Ⅰ.はじめに
定期市は,市町間の距離や市日の調整を通じて時空間的システム(市場網)を形成する点に特徴があり,地理学における興味深い研究対象として早くから研究が進められてきた(渡邉2023).発表者はこれまで,近世武蔵国を対象として,市場網の動態的な変化について検討を進めてきた(渡邉2009,2010).本発表では,先行研究で手薄であった武蔵国中部の横見郡とその周辺地域の市場網について,久保田六斎市を中心に検討する.
Ⅱ.近世久保田六斎市と周辺定期市
久保田村は,近世横見郡における管見で唯一の定期市であり,17世紀後期には近隣の松山町や鴻巣宿との間で市日を調整しつつ,この地域の市場網の一角を形成していた(図1).横見郡は,荒川右岸にあって用水に恵まれ,久保田村も米作を中心とした農村であった.そのなかで,久保田村では村の南端付近に「宿並市場」が形成され,定期市もそこで開催された.「宿並市場」は,定期市の開催を念頭に街路が広く造成され,高札場や市神(牛頭天王)も設置されていた.1697年の久保田村明細帳では,3・8六斎市の開催と,薪・塩の取引が記録されており,少なくとも17世紀末までは久保田村で六斎市が開催されていたとみられる.しかし,18世紀になると久保田六斎市は衰滅に向かい,1733年時点では極月(12月)のみ開催される大市へと形態が変化していた.久保田六斎市が衰滅したのち,横見郡内の村々は鴻巣宿や松山町の定期市を利用していた.
荒川や市野川は,横見郡を取り囲むように,この地域を縦断していた(図1).これらの河川は,横見郡の人々が郡外の定期市へと行き来する際の障壁となっていた.商品流通が未発達であった近世前期に,横見郡内に久保田六斎市が必要とされたのは,そのためであろう.一方で,松山や鴻巣宿などの近隣定期市との競合関係は,近世中期以降に久保田六斎市が衰滅した要因の一つとして考えられる.
文献
渡邉英明2009.江戸時代の関東における定期市の新設・再興とその実現過程―幕府政策の分析を中心に―.地理学評論82:46-58.
渡邉英明2010.村明細帳を用いた近世武蔵国における市場網の分析.人文地理62:154-171.
渡邉英明2023.近世日本の定期市に関する研究動向と地理学からの研究視角.空間・社会・地理思想26:3-14.