抄録
中央アジアのキルギス(614万人、2017年)は、古くはシルクロードの要衝として栄え、東西の人々や文物の交流を促す一方で、自らは複雑な文化と民族構成を織りなしてきた。20世紀前半にこの地がソ連の構成共和国になると、ロシア系が都市部へ入植した。その後、1991年のソ連崩壊を受け、この地域はキルギス共和国として独立し、資本主義経済を導入するに至った。このような歴史的経緯をもつがゆえに、現在のキルギスには確認し得るだけでも80前後の民族が存在する。2013年現在、同国ではキルギス系が全人口の約7割を占め、国内最大の民族集団となっており、以下、ウズベク系(14.4%)、ロシア系(6.6%)、中国をルーツとするドンガン系(1.1%)と続く。キルギスでは約60年間で人口が3倍に増加したが、その牽引役となっているのがイスラム教を信仰するキルギス系とドンガン系である。合計特殊出生率は前者が2.3、後者が2.5で、後者は国内最大値を誇る(2009年)。ソ連崩壊以降、キルギスの農村では人口の急増と就業機会の不足などの問題が生じた。とくに経済が衰退している南部より、多くの人々がロシア・カザフスタン、またはキルギスの首都ビシュケクを含むチュイ州北部へ出稼ぎに赴いた。その結果、ビシュケクは人口98万人(2017年)の大都市へと成長し、今も市街地を拡大させ続けている。これは、キルギス系が首都近郊在住の親戚を頼って上京し、ある程度の経済力をそなえると自身も首都近郊に自宅を構え、今度はそこに出稼ぎにきた親族を同居させるという過程を繰返してきたことによる(筒井:2017)。キルギスを起点とした国内外への移住の動向とこれをめぐる社会問題については堀江編(2010)とSchuler(2007)が、ビシュケクとその近郊の都市化の過程に関しては筒井が報告している。だが、これらはソ連崩壊以降のチュイ州北部の農村における人々の移住の動向については検討していない。そこで本研究では、現在、キルギス系・ドンガン系が卓越する農村集落で聞き取りを行い、ソ連崩壊以降の両集落における人々の移住の動向を把握した。発表者は、首都から東に35km離れたキルギス系が卓越するイワノフカステーションと、同じく75kmに位置するドンガン系が集住するイスクラを調査対象とした。以下に、調査結果を記す。
1980年代のイワノフカステーションではロシア系とドイツ系の人口が卓越していたが、ソ連崩壊を契機に彼らは母国に帰還し、両者の人口は減少した。その後、同集落ではキルギス系の青年・中年層の約半数が就職・進学を理由に国内では首都へ、国外の場合はロシア・カザフスタンへ移住した。こうしてイワノフカステーションでは大勢の住民が国内外に移住したことから、空き家が発生した。すると、転出者数を上回る南部出身のキルギス系がイワノフカステーションに移住を始め、「ビリヤードのような人口の流れ」がみられるようになった。彼らは十分な経済力をもたないため、自宅を新築せずに、専ら中古住宅に住んだ。この結果、同集落の人口は増加したものの、集落の面積はあまり変化しなかった。さらに聞き取り調査では、一旦は首都に移住したが、そこでの生活費の高さに辟易した人々が、これを安価におさえるべく同集落に転居した事例もみられた。以上から、本事例と筒井(2017)が報告した首都近郊の事例を比べると、転出・転入者数は両事例いずれも多いが、キルギス系が卓越する農村集落ではその様子が景観に反映されにくい状況にあると言える。
ドンガン系はおもにキルギス北部に集住し、他民族と混住せずに独自の文化を保持してきた。現地調査の結果、ソ連崩壊以降、イスクラのドンガン系が①遊牧民のキルギス系から広大な面積の農地を購入していること、②彼らのルーツである中国から農業関連の情報・技術を得て、輸出を意識した大規模かつ合理的な畑作を行い、経済的基盤を形成していること、③酪農分野に新規参入するようになったことが判明した。つまり、現在、ドンガン系は農業経営の大規模化・合理化・多角化を進め、自集落内で現金収入を安定的に得られる仕組みを構築しているのである。イスクラのドンガン系は結婚以外の理由で他地域に永住することは稀である。就職・進学のために首都に移住する者はあるが、彼らの多くは少数民族であるがゆえに都市で孤独感を抱きやすく、イスクラに回帰する傾向にある。転出者にとって同集落へ戻ることは、経済的な安定の確約と文化的なストレスからの脱却を意味する。帰村者を含むドンガン系は比較的早期に婚姻・出産を経験して人口を増加させるとともに、自集落内で新居を建設する。こうしてイスクラは首都から遠方に位置する農村であるにも関わらず、首都近郊と同様に集落の規模を急速に拡大させていた。