日本地理学会発表要旨集
2025年日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 332
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バングラデシュ農村部における医療の多元性と人々の選択
*小林 夕莉
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抄録

医療従事者の不足や不定愁訴の改善などの観点から,伝統医療に対する注目が国際的に高まっている.WHOは1970年代から,2000年までにすべての人々が健康を実現できる水準を達成することを目標に掲げ,この目標を達成させるためにプライマリー・ヘルスケアの推進を重要視してきた.とくに医療に関わる人材や物資が不足する発展途上国では,在地の伝統医療のシステムや担い手を巻き込むことが推奨されている.一方で,富裕層や中間層を中心に伝統医療や代替医療への需要が高まり,インドではメディカル・ツーリズムが盛んになるなど,医療の多様性はますますグローバルな広がりを見せている.

 一方で,バングラデシュは「援助の実験場」とも称されるように,主に近代医療の普及に注力された地域である.東南アジアや南アジアをフィールドとした伝統医療/代替医療に関する研究は日本でも盛んにおこなわれているが,バングラデシュではこうした研究が不足してきた.そのため本研究では,バングラデシュタンガイル県の農村における世帯調査と参与観察にもとづき,伝統医療や代替医療を含めた医療の選択の多元性を考察する.

バングラデシュはにおける近代医療は,パキスタンからの独立(1971年)以降,世界的な援助やNGOの支援により急速に発展した.現在は,約6000人に1軒の割合で設けられるコミュニティ・クリニックをはじめとした,6つのレベルに分けられた公的医療機関が存在するほか,都市部には専門病院や総合病院が開院している.農村レベルで主要となるのはであり,調査地では彼らが市場で経営する薬店が拠点となっている.村医者らは医師ほどの知識はないものの,不足する人的資源を補完する重要な役割を持っている.

 また,バングラデシュでは代替医療の制度が整備されており,ホメオパシーのほかに,アーユルヴェーダとユナニを含む伝統医療が実践される.これらは医師と同様に,それぞれの専門分野における学位の取得が求められる.

 民間療法を実践する治療師(kobiraj)はこうした制度の外側にある存在である.かれらは祈祷や民間薬,呪符などを用いて治療をする非制度的医療の担い手であり,公的医療機関のヘルスワーカーや近代医療の担い手からは否定的に捉えられている.

 タンガイル県に位置するK村とB村は,Bangshi川支流を挟んで向かい合っている.K村はコミュニティ・クリニックを有するムスリムの集落であり,B村はヒンドゥーの集落である.かつては両村の近辺に橋が架けられていたが,2015年に崩壊してからは船で往来する.渡船には料金がかかることもあり,橋の崩壊以降,川を越えて市場や保健所を移動することは減少したという.両村の住民は互いに交流は少ないが,顔見知りや噂を聞く等の関係性は有していた.

 いずれの村の住民も,40代以上では子供時代に「村医者」が最も用いられる医療機関であると回答した.現在はアクセス性が向上したことから,病気の重篤さや目的に従って薬店と病院を使い分けている世帯が多かった.

 公的医療機関での診断は無料であり,解熱剤やかゆみ止めなどの頻繁に使われる薬は常備し,無料で提供している.公立病院やコミュニティ・クリニックの利用者の中には所得の低い層も含まれ,公的制度が効率的に機能していた.一方で,待ち時間の長さや院内の清潔さなどのサービスは私立病院が優れていると考えられ,治療費がかかっても私立病院を好む傾向が見られた.コミュニティ・クリニックに関しても,開院時間が午前中のみであることや市場(バザール)から遠いことを理由に,市場に5軒~10軒が集まる薬店を選択する患者が多数みられた.

 市場にはホメオパシーの薬店があり,子供の治療や眼科・耳鼻科・皮膚科系の疾患では,副作用の少ないホメオパシーがよいと考えられていた.ホメオパシーの薬店は近代医療との区別を重視していた.伝統医療の薬店は農村部にはなく,村医者の経営する薬店で10種類程度の解熱薬や血圧低下を目的とした薬が販売されていたが,これらの薬については大まかな知識を把握している程度であった.民間療法は村落内で個人的に実践され,屋敷地林の樹木や国内外で入手する伝統薬等が使われていた.人々は体調不良に際してほとんどの場合はまず近代医療にアクセスするが,不妊症や精神疾患など長期化する病気は「病院では良くならない」と判断され,民間療法やホメオパシーなどの代替医療が模索されていた.このほかに,民間治療師は精霊が原因とされる病気や夫婦関係の改善に長けていると考えられ,症状や課題に応じて治療体系の使い分けがなされていた.

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