日本地理学会発表要旨集
2017年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: P020
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発表要旨
伊勢平野南部における完新世後期の地形環境および人間活動の変遷
*鈴木 理恵
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抄録
はじめに 伊勢平野は,鈴鹿・布引山地の東麓から伊勢湾まで,南北およそ70kmにわたり,同平野南部を流れる櫛田川下流部には,旧河道や自然堤防が発達する一方,櫛田川と祓川(はらいがわ)間の沿岸域には浜堤列が発達する.また,伊勢平野最大の河川である宮川の河口部には沿岸流の影響が小さく,河川による土砂供給量が多い場所に形成される(小野,2012)円弧状デルタが発達する.その南の臨海部の二見浦には浜堤列が発達する.櫛田川~宮川間の沖積低地には,多くの先史・古代遺跡が発掘され,立地する地形環境から,当時の人々の居住域は,その自然環境変化に大きく左右されたと考えられる.本研究では,伊勢平野南部のボーリング試料の解析や,掘削調査の結果に基づいて,地形環境の変化と遺跡立地の変遷についての関係を考察した.   2. 研究方法 本研究では,米軍及び国土地理院撮影の縮尺1万分の1空中写真の判読を行い,地形分類図を作成した.次に関係機関からボーリングデータやコアサンプルを収集し,堆積物の層序・層相を把握した.さらに,ハンドオーガーを用いた掘削調査を行い,層序の確認とサンプリング,河成堆積物と海成堆積物の判別について電気伝導度分析を行い,各層の堆積環境を確認した上で,海成層上限高度を認定した.海成層高度と関わる試料についてAMS法による14C年代測定を行なった.また,既存の発掘調査報告書の土層図および本文の記載,試錐データや分析結果と合わせて平野の地形環境変化と遺跡の立地関係の変化について考察した.   3. 地形・堆積環境と遺跡立地 縄文早期以降の伊勢平野南部の沖積低地における地形・堆積環境と遺跡立地は,宮川と櫛田川流域では異なる様相が認められた. 宮川下流域:宮川下流には,左岸の低位段丘上に縄文時代早期から遺跡立地が見られるが,右岸および二見浦浜堤上には縄文時代の遺跡がなく二見浦では弥生以降の遺跡のみ立地する.また,地下層序から,宮川右岸の約1.2kmまでは中部泥層の堆積が認められず,砂礫層が卓越する.このことは,縄文海進時には,宮川の扇状地が平野内のこの範囲に分布していた可能性を示唆する.一方,二見浦の背後は,宮川の土砂供給が及ばず中部泥層が堆積し,内湾環境にあったと推定される.二見浦の3列の浜堤列は,遺跡立地の年代から,縄文時代晩期から弥生時代初頭には形成されたと推測される.   櫛田川下流域:現在の櫛田川下流には縄文時代の遺跡立地はなく,弥生時代を中心に旧河道や自然堤防上に遺跡立地が見られる.また,過去に櫛田川が流れていた祓川流域には,縄文時代や弥生時代の遺跡立地は見られない.現櫛田川流域の旧河道上に弥生時代の遺跡立地が見られることは,おそらく縄文時代の海退後,櫛田川の本流は現在の櫛田川付近であり,自然堤防や旧河道などを形成したが,祓川に本流が移った時期は弥生時代以降と推定される.また,祓川から櫛田川現河道への移動は,永保2年(1082年)7月の地震と暴風雨によるものとされ(西山,1955),現在見られる河道は平安時代以降に形成されたと伝えられる.祓川左岸の沿岸の浜堤間湿地下の海成層から約1230cal.BP の年代が得られており,これらの浜堤列は,櫛田川の本流が祓川側へ流れた弥生以降の比較的新しい時代に形成されたと考えられることとも整合的である.   引用文献 西山傅左衛門(1955):『黒部史』,松阪市立図書館 岡田登(1989)皇學館大学史料編纂所報,第109号,p68−69 小野映介(2012)海津正倫編,『沖積低地の地形環境学』,古今書院,p34太田陽子ほか(1990)第四紀研究,29(1),p.31−48 川瀬久美子(2003)地理学評論,76−4,211−230 川瀬久美子(2012)愛媛大学教育学部紀要,第59卷,179−186 福沢仁之(2000):小野ほか編『環境と人類』,p.12-30,朝倉書店
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© 2017 公益社団法人 日本地理学会
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