アジア経済
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
論文
日本占領期の内モンゴル西部における医療衛生の近代化
財吉拉胡
著者情報
ジャーナル フリー HTML

2019 年 60 巻 2 号 p. 2-33

詳細
《要約》

伝統的な社会における医療衛生の近代化は植民地時代に開始された。明治維新後,帝国主義列強に加わった日本は,周辺のアジア諸国において植民地を獲得し,現地の医事衛生と社会事情に合わせた医療衛生政策を実施し,近代的医療衛生を持ち込んだ。内モンゴル西部地域においては,1930 年代前半 から,モンゴル人の自治運動が起きたが,それとほぼ同時に,日本は財団法人善隣協会の診療班を当該地域へ送り込み,近代的医療衛生体制を導入した。一方,日本の植民地主義勢力が強制した近代化と近代思想の影響を受けたモンゴル人側は,みずからもすすんで近代的医療衛生を普及させようと試みていた。本論文では,当時の社会事情と植民地における近代的医療衛生事業の展開を背景に,蒙疆政府の医療衛生政策,モンゴル復興を目指した同政府興蒙委員会の医療衛生事業の展開,当該政府によって設立された中央医学院の実態などの考察を通じて,内モンゴル西部地域における医療衛生の近代化過程を明らかにする。

Abstract

Modernization of medicine and sanitation in Japanese society began in the colonial era. After the Meiji Restoration, Japan became an imperialist power and acquired colonies in the surrounding Asian countries. In these colonies, Japan implemented medical and sanitation policies tailored to the local circumstances of medicine, sanitation, and society, and in so doing, introduced modern knowledge of medicine and sanitation to these regions. The Mongolian autonomy movement began in the western region of Inner Mongolia in the early 1930s. At almost the same time, Japan sent clinical teams from Zenrin Kyōkai, a semi-official Japanese organization, to the area to provide medical assistance and educational opportunities to the Mongols. Meanwhile, the Mongols in this region, influenced by modernization and modern thought forced upon them by Japanese colonialist forces, tried to spread modern medicine and sanitation by themselves with the aid of exotic scientific knowledge. By examining the social circumstances at the time as well as the development of modern medical and sanitation enterprises in Japanese colonies, this paper will clarify the process whereby medicine and sanitation were modernized in the western region of Inner Mongolia through the consideration of medical and sanitation policies implemented by the Mō-Kyō Government, the development of health and sanitation projects by the government’s Kōmō Committee, and the experiences of the Chyū-ō Medical School established by the government.

はじめに

Ⅰ 20世紀前半の内モンゴルと「蒙疆政権」

Ⅱ 「蒙疆政権」の医療衛生政策

Ⅲ 興蒙委員会の設立とモンゴル復興事業

Ⅳ 中央医学院の成立

おわりに

はじめに

近代において西洋の列強諸国は帝国主義の一環として医療衛生を世界のあらゆる植民地へ持ち込みその近代化をはかった。その契機となったのは,アフリカ,インド,アジアなどの植民地で直面した現地の風土病や伝染病であった。これらの疾病は彼らの侵出の障害となった。そこで,西洋の列強諸国は近代的医療衛生をもってこれらの疾病を抑えるために,帝国主義の先駆者として医学者を現地へ派遣し,様々な形でそれぞれの支配地へ近代的医療衛生を持ち込んだ。日本も,19世紀末以降,列強諸国に加わり,周辺のアジア諸国において植民地を獲得し,それぞれの社会事情に合わせた医療衛生政策を実施した。

近代日本の植民地や占領地だった台湾・朝鮮・南洋・満洲(中国東北)および中国の沿岸地域において展開された近代的医療衛生事業を射程に入れた研究は,近年,特に1990年代以降増えている。例えば,日本の植民地支配を背景とする天津の医療衛生の社会教育と公衆衛生を対象としたRogaski[2004]戸部[2005, 32-49; 2007, 37-46],上海の公衆衛生を対象とした福士[2010]Nakajima[2018]などの研究が挙げられる。植民地医学論や医療衛生の視点に基づく近代史研究において,近代日本の植民地医学,あるいは植民地医療衛生事業,つまり日本が植民地統治の中で蓄積した医学・衛生学の学知[飯島 2005, 8-9]の様態が関心事になるのは自然な流れであった。そこでは,日本が内モンゴルにおいて実施した医療衛生事業も研究の対象とされた。具体的には,日本が占領地へ導入した近代的医療衛生が植民地医学の制度化[飯島 2000, 55-136; 2005; 2007],社会事業[沈 1996, 252; 2003],文化侵略[任其懌 2006, 107-142],文化的外交[Boyd 2011a, 187-221; 2011b, 266-288]の1つとして実践されていたこと,また植民地政策の一環として利用されたこと[伊力娜 2007; 2009, 203-234]など既に多角的視点から論じられてきている。このように帝国主義日本が台湾,朝鮮,現在の内モンゴル東部を含む中国東北地方などで実施した近代的医療衛生事業に関わる先行研究は既に多く存在する(注1)。しかし内モンゴル西部については,当時の医療衛生事業に関するモンゴル側や中国側の一次資料が少ないこともありその研究は決して多くない。そこで,本研究ではこの地域における日本占領期の近代的医療衛生事業展開過程の様態を明らかにすることを目的としたい。なお,上述のように資料面における制約があるため,ここでは当時の日本語文献を主な史料として利用しつつ論証を進める。内モンゴル西部においては,1930年代前半から,モンゴル人の自治運動が起きた。それとほぼ同じ時期に,日本は財団法人善隣協会の診療班を当該地域へ送り込みモンゴル人を主な対象に医療衛生・文化活動を実施した[善隣会 1981]。善隣協会は「種族同源論」とアジア主義にもとづき,医療衛生と学校教育をもって日本植民地支配の前哨として各地域へ進出し,さらに病気治療と文化教育の普及を通して植民地開発事業を展開したが,実際にはその活動は関東軍の特務機関にコントロールされており,占領軍と相互に作用しながら機能した[財吉拉胡 2012, 91-130]。一方,日本の植民地主義勢力が強制した近代化と近代思想の影響を受けた西部地域のモンゴル人側は,みずからもすすんで近代的医療衛生(近代化)を普及させようと試みていた。このようなモデルを本稿ではハイブリッドな自決型として位置付けることとする。

それでは,当時の植民地医療衛生事業の展開を背景に,モンゴル人によって樹立された「蒙疆政権」(以下,便宜上かっこを外す)における医療衛生事業はどういった方向へ進んだのか。本研究では,蒙疆政府の医療衛生政策,モンゴル復興を目指した同政府興蒙委員会の医療衛生事業の展開,当該政府によって設立された中央医学院の実態などの考察から,内モンゴル西部地域における医療衛生の近代化過程を明らかにする。

Ⅰ 20世紀前半の内モンゴルと「蒙疆政権」

1. 当時の内モンゴル地域

1911年10月10日夜に発生した武昌の蜂起(武昌起義)を発端に,満洲人政権である清朝の打倒,その支配からの脱却を目指す民族主義的性格をもつ辛亥革命が勃発した。また,これをきっかけに,同年12月には外モンゴルが独立を宣言したが,その後長くロシア(後の旧ソ連)からの影響を大きくうけることとなった。一方,内モンゴルは,辛亥革命後に樹立された中華民国,続いて日本軍の支配下に入り,第2次世界大戦後は,内戦で勝利した中国共産党の樹立した中華人民共和国の一部となった。

では,近代内モンゴル人の社会において,日本侵出以前にどのような変化が生じていたのだろうか。日本は内モンゴル地域へ侵出し植民地医療衛生事業を展開する際に,内モンゴルの社会事情に合わせた政策を実施した。そこでまず,当時の社会状況を簡潔に確認しておきたい。

伝統的なモンゴル社会は,氏族や部族といった血縁・親族関係を基軸に構成されていた。清朝時代になるとモンゴルの大部分の集団は「旗」(注2)として再編成され,一部は「八旗」に編入された。この組織を率いたのは従来の氏族や部族を支配していた貴族や王公であった。モンゴル地域が清朝に支配されていた数百年の間,支配者の満洲人はモンゴル人の貴族,王公との通婚によって結びつきを強めながらモンゴル地域を支配下に置いていた。また,清朝末期には,内地の漢人農民が不断にモンゴル地域へ入植するようになり,その結果,特に内モンゴル東部地域は,「旗」を基本行政単位とする遊牧社会から農耕社会へと変遷し(注3),移民人口が増えていった。

かかる内モンゴル社会の変化は,その人口構成にも大きな影響を及ぼしていた。表1は20世紀初頭の内モンゴル東部の人口構造をまとめたものである。

表1  清朝末期民国初期の内モンゴル東部四盟一地方のモンゴル人と漢人の人口構造

(出所)柏原・濱田[1919, 739-760]を基に筆者作成。

(注)モンゴル地名は当時の文章に表記された日本語漢字をそのまま使用したうえで,そのカタカナ表記を添えた。

   **―はデータなし。

表1では,フルンボイル地域およびシリンゴル盟(注4)以西の内モンゴル地域は含まれていない。したがって,実際の内モンゴル人人口は上記の合計より多かったことが推測される。

それでは,清朝の勃興から日本の敗戦までの300年の間,内モンゴルのモンゴル人はどのくらい増えたのだろうか。これに関する精確な人口統計資料はいまだに見つかっていない。ここでは,モンゴル人人口に関する1930年代の統計とその後の人口概況研究の資料を参考にしながら,清代初期,清代末期,1935年前後,および1945年前後の人口統計を比較してみよう(表2)。

表2  清朝以来の内モンゴル人口比較

(出所)黄奮生[1936, 86-111], 張植華[1983, 221-251]を基に筆者作成。

(注)モンゴル地名は当時の漢字表記をそのまま使用したうえで,そのカタカナ表記を添えた。

   **民国政府がモンゴル人居住地域に設置した一級行政区画単位を指す。

   ***―はデータなし。

表2から分かるように,内モンゴルのほとんどの地域において,清朝初期から末期までの間にモンゴル人人口は減少している。その原因は,清朝政府がモンゴル人を統治するためにチベット仏教の布教とモンゴル人の仏教への帰依を奨励したことにより,モンゴル人僧侶が劇的に増え,結婚できるモンゴル人壮丁が減ったことにあろう。また,表2に示されているように,清朝末期から1930年代までの期間にもモンゴル人人口は減少した。これは,①社会的・政治的変動に加え,中国の他の地域と同様に,民国の支配下に入った内モンゴルにおいても軍閥による戦乱が頻繁に起こったこと,②中国内地の漢人流民が大量に入植して土地を開墾したことがモンゴル人の生活の窮乏化をもたらしたこと,③疫病や伝染病,特に性病が蔓延したにもかかわらず,民国政府の医療衛生政策がモンゴル人居住地域へ及ばなかったこと,などを反映している。一方,1930年代から1940年代にかけて,特に東部地域のモンゴル人人口は増加している。その主な原因としては,東部モンゴル人居住地域が「満洲国」(以下,便宜上かっこを外す)に支配され,社会的・政治的にある程度安定した環境が作られたことなどが考えられる。このような社会環境の中で植民地医療衛生事業が展開されたが,その特徴としては,①近代式種痘法,②梅毒撲滅などの衛生政策による死亡率の低下,③文化教育の促進,④仏教改革による僧侶数の減少などが挙げられる。

以上のように,日本の内モンゴル侵出当時のモンゴル人社会は,清朝時代に社会組織・軍事組織として編成された「旗」を,世襲的氏族王族階級が管理する体制が続いていた。民国政府もモンゴル人王公貴族を懐柔するためにこの社会制度を温存させ,それは日本が占領するまで続いた。

日清・日露戦争後の内モンゴル東部地域は,中国大陸へ植民地を拡大するという意図を持つ近代日本によって,地理的・政治的に重要な地域として位置付けられていた。満蒙地域は当時,ロシアと日本の軍事勢力の緩衝地帯であった。しかし1917年のロシア革命によりロシア帝国が滅亡し,日本とロシアの間に結ばれていた一連の協約(注5)が新生ソビエト政府によって廃棄されたため,日本は中国権益の危機に直面することになり,満蒙地域はソビエトによる中国東北および朝鮮半島への進出を防ぐための軍事的重要地となったのである。

