主催: 公益社団法人 日本地理学会
会議名: 2022年度日本地理学会春季学術大会
開催日: 2022/03/26 - 2022/03/28
1 伊能図の彩色
伊能忠敬らが地図製作のための測量が開始したのは寛政12年(1800)であり、文政4年(1821)に最終版が江戸幕府に上呈されている。また、現在まで伝わった種々の伊能図は、上呈本が作られる前段階に描かれたもの、正本や副本の写し、あるいは写しからさらに模写されたものであることから、彩色もおおむね1800年代になされたものと考えられる。伊能図に用いられた彩色材料や技法を明らかにし、地図の仕立てや筆跡に加え、彩色の視点からもそれぞれの伊能図の関係性を示す手がかりを得ることを目的とした調査を行った。 伊能図は、測線や国界などを赤で記し、海や河川を青く彩色し、山岳地帯や城郭などの風景は絵画的に表現した色彩豊かな実測地図として知られている。また、コンパスローズ(方位記号)は、合印として用いられることもあるため、基本的に1つ1つが固有の配色やデザインで描かれており、地図部分よりも多種の彩色材料が使われている。本発表では、伊能図が描かれた時期の絵具について概観し、彩色調査の結果を簡略にまとめる。
2 1800年代の彩色材料と調査手法
伊能図が描かれた頃に現代のようなチューブ入り絵具はなく、伊能図には、主に天然の素材から作った有色の粉末、すなわち顔料と、これを固着させるための膠液を混ぜて作った絵具が使われた。顔料の原材料には、有色の鉱物や土石類、あるいは、動植物から抽出した染料や樹脂などがあり、前者から作られるものを無機顔料、後者から作られるものを有機顔料として大別できる。天然の素材を用いるため、単体で作られる色に限りがあり、緑や紫といった中間色の絵具は、それぞれ青と黄色、赤と青を混色して作り出す。こうした絵具の状態や元素組成から、彩色材料の推定を行う。伊能図の彩色調査では、①デジタル顕微鏡による絵具の状態観察、②可視反射分光スペクトル測定、③蛍光X(エックス)線分析により顔料の原材料を推定した。 ①デジタル顕微鏡観察 顕微鏡による観察では、複数種の材料が混ぜられている場合、その混色された材料の色がそれぞれ確認できる。また、顔料粒子の大きさや形状などにより、材質を大まかに予想することができる。たとえば、粒子がはっきり見える場合、有色の石や鉱物などを砕いたり加工したりして作った無機顔料であることが多い。一方、微細であるかほとんど粒子が見えない状態の場合、動植物から抽出した染料を加工して作られた有機顔料である可能性が高い。調査には、高画素マイクロスコープDG-3x(スカラ社製)とマイクロスコープDino-Lite(ANMO社製)を用いた。 ②可視反射分光スペクトル測定 物体に光が当たると、光の一部が物体に吸収され、物体に吸収されなかった光は反射される。私たちは、物体から反射してきた光を感知して色としてとらえているが、可視反射分光法では、この反射してきた光の割合を波長ごとに測定する。人間の目では区別できないような似た色であっても、反射率の分布から材質の違いがわかる場合がある。顔料によっては、材質に特有の分光反射率を示すものがあり、彩色材料の推定に利用されている。 調査には、小型ファイバ光学分光器USB2000+(Ocean Optics社製)を使用し、ハロゲンランプ光源により白色光を照射し、400~800nm(ナノメートル:10億分の1mの波長・周波数)の分光反射率を計測した。 ③蛍光X線分析 無機顔料の多くは、色と関連した金属元素を含むものが多い。蛍光X線分析では、有色の鉱物や土石類に含まれる特徴的な金属元素を検出することができるため、色と検出元素の組み合わせから使用された顔料を推定する。調査には、機材A:ハンディ型蛍光X線分析装置(BRUKER製)S1 TURBO-SD、あるいは、機材B:ハンドヘルド蛍光X線分析計 DELTA Premium DP2000(オリンパスイノベックス社)のいずれかを用いた。
3 伊能図にみられる彩色材料
多くの伊能図では、青に染料から作られる有機顔料のひとつである藍、測線の赤に無機顔料のひとつ、水銀朱(水銀と硫黄の化合物で鮮やかな赤を呈する)がみつかっている。黄色には、東南アジアから輸入されていたガンボージと呼ばれる樹脂状の染料のほか、種類は特定できていないが黄色染料から作られた有機顔料が用いられたと考えられる。山岳を描く緑は、藍と黄色染料から作られた顔料の混色がほとんどであるが、無機顔料の岩緑青が使われた地図も確認されている。コンパスローズの彩色は、地図によりさまざまであり、無機顔料が多く使われた地図もある。