本発表の目的は、三池争議をめぐる空間と組織の複雑な階層構造を浮き彫りにすることにある。発表者は、2024年7月に福岡地理学会で行った関連発表に基づき、その後の調査をふまえて新たな分析を加えた。三池争議は、1959年から1960年にかけて発生した日本の戦後最大の労働争議で、三井三池炭鉱での指名解雇を契機に発生した。この争議は、労働者と経営者との間で、暴力的な争闘を含む大規模な対立となり、最終的には中央労働委員会の斡旋によって収束した。三池争議は、「総資本対総労働」というスローガンのもとで展開され、1960年には暴力的な闘争にも発展し、最終的には2万人の労働組合員と1万人の警察官が対峙する状況となったが、中央労働委員会の斡旋によって終息した。その結果、日本社会では広く労使協調路線が取られ、労働者と経営者は高度経済成長に向けて協力する道を選んだ。三池争議を理解するためには、複数の階層的な構造を背景として考えるべきである。労働側には三池労組、炭労、総評、そして社会党が関連し、経営側には三池鉱山、三井財閥、経営者団体、自由民主党がつながっていた。さらに、争議の理論的指導者であるマルクス主義経済学者の向坂逸郎と当時の首相である岸信介との対立が存在し、この争議は「東の安保、西の三池」として安保闘争とも関連づけられる。このような政治的背景に加え、向坂逸郎は大牟田市出身であり、三池争議に個人的なつながりがあったことが示唆されている。また、三池争議の背後には東西冷戦の影響があり、在日アメリカ大使館発。本国宛て極秘電文には、三池争議や総評の動きが記録されていた。中国、ソビエト連邦からの支援金や欧米、東欧の労働組合からの寄付金が総評に流れたことが確認され、当時の労働運動の複雑さが浮かび上がる。今後の課題としては、三池争議を巡る様々な「営力」と地域との関係を、空間的スケールや社会的レベルの視点からさらに整理することが挙げられる。