一方,辛亥革命による清朝の滅亡と中華民国の樹立は,政治環境の混乱を一時的に中国内部に発生させ,各勢力の台頭をもたらした。モンゴル地域の場合,外モンゴルは独立を宣言し,内モンゴルの王公も民国の支配からの独立志向を見せていた。また,1907年7月30日に日本とロシアの間で調印された第1次日露協約では日本の南満洲,ロシアの北満洲での利益範囲が画定され,ロシアの外モンゴル,日本の朝鮮半島での特殊権益も相互に認められた。そして辛亥革命への対応として1912年に調印された第3次日露協約により,内モンゴルにおける日露両国の特殊な利益範囲が確保された。すなわち,内モンゴルは北京の経度116º27'を境に東西の2つの勢力支配地として分割された。日本はその経度より西方の内モンゴルにおけるロシアの特殊利益を承認し,ロシアはその経度より東方の内モンゴルにおける日本の特殊利益を承認した[外務省 1957, 91-92]。

その後,1932年以降,満蒙地域のモンゴル人を支配下に収めた満洲国は政府機構改革をおこない,モンゴル人社会における従来の行政機関であった「盟」を廃止し,漢人地域の行政機関をモデルとする「省制」を導入した。また,モンゴル人社会の基本行政単位であった従来の蒙旗の王公世襲制度を廃止し,王公,貴族,平民の階級差別をなくした。そして,あらたに改正した旗制にしたがい,政府指定の各旗に「旗長」を任命し日本人の参事官も置いた[興安局調査科 1942, 1-60]。しかしながら,このような社会構造の基本的変容は徳王時代の内モンゴル西部地域では起こらず,従来の社会構造が維持されたままであって,領主の権力にも変化が見られなかった。

2. 「蒙疆政権」の樹立とその性格

周知のように,1933年7月,内モンゴル西部において,デムチュクドンロブ王(徳王)はモンゴル復興を目的に各盟旗のモンゴル人王公およびモンゴル青年たちに呼びかけ,「百霊廟自治運動」(1933~1934年)を起こし,翌年には「蒙古地方自治政務委員会」(1934~1936年,以下「蒙政会」と略す)を組織した。さらに1936年2月に関東軍と提携して蒙古軍総司令部を設立し,4月に第1回蒙古大会を開き,化徳で蒙古軍政府(1936~1937年)を成立させた。そして,1937年10月に日本の援助を受け,蒙古聯盟自治政府を樹立し,同年11月,この政府の代表らは設立したばかりの察南自治政府,晋北自治政府の代表らと張家口に集まり関東軍の要求に従い蒙疆聯合委員会の設立を宣言した。この委員会の成立により,1937年以降「蒙疆政権」の呼称が一般化したのである。1939年9月,上述の3つの自治政府を合併した蒙古聯合自治政府が設立された。1941年にこの政府は蒙古自治邦と改称され,その運営は1945年まで続いた(注6)。関東軍が実施した「内蒙工作」は蒙疆政権の樹立と運営に深く関係しており,蒙疆政権は満洲国と同様,共産圏の拡大を阻止する日本の植民地政策の延長線上に樹立された傀儡政権であったと言えるが,他面においては関東軍が実施した「華北分離工作・内蒙工作」(注7)政策にモンゴル人側が協力した結果の1つでもあった。一方,モンゴル人側は宗主国日本に対し内モンゴルにおける蒙疆政権の実質的な自決権を求めたが,それが日本側の本来の目的とすれ違っていたため,日本はその要求を終始認めようとしなかった(注8)

これまで,蒙疆政権に関しては幅広い研究がなされ,一定の実績をあげている。その性格について,二木博史は,蒙疆政権は「第2の満洲国」とモンゴル人の「自治国」という二重的性格をもつ政治組織であったと位置づけている[二木 2001, 17-43]。つまり,日本占領期の内モンゴル西部のモンゴル人にはある程度の「自治」の権力が与えられていたということである。また,リ・ナランゴアの考察から明らかになったように,蒙疆政権は,支配者日本側とモンゴル側がそれぞれ自らの目的を達成するために互いを利用して樹立された政府であった。モンゴル側は日本の支配に正面から抵抗できないため,宗主国の知的物質的資源と勢力を借りて,高度な自治の達成を試みた。同時に,日本側はモンゴル人のナショナリズム的思考を日本帝国支配圏の防衛と戦争へ利用しようと努めた[リ・ナランゴア 2004, 69-82]。

上述の論証からわかるように,内モンゴル西部地域においてモンゴル人側にあたえられた一定の自治の権力は占領者日本側との相互利用の関係上に組み立てられた装置であったと言える。二木博史の考察のように,それは当時のモンゴル語定期刊行物の刊行事業にも充分に表われている。すなわち,その二重的性格をもつ蒙疆政府が刊行したモンゴル語定期刊行物は,日本の内モンゴル占領のための重要な宣伝の道具になっていたが,その一方でモンゴル人知識人が自分たちの考えをモンゴル人大衆へ伝え,その覚醒をうながし「自治」を強化するための有効なメディアにもなった[二木 2001, 17-43]。それでは,本稿の考察対象である日本占領期の内モンゴル西部地域において展開された医療衛生事業は以上のような流れの中でどのような方向へ進んだのだろうか。

Ⅱ 「蒙疆政権」の医療衛生政策

1. 内モンゴルの当時の医療衛生事情

モンゴル伝統医学は,中国伝統医学(中医学)とは異なる。そこにはモンゴル人が歩んできた歴史が反映されているからである。しかし,それが1つの医学体系として記録されるようになったのはチベット仏教がモンゴル地域へ伝播して以降のことであった。モンゴル人は古くから固有のシャマニズム的・遊牧民的民間医療を持っていたが,チベット仏教の伝播とともに,体系的な基礎理論を有するアーユルヴェーダ医学流チベット伝統医学がとりいれられた。従来の信仰であるシャマニズムがチベット仏教との争いで敗北したため,シャマニズム的信仰を失い仏教に帰依しなければならなかった。イデオロギーや精神世界の変遷が医療のパラダイムに影響を与えたのである[財吉拉胡 2014, 43]。

1945年以前の内モンゴルでの伝統的な医療衛生に関しては,モンゴル医学史研究において一定の成果があげられている。ジグムドの研究によると,モンゴル人の伝統医学は3段階を経て発展してきた。第1の段階は古代から13世紀のモンゴル帝国時代までであり,主にモンゴル土着の整骨治療,馬乳酒治療などの民間医療が形成された。第2の段階は13世紀の元朝時代から16世紀までであり,モンゴル人固有の医療衛生が主に中国漢人の医療衛生制度の影響を受けるようになった。第3の段階は16世紀から20世紀半ばまでであり,主にアーユルヴェーダ流チベット医学が導入されたため,

『四部医典』(『ギュー・シ』)などの古典がモンゴル語に翻訳され,モンゴル人医師の手本となった。そして,モンゴル固有の医療とアーユルヴェーダ・チベット流の医学理論が有機的に結合され,モンゴル伝統医学体系が形成された[Jigmed 1985]。モンゴル伝統医学は一定の合理性を持つため,現在でも実践的医療活動によって相当の患者を獲得しており,公的にも正当性を与えられている。

そもそもモンゴル伝統医学の理論体系は中国医学の「陰陽」説と「五行」(木,火,土,金,水)理論の影響も受けているが,主な理論的根拠となっているのはインドの古典的哲学理論である五元素(土,水,火,気,空)説である。モンゴル伝統医学の理論的解釈によれば,人間の身体は三元素説――気(Kei)・胆(Sir-a)・痰(Badᵞan)――によって構成され,さらに7つの活力源――精華された食物,血液,筋肉,脂肪,骨格,骨髄,精子(卵子)――によって維持されている。そして,モンゴル伝統医学の生理学,病理学,診断学,臨床学,薬物学などはこの三元素理論に則って説明されている。すなわち,三元素は相互にバランスがとれていれば健康を保つ要素として機能し,一旦バランスが崩れると病気をもたらす原因として存在する。同時に,それらは寒・熱の2種類に分けられ,「気」「胆」「痰」「血」「黄水」「虫」という基本的な6種類の病気として分類された[Jigmed 1984, 121-164]。このような医学体系はモンゴル人の在来思考と伝統社会に大きく根付くものであった。

モンゴル人が拠りどころとしている上述の伝統医学に関しては,20世紀前半までの間に,主にキリスト教の布教を目的に内モンゴルに入った外国人によって記録されている。1870年代にモンゴル地域にやってきた宣教師ギルモアの記録によれば,モンゴルには民間の医者が多く,その大部分は仏教の僧侶であった。モンゴル人は医術と祈祷を区別することなく同一視していたため,僧侶たちは医療をおこないながら布教もおこなっていた。したがって,医術には宗教的な要素が含まれ,脈を見て薬を与える以外に占いや祈祷もしていた[Gilmour 1883 (1939), 185-212]]。

日露戦争後に満蒙地域への侵出を開始した日本はモンゴル人の以上のような医事衛生状況と社会事情を把握し,近代的医療衛生の普及を目指し,1910年代の参謀本部の事情調査,満鉄と満洲医科大学によるモンゴル巡廻診療から1930年代の善隣協会の医療衛生活動までを通じて,調査団をモンゴル人居住地域へ相次いで派遣していた。これらの調査団は,その地域の社会,地理,政治,文化,医事衛生などの内容を含む調査報告書を残している。その中には,内モンゴルにおける主な疾患,その治療法と予防法,土着の精神治療,および風土病治療などが書き残されている。以下では日本人医師が注目した内モンゴル地域の医療衛生の内容に触れてみる。

まず,報告書では内モンゴルにおける各種疾病に言及している。1923年から1931年にかけて,満洲医科大学巡廻診療班が内モンゴルにおいて巡廻診療をおこなった。久保田晴光が編集した『東部内蒙古之概況並に其医事衛生事情』[久保田 1932, 53-76]には各種疾患に関する統計が記されている。また善隣協会診療班の日影董は,善隣協会調査部が編集した『蒙古大観』[善隣協会 1938, 102-106]でその主なる疾病をまとめている。これらの内容を表3にまとめてみよう。

表3  20世紀前半の内モンゴルにおける疾病状況

(出所)久保田[1932, 53-76], 善隣協会[1938, 102-106]を基に筆者作成。

以上の記録から,1930年代後半までには,日本の医療衛生調査団および植民地統治機関はモンゴル人の医事衛生の状況をほぼ把握していたことが分かる。また,満洲医科大学の巡廻診療と医事衛生の調査研究内容は満洲国の建国を境に異なっており,善隣協会の医療衛生活動も満洲国成立後に展開された (注9)

次に,彼らはモンゴル伝統医学の治療法について注目している。例えば,満洲国興安西省に公医(注10)として派遣された医師の山崎才吉はモンゴル人の従来の民間療法に注目し[山崎 1940b, 130-135],モンゴル人医師によって使われている「灸療法」,「瀉血療法」,「種痘法」を例としてモンゴル伝統医学の治療法を記している[山崎 1940a, 28-39]。彼の記録によると,民間療法のある内容はチベット医学の治療法のモンゴル版である一方,灸療法は中国医学の灸療法と類似している点が多かった。

山崎によれば,灸治療は,「喇嘛医の治療には現代人の注射以上に尊い治療法の一つになっている」[山崎 1940a, 28-39]。モンゴル伝統医学において,灸治療は厳寒の環境の中で遊牧するモンゴル人が寒さによって患ういわゆる「寒性」症によく対処するための「熱性」的な治療法である。その選択部位は中国医学に明記された経穴とは異なるが,それと類似した箇所をとり,さらにそれをモンゴル伝統医学の理論によって説明するのがその特徴である。山崎はまた具体的な部位を治療する方法,選択する箇所,適応症状などをも書き残している。例えば,「子宝を得るには,臍部一寸周固(囲の誤り――引用者)四ヶ所」に灸をすえる,という興味深い事例を記録している。なお,彼は「瀉血療法」についても詳しく論じているが,ここでは省略する。最後に種痘法である。1934年に善隣協会が内モンゴル西部へ文化・医療衛生事業を展開し始めた時に,当初は協会派遣の医師とモンゴル人伝統医との間に対立的雰囲気が生じ,モンゴル人は外来者に対して警戒心を持っていた。なかでも典型的な例として,旧式種痘法(人痘接種法)を施すモンゴル人医師にとって近代式種痘法(牛痘接種法)の導入は受け入れ難いものであった点が挙げられる。善隣協会会員畠山によると,モンゴル人は種痘を一生の大事と信じ,ラマ医師が種痘を施すために巡回してくると,1つの場所へゲルをもって集まってきて種痘を受けるという状況にあった[畠山 1937, 122-123]。したがって,日本の医師がモンゴル地域で医療行為を施すことは,僧侶と同等な権威を持つラマ医師にとっては大勢のモンゴル人患者や依頼者を失うことになり,近代的医療衛生ほど危険なものはなかった。危機感を覚えたラマ医師は近代的医療衛生の影響の全体的拡大を恐れ,日本人医師をできる限り排斥しようとした。こういった政治的・宗教的・社会的背景のもとで日本人医師が試みたのは,ラマ医師に対する近代医療の優越性の宣伝として実施した種痘法の推薦と難病の治療であった。

