日本地理学会発表要旨集
2021年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 210
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発表要旨
1930年代後半の中国の食料貿易
『大東亜共栄圏綜合貿易年表』に基づく分析
*荒木 一視
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抄録

1 問題の所在

発表者は戦前の東アジアの食料供給を食料貿易の観点から検討してきた(荒木, 2018)。その一環で中国の近代工業勃興期といわれる1920年代の同国の食料貿易の検討を行った(荒木,2019)。今般『大東亜共栄圏綜合貿易年表』によって,その後の1930年代後半の中国の食料貿易を把握したい。

その背景には当時の近代工業の成長を支える労働者への食料供給をどのようにして担ったのかという問題意識がある。当時の中国の穀物生産は拡大していないものの,鉱工業労働者は大きな増加をみるからであり,穀物輸入によってそれを賄ったのではないかと考えた。しかしながら,この時期の中国の包括的な統計資料を入手することは簡単ではない。満洲事変や盧溝橋事件をへて日中戦争へと移行するこの時期の状況を把握することは困難である。そうした中で着目したのが『大東亜共栄圏綜合貿易年表』である。同貿易年表は神戸商業大学教授生島廣治郎責任編集として東亜貿易政策研究会から刊行されたもので,1942年の第1巻「泰國」に続き,第2巻「中華民國北支那」,第3巻「中華民國総覧」,第4巻「比律賓」,第5巻「東インド諸島」,第6巻「佛領印度支那」,第7巻「ビルマ」,第8巻上「大日本帝國内地」第8巻下「大日本帝國臺灣・朝鮮」と続き,第9巻「満洲國」は1943年に刊行された。これによって,1930年代後半の東アジアの貿易の把握を試みた。

2 1930年代後半の中国

 久保(2009)の推計によれば,1936年を戦前の中国の工業化のピークとしているように,1930年代後半の中国は近代工業が進展した時期でもある。同時に,1931年の満洲事変を経て,1937年の盧溝橋事件と日中戦争が激化していく時期でもある。さらに1939年は日本が帝国の枠組みの中に築いていた米の自給システムが崩壊した年でもある。このような時期,中国が食料供給,特に穀物の供給の仕組みをどのようにして構築していたのかを検討したい。ここでは上記貿易年表を用いて1937年から1940年にかけての中国の食料貿易を描き出した。

3 同貿易年表からみた中国の食料貿易

 この時期の中国からの食料輸出の主力は卵と茶で,1940年には双方ともに輸出総額の5%をこえる。これに同1%余の落花生が続く。卵の輸出先は香港を含む英国が首位でこれにドイツが続き,茶は香港が中心でこれにモロッコなどのアフリカが続く。落花生はフランス,オランダ,ドイツなどのヨーロッパ諸国向けが中心であった。

 これに対して,輸入品の主力は米と籾,小麦と小麦粉などの穀物類が重要な位置を占め,タバコや水産物がこれに続く品目であった。総輸入額に占める米と籾の比率は1940年に8.4%,小麦粉のそれは約7.0%である。なおタバコは同2.4%,水産物は1.6%である。食料輸入額の多くが穀物で占められていることがうかがえる。なお,1940年の米と籾の貿易相手は仏印とタイ,ビルマで9割を超え,小麦粉ではアメリカ合衆国とオーストラリアで78%を占め,残りが日本からの輸入となる。

 中国のみに着目した場合,こうした傾向は1920年代と大きく異なるものではないが,1930年代は満州事変を受けて,米加や豪からの日本向け小麦輸出が縮小していく時期である。同時期に中国は米豪から相当量の小麦を調達していたことがうかがえる。また,1939年は日本の米の海外依存が大きな変貌を余儀なくされ,東南アジアからの調達に舵をきる年であるが,中国はそれ以前から東南アジアからの米調達を続けてきたこと,1939年と40年の間に価格の急上昇が認められることも注目できる。こうしたことは一国の食料貿易のみを追っても把握できないことであり,当時の東アジアをめぐる食料貿易を多国間の関係から把握していく必要がある。

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