主催: 公益社団法人 日本地理学会
会議名: 2025年日本地理学会秋季学術大会
開催日: 2025/09/20 - 2025/09/22
1.研究の背景と目的
食の世界におけるグローバル化は,工業化と強い関わりをもちながら展開してきた.食料は「自然的なものと人工的なものの混淆物」(Goodman 1999)としての性格が強く,機械や化学製品よりも,自然物(生産・流通を取り巻く自然環境や動植物そのものが有する生物的特性)によって影響を受ける度合いが強い.そのため人間は、世界規模での食料の安定的供給の実現に向け,食料生産過程の一部を工業的要素で置き換えたり,食料そのものを工業的存在へと改変したりしてきた.
一方,食の工業化・グローバル化の進展は,環境負荷や食の安全などに関わる様々な課題を人間社会へともたらしてきた.そのような中,エビやコーヒーなどのグローバル商品の分野では,従来の食料供給に対するオルタナティブな性格の強い食料供給体系(Alternative Food System, AFS)が出現している.そこでは,グローバル化の足枷とされてきた自然物がオルタナティブ性を構成する要素として重視される.具体的には,本研究で取り上げる環境保全型養殖のように,生産地域の自然環境や動植物の生物学的特性と強く結びついた生産様式がみられる.そのため,AFSに関わる生産者らの行為は,従来型のそれに比して自然物から作用を受ける度合いが強く,不確実な状況におかれることとなる.
ここで注目したいのは,自然物との関係に埋め込まれる度合いが強い食料生産の実践において,不確実な状況を安定させることはいかに可能かという点である.とりわけ,食料生産に対する気候変動の影響が指摘される今日において,自然物との関わりの中で,どのような仕組みによりオルタナティブな食料生産が成り立っているのだろうか.本研究では,インドネシアの環境保全型のエビ養殖に焦点を当て,そこでの気候変動が及ぼす具体的影響と状況の変化に対する生産者らの適応を考察する.
2.インドネシアにおけるエビ養殖業の展開
インドネシアのエビ養殖の起源については様々な説があるが,遅くとも1800年には粗放的な方法を用いた養殖池が操業していたとされる(Ilman et al. 2016).その後,長らく粗放的な生産形態がとられてきたが,1970年代に海外のエビ需要の高まりを背景として,海域でのトロール漁が盛んとなった.ところが1970年代後半にトロール漁による資源枯渇が問題視されるようになり,1980年の大統領令により同漁は禁止された.そのような中,政府は輸出向けのエビを確保するため,エビ養殖業の強化・生産地域の拡大を目的とした国家プログラムINTAMを展開した.その結果,1980年代末までに各地で集約型のエビ養殖業が展開するようになった(Kusumawati and Bush 2010).
2000年代以降,インドネシアではブラックタイガー(BT)の病気の流行を背景として,バナメイ(VN)への転換が政策的に推進されてきた(Hanafi and Ahmad 1996; Andi and Iqbal 2009).VNの生産にはより集約的な様式が向いており,そのような品種の転換も同国における集約型養殖池の開発を後押した.近年は,2020年の大統領令に基づいて,2024年までに養殖エビの輸出量を250%増加する政府目標が設定され,とくに西ヌサトゥンガラ州,ランプン州,ジャワ島北岸,南スラウェシ州での集約型養殖池の開発が進展している.
3.研究の対象
インドネシアでは,一部のエビ養殖池においてマングローブ林の伐採が社会的な問題となってきた.そのため政府は,2016年の海洋水産大臣令によりマングローブ林の主な分布域での新たな養殖池の造成を規制するとともに,シルボフィッシャリーを軸とした環境保全型養殖の実施も奨励してきた.シルボフィッシャリーは,マングローブの植栽・管理とエビ・魚の養殖とを同時に行う手法である.マングローブ林の保全に加え,水・土壌の浄化,プランクトンの増殖促進といった機能を果たすことから,低投入の環境保全型養殖として評価されている(Perwitasari et al. 2020).
本研究は,東ジャワ州シドアルジョ県における環境保全型のエビ養殖(Eco-Shrimp Production System,ESPS)を事例として取り上げる.シドアルジョ県では,ブランタス川のデルタ地帯という地理的特性をいかす形で古くからBTの養殖が盛んに行われてきた(Fitrianto 2014).とりわけ,粗放型を軸にしたシルボフィッシャリーが広く展開している点に大きな特徴がある.ESPSは,1990年代以降,有機養殖や公正貿易のプロジェクトを通じてAFSと結びつき,従来型のエビ養殖に対するオルタナティブとしての価値を帯びてきた.