日本地理学会発表要旨集
2017年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: P050
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発表要旨
嘉手納基地における家族住宅の建設
土建会社の現場写真にもとづく景観復原
*加藤 政洋前田 一馬柿木 崇宏
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抄録

Ⅰ 戦後沖縄の基地建設
戦後,米軍の統治下におかれた沖縄では,中華人民共和国の成立,朝鮮半島の動乱などを背景に,恒久的な軍事基地の建設が進められる.1950年代前半の基地建設を考えるにあたって重要なのは,リビー,デラ,グロリアという3つの台風が相次いで沖縄を襲い,米軍の施設に大打撃をあたえていたことである. とりわけグロリア台風による被害は甚大で,恒久的な基地の建設とは,すなわち耐風強度の高い建造環境の構築を意味していた.注意すべきは,滑走路や格納庫,あるいは司令塔といった軍事にまつわる中核的な施設のみならず,階級に応じた宿舎・住宅の建設も含まれていたことだ. 本研究では,嘉手納基地の建設工事に参入した本土企業の記録写真を手がかりにして,基地建設の一端というべき,住宅地区の開発と住宅建設の風景を復原してみたい.  

Ⅱ 嘉手納基地の概要
嘉手納基地(Kadena Air Base)は,総面積約20㎢,全長3,700mの滑走路を2本備えた,極東最大のアメリカ空軍基地である.1943年9月から日本陸軍航空本部によって建設された飛行場を,米軍が1945年の上陸後に接収して拡張・強化し,現在に至る. 基地の範域は沖縄市・嘉手納町・北谷町という1市2町にまたがり,フェンスで仕切られた域内には,「滑走路,駐機場,格納庫」などが主として嘉手納・北谷側にある一方,沖縄市側には「軍人,軍属,家族の生活の場として,兵舎,家族住宅,病院,ショッピング,スポーツ,娯楽,保養の諸施設が完備され」,さながら「ひとつの都市を形成している」かのようであった. 基地内の主要な建築に関して,少なくとも数の上で目を引くのが,住宅(将校宿舎,兵員宿舎,家族住宅)約1,300棟,計1,704戸である.基地という空間は,軍事力とそれを支える物的基盤(インフラストラクチュア)のみならず,軍人(とその家族)にとっては生活空間でもあるのだ.  

Ⅲ 隅田建設の家族住宅建設
沖縄の基地建設工事には,「対日経済援助の一環」として「占領軍関係の工事で施工技術の優秀さを認められた大手建設業者」の参入が認められたことから,20を超える本土企業(大手のゼネコン)が進出してゆく.このうち,嘉手納の家族住宅建設を落札したのが,隅田建設工業であった. 隅田建設は,どうやら現存しておらず,大手ゼネコンのように社史を残しているわけでもないので,詳細はさだかでないのだが,東京に本社を置く中堅的な規模の企業であったようだ.同社は1951年末から1953年にかけて瑞慶覧(現キャンプ・フォスター)と嘉手納で計465棟の住宅建設を請け負っている.

Ⅳ 資料と方法
本研究で主たる資料としたのは,隅田建設の社員が撮影したと思しき写真(171枚)を収録したアルバムである.クレジットやキャプションはないものの,重機による土地の造成から,基礎工事,上屋建築,瓦葺き,完成姿,室内の様子までが写されている.ほかにピクニックの写真なども含まれているが,ここでは基地内の写真に限定して分析した. 具体的な手続きとしては,貼り込まれた順番を考慮しつつ,想定される工程順に写真を整理し,写り込んだ丘陵・道路・建物などを地形図・空中写真・Google Earthと照合して,それぞれの撮影ポイントを特定した.

Ⅴ 結果
上記の分析により,1)住宅地開発に使用された重機の種類と地形改変の状況,2)各工程における景観の諸相,3)将校クラス家族住宅の分布する範囲,そして4)個別の撮影対象となった住宅の立地を明らかにするにいたった. 興味が持たれるのは,道路網も住宅(の配置)も,1952年当時とほとんど変化のないことである.つまり,米軍は60年以上にわたって基地内の建造環境を維持してきたのであり,この点で,1950年代初頭の基地建設に際して謳われた「恒久」性は,たしかに実現されていたことになる.基地が周辺部の土地利用(なかんずく都市化)に多大な影響を及ぼしたことを考えるならば,今後は基地内に布置された建造環境の様態を明らかにすることで,基地そのものの空間性を問うことも必要になると思われる.

[文献]沖縄市企画部基地対策課編『基地と沖縄市 昭和53年度版』沖縄市,1979年,15頁.
[付記]本報告の調査では,科学研究費補助金(課題番号:17K03264)を使用した.

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