では伝統的種痘法はいつ内モンゴル地域へ導入され,またいつ近代的種痘法がそれに取って代わったのか。ここで当時の記録を見てみよう。

「興安西省管内に於いて目下喇嘛医の間に実施せられる種痘法は,今から三百年前に伝えられた秘法であって,当時克什克騰旗(現在内モンゴル自治区赤峰市の旗の1つ――引用者)を初め西省管内に天然痘が大流行して死亡者が続出したとき,西蔵(チベット――引用者)より喇嘛医の派遣を求め克什克騰旗の「テレンス」廟に在り専ら人痘種痘法により住民の痘瘡予防に勉め,各廟より二,三名宛喇嘛を選抜し種痘法を伝授したのが種痘の濫觴のようである。

爾来今日迄伝えられ,衛生思想の最も遅れた蒙古住民の間にたゞ種痘のみ普及徹底しているものである。当時西蔵喇嘛の講習した種痘法原書は克什克騰旗「テレンス」廟に現存する外尚各廟にも種痘法写が保存せられ,爾来種痘専門喇嘛により伝えられている(下略)」[山崎 1940a, 28-39]。

中国でおこなわれているモンゴル医学史研究を概観してみると,種痘史に関する内容はほとんど見られない。上述資料に記録された克什克騰旗の「テレンス」廟は,ガルサン(Γalsang)などが収集した資料によると,モンゴル語の“Toli-yin süm-e”,漢語の「普安寺」を指している。この寺院は乾隆年間(1735~1796年)に克什克騰(Kesigten)旗のザサックノヤン(旗長)であったセベッグジャブ(Sebegjab, 1695~1771年)によって建てられ,僧侶に対する種痘技術の伝授で有名であった。所属の僧侶たちが子供の種痘の技術に優れていたことは,この寺院の特徴の1つであった[Γalsang et al. 1994,355-357]。

山崎が記述したように,内モンゴル地域においては,記述当時から300年前,即ち16世紀末~17世紀初めに東部内モンゴルで天然痘が流行した際,その予防法がチベットから導入され,各仏教寺院へ伝えられた。寺院は毎年人痘接種法の接種をおこなう専門医を遊牧地域へ派遣して巡回させ,それが20世紀前半まで継承されていた。実際に,上述の「テレンス」廟が建てられた18世紀前後の中原地域や内モンゴル中東部地域に天然痘が常に流行していたことは陳慶英らの研究からも明らかになっている[陳慶英・王暁晶 2012, 18-27]。これは,内モンゴルの医学史研究において注目に値するものである。人痘接種法は,16世紀の明朝時代の中国で発明され,清朝乾隆時代に広められたといわれるが[梁永宣 2011, 4],このことは,明朝時代においては漢人とモンゴル人の間の交流が極めて少なかったため,その技術が中国の漢人地域から内モンゴル地域へ直接導入されたものではなかったことを示唆している。また,モンゴル地域におけるチベット仏教の普及とチベット医学の導入は乾隆帝が痘接種法を全国へ広めたことと何らかの関係があると考えられる(注11)

善隣協会調査班によれば,モンゴル人の種痘法は「古く蒙古に行はれたもので,医喇嘛中には之を専門とするものもある。即ち春季痘症に罹った牛より痘漿をとり,一年間保存の後父兄に請によって四,五歳の子供に施すのであって,蒙古人が一体に種痘をいやがらないのはかゝる経験があるからである」[吉村 1935, 238]。ここで記録されている痘は牛苗漿によるものであったが,興安西省の公医の山崎の記述によれば,ラマ医師が接種する痘は人痘であった。だとすれば,日本の内モンゴル侵出当時においては,古くからおこなわれていた人痘の種痘法は末期を迎えており,1796年にイギリスの医師エドワード・ジェンナーが牛の天然痘である牛痘の膿を用いた安全な新しい種痘法が他のルート(例えば,中国あるいはロシア経由)で内モンゴル地域へ伝えられ始めていた時期である可能性が高い。また,1930年代の内モンゴル東部は満洲国の領域に含まれ,内モンゴル西部においては自治運動がおこなわれていた。善隣協会が進出した西部は医療衛生の面では東部地域ほど進んでいなかったと思われる(注12)。すでに満洲国領域内で公医として勤務していた日本人医師とは異なり,善隣協会の医療衛生活動が,日本の勢力が及んでいない西部地域における植民地支配の拡大の先駆者としての任務を背負っていたとすれば,新しい種痘法の実施は相応の帝国主義的ポリティクスを有していたと考えられる。

なお,先述の山崎によれば,人痘痂皮について次のような記述がある。「幼児に仮痘を伝染せしめ接種後十八日目に痂皮を採り,その一顆又は数顆を年齢に応じ取り之に左(下)の五種類の薬を混合し乳鉢で粉末とし一人分約0.2乃至0.5瓦(グラム――引用者)を鼻腔内に吹き込む(表4)。

表4  伝統的人痘採取時の配合薬品

(出所)山崎[1940a, 28-39]を基に筆者が加筆して作成。

(注)「蒙名」と「漢名」(かっこ内の名称は筆者による記述)は当時の記述であり,配合薬品の「学名」,「現代モンゴル語名」などの現代名称と効能は『モンゴル百科全書:医学』[Sürüngjab et al. 2002]を基に加筆したものである。

採取した痘苗は先づ紙に包み更に毛皮袋に包み比較的温度の変化のない所に貯蔵し,若し変敗し或は缺乏せる場合は各専門種痘喇嘛医間に於いて融通使用する。概ね保存有効期限は百日である。蒙古人は普通三歳の時第一回種痘を実施し流行時は生後六十日以降種痘を実施する。善感の場合は一回,不感の場合は数回接種する。接種時一応診断し病気の無い者のみに実施する。接種部位は鼻腔粘膜で金属管又は竹管の一端に一人分を取り他方より男児なれば左,女児なれば右鼻腔内に吹込み,綿栓し翌日その綿栓を捨てる。接種後五,六日で熱発し八,九日最高度に達し顔面或は全身に発疹し血液の多い者は五,六十顆,血液の少ない者は四,五顆のものもあって漸次大となり水疱膿化し十二日頃より黒褐色に変じ二週間位で全治すると謂ふ」[山崎 1940a, 28-39]。

この当時,日本の医学者らは遊牧民が昔から飲用してきたクミス(馬乳酒,英語でKoumiss,現代モンゴル語ではčegeやayiraᵞと呼ばれる)にも注目した。クミスは馬乳を発酵させた伝統的飲料でもありまた一種の薬でもあった。彼らは,結核の予防と早期治療に対する実験的研究をおこない,クミスの治療効果を確認した[村田 1936, 47-48; 1939, 48-50; 岩崎 1936a, 56-58; 1936b, 42-45; 木下・片岡 1944, 17-22]。特に,武井は内モンゴル中西部シリンゴル盟で実地調査をおこない,それについての一次資料を残している[ 武井 1939, 1-45]。彼らが結核治療に対するクミスの効果に注目した背景には,日本と満洲において日本人の結核死亡率が高かったことが考えられる。昭和10(1935)年には結核は「明治三十三年以来常に死因別死亡率の首位を占め続けてきた肺炎・気管支炎に代って死因順位の第一位を占める」[ 厚生省医務局 1976b, 39]に至り,昭和12(1937)年に内地の日本人の結核死亡率は19.3パーセントに達し,在満日本人の死亡率は22.6パーセントに上った[ 遠藤 1941, 5]という記録があり,当時日本と満洲で結核が流行しその死亡率が上昇を続けていたこととの関連が推測される。

さらに彼らは,シャマニズム的民間医療にも関心を持っていた。シャマニズムは仏教との対立の結果,衰退したものの,モンゴル人社会において依然として存続していた点は注目される。例えば,満洲医科大学精神神経病学教室の田村幸雄は,満洲国における精神病およびそれに対応した巫医(シャマニズム的治療者)に関する調査研究をおこない,満蒙の精神病の特徴とシャマニズム的治療法を考察し,それを日本の狐憑きと女巫,朝鮮の巫俗と比較した。彼はそのなかで,モンゴル人の精神病の一種である,強い驚きが契機で発作が起きるベレンチ(belengči――引用者)病の心理機制,病因と症状などに注目した[田村 1940, 40-54; 1944, 79-91]。なお,彼の考察は内モンゴルの精神病史研究にも一定の価値があると考えられる。

以上のように,20世紀前半の内モンゴル地域では,仏教の僧侶によって実践されたモンゴル伝統医学とモンゴル人固有の民間医療がいまだ存続していた。満洲医科大学巡廻診療班や善隣協会診療班はモンゴル人居住地域へ医療衛生事業を展開しながらその地域の医事衛生状況を調査し,内モンゴルの医学史研究において貴重な資料を残したのである。

2. 「蒙疆政権」の医療衛生政策

それでは蒙疆政権は,満洲国と同じように,衛生行政の制度化と医療衛生の普及を目指したのか。この問題を明らかにするため,以下では当該政府が策定した医療衛生政策とそれによって実施された医療衛生事業を考察する。

前述のように,1934年,内モンゴル西部の仏教の聖地である百霊廟で,モンゴル人の高度自治を求めた蒙政会が樹立された。樹立1周年とチンギス・ハーンの生誕記念日を重ね合わせる形で,1935年4月23日に蒙政会第2回委員会総会が開催された。総会で決議された主な内容は,「第一,蒙古自治講習所の設立,第二,保安教導隊の設立,第三,衛生院の設立,第四,実験新村の創設,第五,蒙古文化館の設立,第六,蒙古師範学校の創設,第七,蒙古合作社の設立,第八,貿易合作社の設立,第九,信用合作社の設立,第十,公路管理局の設立,第十一,電業管理局の設立,第十二,蒙古駅逓管理局の設立」であった[『蒙古前途』 月刊社 1935, 52]。

蒙政会は内モンゴル西部の自治運動においてモンゴル人が自主的に樹立した組織であり,日本と中華民国の影響をあまり受けていなかった。モンゴル人封建王公が蒙政会の委員も務めてはいたが,近代的思想の影響を受けた知識人青年委員が主体となってこの案は決議された。決議案の項目の1つに医療衛生事業が含まれていたことを見ると,モンゴル人自身も自民族復興のために医療衛生の改善を視野に入れた政策を目指していたことがわかる。

日中戦争勃発後,日本軍は速やかに内モンゴルの西部に侵出し,文教・軍事両面からモンゴル人を支配し始めた。蒙疆政権は日本の意図に沿って樹立されたため,実施する国策は日本の植民地政策に従ったものにせざるを得なくなった。当時日本の支配下で政権を樹立したものの,主権を持っていなかったモンゴル人は日本人と協力しながら自治を図ろうとしていたことが,徳王の回想録にも記されている[ドムチョクドンロプ 1994]。そのため,植民地政策の範囲の中で,自らが政権を運営し医療衛生事業を含む自民族の復興を展開しようと試みていた。また,日中戦争勃発後に一連の政府改革がおこなわれており,それは,日本が太平洋戦争に突入した1941年以降実現されるようになった。このことには2つの要因があったと考えられる。1つ目は,後述するように,徳王が2度にわたり日本を訪問し,その際に日本の政府要人に内モンゴルの高度自治を訴えていたことであり,2つ目は,日本の戦時総動員体制と大東亜共栄圏の理念が占領地へ広がり,満洲や蒙疆地域へも人的・経済的支援が必要となり,それらの地域の経済を振興し人民の保健管理を実施する必要性が日本側に認識されたことである。

