日本地理学会発表要旨集
2022年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 343
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戦時体制下における大手企業への集団就職
─東京芝浦電気の少年産業戦士を中心に─
*山口 覚
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抄録

はじめに  一般に若年労働者の集団就職と言えば高度経済成長期の現象だと見なされてきたことであろう。しかし集団就職をめぐる表象の多くはイメージに基づくものであった。集団就職がいかに始まり終わったのか,いかなる制度によって生じたのかということは,各地の個別事例をのぞけば,未解明の部分が多かった。これらの諸問題のうち,制度面についてはかなり解明されてきたし(苅谷他編 2000; 山口 2016など),集団就職者自身の手になる自伝的な書籍によってその時々の生活状況や意識の一端も垣間見えるようになった。もっとも,既存のイメージは強力であり,新たな知見が世間に流布する定説を覆すにはまだ時間がかかるであろう。

戦時体制下の集団就職  今後さらなる調査が期待される点もある。たとえば発表者が「戦時体制下の集団就職」(山口 2016; 2018a)と呼んでいる戦前の動きはその1つとなる。集団就職は高度経済成長期の現象だと思われていようが,集団就職と呼び得る現象をもたらした諸制度のうち,遠隔地間での求人求職情報の連絡を可能とする広域職業紹介制度,そして就職列車のような集合的な移動手段を用意する集団赴任制度については,すでに戦時体制下で確立されていた。また,1950年代から各地で確認されるようになり,1956年度に労働省が制度化した中小企業関連の集団求人制度についても,同種の事業を戦前に見ることができる。「大工場に對抗して中小工場が協調して徒弟教育委員會を組織し大森機械工業徒弟學校を設立,少年徒弟工一千名を募集してゐる」(東京朝日新聞1939年2月5日)。

 つまり,当時は萌芽的な事象に留まったであろう集団求人に類する中小企業の実践を含め,戦後と同種の就職移動の制度や現象が戦時体制下においても間違いなく確認できるのである。それらの諸制度は「少年産業戦士」や「産業豆戦士」などと呼ばれた新規小学校(1941年からは国民学校)高等科卒業生(以下「新規小卒者」とする)を対象としていた。戦後の集団就職は,戦時期に整備され,終戦時にはほとんど機能しなくなっていた諸制度が,1950年代初頭に改めて再整備されることで生じたものと言える。  もっとも,戦時体制下の集団就職と,1950年代初頭に再生した当時の集団就職とは,多少なりとも様相を異にしていた。後者については,まずは中小企業を対象とするかたちで再制度化されたのに対し(山口 2018b),戦時体制下では主には軍需産業を担う大手企業が対象となっていたのである。そうした軍需産業において新規小卒者は基幹労働力と目されていた。それにも関わらず,同時代の就職移動現象についてはほとんど解明されていない。学徒動員や女子挺身隊,あるいは満蒙開拓青少年義勇軍といった同時期の事象についてかなり多くの研究蓄積があることと比べると,著しい対照をなしている。

 そうした中にあって,たとえば佐々木(2019)は少年産業戦士の「不良化」問題について記している。戦時体制下であっても人々は完全に団結していた訳ではなく,就職者本人や家族はそれぞれの意向を有していた。それは就職先の選択でも同様である。軍需関連企業は労働力を優先的に確保できることになっていたものの,労働者の確保それ自体は各社に任されていた。人手不足が顕著であったこの時期の労働市場は明らかな売り手市場であったため,各企業は福利厚生を充実させるとともに,自社を新規小卒者にいかにアピールするかが問われたのである。

 本発表で主に取り上げるのは,旧東京電気と旧芝浦製作所が合併して1939年に設立された東京芝浦電気の事例である。戦時期も含め,集団就職については資料的制約が大きいが,同社については関連する事項が社史において多少なりとも言及されているほか(東京芝浦電気株式会社総合企画部社史編纂室編 1963; 東京芝浦電気株式会社編 1977),諸資料を利用することである程度の情報を得ることができる。それらの情報によって確認される新規小卒者の同社への就職の決定や移動,生活を中心に,戦時体制下における大手企業への集団就職について見てみたい。

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