日本地理学会発表要旨集
2022年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 413
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大和郡山城下町周縁における金魚養殖の変遷史
*竹内 祥一朗
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抄録

Ⅰ はじめに  近世から近代への変化に伴い,城下町では土地利用の転換が迫られた。とりわけ,武士の転出で空疎化した城地や武家地は,やがて公園や軍用地,官公庁,工場用地へと変貌を遂げたことは周知の通りである。また,都市の周縁では盛り場や被差別部落を含みこんでインナーリングが形成されたことも指摘されている。こうした政治・商業的側面のみならず,城下町やその周縁での農林水産業の変化に着目することは,城下町の近代化をより豊かに捉えるための重要な視点と考える。  本発表では,奈良県大和郡山城下町周縁で発達してきた金魚養殖を取り扱う。郡山金魚養殖の特殊な生産法や景観は地理学者の関心を集め,1960年代からたびたび詳細な現地調査報告が公表された(堀内1961など)。  一方で,その歴史的展開については個々の論考で断片的な事績が言及されるのみである。全体的な展開を捕捉するため,既往の成果も統合しながら,地域変遷史として各時点の展開や様相を整理する必要がある。  また,先行研究では金魚養殖における水利環境の規定性が繰り返し指摘されてきた。その重要性は首肯できるものの,水利のみが金魚養殖を成立させたわけでは決してない。その他のさまざまな要素にも目を配り,金魚養殖業という関係性のなかで水利を含めた各要素を位置づけ,そのつながりを探ることが肝要と考える。 Ⅱ 宅地内飼育の受容と展開  郡山金魚の起源は1724年や1738年の伝承があり判然としないが,いずれも飼育の開始には郡山藩士が関与したとする。藩士の佐藤家から他家に飼育が広がったが,あくまで娯楽のための飼育であったという。ただし,そのなかでのちに郡山金魚の有名品種が生み出された。  なお,近世中期には堺や博多が金魚産地として周知されており,郡山へもたらされた金魚と養殖法はこうした先進地に由来すると推定される。1748年に堺で出版された金魚養育指南書である『金魚養玩草』によると,金魚は宅地内の「泉水」で飼育され,餌となるミジンコやボウフラは都市からの排水が流れ込む堀から採取し,馬糞や生活排水を投入してこれらの発生を促していた。 Ⅲ 養殖景観の拡張と生態系の現出  商用目的の養殖業に移行していくのは1830年代以降である。さらに明治初期には家禄を失った士族たちを中心に,周辺農家も巻き込んで養殖が進展したとされる。  このなかで士族の小松春鄰は博覧会への出品や組合設立を主導した。また旧藩主柳澤家も養魚場を設立するなど養殖業を支援した。輸送面では当初は行商形態だったが鉄道輸送が開始された。こうした実践を経て,1900年代には兼業養殖業者は140名に上り,昭和初期には全国生産の6割を占めるまでに成長を遂げた。  「生駒郡錦魚調査ニ関スル沿革調書」(1906年・奈良県立図書情報館所蔵。)によれば,それまでの宅地内の泉水だけでなく「普通養池」を外部に設け,産卵や選別に用いる泉水と生育のための普通養池を金魚も人も往復しながら養殖を進める方式が確立した。普通養池は郡山城の外堀跡などに設けられ,城下町周縁に特徴的な景観が現出した。農家では副業として金魚養殖が浸透し,稲が生育する水田で養殖される場合が多かった。  こうして養殖景観が農地や水域に拡大するに伴い,水生昆虫やネコ,サギ類による食害が生じ、その対処が迫られた。一方で,餌となるミジンコやタニシなどは周囲の富栄養化させた溜め池や水路から,また蚕蛹は郡山市街の製糸工場からもたらされた。近代の金魚養殖は、拡張された養殖景観の景観要素や金魚はじめとする生き物からなる関係性をあらたに現出させたのである。 Ⅳ おわりに  以上のように,宅地内の閉鎖的な場に限られていた金魚飼育が近代に景観や流通の点で拡張し,それまでとは異なる要素や関係性を獲得した。この過程からは士族やその愛玩動物という城下町由来の要素を出発点としながら,地域の生業や景観,生き物とが絡み合いながら成立した城下町周縁の生業活動の一側面が確認できた。 文献 堀内義隆1961.郡山金魚の地理学的研究. 水本邦彦奈良女子大学地理学教室編『奈良盆地』256-268.古今書院.

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