こういった政治的状況を背景に,1942年,蒙古自治邦政府政務院長であった呉鶴齢 (注13)。の指導によって,モンゴル復興の具体案として「蒙旗建設十個年計画」が制定された[善隣協会 1942b, 121]。この建設計画は3段階に分けられ,第1期は4年,第2期は3年,第3期は3年といった計画案が出された。これについて,1943年版『蒙疆年鑑』[蒙疆新聞社 1943b, 112-113]では以下のように記録されている。

  1.  ①   本建設は三期(十年)計画とし,第一期を四個年とす。
  2.  ②   第一期建設は興蒙委員会を中心とする蒙旗建設隊(各盟旗公署を含む)を編成し,それぞれ各旗を指導監督する。
  3.  ③   本年度計画として,西スニト旗(西スニット旗――引用者),ドゥルブン・フーヘド旗,フブート・シャラ旗の三旗を指定し各旗にそれぞれ模範村及び中心村を新設す。
  4.  ④   模範村は状況の許す限り旗公署所在地に設置す。
  5.  ⑤   各模範村を核心とし数個の中心村を設定す。
  6.  ⑥   本建設は左(下――引用者)記各項に重点を置くものとす。
    1.   a   模範村及び中心村の地点選定及びその建設
    2.   b   各旗公署の警備強化及び旗制,旗地の研究調査
    3.   c   各旗興蒙学校及びその分校並びに校外教室を設立
    4.   d   各旗仏教寺院の整理及び僧侶制度の復古
    5.   e   各旗ホルショー(「協同組合」――引用者)(注14)及び該支部の充実並びに定期交易
    6.   f   各旗財政の確立
    7.   g   保健所の設立と駆梅の実施
    8.   h   家畜防疫の積極的実施
    9.   i   その他蒙旗建設に必要なる事項

この案は1942年6月23日に蒙古自治邦政府1942年度第4回政務院会議で採択された「蒙旗建設要綱」として,善隣協会機関誌『蒙古』[善隣協会 1942a, 91-92]にも掲載されている。

この「蒙旗建設要綱」に基づき,1942年7月に「蒙旗建設十個年計画」を実行するための「蒙旗建設隊」が結成され,興蒙委員会(興蒙委員会の復興事業についての詳細は次節を参照)の三大施策方針である「経済の確立,教育の普及,民族の更生」を目指した[蒙古自治邦政府蒙旗建設隊 1943, 1]。蒙旗建設隊は公共施設の設置,協同組合(qorsiy-a,ホルショー)の運営,教育の復興(小中学校教育と僧侶の再教育の実行),および民生の向上のための施策を実施した。民生の向上のための施策とは,保健所の設置,保健衛生思想の普及と病気治療などであった[蒙古自治邦政府蒙旗建設隊 1943,7]。これらの医療衛生事業は善隣協会と連携して実行されたところが多く,また善隣協会の事業を移管して引き続き展開された。

以下では,蒙疆政府が実施した医療衛生の教育,衛生行政,医事衛生調査などの内容を検討する。

蒙疆政府の出資により,モンゴル地域での医療衛生普及のために近代的医療衛生の養成班が組織され,モンゴル人医師の育成,看護婦の養成が目指された。例えば,善隣協会が設営した

「喇嘛医養成所」(「蒙古人医生養成所」とも言う)は,近代医学の知識を身に付けた現地人医師を育成することを目的とした。そして,自治政府はモンゴル人医師養成のために善隣協会から事業を移管された官立厚和病院蒙医養成所および包頭保健所において,ラマ医の再教育や一般モンゴル人医学生の養成をおこなった。また,医学生は政府の費用で1年間の学習を終えると,自らの故郷へ帰り近代的医療衛生思想の普及に努めた。同時に,厚和病院の蒙医養成所で再教育を受けた一期生のラマ医師16名が各旗に日本人公医の代わりに配置された。そして,興亜院文化部の後援によって,1942年度には養成所の人員と教育施設をさらに拡充し,ラマ医師とモンゴル人青年合計5名を在籍させることを計画していた[善隣協会 1940a, 198-199; 1941a, 160; 1941c,135]。

上述のモンゴル人医師の育成とラマ医再教育事業は,政府がモンゴル仏教に対して実施した宗教施政方針の1つでもあったことが1944年版の『蒙疆年鑑』に詳しく記されている(注15)。さらに本論考の第Ⅳ節で述べる中央医学院においては,蒙疆政府唯一の医療衛生の近代的教育機構として,別科を設置し,ラマ医の質を向上させるために,6カ月の短期間で近代医学の初期的教育を受けさせた。そして,モンゴル人医師とラマ医各1名を東京で開催された第2回東亜医学会へ派遣し,医学の学術交流をおこなった[蒙疆新聞社 1943c, 21]。一方,ラマ医再教育の面では,日本の近代化の影響を受け自治政府のモンゴル復興の動員に応じたラマ僧側の動きもある程度あったことをここで記しておく(注16)

このように,政府は日本の関連機関と協力してモンゴル人医師の育成に努め,医療衛生の普及を目指した。興味深いのは,医療衛生の再教育を受けたラマ医を公医として各旗へ配置したことである。本来,公医は植民地支配と植民地医療衛生事業の展開を図るため,植民者である日本側が派遣した医師であった。例えば,日本の植民地医療衛生史の初期段階において,日本の植民地であった台湾,朝鮮,および満鉄附属地などでその医務を担い,医療衛生の普及と植民地政策の実施などの機能を果たしたのは完全に日本人医師であった。これに対し,蒙疆政権時期のモンゴル人居住地域において,日本側は最初は善隣協会会員を派遣しその義務を課すことにしていたが,日中戦争勃発後は既に近代的医療衛生の教育を受けた現地人に公医を任せることとなったのである。その主たる原因は,日本人医師を公医として配置する場合に生じる言葉の問題,あるいは日本人医師の不足であった可能性が高いが,そればかりではなく,日本が太平洋戦争に突入したあと日本側の支援が内モンゴル地域へ及ばなくなったためでもあると考えられる。

一方,周知のように善隣協会は内モンゴル中西部において診療所や病院を設営し巡廻診療を実施し,ラマ医を含む現地知識人に対する近代的医学教育をおこなったが[善隣会 1981],モンゴル人側も人材に欠けていることを重要視し海外へ留学生を派遣していた。つまり蒙疆政府は日本への留学生派遣をモンゴル復興の目標の1つとして取り上げていたのである。1939年10月,モンゴル復興の人材養成のために財団法人蒙古留学生後援会が設立され,その第1回理事会で,政府参議会議長であった呉鶴齢理事長は,10年間に渡り毎年100人を日本へ留学させ,その合計1000人のうち100人を医師として養成する必要があると語った[善隣協会 1940d, 164]。呉は政府要人としてモンゴル復興のための働きかけをし,後に中央医学院学院長として満洲医科大学から赴任した病理学者の稗田憲太郎と面会し,幼児死亡率が高いモンゴル人の人口を増やすために医療衛生の普及が必要であることについて語っている[稗田 1971, 160-161]。なお,蒙彊政権時期に政府派遣で日本に留学し医学を学んで帰国した留学生として,ホルチンとジュテークチが挙げられる。特に,ホルチンは内モンゴルの近現代史において医療衛生の近代化に大いに貢献した人物である(注17)

衛生行政において,蒙疆政府が満洲国のように医療衛生の統制政策を明確に策定したことを示す資料は見つかっていないが,政府民政部は官立病院の拡充以外に,市,県,旗において保健所を中央衛生行政機関の下に設置することを決定している。保健所を設置する目的については以下のように明記している。すなわち,民衆の健康相談のほか,簡易診療をおこない,中央との有機的つながりをもって保健の万全を期し宣撫施療の浸透を図ったのであった[善隣協会1940b, 197-198]。

1942年の統計によると,政府管轄官立病院は5カ所,市県立診療所は 46カ所,保健所は 4カ所であって,同年度の取り扱い患者延べ人数は60万人に達した。その患者数の内訳を比率にして示すと,皮膚運動器疾患(主として外傷)32パーセント,感覚器疾患 16パーセント,性病14パーセント,呼吸器疾患 12パーセント,消化器疾患 10パーセント,循環器系疾患 3パーセント,神経系疾患 2パーセント,その他 11パーセントである[善隣協会 1943c, 76-77]。内科疾患で病院を利用した患者数は極めて少なかった。また,旗立診療所や保健所の数は明確に記されていない。これについては,引き続き次節で検討する。以下,患者延べ人数を表5で示す。

表5  蒙疆政府医療機関1942年度患者延人数

(出所)善隣協会[1943c, 76-77]を基に筆者が作成。

(注)―はデータなし。

蒙疆政府は調査団を地方へ派遣して医事衛生の調査を実施し,地方病と伝染病に関する情報を蒐集した。しかし,調査団は巡廻診療をおこなう医療団体ではなかったため,診療と研究はおこなっていなかった。例えば, 1940年秋に蒙古聯合自治政府産業部は察哈爾盟に居住する漢人に対する農村実態調査をおこない,風土病,病気とそれに対する処置,疾病並びに治療に対する迷信およびいかなる農家が医師にかかっているか,さらに入浴状況などを調査した。調査報告によると,胃腸病,頭痛,眼病,肺病,花柳病などに対する処置として,医術や売薬,または巫医に頼る習慣があった。また,伝染病として傷寒病(満洲チブス,腸チブス,マラリヤを含む)と天然痘が例年発生していた[蒙古聯合自治政府産業科・農林科 1940a, 189-191; 1940b, 106-107]。同時に,上述の各種疾病を診療し伝染病を撲滅するため,政府は張家口,大同,集寧,フフホト,包頭などの主な都市において定期的に「衛生週間」運動を実施していたことが『蒙疆新報』などのメディアに報道されている(注18)。一方,モンゴル人居住地域においても実態調査がおこなわれているが,それは政府興蒙委員会によって実施されたものであるため,次節で詳しく論じる。

蒙疆政府民政部厚生科は医療衛生の教育事業を強化した上で,医療衛生の普及の具体的な事務をその管轄下の興蒙委員会に委任しておこなった。以下では蒙古自治邦政府が設立した「興蒙委員会」の設立の経緯と委員会の蒙旗建設隊が実施した事業の内容を検討する。

Ⅲ 興蒙委員会の設立とモンゴル復興事業

1. 興蒙委員会の設立

蒙疆政権におけるモンゴル復興事業については,ガンバガナ[2007; 2016]の研究がある。彼は内モンゴル自治運動において自民族の復興を目指して成立した興蒙委員会の実態を考察した際,委員会が取り組んだモンゴル復興事業の中で,医療衛生は民生向上の 1つの課題として展開されたと指摘する。そして,太平洋戦争の勃発により,蒙古自治邦はある程度の自治権力を行使する機会が与えられ,興蒙委員会はまさにその権力行使のあらわれであった,と論じている[ガンバガナ 2007, 87-103]。日本は,中華民国からの独立と高度な自治を求めた徳王の動きを利用しなら内モンゴル西部へ植民地政策をおこないえずその地域へ勢力を浸透させていた。蒙疆政権はそういった意図によって作り上げられた政府であり,医療衛生事業そのものも,日本による植民地支配の一部として実施された。医療衛生事業のみならず,蒙疆政権のモンゴル復興事業自体が宗主国である日本の対内モンゴル政策に従っておこなわれたものであると考えられる。

興蒙委員会成立のきっかけとなったのは,当時蒙古聯合自治政府の主席であった徳王の2度目の訪日(初来日は1938年10月,2度目の来日は1941年2月)であった。当時政府内に漢人と日本人官僚が多いことに不満であった徳王は,訪日中に陸軍大臣東条英機,軍務局長武藤章,兵務局長田中隆吉らと面会し,政府機構内に蒙古連盟政務委員会と蒙疆自治委員会との2つの委員会を設立するという政府改組案を提出した。この提案が日本の蒙漢分治政策に一致したと考えられ,武藤は早速それに応じ,自治政府参議であり当時日本留学中だった呉鶴齢を通じて,徳王に蒙古事務を処理する専門機構を作ってもよいということを伝えたのであった。徳王の回想録によると,このことが興蒙委員会の設立の発端となった。帰国後の徳王は数回の政府行政機構改革をおこない,1941年に盟旗のモンゴル人に関する事項を専門に処理する興蒙委員会を設立した[ドムチョクドンロプ 1994, 264-267]。

