主催: 公益社団法人 日本地理学会
会議名: 2025年日本地理学会春季学術大会
開催日: 2025/03/19 - 2025/03/21
アメリカ西部におけるテンサイ糖産業の発展と西部開拓の進行については、すでにその概要を公表した。また、2024年3月の日本地理学会春季学術大会(於青山学院大学)では、コロラド、ユタ、アイダホ、カリフォルニアについて、資本、製糖工場、原料調達、労働力に着目して、テンサイ糖生産地域の特徴と地域性を論じた。19世紀末から20世紀前半にかけて繁栄したテンサイ糖生産地域は、その後どのように変化したのだろうか。そして製糖業は、今日、どのように記録され記憶されているのだろうか。
アメリカ合衆国では、USDA資料によると、総計170か所のテンサイ糖工場が設立された。そのうち、カリフォルニアには24工場、コロラドには22工場、ユタには19工場、アイダホには11工場があった。これらの76工場とカンザスの1工場を含めて、77工場の場所を現地調査し、操業状況、工場廃墟、工場記念碑、跡地利用などを明らかにした。コロラドについては、サウスプラット川流域を対象として、テンサイ糖産業の地域的特徴と砂糖工場の廃墟についてすでに検討済である。そこで本発表では、ユタとアイダホ、そしてカリフォルニアを中心に報告する。
1934年砂糖法は、生産割当、関税、価格保証金などの保護措置を組み合わせることにより、砂糖の壊滅的な低価格を抑え、国内産業の維持に貢献した。しかし、連邦政府は1974年に砂糖法を更新しなかったため、砂糖をめぐる保護政策は打ち切られ、その結果、競争力の弱いテンサイ糖産業は崩壊への道を歩んだ。ただし、テンサイ糖産業が完全に消滅したわけではない。2022年農業センサスによると、テンサイ栽培面積は合計116万エーカーで、サトウキビ栽培面積(91万エーカー)を上回る。テンサイ生産量を州別にみると、ミネソタ (35.9%)、アイダホ (19.91%)、ノースダコタ (18.6%)、ミシガン (12.4%) の順である。20世紀前半にテンサイ糖産業を主導した西部4州のうち、アイダホのみが現在でも主要な生産州の地位を維持している。一方、コロラド、ユタ、カリフォルニアでは、ほとんどの製糖工場が閉鎖された。廃業した製糖工場の現況をみると、その痕跡を認めることのできない消滅工場の事例、工場施設がそのまま廃墟として残り、あるいは施設が他の目的に転用された事例、また、記念碑が製糖工場の存在を記憶する事例など、さまざまである。景観に記録・記憶される砂糖の遺産には地域性が認められる。
コロラドでは、コロラド川流域、サウスプラット川流域、アーカンザス川流域に製糖工場が建設された。製糖の痕跡を認めることができなった消滅工場は11か所、工場廃墟(施設の再利用を含む)が8か所である。サウスプラット川流域のフォートモーガン工場では、テンサイ生産者の農業協同組合組織によって砂糖生産が続けられている。
ユタとアイダホのテンサイ糖産業を支配したのはモルモン教会であり、モルモン資本によるユタアイダホシュガーカンパニーとアマルガメイテッドシュガーカンパニーであった。今日、ユタには操業を続ける製糖工場は存在しない。消滅工場は12か所、工場廃墟(施設の再利用を含む)は6か所である。一方、アイダホでは、スネーク川流域に製糖工場が建設され、現在でも3工場が操業する。上流部には4工場の廃墟があり、これらを含めて、工場廃墟は5か所である。また、3工場が消滅した。アイダホは現在でも第2位のテンサイ栽培州である。
メキシコ国境に近いインペリアルバレーのブロウリーには、州で唯一の製糖工場が操業する。一方、15か所の製糖工場が消滅し、それらの痕跡を認めることはできない。4か所では工場跡が廃墟として存在する。また、製糖工場の存在が記念碑として残されているのは3か所である。サンフランシスコ湾岸地域のアルバラド(現ユニオンシティ)にはこの国で最初の成功したテンサイ糖工場が建設されたが、都市化の進行に伴い、敷地では郊外住宅地開発が行われ、今日、記念碑が製糖業の歴史を記録する。一方、州北部のハミルトンシティや中部沿岸のベテレービアのように、都市化の影響が少ない地域では、製糖工場が廃墟として残存する。