育成することで就業機会を増大させることが求められる。中でも,最も現実的で可能性が高いのが観光業による地域振興である。この地は,パミール高原のかつてのシルクロード沿いにあり,その自然景観・環境や歴史的な遺構などの観光資源が豊かである。さらには,ワヒの伝統的な農牧業にかかわる,景観,農作物,家畜,生活文化など,体験型の観光にも活かせる観光資源にも恵まれており,これらを観光業に有効に活用する施策が期待される。しかしながら,道路,水道などのインフラ整備は不十分で,宿泊施設,交通手段を整備する資金も不足している。内発的な観光業発展のためにも,観光業に関わる人材を,地元の中に育成していくことが求められている。