1. はじめに
ベトナムでは2000年代以降農村地域への企業進出が相次ぎ、農村地域における地域労働市場の形成が目立つようになった。1990年代まで人口の約8割が農村人口でその大半が農業に従事していたものの、最近では農村人口の割合が6割台まで下がっている一方で、就業構造が多様化しつつある。2001年から2020年までの20年間に農村世帯数は約33%増加したが、農業世帯数はむしろ24%も減少した。全国的な人口増加に伴い、農村人口も増加傾向にあるものの、若年層の就業形態の多様化が農業人口の減少につながっている。言い換えれば、日本と韓国で経験されたような若年層の都市部への流出も活発である一方、農村部にとどまり非農業部門に従事する若年層が広く存在することを意味する。これらを併せ考えると、ベトナムでは2000年代以降農村工業化が進展し、在村脱農型地域労働市場が形成されつつあることがわかる。労働市場の需要側は日本や韓国と同様に労働集約的な工場が大半であるが、供給側は日本と韓国とは異なり比較的高学歴の男性若年層が中心で自宅からバイクで通勤するのが一般的である。これは、グローバルサプライチェーンで周辺国に位置付けられるベトナムにおいて、日本や韓国などアジアの先進国で経験された「周辺的労働市場」の形成や農村地域の周辺化とは異なる、非周辺的な地域労働市場が形成・発展されつつあることを示唆するものと考えられる。
2. 研究の目的と方法
本報告では、ホーチミン市西部に隣接するロンアン省ドゥクホア県を事例に、大都市近郊農村地域における工業化の進展と農村コミュニティの適応戦略を労働力の配分や土地利用変化を中心に分析する。特に、本研究では農村工業化に伴う近郊農村コミュニティの変容を「交渉的な適応(negotiated adaptation)」として捉え、「急激な断絶(disruption)」や近代化への飛躍(modernization)といった従来の二項対立的な議論の再考を促す。 調査方法は、2024年1月に工業団地における労務管理の現状を把握するため、企業の人事担当者へのヒアリング調査を実施し、3月には地元農家、企業関係者、行政関係者を対象に、土地利用の変化、労働力の需給、生計戦略についてのインタビューを実施し、研究対象地域おける農村工業化の影響を把握した。さらに、同年8月には同県ドゥクラップトゥオン(Duc Lap Thuong)社でランダムに抽出した111世帯に対して、所得源の構成、世帯内の労働力配分、農地所有や工場勤務の将来計画を中心にアンケート調査を行った。なお、ドゥクホア県には2024年3月現在、5つの工業団地が進出しており、774の工場(うち、外資企業は302)で67,288名の従業員が働いている。主な業種は繊維紡績、食品加工などの非熟練・労働集約的な製造業である。
3. 適応的生業戦略と土地利用変化
ドゥクホア県では伝統的に稲作を中心とした農業が営まれてきたが、1997年頃から酪農が新たな収入源として加わり、2005年以降は工業団地での就業が急速に普及し、現在は住民の約3割が工場で働いている。しかし、調査世帯の約73%が現在も乳牛を飼育しており、農業基盤を維持しながら賃金収入を追加し世帯収入を多様化・最大化する戦略をとっている。また、土地利用においても、75%の世帯が農業労働力の不足に対応するため主な作物を酪農用の牧草へ転換している。一方、工場で働きながら農業をも並行して行う住民が多く、工場就業者の中でシフトがない時間帯や休みの日に農業に従事する割合が47%で、うち11%は主な農業労働力として働いている。概ね低賃金で昇給などのない不安定な雇用条件にもかかわらず、調査対象の約93%が工場での勤務を継続したいと回答するとともに、将来農地を手放す可能性があると答えたのはわずか13%に過ぎなかった。
4. おわりに
本事例からは、ホーチミン近郊の農村工業化により就業構造が多様化されつつ、「移行的な均衡状態(equilibrium)」を形成されていることが示唆された。そこでの農民は受動的に変化に巻き込まれているのではなく、社会的ネットワークを活用しながら柔軟かつ戦略的に対応している。