日本地理学会発表要旨集
2024年日本地理学会春季学術大会
セッションID: 519
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金武湾闘争における生存思想に関する存在論的研究
*中島 弘二
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抄録

1.はじめに

 1970年代から1980年代前半にかけて沖縄島中部東岸の金武湾を舞台として展開された金武湾闘争は石油備蓄基地(CTS)建設および金武湾総合開発計画に反対する環境運動であると同時に,辺野古や高江などで展開されている基地反対運動へとつながる沖縄社会運動の原点と位置付けられるものである.近年の研究では,金武湾闘争がCTS建設や総合開発計画を狭い意味での開発問題や環境問題にとどめることなく,地域に生きる人々の生存と,それを可能とするコモンズの存立に関わる普遍的問題として提起した点にその意義を見出している.人類学の比嘉(2022)は近年の動物論的展開をふまえてこのような金武湾闘争における生存思想をさらに発展させ,ジュゴンや貝類などの人間以外の生き物と人間の生存維持の権利要求が重なる地点において展開される「生き方」としての基地反対運動に着目している.こうした視点は近年のマルチスピーシーズ民族誌とも重なり,人間とその他の生き物やモノとのつながりに着目する存在論的視点から環境運動を理解することの必要性を示している.そこで本発表では,このような存在論的視点から金武湾闘争を再検討し、その現代的意義と可能性を明らかにするとともに,先行して展開されていた水俣での運動との接点および生存思想の共通点を明らかにすることを試みる。

2.金武湾闘争における「生存思想」

 1970年代初め,金武湾では米国ガルフ社による平安座島の石油備蓄基地建設、その見返りとしての海中道路の建設、そして沖縄三菱開発による新たなCTS建設計画といった一連の開発計画が矢継ぎ早に進められていた。こうした動きに対し,金武湾を守る会は1974年に「埋め立て取り消し訴訟」、1977年に「CTS建設の差し止め訴訟」を提訴した。『海と大地と共同の力』と題された2回目訴訟の準備書面では,金武湾沿岸の住民・漁民の沖縄戦中・戦後体験の聞き書きが詳細に記され,集落での畑の均等な配分や海アサリ(イザリ)による海産物の調達,芋とサトウキビなどによってかろうじて命をつないでいくことができたという極限状態における「生存」の状況が述べられている.金武湾闘争の生存思想は,このように海と大地のおかげで沖縄戦の極限状況を生き抜いてこられたという具体的な体験に根ざしたものである点が特徴である.

  金武湾を守る会の平良良昭は生存思想の特徴を以下の3点にまとめている.1)自然の生命系と人間の「生存」との不可分性,2)生計維持という意味での「生活」と「生存」の区別,3)民衆の生存を可能とするものは国家ではなく「海と大地と共同の力」である.ここには,人間と人間以外のさまざまなモノとの結びつきに着目する存在論的な視点とともに,そうした視点が有する政治的可能性が示されている.そして,その点こそがその後の反基地運動に結びついていったと考えられる.

3.水俣とのつながり

 金武湾闘争はその始まりから四日市や水俣での公害被害に学び,また運動の過程で特に水俣から大きな影響を受けていた.金武湾と水俣の間では相互交流も行われており,例えば1981年6月にパラオ(ベラウ)より婦人代表を招いて「ベラウ・沖縄・水俣祈りの旅」を実施し,パラオの女性とともに金武湾を守る会のメンバーが水俣を訪れている.同年8月には水俣乙女塚で開催された第1回犠牲者慰霊祭に金武湾を守る会世話人の安里清信が参加した.その時のことを安里は次のように記している.「終りに石牟礼さんの読経供養がしめやかにあった.貝も,エビも,魚も,いかも,藻類も,乙女も,海もみな水俣病で生命を絶った.宵宮で私はその使者と生者の初対面をした」(安里 1981).

 その翌年1982年に今度は石牟礼道子が水俣から金武湾を訪れている.米軍の実弾演習で植生が破壊されて地肌が露出した恩納岳を見て,石牟礼は安里清信に言われた言葉を回想している.「樹と沖縄とは同じ生命体で結ばれていたんです,戦前までは.戦争で一本一本伐られて….水も樹から貰っていたんですよ.(中略)水と一緒に樹の精も貰っていたんです」(石牟礼 2006:95-96).ここには,石牟礼が『苦海浄土』において示した水俣病者を含めた命あるすべてのものとのつながりを取り戻そうとする存在論的な視点と共通する眼差しを見出すことができるだろう.

4.おわりに

 金武湾闘争においてうみだされた生存思想は,人間と人間以外のさまざまなモノとの結びつきこそが沖縄戦の極限状況を生き抜くことを可能としたこと,それは国家に依存しない生存のあり方を提起するものであった.その点が,その後の反基地運動につながっていったと考えられる.また,金武湾闘争の過程で水俣との交流を通じて,それぞれの文脈は異なるものの,一定の共通性を有した生存思想を構築していったと考えられる.

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