日本地理学会発表要旨集
2025年日本地理学会春季学術大会
セッションID: S103
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日本地理学会と地形学 ― 1925年までの経緯と現在
*小口 高
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抄録

1. 山崎直方と小藤文次郎

 日本地理学会は,1925年に山崎直方(1870~1929)が創設した。山崎は1892年に帝国大学理科大学の地質学科に入学し,「日本の地質学の父」とも称される小藤文次郎(1856~1935)の指導を受けて岩石学を学んだ。小藤は1877年に創設された旧制東京大学理学部地質学科の最初の学生で,ハインリッヒ・エドムント・ナウマンらから学んだ。小藤は1881~84年に,最新の地質学を学ぶためにドイツに留学し,帰国後の1886年に上記の地質学科の教授になった。ドイツ留学時には地理学にも触れ,関心を持つようになった。小藤の地理学への関心は,「地学雑誌」が1889年に創刊された際に,創刊号の筆頭論文として「地学雑誌発行ニ付地理学ノ意義二解釈ヲ下ス」を著したことに反映されている。

 一方,山崎は火山地質などの研究を進め,1897年に第二高等学校の地質学の教授に就任した。しかし間もなく,文部省から地理学の研究のために3年間のドイツ留学を命じられた。山崎の留学の主題が地理学になったことは,小藤と高等師範学校の校長であった嘉納治五郎の意向とされている。山崎はドイツで地理学を学び,先端的な氷河地形学を展開していたアルブレヒト・ペンクらの下で地形学を学んだ。これが,山崎が地質学者よりも地形学者として認識されるようになるきっかけである。帰国後の1902年に「地質学雑誌」に著した「氷河果して本邦に存在せざりしか」は,日本で最初の地形学の論文と認知されている。

 明治の日本では,資源開発の視点からも重視された地質学に比べて,地理学の発展が遅れていた。その中で,小藤のような影響力の強い研究者が地理学を支援したことは重要であった。さらに,帰国後の山崎が勤務先の東京高等師範学校と東京帝国大学で地理学を教えたことが,初期の地理学を牽引した。地理学の多様な分野の中で,地質学と最も関連が強い分野は地形学である。したがって,当初は地質学者として活躍していた山崎が,地形学を研究したことは自然である。実際,地理学者としての山崎の多様な業績の中では,地形学に関するものが最多を占めている。

2. 日本地理学会の設立と地形学

 山崎はドイツ留学の後も海外の研究者と交流し,国際的に広く認知されていた。その象徴は,1922年に国際地理学連合(IGU)が設立された際に,副会長の一人になったことである。最初のIGUの執行部は6名で構成され,山崎の他の5名(会長,事務局長,3名の副会長)は全て西欧の研究者であった。したがって,山崎は国際学会において,西欧以外の全世界の代表者であったとみなせる。山崎がIGUの創設から3年後に日本地理学会を設立したことは,彼が世界と日本の両方で地理学を振興すべきと考えていたことを示唆する。

 1925年の「地理学評論」第1巻は10号で構成され,46編の学術論文が掲載された。その半分の23編は,地形学・地質学・地震学のものであった。山崎の影響下で,日本の地形学とその関連分野が活性化していたことが,最初期の日本地理学会の特色と判断される。

3. 現在の日本地理学会と地形学

 現在の日本地理学会において,地形学とその関連分野が占める比率は,100年前よりも明らかに低下している。地形学を含む自然地理学と人文地理学を比較しても,会員構成,論文数,学会発表の数などの点で後者の方が大規模である。一方,日本の学術の中では地形学が一定の地位を保っている。1979年に創設された日本地形学連合が継続的に活動し,地質学や地球物理学を背景とする学者の一部も地形を研究している。

 この現状を考慮すると,日本地理学会では伝統がある地形学の研究を継続するとともに,地形学と地理学の他分野を結びつけた横断的な研究を進めることが望ましい。戦前には景観地理学の研究として,地形と土地利用との関係を検討するような機会も比較的多かった。しかし今日の地理学では低調で,自然の影響を含む景観の研究は,Landscape Ecologyの一部として農学系の研究者が主に行っている。地表の形態は土地の使いやすさや水環境を規定するため,多様な人間活動を支配する。この点に着目し,地形学と人文地理学や水文学を結びつけた研究を,日本地理学会で発展させることが望まれる。

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