徳王側に興蒙委員会を成立させる動きがあった一方で,日本側も,アジア復興の枠組みの中でモンゴル復興を 1つの項目として考えていた。当時内閣総理大臣であった近衛文麿が 1938年11月3日に「大東亜新秩序建設」の内容を主とした「第二次近衛声明」を発表し,「(前略)日満支三国相携え,政治,経済,文化等各般に亘り,互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし,東亜に於ける国際正義の確立,共同防共の達成,新文化の創造,経済統合の実現を期するにあり(後略)」との声明を出している[矢部 1976, 366-367]。さらに同年 12月 16日に日本政府は中国大陸支配地への政務・開発事業を統一的に指揮するため,国家機関としての興亜院を設立し,現地の連絡機関として華北,華中,蒙疆,廈門に連絡部を設けた[外務省百年史編纂委員会 1969, 378-379; 本庄・内山・久保 2002, 382]。1940年 7月,興亜院蒙疆連絡部部長であった竹下義晴(陸軍少将)が「外蒙接壌地方強化ニ関スル応急施策研究私案」(以下,「私案」とする)を作成し,「蒙疆治域設定ノ意義ト蒙古政府ノ使命トニ鑑ミ速カニ外蒙接壌地方ノ整備強化ヲ図ル之カ為蒙古政府ノ機構ニ相当大ナル改革ヲ加ヘ且対蒙施策ニ各々其方向ヲ指示シ以テ蒙古興隆ニ関スル施策ノ統一ヲ期ス」と主張し,内モンゴルを全面的に復興するための「興蒙部」を政府内に設置することを提案している。

その「私案」の第 1項「政府機構ニ関スル事項」に以下のような内容が提案されている[竹下 1940]。

  1.  ①   興蒙部ヲ新設シ,蒙古ノミニ関スル調査,企画,民生,産業,文教,衛生,物質配給ニ関スル事務,並ニ盟公署,牧業総局ノ監督ニ関スル事務ヲ掌ル。西スニト(西スニット旗――引用者)ニ興蒙部支部ヲ設置シ,主トシテ蒙地ノ調査研究連絡ニ任ス。
  2.  ②   各部ニハ蒙古課ヲ設ケ各部ノ業務ノ興蒙部トノ業務ノ連繋並ニ,各部ニ関スル文書ノ翻訳業務ヲ掌ル。
  3.  ③   蒙古全体会議並蒙古委員会ヲ設置シ蒙古ニ関スル重要事項ノ審議決定ヲ行フ。
  4.  ④   蒙文図書館編纂委員会ヲ設ケ,又興蒙部直轄ノ蒙文図書印刷所ヲ附設シ,以テ蒙文図書ヲ活発ニ蒙地ニ配布ス。

この「私案」が提案された背景として,当時日本およびその植民地と隣接していたソ連とモンゴル人民共和国などの社会主義国家の存在,日本政府が占領地を管理するために 1938年に設置した興亜院,および徳王政権によるモンゴルの高度自治を目指す動きなどがあった。また,竹下は蒙疆政権の行政改革のための「理由書」を提出していた。

「私案」の第2項「対蒙施策ニ関スル事項」の「六衛生」には,医療衛生施策として以下のような内容が提案されている[竹下 1940]。

「梅毒ノ駆除,妊婦及幼児ノ保護ニ関スル施策ヲ一層積極化ス,人口増殖竝ニ優良児童ニ対シ奨励法ヲ講ス

 アバカ,西スニット,百霊廟ニ固定施設ヲナシ之レヲ根拠トシテトラック等ニ依リ巡廻診療ヲ行フ,所要ニ応シ善隣協会ノ施設ヲ合併ス,従来蒙古文化施設カ動モスレハ沿線ニ偏シ奥地カ第二義的トナリアルハ矯正セサルヘカラス

 一般ニ衛生思想ヲ普及ス」

これは内モンゴル西部におけるモンゴル人の人口が稀少であるという特徴にあわせて出された提案であると考えられ,モンゴル地域の主要な疾病の 1つである性病の駆除,民族発展の潜在力といわれる人口増加,巡廻診療,医療衛生の普及などを視野に入れたものであった。

徳王が 2度目の訪日の際に蒙古聯合自治政府行政機構改組案を提出し,また回答を得たのは竹下が「私案」を作成した時期より遅く,このことは陸軍省と竹下が所属する興亜院のモンゴル支配に対する意見が一致していたことを物語る。このようにして, 1941年に興蒙委員会が設立されたのであった。

興蒙委員会は合計19条からなる「興蒙委員会官制」を制定した。「官制」第14条によると,委員会の下に「総務処,民政処,教育処,実業処,保安処」を置き,そのうち,民政処は「一,人口増殖及び衛生保健に関する事項,二,生活改善及び賑災救恤に関する事項,三,郷村建設及び社会事業に関する事項,四,土地整理及び行政区画に関する事項,五,地方制度及び行政監督に関する事項,六,其の他民族復興に関する事項」を管掌するよう定められた。さらに,同委員会が政府施政綱領を基に制定した三大施政方針は「興蒙委員会綱領」とも呼ばれ,そこで挙げられたのは,「一,経済の確立」として,公共施設の設置,ホルショー(協同組合)の運営,「二,教育の普及徹底」として,興蒙教育の実施,僧侶の再教育,「三,民族の更生」(民生の向上)として,主に医療衛生思想の普及などであった[蒙疆新聞社 1943a,101-102]。以下では,興蒙委員会が実施した医療衛生事業の展開を取り上げる。

2. モンゴル復興事業における医療衛生の近代化

興蒙委員会は,設立当初から衛生保健思想の普及と医療施設の設営に取り組み,蒙旗建設計画を立てる際,保健衛生施策の進展,つまり保健所の設置,衛生村の建設,保健婦養成所(注19)の開設を復興事業の重要な一環として取り上げた。そして,純モンゴル地域の事情を認識するために調査隊を組織し,総務,民政,教育,実業,保安,施療などの 6班に分かれて,シリンゴル盟の各旗で調査をおこない報告書を作成している[興蒙委員会 1941, 72-78]。その調査報告書に基づき,保健所と「蒙古医院」(注20)について表6にまとめた。

表6 シリンゴル盟における「蒙古医院」の配置状況

(出所)『錫林郭勒盟各旗実態調査報告』[興蒙委員会1941, 72-78]を基に筆者作成。

(注)―はデータなし。

「蒙古医院」は固定家屋やゲル(中国語漢字表記は包)を病室として用い,医者には俸給がなかったため,膳費(食費)を補助して運営し,また薬剤は政府が配給し,治療費は無料であった。しかし,治療費を謝礼の形で支払う患者にはその謝礼を受け取るのを断らなかったという。また,シリンゴル盟では「蒙古医院」以外に保健所があり,調査時点では貝子廟,西ウジュムチン,西スニットなどの 3カ所に設置されたが,医務従業員不足により,日本軍施療班がそれを担当した。そのため保健所設備は比較的良好で,病室を備え,一般人の患者が多く,このことは衛生思想が漸次普及していたことを示している。以上のように,興蒙委員会が医療衛生普及の状況を調査したところ,ほとんどの「蒙古医院」では薬剤が不足していることが分かり,政府に薬剤配給を求めている。供給が求められた薬剤には中国医学の薬名,例えば,「解毒丸」,「牛黄清心丸」,「跌打丸」などが書かれていることから,蒙疆政権当時,中国医学の薬剤は政府経由で内地から内モンゴルの奥地まで運ばれ,モンゴル人医師によっても使われていたことが分かる。

1943年5月,興蒙委員会は第 4回定例会議を開催し,新たな保健所の整備拡充案を可決した。それによって,オラーンチャブ盟とイフジョー盟での保健所増設が決定され,また,蒙旗建設指定旗では,模範村と中心村の建設と平行して保健所を設置することとなり,日本人医師を増員し,蒙医養成所卒業のモンゴル人助手を各保健所に配置した[善隣協会 1943c, 76-77]。そして,興蒙委員会をはじめとする各関係機関のこれらの努力により,蒙旗地帯の人々の保健衛生意識が向上し, 1944年までに貝子廟,百霊廟などの仏教寺院があるところに新たに 8カ所の保健所が設置され,蒙旗における保健衛生施策の推進に大きな役割を果たしたのである。これらの実績を踏まえ,興蒙委員会はさらに 3年間で残りの蒙旗に保健所を設置する計画を打ち出した。1944年3月に開かれた「蒙旗保健所連絡会議」では,委員会の日本人およびモンゴル人職員が参加し,委員会民政処は,保健所の運営,結核予防,学校そのほか集団生活者に対する健康診断施行,治療薬品並びに衛生用資材の節用,保健所の業務報告,蒙古医院の育成および蒙医指導などの事項を定めた。また,新たにシリンゴル盟の貝子廟,西スニット,西ウジュムチン各支所,チャハル盟太撲寺左翼旗,フブートシャル旗,オラーンチャブ盟四子部落,イフジョー盟ジュンガル旗各支所のほかにさらに保健所を増設することを決め,蒙旗民健民政策をさらに 強化した[善隣協会 1944b, 100]。このように,蒙疆政府興蒙委員会も日本と同調し,国家主義的健民政策を重要視したのであった。興蒙委員会は,保健医療施設の面でその充実を図る一方,当時モンゴル人の保健衛生の面において深刻な問題になっていた梅毒などに対しても徹底的な治療に乗り出した。

1943年4月,興蒙委員会はまず,試験駆梅計画を策定し,東ホーチト旗を「清浄地区」に指定し,メルゲンバートル民生処長を班長,前田高級補佐官を副班長とする治療班を現地に派遣した。そして 2カ月にわたり,東ホーチト旗南半部の旗民に対し,強制的に血液検査ならびにサルバルサンの注射などの医療措置をとり,徹底的に駆梅をおこなったため,梅毒患者が見られなくなった。その翌年には同旗の北半分にも衛生担当官を派遣し,前年と同様に徹底的な治療をおこなった[善隣協会 1944c, 95]。東ホーチト旗におけるこれらの保健衛生対策の成果は興蒙委員会にも評価され, 1944年 3月に開かれた第 6回定例会議において,東ホーチト旗を中心として,清浄地区を全蒙旗地帯に押し広める方針が決定され,地方に対しても協力するよう求めた[善隣協会 1944a, 87-88]。

さらに,保健衛生が民族復興の基本であることが深く認識され, 1944年に「保健婦養成計画要綱」が策定された。保健婦は旗民に対する保健衛生の指導,疾病予防の指導,婦人・乳幼児の保健衛生指導,傷病者の療養指導,およびその他の日常生活上必要な保健衛生指導などの際に重要な役割を果たすため,旧厚和病院蒙医養成所跡に保健婦養成所が新設された。そして,15歳から 21歳までの小学校卒業者,またはそれと同等以上の学力を持つモンゴル人女子を募集した。定員は 20名で修業年限は 2年間とし,解剖学,生理学,環境および学校衛生,結核,そのほか慢性伝染病予防ならびに寄生虫予防,急性伝染病予防,栄養救急処置および消毒方法,婦人および乳幼児衛生,繃帯および治療器械取扱法,看護法,衛生法規,体操など保健婦として必要な予防医学の知識を教え,卒業後,保健所,学校などに配属することが方針として固められた[善隣協会 1944d, 95-96]。このように,興蒙委員会は,近代的医療衛生を社会の末端まで浸透させるために,社会構造の基本である村と人的資源の基盤である女性へ医療衛生を普及させることでモンゴル復興を目指すと同時に,社会の末端である村の衛生化の充実を試みた。そこには,各種疾病罹病者の多いこと,平均寿命の短いこと,小児死亡率の高いことなど,モンゴル人が復興事業の際に直面した人口増加率の低迷という問題があったからである。そこで,これを解決するために,興蒙委員会民政処は内政部衛生科そのほか関係各部局機関の日本人・モンゴル人の職員および医師などと協力し,「衛生村」という拠点を作り出した。

衛生村とは,興蒙委員会が実行していた蒙旗建設計画と並行して,同施設のインフラ整備拡充ならびに蒙旗民の生活実態の科学的調査研究という目的で管轄内の所定の 1つの旗を選択し,医療衛生の関係者を送り込む拠点である。興蒙委員会が衛生村を指定し,そこへ調査診療班を派遣する点は,満鉄,満洲医科大学,善隣協会の巡廻診療班と類似しているが,規模は小さく,目的も異なっていた。

