はじめに
英語圏の地理学では,健康と場所の力学に焦点を当てた健康地理学が1980年代に登場した(Kearns and Gesler 1998)。これは,定量的な手法や統計的な分析による,疾病や医療サービスの空間的パターンに着目してきた医学地理学の拡張を目指すものであった。健康地理学では,健康と場所との結びつきを探求するために,文化理論を用いて,生きた経験と人間の主体性に焦点が当てられるようになった。健康と場所の関係に対する新たな質的研究において中心的な役割を果たしてきたのが「癒しの景観」という概念である。「癒しの景観」とは「癒しのプロセスがどのようにして場所で行われるかを理解するための地理的なメタファー」(Gesler 1992: 743)と定義される。初期の研究では,巡礼地や温泉地など特別で非日常的な癒しの場所に着目されていたが,家の裏庭や想像上の風景など,日常的な場所にまで研究対象が拡張されきた(Williams 2007: 2)。
さらに「関係論的転回」の影響から,アクターネットワーク理論や非表象理論などの要素を取り入れ,場所における癒しの性質は,複数の人間や非人間,出来事,実践などによって関係的に生み出されるものとして捉えられるようになった。このようにして「癒しの景観」は,個々人に応じて異なった形で経験され,ときには矛盾するものであり,絶えず変化し,進化していく生きた概念として理解されている(Taheri.et al 2021)。
アルコール依存症と「癒しの場所」
アルコール依存症の人びとの回復における場所の重要性や,回復を媒介する様々な要素についても,「癒しの景観」研究の潮流において探求されてきた(Wilton and DeVerteuil 2006ほか)。しかし,これらの研究においては,飲酒という行為それ自体が有する癒しという要素が看過されてきた。依存症からの回復には,それまで強力な癒しであった飲酒という行為に代わる新たな「癒しの景観」を見出す必要がある。その際に重要な場所となるのが,断酒会やAAといった自助グループである。パーソナル・ネットワーク研究においては,個々人を基点とした多様なネットワークと場所との関係が探求されてきた(山口 2008)。この視点に立てば,依存症からの回復とは,断酒を継続するというコンテクストのもとに,凝集的な集団として機能する自助グループを拠点として,社会的・地理的なネットワークが形成されていくプロセスであると言える。発表者は,この回復のプロセスを検討するために,飲酒していた時代からアルコール依存症と診断され,酒を断ち続け現在に至るまでの「癒しの景観」の変化に着目することが重要であると考える。
また,フェミニズム地理学や地理学の障害研究において空間としての身体が重視されたように(久島 2017),アルコール依存症という疾病と共に生きるうえでの身体的な経験に着目してみたい。英語圏の地理学では集合体の理論を応用し,飲酒や依存症とは,静的な現象ではなく,常に「空間における身体の実践」(Duff 2007: 507)であり,偶発的なプロセスとして検討されるようになっている(Duff 2016ほか)。これらの研究では,回復する身体は,依存症を強化する社会的状況や物理的環境から切り離され,新たな関係性やつながりを作り出す能力を有するとされる(Oksanen 2013)。
以上の研究成果を踏まえ,アルコール依存症と診断された人びとの社会的・地理的なネットワークや,身体性の変容をみていくことで,依存症からの回復のプロセスと,その経験や意味を明らかにしたい。そのために,アルコール依存症の自助グループを介して出会ったインフォーマントから得た聞き取り調査結果を使用する。なお本発表では「癒しの景観」概念から派生した「癒しの場所」という言葉を用いる。この言葉については巡礼地などの特別な癒しの場所について論じたSmyth(2005)の用例があるが,本発表ではそれとは違い,個々人によって経験された場所を意味する。