1.はじめに
日本2位の水域面積を持つ霞ヶ浦(西浦,北浦,外浪逆浦,常陸利根川を含めた総称)周辺には膨大な数の石碑や宗教的建物が建っており,とりわけ水神の石碑(以下,水神碑)が際立って目立つことが報告されている(五十川・鳥越,2005).他に,霞ヶ浦周辺の湖沼では,霞ヶ浦(西浦)の東側に位置する北浦(羽生,1969)や千葉県の手賀沼(柳,1996)において水神碑が湖岸に配置されていることが報告されている.水神碑は,主に水害を起因としたものや漁業や水運業の関係者に向けて建立されているものが多く,潮来町(現:潮来市)の水神碑は大洪水の翌年あたりに建立され(藤島,1995),霞ヶ浦西岸の水神碑は漁業関係者に向けられたものが多い(五十川・鳥越,2005).これらの水神碑の立地は,すべて利根川流域内の湖沼の水辺において見られるもので,琵琶湖や浜名湖といった他の湖沼の水辺においては特筆して確認されなかった.本発表では,霞ヶ浦西岸と同じ利根川流域内である北浦や手賀沼における水神碑の立地を調査し,水神碑が建立された目的や役割を比較する.
2.調査方法
本調査では(五十川,鳥越,2005)における水神碑の調査を参考に,2024年10月31日から11月2日にかけて霞ヶ浦西岸で現地調査を行い,先行研究により記録された一部の水神碑の他,記録されていない水神碑と思わしきものを確認し,水神碑に彫られている年号と,座標を記録した.水害との関連性を明らかにすることを目的に記録した年号は,霞ヶ浦の水害の歴史が記載されている書籍の収集や,茨城県霞ケ浦環境科学センター内に展示されている年表を参考に考察した.北浦(旧:北浦村の範囲に限る)と手賀沼の水神碑については,Google Mapの検索結果と,羽生(1969)及び柳(1996)に記載されている所在図を参考にGoogle Street Viewのパノラマ写真を活用し,位置を特定した.
3.結果
霞ヶ浦西岸では五十川・鳥越(2005)の調査地点である,B-01~B-04,土浦市A-01~A-05(A-06及びA-04を除く),阿見町M-01~M-02,美浦村L-03~L-07とした.土浦市A-03では現地調査時に水神碑の祠が新しく整備されていることが確認されたため,移設の可能性が浮上した.Google Street Viewを確認したところ,約100m東に古い水神碑の祠が確認されたことや,新しい道路が敷設されていたことから,約100m西に移設されたものと断定した.また,調査範囲では既に調査された水神碑の他に11地点が確認され,合わせて29地点の水神碑の所在を確認した.そのうち年号が記載されていた水神碑は15箇所であった.記載されている最古の年号は寛保2年(1742年)で,最新の年号は平成18年(2006年)であった.但し,記載されている年号は建立された年を記していると限らないことに留意する必要がある.水害との関係を調査するにあたっては,霞ヶ浦南東部に位置する潮来町の水神碑を調査した藤島(1995)による「水害のあった年の次の年あたりに多く見受けられる」という報告を基に,水害の歴史が記載されている文献と照らし合わせた.その結果,水害が起きてから2年以内に該当する年号が記載されている水神碑は3箇所であった.次に,北浦の調査では,北浦の西岸に多く立地していることが確認された.また,北浦の西岸北側の大部分を占める北浦村(現:行方市)の水神碑を調査した(羽生,1969)を参考に確認できる限り位置を特定したところ,多くが湖岸沿いの低地に設置されていることを確認した.手賀沼では,水神碑が湖岸際ではなく手賀沼から少し離れた場所に配置されていた.手賀沼の水神碑を調査した(柳,1996)を参考に位置を特定したところ,大部分が下総台地と低地の境目の低地側に位置していることを確認した.
4.考察
霞ヶ浦西岸や同じ利根川流域の北浦と手賀沼では,湖に沿った水神碑の配置が確認された.北浦と手賀沼の水神碑は水害に起因する役割を持っていたが,霞ヶ浦西岸の水神碑は水害の役割を持つものは少数派で,多くは漁業関係者に向けた役割を持つものが主流であったと考えられる.