日本地理学会発表要旨集
2016年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 703
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要旨
大津市の軒下地慣行にみる官民境界の歴史性
明治の地籍図と現在の土地所有に注目して
*西村 和洋
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抄録

はじめに
土地家屋調査士は、土地境界を確定することが重要な業務であり、明治の地籍図をはじめとする古地図や土地台帳、現在の土地専有状況等を調査し、関係性を整理した上で、公法上の筆界を明らかにすることが求められる。官地と民地の境界(官民境界)については、山林や入会地に関する研究が比較的多くみられるが、最も普遍的な存在である道路や水路については非常に乏しい。本発表では、滋賀県大津市の軒下慣行を事例に、官民境界が抱える歴史的性格と基本的構造、現在に残した影響などについて考察したい。 本発表では明治期作成の地籍図を基本資料とするが、その研究は、佐藤(1986)や桑原(1999)などが基本的整理を進め、近年は研究者による基礎的研究も増えてきている。土地家屋調査士の業界においても各都道府県会の研究が近年大きく進んでいる。 大津は豊臣秀吉によって京都の外港として整備され(「大津百町」)、近世以来の土地慣行である「軒下地」が確認できる。先行研究として岡本(2006)があるが、江戸・大阪・京都・堺で普遍的に存在したことが明らかにされており、軒下地の慣行は歴史的な大都市が抱えた構造的問題として注目される。大津百町でも町全体で通りに沿って軒下地が展開し、その様子が明治期の地籍図に詳細に描かれている。  

研究で用いる資料と分析方法  
大津百町と呼ばれた地域では、明治7年の壬申地券地引絵図と明治17年の地籍編製地籍地図が町限図形態で作られており、大津市歴史博物館と滋賀県立図書館で各絵図が良好に現存している。これらに描かれた情報は、明治22年以降の旧公図に引き継がれており、現在の土地登記情報もこれを踏襲している。これらの地図史料には、通りに沿って軒下地が詳細に描かれている。明治期の「大津市街軒下地に係る経緯文書」(県庁文書) によると、「軒下地ノ起源ハ…(中略)…天正年間明智光秀ヨリ地子銭ヲ免セラレ以テ地租改正ニ至リ…(後略)」 とある。その子細はよく分からないが、地租改正を進めるにあたって中世末以来の慣行として認識されていた点は極めて重要な意味を持っている。江戸時代にも同じような検証が公的に行われており、その様子は元禄絵図に詳細に描かれている(県立図書館蔵)。 大津では、平成に入ってから地籍調査が行われたが、官民境界が整理された場所においても、軒下地を由来とする境界が現存している。昭和初期には、その帰属が公的に問題視され、いくつかの行政達類も伝達された(県庁文書)。本発表では、元禄絵図・明治の地籍図・現在の土地所有界を比較分析し、官民境界が抱える歴史的問題について具体的に検証したい。  

軒下地にみる官民境界の歴史性
軒下地の存在が江戸時代や明治時代だけでなく、大正・昭和期においても大津百町の重要な景観要素として認識されていた点は、現在の土地境界を検証する上でも重要な問題である。今回の調査では、大津百町の軒下地が公的に注目された画期が大きく分けて二つあることを確認する。 一つは、軒下地の私用を実質的に容認することとなった地券発行や改租作業が行われた明治初期があげられる。もう一つは昭和初期で、この段階ではそれまで慣習として認められていた軒下地の私用が許可制となり、利用を認める一方で、私的占有が公的に否定され、一部は民間への払下げも行われた(県庁文書:官有軒下(道路敷)返還・道路占用取消)。 これらを受けて官民査定等の申請書類の提出が行われるようになり、県庁文書には、住民側から提出された大量の書類が残されている。現在、大津町の軒下地の現存状況を確認すると、市道敷が拡幅された場所については、軒下地の存在がなし崩し的に解消されているが、比較的幅の狭い路地や、歩車道の分化のない通行者が限られた道路などでは、現在も軒下地の存在が認められる。江戸時代以来、道路敷として扱われてきた軒下地であるが、場所によっては民間の土地占有が優越した事例も確認できる。 今回、軒下地由来の境界を分析するために地籍図を使用したが、壬申地券地引絵図における官民境界の表現形態が詳細でかつ非常に高い精度を持つことは興味深い。その詳細な測量成果が年月の経過とともに忘れられ、現代の地籍調査には正しく反映されていないことも大きな問題である。  

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