日本地理学会発表要旨集
2017年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 612
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発表要旨
用語「広域中心都市」、「地方中枢都市」、「札仙広福」の登場と定着
*日野 正輝
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抄録


用語「広域中心都市」、「地方中枢都市」、「札仙広福」の登場と定着
 

日野正輝(中国学園大学)

1.はじめに
戦後の札幌、仙台、広島、福岡の4都市の広域中心性の確立と急成長は、人口・経済力の東京一極集中とともに、20世紀後半の日本の都市化および都市システムの構造的変化を特徴づける特筆すべき現象であった。しかし、上記4都市を特定した統一した用語は存在しない。広域中心都市、地方中枢都市、札仙広福の3用語が比較的広く使用される用語としてある。
本報告は、上記した3つの用語がいつ頃誰によって、あるいはどの機関によって使われはじめ、それがどのように広まったのかを調査したものである。

2. 広域中心都市
   用語「広域中心都市」は、北川(1962)によって六大都市の下に位置するものの、他の県庁所在都市とは区別される新しい上位都市階層として提唱された用語である(吉田、1973)。北川は、ドイツの地理学者シェラーおよび恩師であった米倉二郎らの示唆を得て、ドイツの都市の階層体系にあるLandstadtに相当するものとして、広域中心都市の用語を使用したと言う。また、服部(1967)および二神(1970)も、1960年代後半にすでに上記4都市を指す用語として地方中核都市などの呼称が見られたが、国家中心都市に次ぐ都市階層として広域中心都市の表現を使用した。さらに、1969年日本地理学会秋季学術大会でシンポジウム「広域中心都市」が開催され、その成果が木内信蔵・田辺健一編『広域中心都市』(1971)として刊行された。こうした経緯によって地理学の分野においては、用語「広域中心都市」を定着したとみてよい。
   しかし、「広域中心都市」は早くに登場したが、地理学以外の分野に普及することはなかった。全国総合開発計画では、広域中心都市に相当する都市階層の認識があったが、その表現は見られなかった。また、時期は1985年以降に限られるが、広島市市議会の議事録から、「広域中心都市」の出現回数を見ると、わずか1件のみであった。「地方中枢都市」の出現回数が116件であったことから、広域中心都市広島おいてさえ、当該用語はほとんど用いられることがなかったと判断される。

3. 地方中枢都市
   地方中枢都市は、中枢と言う表現からすると、大都市の成長は中枢管理機能の集積にあるとした中枢管理機能説との関連が認められるが、中枢管理機能をクロースアップした新全国総合開発計画において使用されていない。同計画では、7大中核都市、地方中核都市と言った表現が使用されていた。1977年閣議決定を見た第三次全国総合開発計画においてさえ、地方ブロックの中心都市と言いた表現が用いられ、地方中枢都市の用語は見られなかった。一方、国土庁に設けられた地方都市問題懇談会の地方都市の整備に関する中間報告(1976)において、地方中枢都市、地方中核都市、地域中心都市、地方中小都市の階層区分がなされた。この中間報告によって、都市の一般的な階層区分と各階層の名称が受容されることになったと推察される。その結果、第四次全国総合開発計画においては地方中枢都市の用語が使用されている。なお、地方中枢都市の用語は、1981年発行の中学社会科地理分野の教科書にも登場した。

4. 札仙広福札
   札仙広福は上記2用語に比べると後になって登場した表現である。上記した広島市議会の議事録において出現する時期は第五次全国総合開発計画策定の1980年代末から1990年代前半に集中している。これには、上記計画に札仙広福の4都市が自らの意向を反映させるために連携して運動した時期にあたる。ただ、どの機関が最初に当該用語を使用したのかは目下のところ不明である。1990年代はじめに札仙広福を冠したシンポジウムを重ねて開催し、当該用語の普及に貢献した櫟本(1991)によると、広島市では4都市の比較をしばしば行っていたが、そのなかで自然と出てきた表現ではなかったかと言う。

付記
今回の調査において下記の方々から貴重なご教示とご便宜を図って頂いた。ここに記して感謝に意を表します。北川建次、今野修平、櫟本功、松田智仁、宮本茂、小笠原憲一、渡辺修、寺田智哉(敬称略)。

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