実施要領は次の通りである。まず,所定旗の有力者の協力を得て,行政力の浸透,人口の分布状態,地理条件などを観察したうえで指定の旗を選ぶ。次に,班員は当該委員会民政処所長を班長に,中央医学院附属病院の前田医官および他の官立病院の医師によって構成され,委員会の他の会員の協力を得て実施する。さらに実行方法として,所定旗内の遊牧集団を単位として基地を設け,それを中心に周辺の住民を一定の日に集め,臨床的かつ細菌血清学的な性病検査をおこなう。また,他の検診によって発見された持病者に対し定期的に治療を実施し,長期的な治療が必要である者を保健所へ収容する。さらに,人類学的調査と衛生学的調査をおこない,生活改善と保健衛生の向上へ向けて指導する。その調査研究に伴う診療は 5カ月間実施するとされた[善隣協会 1943d, 82-83]。

興蒙委員会の医療衛生事業の展開は,日本人顧問,医師,技術者,補佐などの協力を得ておこなわれた。統計によると, 1940年時点で 4万5000人の在留日本人が蒙疆において活動しており[善隣協会 1940c, 153],そのうち,医師数は1942年の統計では官立病院に 29人が勤務し,地域内診療所に 95人が働いていた。また歯科医師数は 11人であった[蒙疆新聞社 1942a, 340-341]。

Ⅳ 中央医学院の成立

上述の通り,蒙疆政府においては,モンゴル人側は文化教育の振興と医療衛生の近代化によって自民族の復興を目指していた。しかし,これに対し,日本側はその政権を通して,当時の内モンゴル西部地域に植民地化教育体系を構築し,植民化的教育方針と政策を策定し,在地住民に対する「奴化」,「分化」教育(注21)を実行することを図っていた[金海・姚金峰 2007, 387-401]。蒙疆政権の教育体制は初・中等教育

を主とし,また技術者を育成する特殊教育を実施していた。自治政府が設立した専門学校として,例えば,蒙古学院(1937年5月徳化に創立),蒙疆学院(1939年6月張家口に創立, 1941年6月に中央学院と改称),興蒙学院(前身は 1939年11月に張家口に設立された蒙旗学校,1941年6月に興蒙学院と改称),蒙古高等学院(前身は 1941年8月に張家口に設立された蒙古留日予備学校,1943年に蒙古高等学院と改称),および軍官学校,警察学校などがあった。さらに,政府は蒙疆地区に近代的医療衛生の人材を育成するための教育機関として中央医学院を開設した。以下,日本の植民地医療衛生の普及を目指して運営された中央医学院の実態を考察する。

1942年6月8日に蒙古自治邦政府政務院は「成紀(注22)七百三十七年六月八日(教令第十号)」をもって「中央医学院官制」(注23)を公布し,1942年 12月 18日に中央医学院が蒙古自治邦政府の首都であった張家口に創設された。官制は表7の通りである。

表7 中央医学院官制

(出所) 『内蒙古教育志』編集委員会[1995, 201-202]を基に筆者作成。

表7にまとめた「中央医学院官制」によれば,同医学院は蒙疆政府内政部長によって管理され,院長,教授,理事官,研究官,助教授,事務官,助手,属官などの職員,および顧問,教授,講師,嘱託などが置かれた。また,医学院には管理機構として総務科,教育部,研究部が設置され,附属病院も設けられた。附属病院には院長,医官,薬業官,看護婦長などが置かれた。数カ月の準備を経て発足した中央医学院について,善隣協会機関誌『蒙古』(1943年2月号)は以下のように報道している。

「蒙疆における医学の殿堂たる中央医学院開院式は 12月18日(1942年12月18日――引用者)午後二時から同学院教育郡講堂で軍,大使館,政府各部局,祭(察の誤り――引用者)南政庁,善隣協会,張家口居留民団ほか関係各機関代表百卅余名列席のもとに盛大に挙行,蒙疆における医学教育並びに研究の中枢機関として逞しく発足した」。

また,当時の中央医学院には,教育部施設,生理,生化学,病理,細菌学,そのほか各実習室,研究部第一(細菌,防疫),第二(薬剤),第三(人口問題,民族問題,病理),第四(環境衛生,栄養方面)の各研究室などの近代医学の教育施設が設置された[善隣協会 1943a, 123-124]。以上のような教育と研究を両立させた施設を設置したことについてはそれなりの明確な目的があった。まず,その教育の目的は近代的医師を育成する一方,現地の西洋医学,中国医学,モンゴルラマ医などの再教育,衛生および防疫技術者の養成や再教育をおこなうことであった。次に,その研究の目的は現地の水質,結核,花柳病に対する調査対策,モンゴル人人口問題の研究,製薬などに取り組むことだった[蒙疆新聞社 1942c, 19]。

近代医学の人材を養成する 3年制医学専門学校であった中央医学院は,政府直属機関として,現地人(モンゴル,漢,回)医師の養成,現地伝統医師の再教育が必要であることを深く認識していた。第 1期生をモンゴル人,漢人,イスラム系回民の中から 30名募集したところ,合計110名の応募があり,厳格な審査を経て 4名の女子学生を含む 36名が合格し,1943年4月1日の入学式を迎えた。入学者のうち,モンゴル人学生は 10名であった[善隣協会 1943b, 98]。また開校 2年目から蒙疆政府領域以外の地域からも優秀なモンゴル人男女医学生を募集していた[蒙疆新聞社 1943d, 24]。中央医学院の研究部門は衛生防疫の実験および研究をおこない,従来の官立察南病院を中央医学院の附属病院として,医療衛生の実践をおこなった[蒙疆新聞社 1942b, 350]。さらに,近代的医療衛生教育を集中的に実施するために政府管轄下の「蒙医養成所」を同医学院に移管させたのであった[蒙疆新聞社 1942d, 9]。

中央医学院院長および附属病院院長は池口輝雄(注24)と宮本田守(注25)がそれぞれ担当しており,他の教授,研究官,医官なども日本人によって担当されていた[蒙疆新聞社 1943b, 42]。1945年 4月に最後の学院長を務めたのは元満洲医科大学病理学教授稗田憲太郎であり,彼が赴任するときに一部の満洲医科大学の医学者や教授を引っ張っていった。しかしながら,稗田が就任してまもなく第二次世界大戦が終焉し,日本の敗戦に伴い張家口が中国共産党軍に占領された後,この蒙疆政権時期の唯一の医療衛生教育学府は中国側に引き継がれ,下記の如く後に他の大学と合併された[稗田 1971; 劉民英 1989]。中央医学院に関する資料と研究は極めて少ない。稗田憲太郎の随想録[稗田 1970, 2-25; 1971]と中央医学院の 1期生の回想録[劉民英 1989]には中央医学院に関する情報が散在しているが,それらをもってこの医学院の全体像を描くことは極めて困難である。

稗田憲太郎は,前任の学院長が在校生と日本人職員間の紛争によって更迭されたため,蒙疆政府の招聘で学院長に就任したが,日本の敗戦に伴い日本人のスタッフと一緒に北京へ引き上げた。その後,稗田が八路軍に招聘され 1946年3月に張家口に戻ったときには,張家口医学院と改称されていた中央医学院は共産党の元中国医科大学と合併され, 4年制の医学専門学校のままとなっており,近代的実習用設備は増えたが教授陣の水準が低下していたという。ここから,中央医学院の発足当初の3年制教育制度が,いつ頃からか 4年制教育体系に改定されたことがわかる(注26)。ただし,元中央医学院のモンゴル人医学生の行方は不明である。

1946年6月,中国医科大学はその後共産党軍と一緒に中国東北へ移動し,共産党延安革命根拠地に設立された白求恩医学校に吸収され白求恩医科大学となった。1946年9月,元中央医学院は八路軍の戦時動員にしたがい太行山脈へ300人の生徒を引き連れながら移動したのち,数年後に石家荘へ移り,北方医学院翼中分校と合併して華北医科大学となった。1950年に天津へ移転し天津軍医大学と改称され, 1953年には第一軍医大学となった。稗田憲太郎は1952年に瀋陽の中国医科大学(旧満洲医科大学)へ教授として赴任し,1953年に帰国している。

おわりに

モンゴル人の遊牧社会,特に内モンゴル地域は,外来文化の進出の影響を受け文化的に変容し,それがために文化ナショナリズム的な動きが引き起こされた。本研究では内モンゴルにおけるかかる社会的・政治的・文化的背景を考慮しつつ,日本侵出当時の内モンゴルにおける医療衛生の実態を確認したうえで,日本占領期の蒙疆政権において医療衛生事業の近代化が実施されたことを考察した。さらにそれはモンゴル民族の自決的意識と結びついておこなわれた一側面があったことを明らかにした。

植民地時代からポスト植民地時代を貫く形でおこなわれた近代化は,科学技術のさらなる発展を促進させ地域社会に実質的な変化をもたらした。蒙彊政権時期に医療衛生の近代化をもって自民族の復興を目指したモンゴル人側の一連の行動は,主に日本経由の近代思想の影響を受け科学技術の優越性を深く認識して実践されたものである。この点から見れば,西洋由来の近代性と当時におけるモンゴル人側のハイブリッドな自決型行動とは根底的な部分で関係していたのである。

日本は,1920年代から,内モンゴルの医事衛生状況を把握するために調査団を派遣していた。彼らはモンゴル式チベット医学の診療法,固有の民間療法,伝染病予防法などを記録して,日本の近代的医療衛生を導入するための資料となし,植民側に医事衛生情報を提供した。彼らが書き残した民間療法に関する資料は現在の内モンゴルの民間医療を研究する上でも参考になるものであり,種痘法に関する情報も,人痘種痘法と牛痘種痘法といった接種法を内モンゴルへ初めて導入した際のデータとして記録された点で医学史および文献学的に評価できるものである。

1935年に,蒙政会は第 2回総会を開きモンゴル復興のための決議案を可決し,モンゴル地域の衛生保健状況を向上させるために,各地において衛生院を設立するよう求めている。1937年以降,日本の援助で一連の自治政府を設立した内モンゴル側は,善隣協会から診療所,病院,医療衛生養成所を移管されており,また 1942年には「蒙旗建設十個年計画」を定め,「蒙旗建設隊」を結成し,各地域に保健所を設立し,駆梅を実現すべく隊員を派遣した。医学教育の面では,従来のラマ医に対する近代医学的再教育,モンゴル人医師の養成,保健婦の養成などをおこない,日本人公医の代わりにラマ医卒業生を各地に配置したり,ほかの卒業生を各地保健所へ派遣したりし,医療衛生を社会の末端まで浸透させることを目指した。また,毎年日本へ医学留学生を派遣した。衛生行政の面では,政府は中央に内政部衛生科,興蒙委員会民政処等を設置し,各地の衛生行政の制度化を試み,官立病院,市県(旗)立診療所,保健所などを設け,医療衛生の普及を実施し,さらに医事衛生に関する調査をおこなった。

1941年以降,興蒙委員会は,モンゴル人居住地域に対する医療衛生事業を展開し,各地で保健所を増設し,日本人医師と蒙医養成所卒業生を派遣し,モンゴル人の衛生思想を向上させ,性病の流行を徹底的に撲滅するよう努めた。また,政府の医学教育に関する事業を担い,指定の衛生村を拠点に診療調査班を送り,生活の改善,保健衛生状況の向上のために現地人を指導した。

1942年,蒙疆政府は官立医学専門学校中央医学院を設立し,モンゴル,漢,回などの各民族の学生を募集し, 3年の修業年限を課した。学校教育は日本人が担当し,近代的医療衛生の教育を施し,それが第二次世界大戦終結まで続いた。近代的医学教育の設備が充実していた中央医学院は,その後中国の他の医科大学に吸収された。

内モンゴル西部地域における日本の植民地医療衛生事業は,最初は善隣協会によって実施されたが,その後蒙疆政権およびモンゴル人が主導した興蒙委員会のモンゴル復興プロジェクトによって実質的に展開され,日本の植民地占領統治がモンゴル人社会へ浸透することを促したが,同時に内モンゴル医療衛生の制度化を促進した。さらに言えば,日本の植民地医療衛生事業はモンゴル人の文化ナショナリズムを創出する装置となり,日本占領下のモンゴル人が医療衛生の近代化をもって民族復興を実現するための道具となったのである。

 [付記]

この論文は,2013年に東京大学に提出した博士学位論文の第 6章「蒙疆政権の医療衛生事業」を基に大幅に加筆修正のうえで完成したものである。今回の掲載に当たり長い時間をかけて拙稿を検討してくださった査読者の方々に,貴重なコメントをいただいた。この場を借りて心からの謝意をあらわしたい。

