抄録
1. はじめに
モンゴルには現在でも、500~1,000頭のユキヒョウPanthera uncia(図1)が生息すると推測される。かつては「山の亡霊」と畏れられ、地域の遊牧民はその存在に畏怖を抱き、毛皮のために積極的に捕獲したり、棲息環境を攪乱することは控えられてきた。そして長年ユキヒョウの棲息圏内に暮らした遊牧民でも、その姿を目にしたことのない人物は多い。しかし、ユキヒョウと遊牧民は現在、経験のないほどの緊張関係にある。集中的な保護による個体数の安定とあいまって1990年代以降、ユキヒョウの生態行動にも変化が現れた。人間を恐れなくなり、頻繁に人前に姿を現し、家畜を襲うようにもなった。ユキヒョウと遊牧民の目撃・遭遇事故は、2013年頃を境に急増し、遊牧民の家畜襲撃被害も頻発するようになっている。とくに宿営地まで来て家畜を襲う例が多数発生している。その報復として、国内法でユキヒョウ狩りが完全に禁止された1995年以降にも、遊牧民による私的なユキヒョウ駆除が複数例確認された。 ユキヒョウが希少動物と害獣のはざまを揺れ動く存在となり、地域の牧夫たちもこの双極性に苦悶する。こうした現状を踏まえ、本調査では両者の保全生態を目的として、R1. ユキヒョウ目撃・遭遇事故、R2. ユキヒョウによる家畜被害の推移、により現状把握を行った。
2. 対象と方法
本調査は2016年8月7日~23日までの期間、ホブド県ジャルガラント郡、ムンフハイルハン郡、ゼレグ郡、マンハン郡、チャンドマニ群の4ヵ村で実施した。同地のユキヒョウ棲息山地①ジャルガラント、②ボンバット、③ムンフハイルハンで暮らす遊牧民105世帯を訪問し、構成的インタビューにより集中な情報収集を実施した。上記3地点に生息するユキヒョウは、合計約70~90頭前後と推測される。
3. 結果と考察
R1. ユキヒョウの目撃・遭遇事故 遡及調査により、目撃事例180件、遭遇事故53件を特定したところ、2013年頃を境に急増している現状が明らかとなった(図2)。こうした「ユキヒョウ関連事故」の発生状況をみると、「日帰り放牧中」が38.5%ともっとも高く、次に馬群や牛などの「大家畜の見回り」が34.4%と高い。とくに夏季は家畜が採食活動で高所へ赴くため、その見回りの途中でユキヒョウとの目撃・遭遇頻度が高くなると考えられる。「高所への放牧」「見回り」「狩猟」など、遊牧民の生活と切り離せない日常の活動での割合が82.8%となっている。多くの地元遊牧民がユキヒョウを畏れているが、実際にはユキヒョウの対人攻撃性は低く、自身から人間に襲いかかってくることは稀である。現地居住者117名から、本人体験だけでなく伝聞を聴いても、実際に襲われたというオーラルヒストリーは1件も聞かれなかった。
R2. ユキヒョウによる家畜被害の推移 ユキヒョウは高山帯や岩山の放牧地で食草するヤギ、また馬を好んで襲っている(図3)。2000年以降で特定できた馬の襲撃被害104頭のうち89頭が死亡、15頭が生存している。ユキヒョウの襲撃からの生存率は14.4%と低い。その場で即死しなくとも、当日~20日間以内に傷が原因で死亡している。死亡した馬で年齢が特定できた25件の平均年齢は1.04歳(満年齢)で、若年の馬の犠牲が多いことが理解できる。25件のうち14件が1歳未満の仔馬であった。ヤクでもとくに満2歳齢以下が好まれる。被害事例では、宿営地(ホト)付近まで来て家畜を襲った例が23件確認された。時期の特定できた22件のうち、18件が2010年以降で、とくに2015年8件、2016年8件とほとんどが最近2年以内に発生している。
3. 今後の展望
ユキヒョウ生息圏に在住する遊牧民のあいだには、「政府によるユキヒョウ被害対策への遅れ」や、「家畜被害に対する補償制度の不在」などの不満が募っている。とくに放牧地を保護地に指定されることへの警戒感や強制移動への不満が噴出している。しかし、ユキヒョウによる家畜被害の増加は、遊牧民自身の生活態度と環境配慮の欠如、例えば(PR1) タルバガンの乱獲、(PR2) 家畜の過大所有と過放牧、(PR3) 家畜防衛の怠り、などに起因する可能性もある。いわば遊牧民自身も、家畜をユキヒョウから守る努力を怠っている側面は否めない。 モンゴルの遊牧民にはかつて、自然のバランスが崩れれば必ず自分たちの生活に跳ね返ってくることを理解しながら、その環境共生観/保全生態観を伝承や戒めとともに受け継いできた。物質面、資金面、制度面等のあらゆる側面で依存体質の現代のモンゴル遊牧民には、能動的な家畜防衛という遊牧活動の原点と自己研鑽こそが、ユキヒョウと遊牧民にとっての望ましい未来を確立するように思われる。