日本地理学会発表要旨集
2023年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 407
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近世城下町における寺院立地の変遷に関する研究
―名古屋城下町を事例に―
*原田 歩
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抄録

1.はじめに  日本の都市はその成立と発展の基礎を都や港町,門前町や宿場町におくなど、その起源は様々である。なかでも近世城下町は、県庁所在地をはじめとする多くの主要な都市の起源となっているため、その空間構造や都市計画の変化などに着目して研究されてきた。近世城下町は、侍町・町人町・寺院地を主要な構成要素とし、各要素の相互関係や配置の変化から支配者層の意図に迫ってきた。  本研究は、城下町を形成する3つの要素の中でも寺院地に着目し、近世城下町の成立から藩政の終焉にかけて,寺院配置の変遷を分析することによって,藩主の都市設計の意図の変化を明らかにすることを目的とする。藩主の治世ごとに寺院の分布図を作成し、藩政や周囲の大名との関係、江戸幕府の支配と関連付け、藩主の意図やその変化の特徴を考察する。 2.近世城下町研究における寺社地の位置づけ  既往の城下町研究では、都市の消費地である「侍町」と生産地である「町屋」を研究対象としたものが多くみられる。その一方で寺社地は、寺院集積地である「寺町」が防御機能を担っていることが指摘されていた(矢守1974;久保2013)。  大阪城下町を事例に寺院と「寺町」型・「町寺」型・「境内」型に類型化し、その役割を考察した研究(伊藤1997)や江戸城下町において寺院が呪術的役割から余暇空間機能に変化したことを示した研究(松井2014)、江戸の明暦の大火後の寺社地と都市構造の変化を考察したもの(黒木1977;岩本2021)など防御的機能に留まらない寺院の役割が明らかになっている。しかし、こうした研究は一事例にとどまっており、今後さらなる事例の蓄積が求められている。 これらの研究は城下町整備が整った後の時代に描かれた絵図を用いて分析されることが多く、城下町形成期の変化を分析することはできていない。 城下町形成期に焦点を当てて分析することは、城下町を整備した藩主の都市計画に迫るうえで有効であり、戦乱の世から泰平の世に移り変わるなかで、軍事的役割が重視された時代から経済活動の場としての役割が重視 されるようになるまでの変化に迫ることが可能となる。 3.名古屋城下町における「寺社地」  名古屋城下町は,1609(慶長14)年,家康の九男義直の居城として,天下普請によって築城された。清須城の軍事的脆弱性や中世以降の無計画な発展に伴う城下町拡大の限界を補う目的で,清洲城に代わる新たな近世城下町として整備された。  他の城下町が中世山城に代わる新たな城として整備されたのに対し,名古屋城下町は近世城下町の代替として整備されたため,あらかじめ家臣団や町人の規模を把握することが可能であり,綿密な計画に基づいて建設されている。  その構造は次のようになっている。町人町が碁盤割で城下の中心に配置され,侍町は町人町を覆うように位置している。寺社地は外延部の特定の場所への集積地および碁盤割の町人町の中心(会所地)に置かれた。  名古屋城下町にみられる寺社地の特徴として,宗派ごとに形成された寺院集積地(寺町)が形成されたこと, 町人町の会所地に寺院が置かれたことが指摘できる。これらの特徴は他の城下町にもみられる特徴(宗派ごとの寺町は広島城下町,会所地の寺院は熊本城下町にみられる。)であり,名古屋城下町における配置意図を明らかにすることは,他の城下町の分析にも示唆を与える。特に、名古屋城下町は複数の寺院集積地を持ち、他の城下町で指摘される防御的機能だけでは説明できない寺院配置がみられる。  そこで前述のとおり,名古屋城下町は清須城からの移転が多く,初代義直と2代光友の治世に多くの寺院が建立されているため、本研究では,この時代に注目し,清洲からの移転寺院,他からの移転寺院,創建寺院と分類し,宗派の特徴や熱田神宮との関係とともに考察する。 参考文献 伊藤 毅1997.近世都市と寺院.吉田伸之編.『日本の近世 第9巻都市の時代』81-128中央公論社. 岩本 馨2021.『明暦の大火「都市改造」という神話』,吉川弘文館. 久保由美子2013.城下町・熊本の街区要素の一考察. 熊本都市政策2:63-68. 矢守一彦1974.『都市図の歴史 日本編』, 講談社.

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