(内蒙古民族大学蒙医薬学院教授,2017年6月9日受領,2018年 12月 20日レフェリーの審査を経て掲載決定)

(注1)  台湾の植民地医療衛生に関しては脇村[1997,34-54]Liu[2009],朝鮮の植民地医療衛生に関しては慎[1996, 225-235; 1999, 65-92],満洲や中国本土の植民地医療衛生に関しては飯島[2000; 2005]などの研究を参照。

(注2)  清朝はモンゴル人居住地域を支配下に入れた後,満洲人の支配階層の社会組織・軍事組織である八旗制を導入し,そのなかで旗(qosiᵞu,ホショー)と呼ばれる社会・軍事集団制度をモンゴル人社会にも適用した。それはモンゴル人居住地域において実施された土地と人民を編成する行政単位であった。本論文において用いる「旗」はこれを指す。また,本論文では「蒙旗」という資料用語を頻繁に用いているが,それは,文献資料で言及される漢語の「蒙旗」(Meng qi)をそのまま用いたものである。なお,現在の中国で使われている「旗」という名称は中国語の「県」に相当する内モンゴルでの行政区画の名称であり,歴史上の「旗」とは異なる。

(注3)  特に内モンゴル東部地域が遊牧社会から農耕社会へ変遷していった社会史に関しては,詳しくはボルジギン・ブレンサイン[2003]を参照。

(注4)  盟(čiᵞulᵞan,チョールガンや ayimaᵞ,アイマグ)は,清朝時代にモンゴル人統治機構として使われた行政単位である。盟はいくつかの旗によって構成される。本論文では,漢語の盟(Meng)をそのまま用いている。

(注5)  ここでの「一連の協約」とはロシアと日本が朝鮮半島,中国東北,内モンゴル,および中国全土の支配権をめぐって調印した第1次(1907年7月30日),第2次(1910年7月4日),第3次(1912年7月8日),第4次(1916年7月3日)の日露協約のことである。

(注6)   20世紀の30年代から40年代にかけて起こった内モンゴル自治運動に関しては,徳穆楚克棟魯普[1984]ドムチョクドンロプ[1994])と札奇斯欽[1985; 1993]の回想録に詳しい記述がある。

(注7)  「内蒙工作」は関東軍が内モンゴル中西部を中国の華北から切り離して支配するために実施した一連の対内モンゴル政策を指す。また,華北分離工作とも呼ばれる。初期の内蒙工作は熱河作戦後まもなく開始されており,主に経済と文化工作に重点を置いたが,1935年には軍事・政治工作を中心とし,内モンゴル中西部において地方独立政権を樹立することへ方針を転換した[森 2009, 135-202]。

(注8)  蒙疆政権樹立とその運営において,モンゴル人側と日本人側は内モンゴルにおけるその実質的位置付けに対してそれぞれ異なる立場と目的をもっていた。詳しい内容に関しては,徳穆楚克棟魯普[1984]ドムチョクドンロプ[1994])と札奇斯欽[1985; 1993]の回想録を参照。

(注9)  満洲医科大学の巡廻診療と医事衛生の調査研究内容は満洲国の建国時点を境に差異があるが,その実態に関しては,別稿で考察する予定である。また,内モンゴルにおける善隣協会の医療衛生活動に関しては,善隣会編『善隣協会史――内蒙古における文化活動――』[善隣会 1981]を参照。

(注10)  公医は日本の植民地において用いられた医療衛生的用語の 1つである。公医制度は1896年に日本が植民地台湾で実施した衛生行政の中で地方衛生機関として創設した植民地特有の医療衛生制度であった。この制度はその後日本のほかの植民地で採用されるようになった。詳しくは鈴木[2005, 25-213]の研究を参照。

(注11)  この接種法がどんなルートでチベットへ伝播したかは不明であり,その内容を確認するためには当時の伝染病史の資料を蒐集する必要がある。この点は今後の課題として残したい。

(注12)  両地域で実施されていた種痘法は異なるものであった可能性がある。善隣協会の医療衛生事業に伴って実施された種痘法に関しては,財吉拉胡[2012, 91-130]の研究を参照。

(注13)  呉鶴齢(ウネンバヤン,1896~1980年)は中華民国の政治家であり,モンゴル自治運動の指導者である。1926年に北京大学を卒業後国民党に加入,内モンゴル西部の自治運動に参加し,徳王の補佐として活躍した。1937年に蒙古聯盟自治政府参議会議長に任命され,1940年に蒙古聯合自治政府参議会議長となった。1941年に蒙古自治邦政府政務院院長を務め,日本敗戦後,国民政府に復帰し,軍事委員会蒙古宣動団主任に任命された。1949年に台湾に逃れ,1980年に死去した。彼の生涯の詳しい内容に関しては,呉鶴齢の自伝『呉鶴齢与蒙古』[呉鶴齢 2016]を参照。

(注14)  ホルショーは蒙疆政権がモンゴル人の消費経済の是正向上を目指して,1940年末に設立させた協同組合のことで,社会主義中国の「合作社」と類似している。詳しくは善隣協会機関誌『蒙古』[善隣協会 1941b, 171-172]を参照。

(注15)  蒙疆政権においては政府による宗教政策として信教の自由を明示しており,政府の高度自治を達成するために各宗教に対し協力するよう要求していた。そして,政府が宗教行政の方針および体制を制定した。その中に,「蒙古仏教復興要領」があり,その実施要領にはラマ医に関して以下のように制定されている。「衛生思想,旗民の保健衛生思想を徹底せしむるため所要の寺廟に医療施設を完備し喇嘛医合格者をして取敢えず旗民の治療に従事せしめ民生向上施策に協力せんことを期す」[蒙疆新聞社 1944, 370-373]。

(注16)  例えば,シリンゴル盟スニット左旗のツァガーンオボー廟(福佑寺)の 5世活佛ツァガーンゲゲーン(別名ツエドンドルジパラマ,1886~1957年)は 1901年にマンバラサン(医学部)を設置し,また 1932年に日本を訪問した。彼は日本の近代化の影響を受け同寺院に近代的教育方式を導入し,さらに日本語とモンゴル語の教育を各寺院で実施した。そして,1943年にマンダルト寺に医学校を設置し, 3人のラマ医教師を派遣し 20数名の若いラマたちにモンゴル語で医学教育をおこなった[蘇尼特左旗政協文史組 1985, 182-189; 徳力格爾倉 1997, 223-233]。しかしながら,2008年に出版された『ツァガーンオボー廟』には,ツァガーンゲゲーンは 1887年に生まれ,1900年にツァガーンオボー廟に医学部を創設し,1938年に日本を訪問したと記されており[ Čaᵞan 2008, 193-226],用いた資料の信憑性からみて,おそらく後者の記述が正しいものであると考えられる。

(注17)  満洲国と蒙彊政権時期に日本に留学したモンゴル人留学生のうち,近代医学を学んで帰国した人物は少なくなかったと推測するが,残念ながら彼らに関する資料はほとんど見つかっていない。しかし(現在は)かかる資料の限界を克服しながら当時のモンゴル人医学者のライフヒストリーに関する研究がおこなわれている。そのなかで,日本留学後帰国したホルチンとジュテークチに関しては,ハスチムガ[2016, 231-242]の考察を参照。

(注18)  例えば,中国国家図書館に保存されている漢語版『蒙疆新報』(蒙疆新聞社)の 1938年から1945年にかけて刊行された内容には「衛生週間」キャンペーンに関する報道が多くみられる。

(注19)  内モンゴル西部地域で実施された保健婦養成制度は日本の近代的保健婦事業に由来する。この事業は,産婆および看護婦への事業と比較して確立が遅れたが,1923年の関東大震災直後,済生会が震災被災者を看護するために訪問看護の事業を始め,ついで聖路加病院で母子への保健指導を中心として訪問事業が始められた。太平洋戦争の拡大につれ,国民の保健に重大な関心が払われるようになると,保健婦事業はさらに促進された。1937年に制定された「保健所法」には保健婦という名称が明記されている。保健婦の養成については 1929年日本赤十字社での社会看護婦の養成がその始まりであるとされている[厚生省医務局 1976a, 207-208]。

(注20)  「蒙古医院」は,蒙疆政府が 1940年にシリンゴル盟の各旗の寺院内に設立した病院である。医務はほとんど現地のラマ医師が担当した。

(注21)  本文では,「奴化教育」とは日本が中国占領地で実施した皇民化教育・同化教育といった植民地教育を意味する表現であり,「分化教育」とは,日本がモンゴル族と漢民族などの各民族を互いに分裂させるために内モンゴル占領地において実施したイデオロギー的な教育を指す言葉である。

(注22)  「成紀」とは成吉思汗紀元の略称である。蒙古聯合自治政府は 1939年9月1日に張家口で成立したが,政府の紀年は成吉思汗(チンギス・ハーン)紀元によって記された。チンギス・ハーンがモンゴル帝国を樹立し,大ハーンの位についたのは1206年であった。したがって,1939年は成吉思汗紀元734年である。

(注23)  この資料は日本では見つかっていないが,『内蒙古教育志』編集委員会が編集した『内蒙古教育史志資料』第一輯(上)[『内蒙古教育志』編集委員会 1995, 201-202]には,当時刊行された『蒙古法令輯覧』官制篇から引用する形で「中央医学院官制」として掲載されている。最近,筆者は『蒙古法令輯覧』(漢日合璧版,蒙古聯合自治政府総務部編纂,蒙疆行政学会刊印)が内モンゴル図書館の「古籍保護中心」に保存されているという情報を得て,原文を閲覧しにいったが,残念ながらそこにあった『蒙古法令輯覧』三巻(三冊)には,「法務篇,財務篇,民政篇,治安篇,産業篇,交通・土木篇」などの項目はあっても,「官制篇」は保存されていなかった。本論文で使用した表 7の資料は,やむを得ず,筆者が邦訳したものである。

(注24)  池口輝雄は 1893年東京生まれ。大阪府立医科大学を卒業後,大阪高等医専教授を経て,蒙疆政権時代に晋北医院長を務め,1942年に中央医学院教授兼初代学院長となった[蒙疆新聞社 1943b, 4]。

(注25)  宮本田守は 1904年福岡生まれ。満洲医科大学を卒業後,医学博士号を取得し, 1942年に中央医学院教授兼附属医院長となった[蒙疆新聞社 1943b, 51-52]。

(注26)  「中央医学院官制」には学年制は定められていなかったが,善隣協会の機関紙『蒙古』[善隣協会 1943b]には,3年制医学専門学校と明記されている。しかし,いつ頃 4年制へ昇格したかは不明である。

文献リスト
  • 飯島渉 2000.『ペストと近代中国——衛生の「制度化」と社会変容——』研文出版.
  • 飯島渉 2005.『マラリアと帝国——植民地医学と東アジアの広域秩序——』東京大学出版会.
  • 飯島渉 2007.「医療・衛生事業の制度化と近代化『植民地近代性』への試論——」濱下武志・崔章集編『東アジアの中の日韓交流』慶応義塾大学出版会.
  • 伊力娜 2007.「巡廻診療から見た『蒙疆』・『興安蒙古』における日本の医療政策」桃山学院大学大学院提出博士論文.
  • 伊力娜 2009.「満洲医科大学の内モンゴル地域における巡廻診療」『国際文化論集』(41) 203-234.
  • 岩崎辻男 1936a.「クミスに就て(1)」『東京医事新誌』(2979) 56-58.
  • 岩崎辻男 1936b.「クミスに就て(2)」『東京医事新誌』(2980) 42-45.
  • 遠藤繫清 1941.「満洲ノ結核問題」『結核』19(1) 1-31.
  • 外務省 1957.『日本外交文書』(45-1)外務省.
  • 外務省百年史編纂委員会 1969.『外務省の百年』(下巻)原書房.
  • 柏原孝久・濱田純一 1919.『蒙古地誌』(上巻)冨山房.
  • ガンバガナ 2007.「内モンゴル自治運動における興蒙委員会の役割について」『言語・地域文化研究』(13) 87-103.
  • ガンバガナ 2016.『日本の対内モンゴル政策の研究——内モンゴル自治運動と日本外交 1933-1945——』青山社.
  • 木下芳人・片岡弘 1944.「肺結核患者に於けるクミス療法の実験的研究(第5編)クミスの化学分析,殊にビタミンC含有量に就いて」『日本医学』(3364) 17-22.
  • 久保田晴光 1932.『東部内蒙古の概況並に其医事衛生事情』満洲医科大学.
  • 興安局調査科 1942.「満洲帝国蒙政十年史」『蒙古研究』4(5・6)1-60.
  • 厚生省医務局 1976a.『医制百年史』(記述編)ぎょうせい.
  • 厚生省医務局 1976b.『衛生統計からみた医制百年の歩み』(医制百年史付録)ぎょうせい.
  • 興蒙委員会 1941.『錫林郭勒盟各旗実態調査報告』蒙古自治政府興蒙委員会.
  • 財吉拉胡 2012.「近代日本の対内モンゴル医療衛生事業——財団法人善隣協会の医療衛生活動——」『哲学・科学史論叢』(14) 91-130.
  • 財吉拉胡 2014.「近代内モンゴルにおける伝統医学の史的変容」『医学哲学医学倫理』(32) 43-52.
  • 沈潔 1996.『「満洲国」社会事業史』ミネルヴァ書房.
  • 沈潔 2003.「『満洲国』社会事業の展開——衛生医療事業を中心に——」『社会事業史研究』(31) 79-97.
  • 慎蒼健 1996.「殖民地を生きた科学者・技術者——植民地期朝鮮科学運動の論理とナショナリズム——」『現代思想』24(6) 225-235.
  • 慎蒼健 1999.「覇道に抗する王道としての医学——1930年代朝鮮における東西医学論争から——」『思想』905(11) 65-92.
  • 鈴木哲造 2005.「台湾総督府の衛生政策と台湾公医」『中京大学大学院生法学研究論集』(25) 25-213.
  • 善隣会編 1981.『善隣協会史——内蒙古における文化活動——』社団法人日本モンゴル協会.
  • 善隣協会 1938.『蒙古大観』改造社.
  • 善隣協会 1940a.「喇嘛医養成所」「蒙古人医生卅名を養成」『蒙古』(3月) 198-199.
  • 善隣協会 1940b.「市県旗に『診療所』」『蒙古』(3月) 197-198.
  • 善隣協会 1940c.「蒙疆在留邦人四萬五千人」『蒙古』(9月) 153.
  • 善隣協会 1940d.「毎年百人の日本留学生」『蒙古』(12月) 164.
  • 善隣協会 1941a.「各旗に喇嘛医奥地民衆に近代医療の恩恵」『蒙古』(1月) 160.
  • 善隣協会 1941b.「蒙旗に『ホルシヤ』設置」『蒙古』(2月) 171-172.
  • 善隣協会 1941c.「ラマ医に日本医学の知識」『蒙古』(5月) 135.
  • 善隣協会 1942a.「第四次政務院会議」『蒙古』(8月) 91-92.
  • 善隣協会 1942b.「蒙旗建設十個年計画」『蒙古』(9月) 121.
  • 善隣協会 1943a.「中央医学院発足」『蒙古』(2月) 123-124.
  • 善隣協会 1943b.「中央医学院入学式」『蒙古』(6月) 98.
  • 善隣協会 1943c.「昨年度衛生施設実績」『蒙古』(7月) 76-77.
  • 善隣協会 1943d.「蒙旗に衛生村」『蒙古』(8月) 82-83.
  • 善隣協会 1944a.「興蒙委員会議——保健対策の実施——」『蒙古』(5月) 87-88.
  • 善隣協会 1944b.「蒙旗保健所連絡会議」『蒙古』(6月) 100.
  • 善隣協会 1944c.「旗民保健衛生施策の成果」『蒙古』(8月) 95.
  • 善隣協会 1944d.「蒙旗保健婦養成計画」『蒙古』(8月) 95-96.
  • 武井正衛 1939.「結核療法としての『クミス』に関する調査」『外務省文化事業部支那調査報告』(3) 1-45.
  • 竹下義晴 1940.「外蒙接壌地方強化ニ関スル応急施策研究私案(極秘)」(外務省記録A・1・1/支那事変関係一件第五巻)外務省外交資料館,アジア歴史資料センター(レファレンスコード: B02030528200).
  • 田村幸雄 1940.「満洲国に於ける邪病(Hsieh-Ping),鬼病(Kuei-Ping),巫医(Wui)及び過陰者(Kuoyinche),竝びに蒙古のビロンチ,ライチャン及びボウに就いて」『精神神経雑誌』(44) 40-54.
  • 田村幸雄 1944.「満洲に於ける民族と精神病に就いて」『精神神経雑誌』(48) 79-91.
  • 戸部健 2005.「清末における社会教育と地域社会——天津における『衛生』の教育を例として——」『中国研究月報』59(6) 32-49.
  • 戸部健 2007.「近代中国における通俗衛生知識——天津の事例から——」『歴史学研究』834(11) 37-46.
  • ドムチョクドンロプ 1994.『徳王自伝——モンゴル再興の夢と挫折——』(森久男邦訳)岩波書店.
  • ハスチムガ 2016.「モンゴル人医学者たちの文化大革命——『日本』を背負わされた知識人たち――」『アジア研究』別冊(4) 231-241.
  • 畠山康彦 1937.「蒙古の種痘に就て」『善隣協会調査月報』(7)122-123.
  • 稗田憲太郎 1970.「中国における医学をめぐって——八路軍に医学を教え,八路軍に学んだ記録——」『アジア経済』11(9) 2-25.
  • 稗田憲太郎 1971.『医学思想の貧困——一病理学者の苦闘——』社会思想社.
  • 福士由紀 2010.『近代上海と公衆衛生——防疫の都市社会史——』御茶の水書房.
  • 二木博史 2001.「蒙疆政権時代のモンゴル語定期刊行物について」『日本モンゴル学会紀要』(31)17-43.
  • ボルジギン・ブレンサイン 2003.『近現代モンゴル人農耕村落社会の形成』風間書房.
  • 本庄比佐子・内山雅生・久保亨 2002.『興亜院と戦時中国調査』岩波書店.
  • 村田昇清 1936.「結核治療としてのクミスの検討」『東京医事新誌』(2981) 47-48.
  • 村田昇清 1939.「結核に『クミス』製剤『ビオクミス』実験例」『東京医事新誌』(3122) 48-50.
  • 蒙疆新聞社 1942a.「保健衛生」『蒙疆年鑑』蒙疆新聞社.
  • 蒙疆新聞社 1942b.『蒙疆年鑑』蒙疆新聞社.
  • 蒙疆新聞社 1943a.「興蒙委員会官制」『蒙疆年鑑』蒙疆新聞社.
  • 蒙疆新聞社 1943b.『蒙疆年鑑』蒙疆新聞社.
  • 蒙疆新聞社 1944.「宗教」『蒙疆年鑑』(2604)蒙疆新聞社.
  • 蒙古自治邦政府蒙旗建設隊 1943.『蒙旗建設現地工作状況中間報告書』出版社不明.
  • 蒙古聯合自治政府産業科・農林科 1940a.『成紀元七三四年度農村実態調査報告書(察南宣化県)』蒙古聯合自治政府.
  • 蒙古聯合自治政府産業科・農林科 1940b.『成紀元七三四年度農村実態調査報告書(察哈爾盟康保県)』蒙古聯合自治政府.
  • 森久男 2009.『日本陸軍と内蒙工作』講談社.
  • 矢部貞治 1976.『近衛文麿』読売新聞社.
  • 山崎才吉 1940a.「喇嘛医の実施する治療法の二三に就て」『蒙古研究』2(1) 28-39.
  • 山崎才吉 1940b.「蒙古人の民間療法に就て」『蒙古研究』2(1) 130-135.
  • 吉村忠三 1935.『内蒙古=地理・産業・文化』日本公論社.
  • リ・ナランゴア 2004.「僧侶動員と仏教改革」『北東アジア研究』(7)69-82.
  • 脇村孝平 1997.「植民地統治と公衆衛生——インドと台湾——」『思想』878(8) 34-54.
  • Boyd,James 2011a. Japanese-MongolianRelations, 1873-1945:Faith,Race and Strategy. Folkestone: Global Oriental.
  • Boyd,James 2011b.“Japanese Cultural Diplomacy inAction: The Zenrin Kyokai in InnerMongolia, 1933-45.”Journal of Contemporary Asia 41(2): 266-288.
  • Gilmour,James 1883. Among the Mongols. London:The Religious TractSociety(後藤冨男訳『蒙古人と友となりて』生活社1939年) .
  • Liu, Michael Shiyung 2009. Prescribing Colonization: The Role of Medical Practices and Policies in Japan-Ruled Taiwan, 1895-1945. Association for AsianStudies,INC.
  • Nakajima, Chieko 2018. Body, Society, and Nation: The Creation of Public Health and Urban Culture in Shanghai. Cambridge (Mass.) and London: Harvard University Press.
  • Rogaski,Ruth 2004. Hygienic Modernity: Meaning of Health and Disease in Treaty-Port China. Los Angeles: University of California Press.
  • Čaᵞan, D. 2008. Čaᵞan Obuᵞ-a Süm-e:Čaᵞan Gegen Jamiyanligsidjamsu(『ツァガーンオボー廟』内蒙古人民出版社).
  • Jigmed, B. 1984. Mongᵞol Anaᵞaqu Uqaᵞan-uÜndüsün Onul(『モンゴル医学の基礎理論』内蒙古人民出版社).
  • Jigmed, B. 1985. Mongᵞol Anaᵞaqu Uqaᵞan-u Tobči Teüke(『モンゴル医学史略』内蒙古科学技術出版社).
  • Sürüngjab et al. 2002. Mongᵞol Sudulul-un Nebterkei Toli-Anaᵞaqu Uqaᵞan(『モンゴル百科全書:医学』内蒙古人民出版社).
  • Γalsang et al. 1994. Juu Uda-yin Süm-eKeyid(『昭烏達の寺院』内蒙古文化出版社).
  • 陳慶英・王暁晶 2012.「六世班禅東行随従種痘考」『中国蔵学』(3) 18-27.
  • 徳力格爾倉 1997.「五世査幹葛根紀略」『内蒙古文史資料』(『内蒙古喇嘛教紀例』)(45) 223-233.
  • 徳穆楚克棟魯普 1984.「徳穆楚克棟魯普自述」『内蒙古文史資料』(13)1-188.
  • 黄奮生 1936.『蒙蔵新誌』中華書局.
  • 金海・姚金峰2007.「蒙疆政権時期内蒙古西部地区教育述略」中国蒙古史学会編『蒙古史研究』内蒙古大学出版社 (9) 387-401.
  • 梁永宣 2011.「従中医古籍看我国人痘接種術的発展」『中国医薬報』9月1日第4版.
  • 劉民英 1989.『稗田憲太郎 ——八路軍中的一位日本著名教授——』人民軍医出版社.
  • 『蒙古前途』月刊社 1935.「蒙古自治政委会今開第二届大会」『蒙古前途』(22) 52.
  • 『内蒙古教育志』編集委員会 1995.『内蒙古教育史志資料』1(上)内蒙古大学出版社.
  • 任其懌 2006.『日本帝国主義対内蒙古的文化侵略活動』内蒙古大学出版社.
  • 蘇尼特左旗政協文史組 1985.「査幹葛根活仏生平事迹簡介」『内蒙古文史資料』(19)182-189.
  • 呉鶴齢原著,呉罕台・呉雲台編注2016.『呉鶴齢与蒙古』呉罕台・呉雲台出版.
  • 張植華 1983.「清代至民国時期内蒙古地区蒙古族人口概況」『内蒙古近代史論叢』(2) 221-251.
  • 札奇斯欽 1985.『我所了解的徳王和当時的内蒙古』(一)東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所.
  • 札奇斯欽 1993.『我所了解的徳王和当時的内蒙古』(二)東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所.
  • 蒙疆新聞社 1942c.「蒙疆中央医学院昨挙行開院式,明春即開衛生教育研究工作」『蒙疆新報』12月19日第 2版.
  • 蒙疆新聞社 1942d.「為実施衛生行政円滑化完成民衆健康使命,中央医学院創立之主旨」『蒙疆新報』6月9日第2版.
  • 蒙疆新聞社 1943c.「拡充蒙旗保健施設,実施蒙医喇嘛医初歩教育」『蒙疆新報』2月21日第2版.
  • 蒙疆新聞社 1943d.「蒙疆中央医学院招収男女生,留華蒙生均可報名」『蒙疆新報』2月24日第3版.
 
© 2019 日本貿易振興機構アジア経済研究所
feedback
Top